JANE DOEに花束を   作:忘旗かんばせ

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第七話 2

 

 4

 

 一年半ぶりに訪れた日本の空気は、どこか異国のような匂いがした。

 

 多分、本当に異国の匂いを漂わせているのは、自分の方なのだろう。デンジは思う。思えば随分と日に焼けた。髪も伸びたし、背も少しだけ伸びた。何より——デンジは父親になった。

 

 あの頃。一年半前。日本にいたデンジと、今、日本を訪れたデンジは、もう別人に近いのだ——なんて、くだらないノスタルジー。

 

 デンジは苦笑して、静かに首を振った。

 

「んで? どこで落ち合うことになってんだ?」

 

 船着場。船を降りてすぐにデンジが問えば、隣を歩くアキは眉を顰めて唇に指を当てる。言葉の代わりに、見せられたのはメモ帳。書かれている文字は「付近の商店街」。そうだ、ここは日本。すでに——マキマの勢力圏だ。デンジは自覚して口を噤んだ。

 

 太平洋の島から日本に来るのに、デンジとアキは海路を使った。小さな船で、当然のように密航。レゼとパワーは、元居た国に残して来た。今の状態で、レゼを日本に連れてくるのは危険が大きすぎた。お腹に赤子もいるし、その子供だって、一時は生きるか死ぬかだったのだ。とてもではないが、マキマが目を光らせている日本に連れてくるわけにはいかなかった。残してくるのは不安だったが、パワーが付いていてくれるのだからそれを信じる。デンジとレゼの子供を守ってくれたのも、パワーなのだ。

 

 アキの両腕は、幸いにして繋がった。動きにも支障はなく、戦闘にも堪える。その辺りも、パワーのおかげである。彼女の血を操る力がなければ、あそこまで汚く切断された腕が再び繋がることはなかっただろう。

 

 船着場を離れ、二人はしばし無言のまま街を歩き、付近の商店街を目指す。

 ざらついたアスファルト。瓦葺きの屋根。背の低い建物たち。見慣れぬようで、懐かしいその光景。

 

「よう」

 

 港町の一角でデンジを迎えたのは岸辺だった。いつも通りのスーツ姿。隣にはクァンシもいて、またその後ろには二人、同じような格好の少年たちがいた。

 

 一人は、見覚えがある。背から生えた翼に、光の輪。少女のようなあどけない顔立ち。かつてマキマに従い、レゼを狙った——天使の悪魔。

 

「……こいつ、大丈夫なんすか?」

 

 思わずデンジが問えば、アキは慌てて口元に指を当てる、が。

 

「喋っても大丈夫だぞ、二人とも。この辺りは、掃除してある」

「逆に気付かれませんか」

「そうならないように、ダミーもいくつか仕込んでいる」

 

 心配するアキを、岸辺が宥めた。

 

「そして、天使については問題ない。こいつはもう、マキマの支配からは脱している」

「そうなの?」

 

 デンジが問えば、天使は嫌そうに「まあね」と答えた。

 

「少なくとも今は——マキマの部下になっていた過去すら。反吐が出る思い出だよ」

 

 苦々しく、彼は言った。

 

「でも、君の彼女を狙ったことは、謝らないから」

 

 天使はデンジを軽く睨む。そんなことも今更だが……言い出すあたり、自分自身で気にしていると言っているようなものだ。そんな機微も、デンジは最近、わかるようになった。

 

「んで、そっちは?」

 

 水を向ければ、もう一人の少年は軽く片手をあげる。歳の頃はデンジと同じくらいだろうか? 黒髪で、口元にほくろがある。耳にはピアス。どこか雰囲気が、岸辺と似ていた。

 

「俺は吉田。吉田ヒロフミ。仲良くしようぜ、デンジくん」

 

 手を差し出され、デンジは「おー」と手を握り返す。

 

「うお、手硬いね」

「あー、ま、作業現場とか工場とか、そう言うとこで仕事してたから」

「なるほどね、労働の証ってわけだ」

 

 言って、吉田はニヤリと笑った。悪いやつではなさそうだ。デンジは思う。

 

 握手を終えれば、岸辺がデンジの方へと向き直った。

 

 じろりと、黒い瞳がデンジの体を上から下まで見定める。

 

「……焼けたな、随分」

「ま、あちぃとこいたんで」

「手も……胼胝だらけだ」

「まあ、はい」

「ガキが出来たんだって」

「はい」

「おめでとう」

 

 言って、岸辺はデンジに封筒を渡した。ご祝儀のつもりらしい。随分と分厚くて、デンジは咄嗟に中身を確認したい気持ちになったが、失礼だと思い直し、誘惑を飲み込んで懐にしまった。

 

「ありがとうございます」

「おう……大人になったな、デンジ」

 

 ちょいと寂しいが。

 煙草に火をつけて、一服。済んでから、彼は言う。

 

