3
計画は概ね順調に行った。関東圏を数日かけて脱出し、車を盗み、陸路で関西を目指した。中部で妥協する、という選択肢もあったが、なるべく東京から離れておきたかった。
関西国際空港。数年前にできたばかりの、現時点では関西唯一の国際空港。大阪湾内の埋立地に造られた、史上初の人工島からなる海上空港。そのターミナルビルに、現在、レゼとデンジは入り込むことに成功していた。
「やっぱり、関西圏にまでは手が回ってないみたい」
心なしか、警備員の数が増えているようにも感じられたが、逆に言えばその程度。公安職員が警備にあたっているということもない。
「飛行機にさえ乗っちゃえば、あとはもう滅多なことはないと思う。強いて言えば、乗る時が最後の関門かな」
目論見がうまく行ったからか、レゼの口調は旅の疲れも感じさせないくらいに弾んでいる。
「それもパスポートはちゃんとあるんだろ? 楽勝じゃねーか」
デンジもまた、表情は明るい。彼の場合、元々滅多に表情が曇ることもないけれど。長くも短い緊張の旅路も、ようやく報われると思えばだ。
「にしても……まさか行く先がアメリカとはなあ」
アメリカ。義務教育を受けていないデンジでも、その名を知る現代の超大国。自由の国……とは聞いているが、果たしてどんな場所なのだろう。
「ソヴィエトからも日本からも干渉を断てる国っていうと、やっぱりアメリカが一番かな、って。少なくとも中国よりは、脛に傷のある移民にも優しいしね」
選ばなければ、仕事はいくらでもある。少なくとも今のアメリカはそういう国で、だから世界中から人が集まっている。……紛れるにはうってつけで、追っ手を撹乱できるだろう。
それに……最悪中の最悪、過去に追いつかれてどうにもならなくなったら、国家に身を売って、デビルハンターとして生活するという手も取れる……元の木阿弥だが、それでも……死ぬよりは、まだ。余所者で、前科持ちだ。上等な立場には就けないだろうが、しかしレゼやデンジのような悪魔の力を持つ人間の価値を見誤るほど、アメリカという国は愚かではない。少なくとも叛逆や逃亡を起こそうという気が起こらない程度には、上手に飼ってくれるだろう。他の国ならデンジの心臓を奪われて終わりだろうが、アメリカならまだ交渉の余地がある。自由と正義の国、という人工のアイデンティティは、他国が思うよりも強くアメリカの内部に根差しているのだ。
搭乗待合室のベンチで、飲み物を飲みながら待つ。レゼは缶コーヒー。デンジはコーラ。一口交換しよう、なんて言おうとして、そんな演技も、今はもういらないんだ、とレゼは思い直した。
代わりのように、コーヒーを持つ手と逆の手で、椅子から垂れたデンジの手を握る。「ぅおっ」なんて、押し殺し損ねた動揺の声が隣から上がる。瓶の内側で、コーラが泡立った。可愛いな、なんて、少し前までは、自分が思わせる役だったのに。
ドギマギしながら、デンジは赤くなった顔を誤魔化すように背けて言った。
「……アメリカ行ったらよ」
「うん?」
「レゼは、なんかしてみてーことって、ある?」
「……デンジくんは?」
「俺は、そうだなぁ」
楽しげに笑って、彼は言う。
「まず、ハンバーガーだな。本場のハンバーガーが食いてぇ! あと、ドーナツ! それからぁ、ピザだ!」
「食べ物ばっかじゃん」
レゼは笑った。心から。逃避行……いつ追いつかれるのかもわからない、暗い旅。そのはずが、彼といると……まるで真逆。光の方向に、向かうような。もしかして……普通の旅行なんじゃないかって、そんな錯覚をしてしまうくらいに。
「食べ物以外もあるぜ。アメリカっつったら、サーフィンだ!」
「それ、アメリカといえばなの?」
「しらねぇ! でも、サーフィンはやりたい」
「……さては、私の水着が狙い?」
「えっ、あ、そ、それもあるけどぉ……!」
わかりやすいくらいの照れ。彼には、表裏がない。そう言うところが……好きだ、なんていえば。自分もまた、照れてしまいそうだけれど。
