いきてきたるものがたり   作:かに3

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【とんとん、やぎさんとびらをあけて。わたしはやさしい、よいおおかみ】

 

 そろそろ、はじまる。予定されていた時間が近い。私は壁の時計を何度も見上げながら、バウンサーのそばに座っていた。

 

 昼間の光がカーテンの隙間から白く差し込んで、床の上に細長い帯を作っている。こんなに明るいのに、街はひどく静かだった。明るさだけがいつもの昼で、音だけが世界から抜き取られてしまったみたいだった。

 

 普段なら表通りから車の音や、人の声や、どこかの家のテレビの音くらい聞こえるのに、今日は何も聞こえない。外には誰も歩いていない。鳥の鳴き声すらしないのは、どこかでそういう異能の人が操っているか、逃がしているかしているのかもしれない。

 戦いのために街そのものが息を潜めている。そんな中で聞こえるのは、私の赤ちゃんが自分の指を握ったり開いたりして遊ぶ、きゃっ、という笑い声と、バウンサーが揺れる小さな音。それから、自分の心臓の音だけだった。

 

 夫はいない。この子が産まれる前に死んでしまった。

 水難事故だった。釣りが趣味だったあの人は、船の事故で海に投げ出されて、そのまま帰ってこなかった。

 助けられなかったのではない。助けられる能力を持つ人はいた。

 海に入れる異能の人間も、人を引き上げられる異能の人間もいた。けれど誰も動かなかった。資格がないから。許可がないから。ヒーローではないから。勝手に異能を使ってはいけないから。

 そうして、誰もが“自分以外”の誰かが助けるのを待っていた。最初の1人が飛び込んだあとに、救出が始まったという。その頃には、私の夫は、この子の父親は、助けられないところにまで流されていた。

 

 綺麗に整えられた腐ったルールのせいで、あの人は死んだ。

 

 無異能だったあの人は、自分でなんとかすることも出来なかったのに。

 

 ヒーローが助けてくれるから、一般人は助けてはいけないなんて決まりは無いのに。彼らは「自然の脅威はヴィランにはならない、悲しい事故だった」と私たちに納得を強制した。納得なんて、出来るはずがなかった。

 

 

 だから私は戦士になった。

 解放の思想に救われたのは、怒りを持ってよいのだと教えられたからだ。

 

 私は戦える。前線で敵を叩き潰せるほど強くはないけれど、使い方次第では役に立つ異能がある。

 

 けれど今日はここにいる。この子を置いてはいけないから。私と同じように、戦闘には参加せず、子供や老人や怪我人を守るために家に残っている戦士も多い。

 戦わないことは、逃げることではない。そう分かっている。それでも、時計を見るたびに胸が苦しくなった。

 

 

 ヴィラン連合の幹部格がまとめて襲ってくる。そう聞いていた。怪物みたいな連中が来るのだと聞いている。

 人を笑いながら殺すような、話の通じない悪党が、この平和な街を、踏みにじりに来るのだと。

 

 だから玄関の方で小さな物音がした瞬間、私は反射的に身体を固くした。バウンサーの中で私の赤ちゃんが笑う。その声を背中に庇うようにして立ち上がり、私は玄関へ向かった。

 扉の前に立ち、息を殺す。もう一度、控えめな音がした。乱暴なノックではなかった。戸を破ろうとする音でも、怒鳴り声でもない。ただ、こちらが気づくまで待っているように、小さく、途切れ途切れに続いている。

 

 今この時間に訪ねてくる知り合いはいない。街の外から入り込もうとする者は、解放戦士側のヒーローたちが止めているはずだ。なら、この扉の向こうにいるのは誰なのか。

 

 まさか、ヴィラン連合の誰かが……。

 

 そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。ノックはまだ続いている。他所へ行ってくれる気配はない。私はバウンサーの方を一度だけ振り返り、手元の武器を確認してから、ゆっくりと扉を開けた。

 

 

 

 

 扉を開けた先にいたのは、背の高い青年だった。

 

 明るい昼の光の中で、サイズの合わない青い入院着がひどく浮いて見えた。大柄なのに、威圧感はない。むしろ、身体だけが先に大人になってしまった迷子みたいに見えた。

 顔色は悪く、髪も少し乱れていて、どこか消毒液の匂いがした気がする。怪我をしているのか、病気なのか、それとも逃げてきたのか分からない。

 

 ただ、彼は私を見るなり、心底困ったような顔をした。こちらを襲う人間の顔ではなかった。少なくとも、私には、そう見えた。

 

「すいません、助けてください……!」

 

 その声を聞いた瞬間、強張っていた身体から余計な力が抜けた。

 敵かもしれない。罠かもしれない。そう考えなければならないはずなのに、目の前の青年の声はあまりにも切実で、頼りなかった。大きな身体をしているのに、今にも崩れてしまいそうで、可哀想で、心配で。怖い、と思うより先に、足が一歩前に出た。