「そこの店で話をしよう」

 

 岸辺は言って、顎をしゃくる。無地の暖簾がかかった料亭だった。港町には似つかわしくない、高級な作り。中に入れば、女将が六人を個室へ案内する。

 

 畳に正座するのは、デンジにとっては久しぶりのことだった。井草の匂いが、ひどく懐かしい。

 

 デンジは岸辺と向かい合う位置に座った。

 

「ま、知ってるとは思うが……日本はマキマに屈した」

 

 おしぼりで手を拭いながら、岸辺は言う。

 

「はあ」

「色々と法律が変わったり、てんやわんやの状態だ。煙草吸ったら逮捕、交通違反で無期懲役、政府に異論を唱えれば禁固刑……酷いもんだが、まあ、究極これはどうでもいい」

 

 少なくともお上品に国家の犬やってる連中にとっちゃ、むしろ朗報だろう。なんて、皮肉。

 

「問題は……デンジ、お前を使ってマキマがやろうとしていることだ」

 

 運ばれてきた酒を飲みながら、岸辺は語る。

 

「概念を消すって意味が、俺にはよくわからんが……法律が変わるなんて次元じゃなく、世界が変わるのは間違いない。死も戦争も飢餓もなくなったらそりゃあ結構なことだが……その概念が消えた時、何が起こるかなんて見当もつかない。そして、マキマの目的がそこで終わるとも限らない」

 

 そう言うわけで、だ。

 

「俺たちとしては、マキマを倒したいと思ってる」

「で、俺にそれをやれ、と」

「お前にだけやらせようとは思っちゃいない。俺たちも協力するさ。なんてったってこの一年半、マキマと戦い続けてきたんだ。対マキマ戦に関しちゃ、俺たちはプロフェッショナルだ」

「負けてばっかりだけどな」

 

 隣のクァンシがツッコミを入れる。「勝ち馬に乗せてくれるんじゃなかったのか?」冷ややかに言われ、岸辺は目を逸らした。

 

「ま、そういうわけだ。決戦は……明後日を予定している」

 

 料理をつまみながら、岸辺はデンジの目を見た。

 

「やれるか?」

 

 デンジは、運ばれてきた料理の膳を眺めながら、ポツリと言った。

 

「俺ぁ」

 

 小鉢の中で、死んだ魚が甘辛く煮付けられていた。

 

「昔、マキマさんのことが好きでした」

 

 白く濁った目が、デンジを見つめている。

 

「多分」

 

 

 今でも好きです。

 

 

 デンジは言って——箸を手に持つ。

 

「それでも」

 

 小魚の尻尾を箸で摘んで、持ち上げる。

 

「やりますよ」

 

 ぱきり、と。

 頭からそれを齧り、噛み締める。

 甘辛く、ほろ苦い。命の味。

 それを飲み下して、デンジは言った。

 

「マキマさんは——俺が殺ります」

 

 岸辺は酒盃を傾けて、ただ一言「そうか」と言った。

 それ以上の言葉はなく。

 全てはそれで十分だった。

 

 5

 

 抜けたような青い空の下。等間隔に並ぶ白い十字架が、大地を果てまで埋め尽くしていた。

 

 人は死ぬ。いつも唐突に、理不尽に。たとえばこの世界に悪魔がいなければ、人は死ななかっただろうか? 誰かが悲しむことはなかっただろうか? 争いは消えただろうか? 人は幸福に生きれただろうか?

 

 多分、そうじゃない。

 

 なんとなく、最近、デンジはいろんなことがわかってきた。

 働くことが大変であること。

 生活することが苦労の連続であること。

 普通に生きることは、幸せに生きることではないこと。

 コーヒーの味は、ミルクと砂糖でマシになること。

 人を好きになることは……。

 きっと、幸せであること。

 そんなことを、今のデンジは知っている。

 

 だから。

 

「——久しぶりですね、マキマさん」

 

 先に声をかけたのはデンジだった。

 

 いつのまにか。

 彼女はそこに現れていた。

 

 赤い髪に黄色の瞳。透き通るような微笑を湛えた、麗しの美女。

 

 マキマ。

 

 かつて、そこにどんな意図が潜んでいたとしても、地獄の底から、デンジを救い上げてくれた人。

 

 シワのないスーツに身を包む彼女の背後には——五人の異形の男女が立つ。

 

 剣。

 槍。

 鞭。

 刀。

 火炎放射器。

 

 それぞれの特徴をその身に宿す、悪魔と人のハーフアンドハーフ——武器人間たち。

 

 それらを引き連れ、マキマは立つ。

 

 相対するデンジの後ろには——同じく、五人。

 

 スーツを着た傷だらけの壮年——岸辺。

 眼帯を付けた流麗の美女——クァンシ。

 髪を結んだ若き青年——早川アキ。

 背に翼を湛える少年の悪魔——天使の悪魔。

 病んだ笑みを浮かべる少年——吉田ヒロフミ。

 

