俺は蝶の化物がいる部屋の扉を開けた。
「……」
奴はいた、変わらず部屋の中をふわふわと飛び回っている。
一匹だ、他に敵はいない。奴はこちらに気付いていないのか、それとも気付いている上で無視しているのか、特に動きを変える様子が無い。
虫は感情が読めない、そもそも感情があるのか?
部屋はかなり広い、この棒を振り回せるだけの広さがある。天井もかなり高く、薄暗いながらも天井の先に一つ明かりがある。その明かりがふわふわと飛ぶ巨大な蝶をキラキラと照らしていた。
天井は確かに高いが、この長い棒ならば天井まで届かなくても蝶までは届く。
俺は意を決し部屋の中に入った。
「おらぁ!」
即座に蝶の下まで入り、突きを放つ。
が、避けられる。というか俺が当てれなかった。
蝶の動きは不規則で、とても当て辛い。だがそんな事はあの蝶を観察してた時から分かっていた。
「まだまだぁ!!」
連続で突きを繰り出す。
右腕の腱鞘炎も辞さない覚悟だ、俺自身何回突きを放ったか数えていない。
その内の一発が蝶の体に当たる。
蝶は衝撃で後ろに仰け反り、大きく翅をバタつかせた。
しかし落ちてはこない。突きの威力が弱過ぎたか、衝撃を後ろに流されたか、やはり突きでは当たり辛い上に決定打にならない。
「なら!」
棒を大きく振りかぶり、そのまま正面に叩き下ろした。
やはり虫は叩くに限る、これが当たれば大ダメージを狙える上、地面に引き摺り込めるだろう。
だが棒は悲しくも振り下ろされた棒は空を切る。先程の突きで距離が空いたのが仇になったか。
その時、蝶が一瞬、不規則に降下した。胸元に巻かれていた管状の口が、鋭く伸びる。
ストローのように細いその口が瞬く間に伸びきり、槍のような勢いでこちらへ突き出された。
「うわぁ!?」
咄嗟に地面に、後ろに倒れるようにしてそれを避ける。
当然反撃は来ると思っていた、だがこんな一瞬で、あんな距離から攻撃を仕掛けて来るなんて思っていなかった。
ゴブリンなんかとは訳が違う、やはりコイツはゴブリンよりずっと強い。
地面に転がったせいか、辺りに埃が舞う。
「ひぃ、ゲホッゲホッ、舐めやがって……」
だが今度は高度が下がった、これなら狙いやすい!
「今度こそ!」
今度は先程より短い動作で振りかぶり、速度を重視した振り下ろしを出す。
しかし蝶は高度を再び上げ、棒は虚しく空振る。
「と、見せかけて!」
俺はそのまま奥に走り、ある物を手に取った。
扉から見えた薬品棚、そこにあった空のフラスコだ。
「これでも食らえや!!」
それをそのまま投げ付ける。
フラスコは蝶の翅に直撃し、蝶は翅の動きを止め地面に落ちた!
「トドメ!」
即座に近寄って、翅に穴を開けるように棒を突き刺した。
そのまま今度は棒を頭に突き刺す。
翅は貫通すらしなかったが、頭の方は複眼から潰れ、やがて蝶は動かなくなった。
「やったか!?」
蝶は霧となってキラキラと空気に溶けるように消えた。
「しゃあ! 雑魚が! 二度と逆らうなよ」
倒した、大変だったしドッと疲れたが、結果から言えばノーダメージだ。
結局いくらデカかろうが蝶は蝶、口が伸びてきたのには驚いたが、逆にそれくらいしか有効打が無い雑魚だったのだ。へっ。
「けほっ……さて、探索探索っと」
部屋は広く、壁際に様々な棚が見えるが、まず探すのは本命の薬品棚だ。殆どが割れていたり空だったりだが、戸が閉まっていて見えない棚が幾つかある。
俺は戸棚に手を掛けた、が……。
「!? ゲホッ! ごほっ!」
急に咳が止まらなくなった、何だ? 一体どうして……
もう一度戸棚に手を掛けようとして、そこで気付く。
自分の手の動きが鈍い。
「けほっ、まさ……か……!?」
俺は振り返って先程いた蝶を見る。既にその場から蝶は消えていて姿は欠片も残っていない。
だが朧げに思い出す、そういえば蝶は明かりに照らされてやたらキラキラしていたな、と。
それは何かが光を反射しているという事で……
「鱗粉……毒……!?」
鱗粉には基本的に毒は無いが、それは元の世界での話だ。なんなら元の世界でも触るだけでかぶれてしまうくらいの害はあった。
それが人と同じくらいの大きさの蝶なら? ましてやダンジョンの敵としてデザインされた蝶なら?