「あとは、アレだ、アメリカっつったら、自由の女神だろ!」
「自由の女神がどこにあるか、知ってる?」
「えっ……お、あー、ニューヨーク!?」
「おー、正解!」
「やりぃ!」
「じゃあアメリカの首都は?」
「ん? 首都ってニューヨークじゃねーの?」
「違いまーす。さあ、どこでしょう?」
「えー!? うーん……あ! ロサンゼルス!」
「ぶぶー」
「ロサンゼルスでもねーのかよ……じゃあ、そうだ! ドナルド!」
「あはは、ドナルドって、どこよそれ!」
「ねーの? ドナルド州」
「ないよ、ないない。何? マクドナルドが天下取った世界の話? 合衆国大統領ドナルド・マクドナルド?」
「でも俺、今の大統領の名前はしらねぇけどドナルドの名前は知ってるぜ」
「うーん……確かに、真理だ」
くだらない話。馬鹿みたいで、でも、嫌いじゃない。
「あ、飛行機、もうそろそろ搭乗出来るって」
「お、マジか。乗りに行こうぜ」
電光掲示板を見て、レゼが言う。デンジは立ちあがろうとするけれど、それより前に「待って、私トイレ行ってくる」とレゼの方が立ち上がった。
「デンジくんは?」
「俺ぁいいや。ここで待ってるわ」
「オッケー……もし十分しても戻って来なかったら助けに来て」
こっそりと耳打ちをしてから、レゼは去っていく。助けに来てって、女子トイレにだろうか? いやいや、しのごの言っていられる状況ではないことはわかっているのだが。
レゼは慎重だな、とその背を見送り、残っていたコーラを飲み干す。そう言えば、コーラもアメリカの飲み物だ。本場のコーラは、日本のコーラと何か違うのだろうか? 瓶を捨てるために立ち上がりながら、デンジは思う。もしかしたら、日本のより甘かったり? 炭酸が強いと言うのはどうだろう。いやいやもしかしたら、瓶の形が違うとか……他愛もないことを考えながら、近場のゴミ箱に瓶を捨てて、席に戻れば——
「あれ」
レゼが戻ってきていた。
「早くね?」
「トイレめっちゃ混んでた……仕方ないから、もうこのまま行こっかなって」
「漏らすなよ?」
「変なこと言わないで」
行こ。レゼは言って、デンジの手を握る。
瞬間。
デンジの視界の端に、男が映った。
見覚えのある男だった。そう、過去……この逃避行が始まったその日、あのカフェ『二道』で出会った男。どうしてだろう? 今の今まで、その存在を忘れていた。もしあの男がいなければ、デンジは背後を振り向くこともなく、レゼの存在に気付くこともできなかっただろう。そう、それほど重要な出会いだったにも関わらず、なぜか、今の今までその存在はデンジの中から消し去られていた。
格好は、あの時と違う。フォーマルにネクタイを締めていた姿とは打って変わって、タギングのようなグラフィックプリントが施された黄色のシャツ。髪も少し短くなって、前髪を目元を覆うように下ろしている。その足元には、犬と猫がじゃれついていて——男が。
その首元に、手を伸ばす。まるで——ピンを引くように、指を動かした。
だから——デンジはレゼの首元を見た。
そこに嵌っているチョーカーは、いつもより少しだけ、ずれていた。
デンジはそれを直してやろうと思って、手を伸ばして——
「あっ」
チョーカーから伸びるピンに、指が引っかかって。
ピンが抜けた。
からん、と。抜けたピンが地面に落ちる。レゼは思わず足を止め、デンジは思わず身を竦ませた。
やばい。爆発する。デンジは身構えるけれど——
「……あれ?」
爆発は、起きない。
「……お前、誰?」
口を開けて、デンジは問う。
レゼは冷や汗を流した。
4
近場のトイレは混んでいて、レゼは一階層下のトイレにやってきた。蛇口を締めて、手を拭く。早く戻らなければ、デンジが混んだ女子トイレに突撃する変態になってしまう。思いながら、レゼは女子トイレを出て——足を止めた。
違和感がある——そう、静かすぎる。
周囲を見渡す。あれだけいたはずの客が、今はどこにもいない。元からそんなものはいなかった、とばかりに——綺麗さっぱり、消え去っている。そう、それは、まるで——
