JANE DOEに花束を   作:忘旗かんばせ

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本日二度目の更新です。
夕方に投稿した「第五話」をお読みで無い方は、先にそちらからお読みくださいませ。


第六話

 

 0

 

 JANE DOEに花束を。

 

 1

 

 臍から飛び出た腸が、デンジの首を吊し上げた。罰のように。刑のように。愛おしくも残酷に、責め立てるように淑やかに。次の瞬間、吊るされた罪人の姿は異形のそれに変身していた。

 

 全身を覆う、鎧のような棘だらけの黒い甲殻。二対四本の腕から伸びる、獰猛なチェーンソーの刃。額から突き出たそれもまた、同じように高く唸りを上げ、火花を散らして刃を回転させ——首に巻かれた腸が、マフラーのように長くたなびく。

 

 その姿こそ。

 地獄のヒーロー、チェンソーマン。

 その、本来の姿。

 

 相対する魔人は、無感動に腕を構える。首に巻かれたネクタイが、風にゆれた。マズルフラッシュ。放たれる銃弾は、命を消すには十分すぎる。

 

 銃の悪魔——その恐るべき存在を、人類は強く知っている。過去。僅か五分の顕現で、百万人単位の殺戮を巻き起こした人類史上最悪の災厄。全てのデビルハンターの怨敵にして、人類が生み出した究極の恐怖の一つ。それが今、早川アキの死体を借りて、魔人として地獄の英雄と鉾を——銃弾を交える。

 

 悪魔はそれが司る概念に向けられる恐怖に応じて力を増す。銃に、そして銃の悪魔に向けられる恐怖は無限大に等しく、故に放たれる弾丸もまた、尋常の物理法則を遥かに超越する。

 

 光速の十八パーセントにまで加速した弾丸は、チェンソーマンの右半身を刮ぐようにもぎ取った。次の瞬間スターターが吹かされ、チェンソーマンは再生する。回転する五つの刃。それらは獰猛に火花を散らして銃の魔人に襲いかかり——寸前で、止まる。

 

 銃弾が放たれる。

 かろうじて、交差したチェーンソーの刃でそれを防ぐが、衝撃までをも殺し切れるわけではない。吹き飛ばされたチェンソーマンはデンジとレゼの自宅から二・七四キロメートル離れた市場へと着弾した。

 

 飛び散るパパイヤ、マンゴスチン。弾ける野菜と砕ける人体。上がる悲鳴。血飛沫。恐怖。それらの全てを無視して、チェンソーマンは立ち上がる。

 砕けた腕を再生するために、スターターが引かれる。不死身のヒーロー、チェンソーマン。そう、今やその体はデンジのものではない。契約の不履行。いつかデンジがポチタと——チェンソーの悪魔と成した契約。「普通に生きる」という夢を、その心臓に見せること。それがもはや叶わぬと、デンジ自身が全てに絶望したが故に、その肉体は捧げられ、地獄のヒーローが今一度地上に顕現した。

 

 光の弾丸が無数に降り注ぐ。

 二・七四キロメートル。そんな距離は、魔人と化し、ダウンサイジングしたとはいえ、銃の悪魔にとっては有ってないようなものだった。銃弾の雨霰と共に、銃の魔人は市場へと舞い降りる。着弾した銃弾が、市場にいた四月生まれ、五月生まれ、九月生まれの二百三十八人の人間の頭蓋を正確に打ち抜き、殺害した。チェンソーマンは刃を回転させる。

 

 銃弾が放たれる。伸びたチェーンが、それを叩き落とす。一発、二発、三発——百発。放たれる銃弾に対して、四本の手はあまりにも少なすぎた。

 

 嵐のように吹き荒れる弾丸に、チェンソーマンは削られていく。何度でも何度でも、スターターを引き、再生しながら。全ての弾丸をその身に受けながら、チェンソーマンは銃の悪魔の眼前に立ち、四本のチェーンソーを振り上げる。

 

 けれど、できるのはそこまでだった。

 

 銃弾が放たれる。冗談みたいに体が弾け飛んで、上半身だけになったチェンソーマンが大地に叩きつけられる。ぶちまけられた腸が色とりどりの糞便を撒き散らして、ケミカルな汚臭を上げた。

 

 地獄のヒーロー。その肩書きは、決して冗談じゃない。銃の悪魔にしたって、彼が地獄で殺したからこそ地上にやってきたのだ。つまり彼にとって、銃の悪魔は一度倒した敵にしか過ぎない。にもかかわらず、彼が銃の魔人を殺せない理由は、一つしかなかった。

 

「はは……」

 

 呟くような、笑い声。いつか聞いたその声を、デンジは大切にしていた。

 

 だから。

 

 銃弾が放たれる。

 

 チェーンソーの頭が、吹き飛んだ。

 

 2

 

 エンジンの振動がどこか心地よく感じるのは、きっとそれが母親の胎内にいた頃を思い出させるからなのだろう。

 

 エンジンと心臓は、似ている。リズムを刻み、エネルギーを生み出す。そして壊れれば、本質を失う。

 

 心をさえ。

 

 デンジは車の助手席に乗せられていた。開けっぱなしのダッシュボード。くしゃくしゃに潰れた煙草の箱。銘柄はラッキーストライク。皮肉みたいに。刺さったままのキーから、ぶさいくな猫のストラップが垂れていた。左ハンドル。外車だ。バックミラーに映るのは、見知らぬ道。正面にあるのは暗闇のハイウェイ。ヘッドライトにすら照らし得ない闇が、鉛筆で塗りつぶしたみたいにただひたすらに続いている。

 

 体は動かなかった。酷く疲れている。いや、それだけじゃない。デンジの体は、上半身しかなかった。下半身は吹き飛んで、飛び出た腸がシートから床に垂れている。ごぼり、と喉の奥から血が流れた。