 マキマ——支配の悪魔に抗うために集った、レジスタンスたち。その最精鋭たる五人。

 

 互いに睨み合う中、風が吹き。

 マキマはデンジに微笑みを向ける。

 

「久しぶりだね、デンジくん」

 

 再会を言祝ぐように、マキマは平坦な声で言う。

 

「久しぶりっす、マキマさん」

「日に焼けたね」

「そっすね」

「少し、背も高くなったかな」

「かもしれねぇっす」

「子供が出来たんだってね」

「ええ、おかげさまで」

「もう、お父さんだ」

「そうっすね」

 

 マキマは背後で手を組んだ。

 熱のない瞳で、デンジを見つめる。

 

「レゼちゃんは……」

 

 少しだけ、首を傾げて。

 

「そんなに魅力的だったかな」

 

 マキマは、問う。

 

「人生を捧げてでも……全てを捧げてでも、欲しくなるくらいに」

 

 マキマに問われて、デンジは困ったように後ろ頭をかいた。

 

「魅力的……なのはそりゃあ、そうっすけどね。欲しくなるってのは、ちょっと違うかな」

「へぇ、どう違った?」

「俺はレゼと、一緒に居たくなったんですよ」

 

 人生を捧げてでも。

 全てを捧げてでも。

 レゼと一緒に、居たくなった。

 痛いくらいに、そう思った。

 

「……なるほどね」

 

 マキマは頷く。乾いた風が、彼女の髪を揺らす。

 

「ねぇ、デンジくん……人生って、上手くいかないことだらけだね」

 

 まるで普通の人間のように、彼女は言った。

 デンジは笑う。

 

「ま、そうっすね。でも……それが案外、良かったりもするもんですよ」

「そう思うのは、デンジくんが上手くいっている側の人間だからだよ」

 

 ポジショントークだ。そんな言葉に、けれどデンジは首を振った。

 

「いいや……俺は上手くいってるんじゃなくて、上手くいかしてもらってるんですよ」

「ああ……それは一つ確かに、正しいね」

「ええ。俺はみんなに——生かしてもらってます」

 

 だから。

 

「マキマさん。悪いけど、俺は……あんたの敵になる」

 

 生きるために。

 生き続けるために。

 夢を見るために。

 夢を見続けるために。

 デンジは、マキマに立ち向かうと決めた。

 

「……銃、天使、弓矢」

 

 指折り数え、マキマは呟く。

 

「私が失った手札は大きい」

 

 微笑みながら、マキマは語る。

 

「未来の悪魔が味方に付いてくれたのは結構なことだったけれど、あれは私に嫌な未来ばかり見せる」

 

 溢すように、彼女は愚痴を言って。

 

「私はこの戦いに敗北するでしょう」

 

 語る。

 

「皆さん」

 

 デンジにだけでなく、その後ろにいる五人にも向けて——その背後の、百万の墓にも向けて。

 

「この戦いの後、あなた方はどうするんですか?」

 

 問いかける。

 

「私は、この世界を変えたい」

 

 この世界を。

 

 この不平等な世界を。

 この不自由な世界を。

 この不公平な世界を。

 この不対等な世界を。

 この不透明な世界を。

 この不鮮明な世界を。

 この不道徳な世界を。

 この不寛容な世界を。

 この不明瞭な世界を。

 この不完全な世界を。

 

 私は——変えたい。

 

「あなたたちが勝っても、得るものはない。世界は変わらない。何一つ、あなた方の人生は変わらない。それでも——あなたたちは戦うのですか?」

 

 問いかける。問いかける。問いかける。

 

「戦って、勝って、そのあとは?」

 

 そのあとは——どうする。

 

「あなたたちはまだも、生きていけると言うのですか?」

 

 この世界で。

 

 この不平等な世界で。

 この不自由な世界で。

 この不公平な世界で。

 この不対等な世界で。

 この不透明な世界で。

 この不鮮明な世界で。

 この不道徳な世界で。

 この不寛容な世界で。

 この不明瞭な世界で。

 この不完全な世界で。

 

「本当に生きていけると——そう言えるんですか?」

 

 その問いかけに——デンジは。

 

「ああ」

 

 と。

 

「言えるぜ」

 

 と。

 

 そう、答えた。

 

「だって俺——好きな人いるもん」

 

 ドブ味のコーヒーだって、ミルクと砂糖でマシになる。

 

 デンジは。

 このクソッタレた世界に、生きる理由を見出している。

 

 背後で腕を組んだまま、マキマは微笑を浮かべる。

 どこか——寂しげに。

 

「……恋愛も、チェンソーマンに食べてもらうべきかもしれませんね」

 

 その言葉を最後に——今。

 

 最後の戦いの幕が、切って落とされる。

 





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