 

「ど、どうしたの……?」

 

 自分でも驚くくらい、声が柔らかかった。泣く子供を宥める時の、自分は害意なんてないんだ、私はあなたの味方だよ、と伝えるための声音。

 

 自分よりずっと背の高い、見知らぬ青年なのに。“危ない”はずなのに、どうしてもそうは思えない。きっと私以外の人が彼と会ったら、そう誤解してしまうだろう。疑うべき要素が多すぎて、私じゃなかったらきっと彼を手酷く追い払ってしまっただろう。私じゃなければ─────この、救いを求める可哀想なこの子を、誰が守ってあげられるの?

 

 彼の胸元のあたりで、淡い光が揺れている。陽の光の反射かもしれない。掠れそうな、滲むようなあかりは、見ているだけでせつなくなる。でも、それと同時にその光を見ていると、不思議と呼吸がしやすくなった。

 

 海の香りを思い出した、あの人が帰ってくる時の香り。冷たい記憶に、温度が戻る。ただいまと声を張り上げたあの人が、隣にいてくれる気がする。

 

 目が離せない。なんて、やさしいあかりなんだろう。自然と泣きたくなるような、笑いたくなるような気持ちになる。

 

 このやさしいあかりを持つ子。この人は私を頼っている。その感覚だけが、心の奥で静かに膨らんでいく。

 

 夫のことを想う。海の下で、手を伸ばしていたかもしれないあの人。

 誰かが助けてくれると信じていたかもしれないあの人。わたしの大切な、あの人。

 

 私は、あの時そこにいなかった。けれど今は、ここにいる。目の前に助けを求める人がいて、その人は私を見ている。私だけを見ている。

 

「どうか俺の話を聞いてください。なにか誤解があるんだ。たすけて、“あなたにしか頼れないんだ”」

 

 あなたにしか。

 

 そう言われた瞬間、息を呑んだ。言葉が胸の奥深くまで落ちて、真っ暗だったそこに一気にひかりが満ちたようだった。

 

 困惑が、すっと形を変える。

 こんな入院着のまま、戦場に変わる街へ放り出されて、誰にも信じてもらえず、誰にも手を伸ばしてもらえず、倒れてしまうのではないか。

 

 そう考えたら、もう放っておけなかった。助けられる人間が、助けを求める人間を見捨てる。そんなことをしたら、あの日、夫を見殺しにした連中と同じになってしまう。

 

 もちろん、赤ちゃんのことは考えた。背後の部屋でバウンサーが揺れている。

 あの子の笑い声がする。だからこそ、この青年が危険ではないことを確認しなければならないはずだった。

 けれど、見れば見るほど危険には思えなかった。背は高い。体格も悪くない。けれど目つきは鋭くなく、手も震えていて、困りきった顔で私を見ている。

 純粋に、助けてほしいのだ。もし演技だとしても、こんな顔をする人間を突き放せるほど、私は冷たくなれない。我が子の前で、助けを求める人を突き放すことなんてできない。

 この子のお父さんは、そうやって死んだのに。助けを求めて、手を伸ばして、誰も助けてくれなくて、死んでしまったのに。それを私が、この子の目の前で同じことをするなんて許されない。

 

 私の赤ちゃんがまた笑った。青年の視線がそちらへ向く。私は一瞬だけ身構えた。けれど彼の表情に浮かんだのは、獲物を見つけたようなものではなく、申し訳なさだった。

 

 小さな子のいる家に迷惑をかけてしまったと、本気で悔いているような顔だった。

 

 その顔を見たら、最後に残っていた微かな迷いまで溶けてしまった。戦いに出られず、ただ家で待っているしかなかった私に、ようやく役目が与えられた。この明るく静かな街で、誰も歩いていない昼の真ん中で、私だけはこの青年を見つけたのだ。

 

「は、入って! 私が守ってあげる!」

 

 気づけば、私は彼の腕を掴んでいた。入院着の袖越しに触れた腕は、思ったより熱かった。病人なのかもしれない。熱があるのかもしれない。ますます放っておけない。

 

 私は玄関を大きく開け、彼を部屋の中へ引き入れた。背後でバウンサーが、きい、と小さく揺れる。赤ちゃんの笑い声が、静まり返った部屋に明るく弾けた。外は相変わらず静かだった。鳥も鳴かない。人の声もない。昼の光だけが、何も知らない顔で廊下に満ちている。その中で、私は胸の高鳴りを抑えながら、もう一度彼を見上げた。怖くはなかった。むしろ、少しだけ誇らしかった。私は、戦士として誰かを救う側に立てた。私はこの人を、助けられる。今この瞬間の私は、ヒーローなんだ!

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