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開けちゃダメだ。
1
東南アジア、某国。
太平洋に浮かぶ小さな島で、デンジとレゼは暮らしていた。
「デンジ! 今日の仕事は終わりだ!」
「オス!」
親方の声に、デンジは首から下げたタオルを取りながら返事をした。タオルから、土埃の匂いがする。構わず、デンジは額を拭った。
言葉を覚えるのは大変だった。流石のレゼも、この辺りの言葉をネイティヴレベルで覚えているわけではない。せいぜい日常会話くらいが精一杯で、だからそんなレゼから言葉を教わるしかないデンジにとってしてみれば、この国の言語は未知の暗号に近かった。
それでもその暗号をなんとか解き明かし、デンジが(最低限とはいえ)言葉を学べたのは、だから持ち前のクソ度胸と根性のおかげだった。
何をするにも、金はいる。レゼに苦労はさせたくない。その一心で、デンジは最低限の挨拶と「はい」「いいえ」を覚えた段階で働きに出た。最初のうちは、言葉も通じぬ外国人。まともな扱いを受けることはなく、煙たがられ、時には暴力を振るわれることもあったが、それでもデンジはめげなかった。
懸命に仕事を覚え、そして体当たりのコミュニケーションで言葉を覚えていった。辛くないといえば嘘になるが、それでも過去に比べればずっとマシだ。内臓やキンタマを売る必要もなく、働けばきちんと給料ももらえる。何より——家に帰ればレゼがいる。だから、何があっても辛くはなかった。勤勉に努力を重ねるデンジに、周囲が向ける目もだんだんと変わった。外国人、と言う偏見は薄れ、デンジが彼らの仲間として受け入れられるのに、半年も掛からなかった。
今のデンジの仕事は、主に土木建築と、自動車整備工場の手伝い。あとは、夜に近所の料理屋にバイトに入ることもある。掛け持ちで、しんどいが、それでもデンジは若く、体力には自信があった。何より、金だ。金があれば、レゼにいい暮らしをさせてやれる。そのためになら、デンジはいくら働いたって疲れる気がしなかった。
日当を手渡しで受け取って、デンジは帰路に着く。レゼのために、何か果物でも買って帰ろう。思って、デンジは夕暮れの市場の方へ足を進めた。
関西国際空港での戦いから、一年と少しの時が経っていた。
この一年、デンジはいろいろなことを学んだ。外国の言葉。外国の常識。コンクリートの混ぜ方に、モルタルの塗り方。ペンキを塗る前には必ず下地を塗ること。六角レンチの使い方。旋盤を扱う時に軍手をつけるとかえって危ないこと。溶接をするときは絶対に裸眼でやってはいけないこと。東南アジアは一年中暖かくて冬服がいらないこと。南国のフルーツの美味しさ。屋台料理の当たり外れ。食べられる魚と食べられない魚。市場での上手な値切り方。英語、日本語、ロシア語。微分と積分。海の綺麗さと、そして恋人の水着の美しさ。愛しい人が待つ家に帰ると疲れが吹き飛ぶこと。恋人とするキスが甘いこと。好きな人とするエッチが本当に気持ちいいこと。恋人と共に寝ると腕が痺れること。朝起きて、隣に愛しい人がいることが、とても幸せであること。
たくさんの「初めて」を、デンジは学んだ。
バンレイシを一籠買って、デンジは家に帰る。種を避けなければいけないのが面倒だが、食感が独特で美味しい果物だ。最近は、これくらいの贅沢はできるようになった。少しずつ貯金も増えている。収入も安定しているし、今よりもう少し大きくて造りのいい家に移り住んでもいいかもしれない。そんなことを考えながら、デンジは家に帰る。集合住宅の二階。ドアを開ければ——
「——おかえり、デンジくん」
振り返る、黒髪の少女。微笑みと共に、彼女はデンジを出迎えてくれる。
「ただいま——レゼ」
玄関脇の台にバンレイシの籠を置いて、デンジはレゼを抱きしめる。そのまま、顔が寄せられて、レゼの唇が、デンジの唇に吸い付く。疲れが吹き飛ぶような、柔らかな心地。
「ご飯できてるよ」
唇が離れ、レゼは言う。台所から、美味しそうな匂いが漂っていた。
リビングの机に運ばれてくるのは、カレー。野菜の春巻き。魚介の蒸し物。鶏の焼き物。牛肉とハーブの炒め物。なんだか随分、豪勢だ。
