0
私も、田舎のネズミが好き。
1
だからデンジがそれに気が付いたのは、もしかしたら結構後のことなのかも知れなかった。
喫茶店、二道。レゼがバイトをしていた店。いつも……デンジが、レゼと会っていた、思い出の店。
他の場所は、思いつかなかった。待ち合わせにするには、きっとそこだけだった。
今日。
デンジはここに、一つの道を選ぶために来た。
レゼと共に、逃げる。
それを決めたのは、決して軽はずみな気の迷いなんかじゃない。
マキマのことは、好きだ。……そう言う「好き」とは違うけど、一緒に暮らしているアキのことも、パワーのことも、好きだ。最近は、ビームとも仲良くなった。公安には、デンジの居場所が出来始めている。そっちだって、大切だ。大切だし、捨てたくない。捨てたくないけれど——それでも、捨てる。それを捨てなければ——レゼと逃げられないのなら。
『デンジくんはさ、田舎のネズミと都会のネズミ、どっちがいい?』
あの時は、都会のネズミと答えた。
食えて楽しけりゃそれでいい——その思いは今だって変わらないけれど。
それでも。
レゼと一緒に行けるなら——田舎のネズミでもいい。
だから、そう。
デンジは花を買った。
この花を、レゼに渡す。
渡したい。
受け取って、欲しい。
そう思う。
そう思って、デンジは——
ふと。
前を見た。
「……あ、え?」
気がつけば。
そこには一人の男が座っていた。
……当たり前の話だけれど、相席なんかした覚えはない。デンジは誰にも告げず……本当に誰にも告げず、一人でこの場所にやってきたのだ。一人で。他の誰にも、迷惑はかけられない。だから、そう。目の前の男はまるっきり他人だ。見覚えはない。前分けの長い黒髪と、深い目の隈が印象的だった。思えば、デンジと似たような格好はしている——上着を羽織らないスーツ姿。スラックスにシャツ、黒いネクタイ。もしかして公安の誰か? とも思うけれど、しかし記憶にはない。完全な初対面。なんだ、こいつ? デンジは思って、口を開きかけ——
その男が、指を指しているのに気付いた。
指を指す先はデンジ——ではない。近いが、微妙にずれている。それは、そう、まるでデンジの背後を指差しているようで——つられて。
デンジは背後の窓を、振り向いた。
「——え?」
窓の外。道路を挟んで、向こう側。建物と建物の隙間に——レゼがいた。
黒い髪に、緑色の瞳。シャツとパンツ。ピンク色のスニーカー。見紛うはずもない……デンジの恋した少女。
それだけなら、良かった。
「……マキマさん?」
レゼの前に、立ち塞がるように——赤い髪の女性が、背を晒して立っている。そして——次の瞬間。
首元に伸ばされたレゼの右腕が、切断された。
「——っ!」
気付いた時には、花束を投げ出していた。そして、胸元のスターターを引っ張る。ヴヴン。エンジン音が鳴り響き、デンジの額からチェーンソーの刃が出現する。それはかつてなした契約。親友たる悪魔、ポチタとの約束によって引き継いだ力——デンジは、チェンソーの悪魔に変身できる。
足で窓をぶち破った。腕をチェーンソーには、まだしない。背後で、喫茶店の店長の悲鳴が上がる。それすらも置き去りに、デンジは飛び出した。
頭上。ビルの上には天使の悪魔がいる。彼は寿命を対価に作り上げた武器——冗談みたいに巨大な鏃を片手に構え——
「やめろっ!」
制止の声に現実を変える力はなかった。鏃は放たれる——レゼの心臓へと向けて。貫通した鏃が、レゼを串刺しにする。
「レゼ——!」
絶叫。その声に反応してだろう。マキマが振り向く。その黄色い瞳がデンジを見た。
いつも、その瞳に見つめられると胸が高まった。今ですら、そうだ。デンジは、二人の女性に恋していた。マキマと、レゼ。けれど、今は。
「レゼっ!」
マキマの横を通り抜けて、鏃に貫かれたレゼを抱え、その場を飛び退る。
片腕を欠いたレゼの体は軽かった。抱えたまま、路地を駆け抜け——ようとする、デンジの眼前を、新たな鏃が射抜いた。
「デンジくん」
背後から、呼びかけられる。びっくりするくらい、冷たい声。今まで、一度だって聞いたことがないような。
「
『それ』。
その言葉が指し示す対象を見誤るほど、デンジの察しは悪くない。
血が抜けたからか。レゼの顔面は青白く、今にも死にそうだった。デンジは彼女を抱えたまま振り向く。
「……マキマさん」
「や、デンジくん」
場違いなくらいに軽い挨拶。マキマは片手をあげている。
「デンジくんも、知ってるよね。その子はテロリストで、デンジくんの心臓を狙ってた」
マキマは微笑を保っている。
「……そうっすね」
頷くデンジに、マキマは片手を差し出す。
「大勢の人を殺した、犯罪者だよ。私たちは、その子を野放しにはできないんだ。だから、捕まえてくれてありがとう。引き渡してもらえるかな?」
……今渡せば、罪を責めはしない。そんなニュアンスを、言葉から感じ取る。
けれど、デンジは。
「渡したら、マキマさんはレゼのこと、どうするんすか?」
「悪いようにはしないよ」
マキマは微笑むまま。けれど、どうにも。
デンジはそれを信用できなかった。
レゼを抱く手に力が入る。
「……一緒に働いたりとかってのは、どうっすかね」
言ってみる。それは案外、悪くない選択肢に思えた。そう、自分だって、マキマにその資質を見出され、公安で働いているのだ。レゼだって——