むしろ害が無い方がおかしい、俺はそんなものを無意識に大量に吸い込んでしまっていた。
「しまった……!」
気付いた時には既に手遅れ、意識してみれば喉から激しい痛みを感じる。
俺は慌てて薬品棚を開ける。戸棚は全部で4つ。
運が良ければある筈だ、解毒薬! 何でもいい、せめて何か薬があれば……!
一つ目、二つ目、戸棚を開ける。しかし空振り、中に目ぼしい物は無い。
三つ目、中に液体が入り、蓋までされたビーカーを見つけた!
頼む、アイテムであってくれ! 俺は祈りながらそれを手に取った。
☆ポーション
俺の頭にそんな単語が浮かんだ。
「ポー……ション……」
大当たりだ、大当たりだが……。
変態先輩の言葉が頭に過る。
『ポーションを見つけたら速攻帰って売れ。もし酷い怪我をしていたとしてもダンジョンから出れたら入った時の状態に戻るから、怪我しても帰れそうなら絶対使うな』
ポーションを使えば俺はもしかしたらこの症状を治せるかもしれない。少なくとも体を回復させる薬である事は間違いないだろう。使えば多少なりとも楽にはなる筈だ。
しかしこれを今使うわけにはいかない。これがこの探索の目玉、何としても持ち帰らなければならない。
俺が本当に死ぬ、ギリギリまで。
俺は藁にも縋る気持ちで最後の戸棚を開けた。
だがそこは空、何も入っていなかった。
周囲を見る、棚等の家具はまだまだあるが、ブーツの入っていたような宝箱はない。
どうする? どうすればいい? 何が一体最善だ?
「ぐっ……行こう!」
帰る、帰ろう! 今の俺に探索をしている余裕は無い。
俺はポーションを左手に握りしめ、右手で棒を持って走り出した。
帰りの魔法陣まではそこまで遠くない、しかしそれは健康体ならの話だ。
俺はここまでかなりの距離を走って来た、ゴブリンと追いかけっこだってした。そんな道を、この状態で、帰るのだ。
ここまで来るのに時間にして30分程度、しかしそれは探索込みでの時間。直線だけで考えれば走って10分程度だろう。走れればの話だが。
駅まで車で行って、帰りが徒歩になったような心境だ。短い筈の距離がとても遠くに感じる。
部屋の扉を開け、魔法陣のあった部屋に走り出す。
既に全身が重い、関節の動きがどんどん鈍くなっているのを感じる。
歩きたい、だが毒がどんどん体を蝕んでいるのを感じる。走れるのは今だけだ、痺れが酷くなったら走れる自信は無い。
時間との勝負だ。この毒に即効性は無い、俺が戸棚に手を掛けるまで気付かなかったくらいだ。最悪この毒で死に至るにしてもまだ猶予はある筈だ。
変態先輩は言っていた、ダンジョンの外に出れば、入った時の状態に戻ると。
だから俺が死ぬ、その前に、帰る。帰るんだ。
「けほっ……はっ……はっ……はぁ……」
魔法陣の部屋を抜け、元来た道を走る。
ここはゴブリンと追いかけっこしていた道だ、直線が長かったのを覚えている。
!?