「……今日、なんかの日だっけ?」
買ってきたバンレイシを机に追加しつつ、デンジは言う。
結婚記念日はもう過ぎたはずだし、お互い、誕生日でもない。なんのお祝いだろう? デンジは首を捻る。
「ふふふ」
レゼは意味ありげに微笑む。
「なんだと思う?」
「……わかんねぇ」
「ヒントは私と、デンジくん」
「えぇ〜っ……結婚記念日、第二回?」
「あははっ、第二回って!」
レゼは口を開けて笑い、そしてそれが収まったあと。
「正解は」
と言って——お腹に手を当てる。
「出来てました」
慈しむような、笑顔。デンジは思わず、レゼのお腹に目をやる。
「……え、出来てた、って——」
「赤ちゃん」
二ヶ月目です。とレゼは笑う。
「……マジで?」
「マジマジ。心当たり、あるでしょ?」
「あ、あるけどォ……」
デンジは頬を赤らめながら言う。そう、心当たりは、ある。当たり前だ。なかったら困る。でも、そう。なんて言うか、現実感がない。と言うより——そう。
「……俺が、親、か……」
呟くように、デンジは言う。それはまるで信じられないことだった。
親。
デンジにとって、それはいつだって暗い記憶と共にあった。
酒に酔い、己を殺そうとした父親。抵抗して、それを、殺し返したこと。その記憶は今も、デンジの魂にこびりついていて——それでも。
「……嬉しくない?」
そんな風に。
少しだけ不安そうに問われて——デンジは、首を振る。
「いいや。すっげぇ——嬉しい」
そう言って、微笑む。
そう、過去は、消えない。
けれど、それでも、だからこそ。
だからこそ未来は、変えられると思う。
そんな気がする。根拠もなく、思う。
自分一人では、ダメかもしれないけれど。
それでも、レゼとなら。
レゼと二人でなら、きっと。
どんな苦難も乗り越えて、幸せを掴めるはずだって、そう信じられる。
これまでは二人で。そうやって生きてきて——これからは。
それが三人になる。
「よろしくね、お父さん」
「……おう」
お父さん、なんて、なれない呼び名で呼ばれて、少しドギマギしながらも、デンジは頷いた。
父親としての自覚が、それだけで生まれたと言うわけじゃないし、正直言って、戸惑いの方がずっと大きい。
それでも——愛しい人は、幸せそうで。
ならばそれを守るのが自分の役目だ、とデンジは思った。
根拠もなく。
それを果たせるのかもわからずに。
ただ無責任に、そう思った。
2
レゼのお腹は少しずつ、順調に大きくなっていった。妊婦への接し方なんて知らないデンジだったけれど、伴侶が妊娠したと伝えれば、職場の先輩たちがいろんなことを教えてくれた。これでお前も一端の男だ、なんて旧時代的な激励から、奥さんとできないからって浮気はするな、なんて下卑た釘刺しまで、男社会特有の諸々を洗礼として受けつつも、祝われて。時には周囲の人々に助けられながら——気づけば、半年。レゼのお腹はもう随分と大きくなって、あと二ヶ月もすれば出産の予定日が来る。
今日は、妊娠の発覚からちょうど半年だった。なんとなく、それを覚えていたデンジは、仕事の帰り、花束を買った。
そういえば、この国に来てから花を買うのは、初めてだ。
思えば、あの日。振り返ればもう、一年半以上も前。デンジがレゼと逃げると決意し、喫茶店に向かったあの日、花束を渡しそびれて以来、デンジはレゼに花を贈っていなかった。逃亡中にそんなことはできなかったし、この国に逃げ込んできてからは、生活基盤を整えるのに手一杯で、花を買うような余裕なんてなかった。結婚記念日にも、小さな金細工のアクセサリーを贈っただけで金が尽きて、花を買う余裕はなかった。
だから、デンジは随分と久しぶりに、レゼに花を贈ることになる。ちゃんと渡すのは、だからそう、あの日、一番最初にレゼと出会ったあの日。電話ボックスの中で、吐いた花を贈って以来か。
あの時——レゼは泣きながら笑っていた。
全ては演技だ、と言っていて、でもじゃあ、それが演技でなくなったのは——演技でなくしてもいいと思ったのは、いつのことだったんだろう。
聞いてみようか。
あるいは恥ずかしがって、教えてもらえないかもしれないけれど。
