0
未来、最高。
1
「——は?」
気が付いた時、早川アキは車の中にいた。国産車ではない。左ハンドル。けれど、車に詳しくもないアキにわかるのはそこまでだった。
運転席に座らされている。ハンドルを握ってはいない。車は静止していて、アキはただ座っているだけだった。窓から見える景色は……遊園地。どこのそれともわからないけれど、しかし車で侵入が許可されるような場所ではないだろうことは、わかる。
「たとえば」
弾かれたように、アキは隣に視線を移した。
そこには一人の男が座っていた。窓辺に肘をかけるようにして、手で顎を支えながら。座っている姿勢ゆえに分かりづらいが、アキよりも背が高いのではないだろうか。車のシートが窮屈そうな長い足を思えば、百九十センチ近くありそうだ。服装は、至ってラフ。タギングのようなグラフィックプリントがなされた、淡い黄色の半袖シャツに、ストライプの入った赤いズボン。男はアキに視線を向けないまま、眼前、窓の向こうで回り続けるメリーゴーラウンドを見つめていた。
「人生をやり直せたら、みたいな話は誰もが一度は考えるもんで、けれどじゃあ本当に人生がやり直せたとして、どの部分をどんなふうに、どうやり直せば理想的な人生を送れるか? って考えていくと、これが案外、難しい部分があるようにも思うんですよね。クソに塗れたしけた人生でも、一瞬くらいの幸福はあったりして、じゃあそれを失わないままに他だけを綺麗に舗装し直せるかっていうとそうじゃない。あの日あの時もうちょっとマシな言葉が言えてりゃな、なんてくらいの喉に刺さった小骨だって、実際抜いてみりゃその痛みのおかげで後に言えた言葉も差し伸べられた手もあったりするもんで、いっときの苦さも失ってみれば必要なことだったんだ、と惜しくなったりする。たとえば遺伝子疾患なんて言葉があって、近年じゃそれを治療しようとえらい人らが必死に頑張ってくれたりしているわけだけれど、しかし『疾患』と呼ばれるそれがどこまで本当にそうなのかってのは疑問が起こる。遺伝子が人間の全てだ、なんて前時代のイカれた優生論を語る気は毛頭ないけれど、しかし遺伝子が人間の形成に大きく関わっていることは確かに一つで、じゃあそれをいじくり回すのはある意味じゃ殺人でもあるんじゃないかって。どこまでがその人をその人として生きやすくするための治療で、どこからがその人をその人じゃなくする破壊なのか……どこまでが人生を形成する痛みで、どこからが与えられた不要な理不尽なのか。何を取り除くべきで、何を取り除かないべきなのか。何が幸福に繋がって、何が不幸に繋がるのか。それを選ぶのは誰なのか?」
長々とした言葉。低く、重たい声で語られるそれを、アキは呆気に取られながらも聴き続け——そして、気付く。この男は、真横にいるこの男は、人間ではない。
悪魔だ。
「さて、その疑問を前提とした上で——きみの人生には、ある一つの意図が絡み付いている」
アキは車を出ようと、ドアに手をかける。だが、ロックが外れない。男は語り続ける。
「それを受け入れるのも、拒絶するのも選択肢だと思う。ただ、そう。少なくともどちらを選ぶにせよ、それを知らないままじゃどうしようもない。これに関しちゃ、知らない、というのは一つ、フェアじゃない……そう思う。ちょうどいいことに、きみは未来の悪魔と契約をしている。だから、こういうことも可能になる」
男は言って、アキの方に視線を向ける。何をするつもりか。それはわからない。けれど相手が悪魔であることを考えるのなら、碌なことではないはずだ。アキは思って、必死に、車のドアを開けようとするけれど——
「これは、一つの可能性だ。あの時もし彼が、振り向いていなければ……その結果辿ることになる、きみの未来だ。それを見てから……どこに向かうか、決めるといい」
手が。男の手が、アキの顔へと伸びて——ぐるん。
視界が、回る。
2
デンジは困っていた。
眼前のレゼは、多分レゼじゃない。なら、本物のレゼはどこへ行ったのか。そして、この偽物のレゼをどうすればいいのか。
「……何言ってるの? 私はレゼだよ」
「あー? じゃあなんで爆発しねーんだよ」
言いながら、デンジは繋いだ手を振り払う。レゼじゃない、と決まった以上は、おそらく……この女は敵だ。どんな手段を使ってだか知らないが、見事にレゼに変装している。見た目だけなら、絶対にわからなかった。
「本物のレゼはどこにやったんだ? 返答次第じゃ——」
と、言いつつも、しかし返答次第じゃ……どうする? 殺す……というのはなしだ。女を殺すのは気分が悪いし、それに、場所も場所。周囲には人の目が多すぎる。こんな場所で人を殺せば、瞬く間に警察がやってくる。順調に進んできた逃避行が一気にパアだ。無論——胸のスターターを引く、という選択肢もありえない。
「すげぇことするからな」
とりあえずデンジは言った。適切な脅し文句が見つからなくての苦し紛れだったが、なぜか相手は顔を青ざめさせた。しめた。なんだか知らないが、うまく行きそうだ。
「すげぇことされたくなかったら、答えてもらうぜ。本物のレゼはどこやったんだ?」
「……し、しらない」
「しらねぇこたぁねぇだろ。お前がなんかしたんだろ?」
「いや、その……」
眼前のレゼ……偽レゼは、目を泳がせ始める。その所作はもう、完全にレゼではない。
「本当に、わからなくて、普通に、トイレが長引いてるだけじゃ……」
「あ〜?」
そんなわけねぇだろ、と言いたかったけれど、その可能性もある。……いや、しかしレゼは十分経っても戻ってこなければ助けに来てくれと言っていたのだ。その可能性はまずないだろう。……そう言えば、あれから何分経った?