「だめ」
マキマは。
デンジの提案を棄却した。
「その子は、デンジくんとは違う。大勢人を殺してるんだ。お咎めなしじゃ、示しがつかない」
「……悪いようにはしないんじゃなかったでしたっけ」
「死刑にはしないよ」
つまり、それ以外の保証はできない、と言う意味だ。
「……俺ぁよぉ」
レゼを抱えながら、言う。
「マキマさんにゃあ感謝してる」
「うん」
「クソみたいな生活してた俺を引っ張り上げてくれて……飯食わしてくれて、住む場所くれて、仕事くれて……しんどいこともいっぱいあったけどよ、俺ぁマキマさんに出会ってから、それまでじゃ信じらんねぇくらい、いい暮らしをしてたと思う」
「うん」
「だからさぁ——」
ピン、と。
音を立てて。
「マキマさんにゃあ、怪我させたくねーんだ」
頼むぜ、レゼ。
言いながらデンジは、レゼの首元のピンを抜いた。
——ボン。
路地裏に——爆炎が迸る。
「——デンジくん、迎えにきてくれてありがとう」
「いいってことよ」
異形の頭部。悪魔と化した二人は笑う。
衝撃に髪をはためかせながら、マキマは能面のような顔でデンジを見つめていた。
「行こう、レゼっ!」
爆炎に焼かれながらもスターターを引き直したデンジは、再生した手でボム——爆弾の悪魔と化したレゼの手を引く。
「……残念だよ、デンジくん」
す、と。マキマが指を構える。瞬間、レゼが血を吐いた。
「レゼ——」
「っ、大丈夫、それより、掴まって!」
咄嗟に足を止めたデンジの手を引っ張り、抱き寄せる。デンジがその腕で自分に抱きついたのを確認してから、レゼは己の足を爆弾に変質させた。
「飛ぶよ!」
「——天使くん」
ボン。炸裂した爆弾がレゼたちの体を一気に加速させ、宙へと逃す。追撃はなかった。なぜだろう? マキマは首を傾げる。指示は出した。天使の悪魔の攻撃は、ない。レゼたちの姿はどんどんと小さくなり、やがて遠く街中へと消えていく。マキマはその背を追うのをやめ、頭上を見上げた。
「……なるほど」
天使の悪魔は昏倒していた。その真横に、一人の男が立っている。
前分けの長い髪。酷い目の隈。高い背。少し猫背気味の、痩せた体。革靴。スラックスにシャツ。黒いネクタイ。公安のそれとよく似た衣装は、けれどマキマの味方であることを意味はしない。
「厄介なのが出てきたね」
マキマは男へ向けて人差し指を向けた。
その先端が、ひしゃげる。
2
「マキマは小動物を操るんだ」
街中。人混みに紛れながら、レゼは小声で言った。
「ネズミや雀……犬も猫も。彼女の耳はそこらじゅうにある」
「んじゃー一生追いかけっこか?」
「まさか。彼女だって全能じゃない。弱点はある」
「つまり?」
「彼女は日本人だ、ってこと」
海外にまで、マキマの支配は届かない。
「逃げよう、デンジくん。どこか遠くの国に」
「いいけどよ、俺ぁ外国語わかんねーぜ」
「大丈夫、また私が教えたげる」
国外への脱出。それを第一方針として、二人は動き始める。
マキマからの逃走後、すでに一晩が立っていた。一夜、寝ずの行軍。
変装をして、旅行中のカップルに見えるように。デンジは特徴的な金髪を丸刈りにした。最初は嫌がっていた彼だけれど、レゼが一言、「かっこいいよ」と言えば瞬く間に受け入れた。精一杯格好を付けた表情と坊主頭がどうにも似合わなくて、レゼは笑いを堪えるのが大変だった。
公共交通機関は使えない。マキマは公安だけでなく、通常の警察官も動員して防衛線を張った。その状況で、電車やバスを悠長に使うわけにはいかない。タクシーすらも危険だ。記録が残りかねないものは避けなくてはならない。だから、二人の移動は徒歩だった。
幸い、二人とも体力はある。一日二日の歩き通しで泣き言が出るほどではない。
目指す最終目的地は空港だ。無論、パスポートなんて使えるはずもないが……そこはそれ、元々、偽装用のものは用意してある。……レゼが、ではなく、彼女の故国、ソヴィエトが、であるけれど。使えば、おそらく捕捉される。それでも、マキマから逃げるのとソヴィエトから逃げるのでは、後者の方がまだ目があった。
空港は当然、最も重要に警備されている。二人が国外脱出を目論むだろうことなんて、馬鹿でもわかる推察だ。
だから、目指すのは関西の空港だ。
関東近辺に防衛線が集中しているうちに、関西へと移動する。足に関しては、道中車の一台でも奪えばいい……ただし、近場ではダメだ。関連が疑われる。東京近郊を抜けてから、郊外で車を調達。ナンバーを細工した上で、関門を避けて下道経由で関西圏へと移動する。それがレゼの立てた作戦だった。
「……うまくいくかな」
「ま、なんとかなんだろ。ならなかったらそん時だ」
言って、デンジは笑う。幸いにして、二人とも戦う力は持っている。大抵の敵は蹴散らせる自信があった。
けれど——レゼは思う。
(もし……)
もしも、立ちはだかるのが——彼の仲間だったなら?
公安の同僚くらいは、殺せるかもしれない。
では、あのサメの悪魔はどうだろう。
刀使いの青年——アキなら?
血の魔人——パワーなら?
あるいは——マキマなら?
『マキマさんにゃあ、怪我させたくねーんだ』
デンジの心は。
まだ全てレゼのものでは、ない。
感想、評価、お気に入り登録、ここすきなどなど、ありがとうございます。
励みになります。