「——ここは、少しうるさ過ぎたからな」
一人。
誰もいない広場に、一人。
男が、背を向けて立っている。
背は高く、筋肉質。着込んだスーツがまるで似合わないくらいに。
「粛清させてもらった」
言いながら、振り向く。スキンヘッドに、いかつい顔立ち。瞳孔の開き切った、真っ黒い瞳。その奈落のような瞳を、レゼはよく覚えていた。
「久しぶりだな、レゼ」
「——チーストカ……」
「教官、と呼べと教えたはずだがな」
震える声で名を呼べば、男は冷たい声でそう返した。
「どうして……」
レゼは思わず、一歩後退る。男のことは、よく知っていた。ソヴィエト最強のデビルハンターにして、ソヴィエトが生み出した究極の悪魔。……人の形をした、ソヴィエトそのもの。
かつて。
レゼは彼に『教育』を受けていた。
ぞっと、体が震える。
「なぜ後退る? 近くよれ、レゼ。俺たちは同志だ」
彼は手を広げる。レゼは動かなかった。
「……レゼ。なあ、レゼ。お前、何かを勘違いしてはいないか。俺はお前を迎えに来たんだよ、レゼ」
「……どういう、ことですか」
思わず、口調が畏まる。畏まってしまう。膝が震えそうになるのを、必死に耐えなければいけなかった。
「お前は任務を達成した。そうだろう? チェンソーの心臓を持った少年を無事誑かし、手中に納めた。素晴らしい成果だ。実に結構。あとはソヴィエトへ戻るだけ。そのはずが——」
男は言って、くすりと笑った。
「間違えて、アメリカ行きのチケットを取ってしまった。ああ、それを責めはしないよレゼ。間違いは誰にでもあるものだからな。そう、お前の間違いは昔から多かった……覚えているか? お前がまだ四歳の頃だ。訓練の最中、殺せと言った鼠を密かに逃したことがあったな、レゼ」
懐かしさを噛み締めるように、穏やかな視線で男はレゼを見つめる。
「俺はあの時、お前に失望しかけた。失望しかけて、お前を使えない出来損ないだ、なんて判断してしまった。ああ、これは俺の『間違い』だった。間違いなく、お前は使える人間だった。だから、あの時お前に対して与えた『罰』も、同じように間違いだった。そう、俺ですら間違うんだ。間違いは誰にでもある。そうだな、レゼ。だから、間違いは許されなければいけない。——それが正される限りにおいて」
男は優しく微笑みかける。その顔が、レゼはこの世の何より嫌いだった。
「お前が俺の『間違い』を、かつて快く許してくれたように、俺もお前の『間違い』を許そう。夜の森は寒かっただろう? 鼠を探して裸で這い回るのは辛かったはずだ。レゼ、『間違い』は正さなくてはいけない。そうだな? お前はかつて、鼠の首を絞めながらそれを学んだはずだ」
男は懐から二枚の紙切れを取り出した。
「ここに、ソヴィエト行きのチケットがある。ああ、礼はいらないとも。『間違い』をフォローするのは同志の役目だからな。さあ、レゼ。このチケットを受け取るんだ。そして、チェンソーの心臓を持つ少年を連れ、祖国に凱旋と行こうじゃないか。心配しなくてもいい。今度は『間違い』が起きないように、俺も同じ飛行機に乗る」
チケットが、レゼへと向けて差し出される。
「さあ、レゼ——正しい選択をしろ」
レゼは。
自ら、その震える手を伸ばし——
首元のピンを引き抜いた。
ボン。
「——悪いけど」
爆発の向こう側から現れるのは、水性哺乳類を彷彿とさせる、つるりと楕円を描く鋼の頭部。その下部の、歯が剥き出しになった口で、レゼは叫ぶ。
「私はもう、あの頃の『レゼ』じゃない」
「……そうか。残念だ。お前はまた『間違えた』んだな」
男は言って——虚空に両手を掲げる。
「間違いは、正さなくてはならない」
その手には、いつのまにか『鉄鎚』と『鎌』が握られていた。
チーストカ。
彼が契約した悪魔の名を、日本語で表すならば。
それは『粛清の悪魔』となる。
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