そんなことを考えながら、暮れた日の中を歩く。
今日は、仕事が少し遅くなった。ここのところ、自動車関係の仕事が増えている。どうも最近は、ソヴィエトの方がきな臭い。実しやかに語られる噂では日本と一戦交えた……とか。眉唾だが、銃の悪魔が日本で出現した、という噂と合わせ、ソヴィエトが嗾けたのではないか、なんて話も出ている。
レゼに曰く、チーストカがやられた影響でソヴィエトが焦った、というシナリオは十分にあり得るという話で、少なくとも日本と緊張が高まっているのは確からしい。とにかくそんな調子で、大国同士の仲が悪くなっているせいか、最近は色々と仕事が多い。景気は良くなったが、しかしそのせいで、レゼといられる時間が減っているのはいただけない。
寂しがってないといいけど、なんて思いながら、デンジは道を歩き続けて。
ふと。
誰もいない道の真ん中に、男が立っているのが見えた。
喪服のような、黒いスーツ。黒いネクタイ。黒い革靴。真ん中で分けられた、うねりのある髪は、いつか見たそれと変わらず。目元に、泣きぼくろ。
黒い瞳が、デンジを見て。
そしてゆっくりと、首を振る。
「……え?」
何か。
不吉な予感を、感じる。
男はデンジの後ろを指差す。振り返っても、そこには何もない。ただ、暗い道が続いているだけで——引き返せ、と、そう言われているようで。
でも——デンジが帰るべき場所は、この先なのだ。
「……俺、帰んなきゃいけないんだけど」
デンジが言えば。
彼は痛ましそうに、首を振る。
どきりと。
心臓が嫌に、鼓動を重ねる。
デンジは胸を押さえた。
「……俺、行くよ?」
ゆっくりと。
背後を指差したままの男の横を、通り過ぎて。
デンジは先に、進む。
だって、そうだ。
その先には、家があるんだから。
レゼの待っている家が、あるんだから。
アパートの二階。小さな部屋。二人で住むのが精一杯で、だから子供が生まれたら引っ越しをしようねって、そんな話をしていて——
気が付けば、デンジは早足に、駆け足になって、帰路を急いでいた。アパートが近づいてくる。誰ともすれ違わない。虫の鳴き声だけがうるさく、耳の奥にこだまする。
アパートに、近づけば近づく度、デンジは少しずつ、汗をかく。
疲れたから、じゃない。
そんなせいじゃなくて——ただ、匂いが。
血の匂いが。
どこかから、漂うようで——
デンジは階段を駆け上がる。
部屋の前。
血の匂いが、強い。
心臓が痛いほど鼓動を重ねている。汗が止まらない。ドアは閉じている。
アルミのドアノブが、やけに遠く感じて。
デンジは手を伸ばす。
3
——開けちゃダメだ。
4
その忠告を、けれどデンジは聞き逃した。
5
ドアが、開く。
6
「——え」
噎せ返るような、生臭い鉄錆の香り。
眩みそうなほどの——血の匂いだ。
部屋の中は、真っ赤だった。
血が。
血が。
血が。
血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が血が————部屋の中を、赤く染め上げて。
その中心に。
一人の少女が、倒れている。
虚な顔で、血を吐いて。
その、膨らんでいたはずの腹には。
冗談みたいな風穴が、空いていて、そこに。
人一人から湧き出たとはとても信じられない、夥しい量の血が、渦巻いて——
中心に。
小さな。
人形のような。
動物のような。
人間のような。
うずくまるように、丸まった——胎児が。
揺蕩うように、浮かんでいて。
側に。
誰かが立っている。
スーツ姿に、異形の頭。まるで頭蓋骨に、銃身が貫通したような、異形の姿。両手もまた、無数の銃器の集合になっていて。
そんな有様でありながら、どこか。
その姿には、見覚えがあって。
その彼が——振り向く。
「……デンジ」
呼ばれる、声は。
いつか聞いたそれと、同じ。
『——お前は今度こそ、前だけ向いて——生きろ』
そう言って、くれたのに。
「……嘘ついてんじゃねぇよ、アキ……」
世界の崩れる音が、どこかから、聞こえた。
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こちらはその一話目です。二話目は夜21:05に投稿されます。