 

「起きた?」

 

 隣から声を掛けられる。瞳だけを動かして、デンジはそちらを見た。

 

 白いシャツに、黒いネクタイ。スラックス。中分けの、うねりのある前髪。目元に、泣きぼくろがあって。

 

 もう、この男との付き合いも長いものだ。

 デンジは思う。

 

「あんたさ」

「うん?」

「誰なわけ」

 

 デンジが問えば、男は無表情に「さあ」と言う。

 

「人にはどうも、『後悔の悪魔』だとか、そんなふうに言われてるらしい。でも、あまり気に入ってはいない」

 

 彼は言って、車のラジオをつける。耳障りなノイズの後、音楽が流れ出した。サンプリングされた女性の声が紡ぐ、リズミカルなイントロ。どこか不穏で、扇情的な。

 

「よければ」

「…………」

「スターターを、引こうか?」

 

  〝——駄目駄目駄目 脳みその中から「やめろ馬鹿」と喚くモラリティ

 

 歌声が始まる。低く、轟くようなそれが、しゃがれた歌詞を歌い上げる。

 

 デンジは何も言わなかった。

 

「思えば、こうして話すのも初めてかもしれない」

 

 男は言って、窓を下げる。冷たい空気が車内に入り込んできた。

 

  〝——ダーリンベイビーダーリン 半端なくラブ!ときらめき浮き足立つフィロソフィ

 

「人間という生き物がエントロピーの増大によって情報を知覚する脳構造を持っている以上、人類の主観世界において時は巻き戻らない。コーヒーとミルクは一度混ざれば不可分で、壊れた椅子は元に戻らなくて、台無しになった人生はやり直せない」

 

 ハンドルに片手を置いたまま、後悔の悪魔は語る。

 

「けれど……それは人間の理屈でしかない。悪魔にとって、物理法則なんてものは紙切れよりも脆い。それがラプラスのでなくとも、マックスウェルのでなくとも……悪魔とは常に、破れぬ法則を超越するために現れる」

 

 アクセルの加速度が、下半身のないデンジの体をなんとかシートに押し留めていた。デンジの顔をバックミラー越しに眺めながら、後悔の悪魔は言う。

 

「『後悔の悪魔』という存在は時間を超越している。全ての物質存在はエントロピーの増大方向にのみ現象を起こす。そんな理を蹴り飛ばして、全ての現象を巻き戻し、あり得ないはずの『もう一度』を起こすことができる。……ただし、それを知覚しているのは俺だけだ」

 

 後悔の悪魔は肩を竦める。

 

「この世の全てが巻き戻れば、当然記憶だって巻き戻る。脳は物質で、物理現象に従う。魂の記憶なんて都合のいいものは存在しない。脳の状態が巻き戻れば、記憶だって巻き戻る。全ての未来は消え去り、そして再演される」

 

 けれど。

 

「それじゃあ、あんまりだ。そう思った。だから、介入した。はっきりいえばこれはズルで、ろくでもない依怙贔屓だ。くだらない、最低なやり口。とてもじゃないけど平等でも、公平でもない。この世の誰にだって許されないことで」

 

 だからこそ。

 

「悪魔には、相応しい行いかもしれない、なんて」

 

 ただの逃げだけれど。

 

 言って、彼は窓に肘をかけ、手で顎を支えた。

 

「きみには二つの選択肢がある」

 

 悪魔は語る。

 

「一つは、すべてをやり直すこと。このまま車に乗り続けていれば、それは叶う。今度こそ、『もっといい未来』を掴めるかもしれない、努力次第だけれど。今の全てを無かったことにしてもいいのなら、無かったことにしたいのなら、無かったことにして、やり直したいのなら、この道を選ぶといい」

 

 そして、もう一つは。

 

「スターターを引くことだ。そうすれば、きみは蘇る。今のまま、今の時間軸へ。君が経験した最悪の、その先へ。この先に何が待ち受けているのかを、俺は知らない。俺にとっても、まだ未知だ。もしかしたらきみは、今よりもずっと辛い目に遭うかもしれない。あの時やり直していれば……あるいは、あの時死んでいればとさえ思うほどに、最悪な経験をするかもしれない。だが、それでも——」

「引いてくれ」

 

 言葉を遮って。

 デンジは言う。

 

「引いてくれ、頼む」

 

 視線で。

 胸から垂れ落ちるスターターを、指す。

 

「……いいのか?」

「ああ、構わねぇ」

 

 デンジは頷く。

 

「俺ぁ……レゼを助けに行かなきゃなんねぇんだよ」

 

 だから早く、引いてくれ。

 

  〝——ばら撒く乱心 気付けば蕩尽 この世に生まれた君が悪い

 

 加速する音楽を背景に、デンジは言った。

 

「……実を言うと、きみならそう言うんじゃないかと思っていた」

 

 俺は。

 きみのファンなんだ。

 後悔の悪魔は、語る。

 

「ならば、一つ助言をしよう。悪魔の助言だ。聞くも無視するも、君次第だけれど……時に、最も目を逸らしたくなる惨憺の中にこそ、希望というものは隠れ潜んでいる。それを忘れなければ、何かいいことがあるかもしれない」

 

 それじゃあ——

 

   〝やたらとしんどい恋煩い バラバラんなる頭とこの身体

 

「今一度——一人の読者として、願おう。我らがヒーロー、チェンソーマン……いいや、デンジ」

 

 彼はスターターに指を掛けて、言う。

 

「どうか今度こそ、この物語にハッピーエンドを」

 

  〝頸動脈からアイラブユーが噴き出て——〟

 

「——JANE DOEに、花束を」

 

  〝——アイリスアウト

 

 ヴヴン。

 





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