目が霞んで来た、まずい、道が分からなくなる。
「はぁ……はぁ……」
直線の半分くらいで走れなくなる。
足の痺れはまだ大丈夫、だが呼吸がとにかくきつい。
少し、少しだけ、呼吸が整ったらまた走るから……。
道を歩く、歩く、出来るだけ大股で。
棒がありがたい、実質足三本だ。まるで山道を登るように、俺は足を進める。
「ッ……、うおおおお!!」
呼吸を整え、また走る。
だが、僅か20m程度走っただけで、足を止める。
「ぜぇー……ぜぇー……」
持久走走った後みたいな気分だ。呼吸が、酸素が、肺に届かない。
体も大分フラついて来た、汗も止まらない。高熱もありそうだ。
不意に左手に握りしめたポーションが目に入る。
だが頭に過ったその選択肢を俺は即座に振り払った。
「持ち……帰るんだ!」
長い棒を杖替わりに進む。
恐らく、ここで曲がる。そしてここから先は曲がらずに直線の筈だ。
しかし視界が霞む、既に扉と壁の区別がつかない。
この道に3つ、扉がある筈なのだ。
が、視界に見えた物は……
「ギギッ!!」
なんか薄ぼんやりと緑色の物が見えた。
「来ると思ってたよお前えええええええええ!!」
俺は片手で渾身の振り下ろしを目の前の緑に叩き込む。
「ゲヒャー!」
緑色のは地面に倒れ、棒はあっさりと折れた。
☆折れた棒
頭の中に一瞬そんな言葉が過ったが、俺は状況が状況だけにそれに気付かなかった。
「おらあああああ!!」
俺はその折れた棒の先端を緑色のに突き刺す。
「はぁ……死ねボケが……」
俺はソイツがどうなったかも確認せずに、棒を捨ててそのまま前に進んだ。
体調が悪過ぎて口が悪くなる。
もう走れなくなったあたりから次敵が来たらこうしようと決めていた。今の状態では突きなんて出せない。そもそもろくに構えられないだろう。
折れてもいいから叩きつけて、折れたら突き刺して使おうと考えていた。棒はまだ捨てたくなかったが、もう杖にも使えそうになかったので捨てた。
壁伝いに歩みを進める。
もう足は引き摺っているような状態だ、足がとにかく上がらない。
先程扉を一つ通り過ぎた、なら反対側の壁に二つあった筈だ、もう出口は近い。
道が合っているならの話だが。
「う、うおおおおおおおおおお!」
最後の力を振り絞って走った。
走ったと言ってもほとんど歩いてるに近いような走りだ。競歩にすらなっていない。
それでも今俺に出来る全力の走りがこれだった。
ある筈なんだ、この先に、赤い魔法陣が。
そして、見えた。
ぼやけて何がなんだか分からないが、赤く光っているのが見える。
「最……後……ッ!」
俺は飛んだ。ほとんど転んだように。体を捻り、地面を少し滑るように光に身を届かせた。
体が入りさえすれば、起動する筈だ。
俺は、赤い光に、包まれた。
「君、大丈夫かい?」
「はっ!?」
何秒だろうか、何分だろうか、俺は意識を失っていた。
見上げれば入る時に会った憲兵さん。
俺は勢いよく立ち上がった。
「あ、はい! 大丈夫です!」
体が軽い、さっきまでのが嘘のようだ。
治っている、なんなら途中までの疲労すら消えている。
「はっ!?」
そうだ、ポーション!
俺は左手を見る。
持っていた、ちゃんと持っていた。
☆ポーション
強く見ると再び頭に文字が浮かぶ。
大丈夫だ、割れたりもしていない。
ちゃんと触ってみると、そもそも割れにくい材質に感じる。少なくともただのガラス容器ではなさそうだ。
あの時は焦っていたし、手も痺れていてそこまで気付けなかった。
「……よし!」
ここで俺はようやく実感する。
俺は勝った! 生きて帰る事が出来たのだ!
最後に倒れた時、あれが魔法陣の判定に入っていなかったら、俺はあそこで意識を失って死んでいただろう。
耐えた甲斐があった、我慢して良かった、走って良かった。
頬にほろりと涙が零れそうになる気持ちを抑え、俺は前を見据える。
人通りが多いダンジョンの出入口、ここに泣きそうな顔でずっと立っているのは居心地が悪い。俺は話しかけてくれた憲兵さんに会釈をして歩き始める。
次に目指すは正面。俺はそのまま正面に見える、この辺りで一番大きい建物に向かった。
そこは恐らく、冒険者ギルド。
…………
……
そういや俺まだパンイチじゃん。
□モス
大きな蝶のようなモンスター。胴体はモサモサとした長い黒灰色の体毛に覆われ、翅は厚みがあり、紫と黄色の斑模様が目立つ。頭部には琥珀色の複眼が二つ、長い黄色の触角が二本生えている。口は巻いたストローのような形をしており、人間の皮膚を貫いて血を吸うことができる。
直接的な戦闘能力は皆無に等しく、皮の服などで全身を覆えば口を刺すこともできなくなるため、モスは攻撃手段を失う。なお、刺されても直ぐに血を吸われる訳ではなく、更にはモスの動きが完全に止まるため迅速な対処が容易である。
だが、本命はその口ではなく鱗粉にある。鱗粉には弱い毒性があり、対策をせずに吸い続けると中毒を起こす。
この毒は肺と神経系に強く作用し、倦怠感・呼吸困難・視覚の低下・平衡感覚の喪失・軽い麻痺などの症状を引き起こし、時間の経過とともに悪化していく。
アンチドーテを飲めば瞬時に治り、解毒草などを口に咥えるだけでもすぐに回復する。
何の対処もしない場合、三十分程で症状がピークに達し、そこから徐々に回復していく。
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