デンジは時計を探して振り向いて——
「あ」
「あ?」
すぐに視線を戻す。
偽物のレゼと目が合った。
偽レゼは手にナイフを持っていた。まるで、そう。今まさにデンジの首元にそれを突き立てようとするかのように。
「テメェ!」
デンジは咄嗟に、偽レゼの腹へと膝蹴りをお見舞いする。「げゔぅ」情けない呻き声を上げながら、それでも偽レゼは必死にナイフを突き出した。狙いがずれて肩口へだったが、それは確かに突き刺さる。
「ギャァアアアアッ!」
痛みに絶叫するデンジ。なんだなんだと視線が集まり、デンジは口元を抑えた。注目されるのはまずい——が、時すでに遅し。
「おおい! そこ、何をやっている!」
警備員が駆け付けてしまった。普段ならばありがたい話だが、今のデンジは追われる立場だ。肩にナイフが刺さっている状況でも、素直に被害者として助けを求めることはできない。どうするべきか……デンジは困りながら、その警備員の方を見て——
「……あ?」
駆け付けた警備員は、なんだか様子がおかしかった。そう、先頭で声を張り上げている男は、普通だ。普通なのだが——残りが。彼が引き連れている残りの人間が、なんだか。嫌に不気味に、ギョロついた瞳をしていて——
服が——酷く濡れている。
「痴話喧嘩にしては行き過ぎだぞ! こら、お前たち——」
そのうちの一人に、先頭の男が肩を叩かれる。瞬間——その男はびくりとのけぞって——
「こ、こ、ここここ——」
その喉の奥から、ごぼごぼと、ごぼりごぼりと、水を吐き散らし——
姿勢を戻した時には。
「お、おおおっ、おっ……」
ギョロリと、頭蓋骨からはみ出した巨大な目。それはいつかレゼと共に行った夏祭りで見かけた、デメキンのようで——
「ゔぉ、ゔぉえっ、ゔぉっ!」
顎の根元に、鰓が開く。瞬く間に肌の色が濁り、表面にぬらりと不潔に輝く鱗が浮かんで——体が。
はち切れんばかりに膨れ上がり、警備員の制服が、裂ける。
内側から現れたのは、人と魚の混合物としか言いようがない、不気味な魚人だった。
「ゔぉら、ゔぉ、ゔぉまえだぢ、だいぼだ——」
魚人は溺れたような声で吠える。
いつのまにか、背後の警備員たちも一様に魚人の姿に変わり果てていて。
デンジはその場を逃げ出した。
「待って! ボクも連れてって!」
「はァ!? あいつらお前の仲間じゃねーのかよ!」
「なわけないじゃんあんなキモいの!」
なぜか偽物のレゼまでもがデンジと一緒の方向に逃げ出した。逃げる二人。追う人形たち。俄かに、空港は騒然とする。
「チクショ〜〜! 本物のレゼはどこいんだよ〜!」
この状況で助けを求めても泥沼だ。それはわかっている。わかっているが……しかしそれでも、今はレゼが恋しかった。デンジは頭が良くない。この状況をスマートに解決する方法は、思いつかなかった。
3
「——ボン」
振りかぶった拳を爆弾に変え、点火する。眼前のチーストカへと叩きつけるために。
爆弾の悪魔の最大の強みは何か? 火力はもちろんのことながら、レゼは「攻撃と防御がイコールであること」と考える。
爆弾の悪魔の力を持つレゼは、自らの体を爆弾に変えることができる。
そして爆弾は——爆発する。
たとえばナイフを相手にすることを考える。普通の人間ならば、迫り来るナイフに対する対応はせいぜい三択というところ。避けるか弾くか受け止めるか。いずれにせよ、突き出された刃物に対しては必ず「対応」を迫られる。相手の一手に対して、必ず一手は「受け」に回らざるを得ない。
しかし、爆弾の悪魔の力を持つレゼは違う。
迫り来るナイフに対しては——体を爆発させるだけでいい。
それだけで、迫り来るナイフに対する対応と、そして相手への攻撃を
攻防一体——一手におけるメリットの最大化。一度防御に回れば無敵となり、また攻撃に回れば相手の反撃を許さない。その一方的な押し付けこそが、爆弾の悪魔の最大の強み。チェンソーの悪魔の力を取り込んだデンジにすら真似することのできない、爆弾の悪魔だけの強みだった。
いわば、状況に対するリセット能力とでも呼ぶべきだろうか? 体を爆弾に変換できる——爆発によって、いつでも、どんな状況でも、必ず対応する側から
だからこそ——
「その爆発を、『粛清』する」
爆発が萎み——消失する。
単なる拳の一撃は鉄鎚によって受け止められ、そして返しの鎌の一撃がレゼの肩口を裂く。
飛び散った血肉を爆弾に変換しようとするが——
「『粛清』」
またも、不発。
溢れかえるはずの爆熱と衝撃は——この世から消滅する。
鎌にへばりついた血を振り払いながら、チーストカは熱のない目で言う。
「わかっただろう、レゼ」
その瞳の内側には——五芒星が浮かんでいて。
「お前の選択は、『間違い』だ」
レゼは歯噛みする。
爆弾の悪魔の、無敵性。それを封じられてしまった今——レゼは、苦戦を強いられていた。
粛清の悪魔——ソヴィエト連邦がこの世に生み出した、究極の恐怖の一つ。かつての大粛清——人が人に成し遂げた残酷としては、この世界における間違いのない頂点。それから生まれたこの悪魔は、比類なき力を持って産声を上げた。
生まれた子は、親を求める。生まれた経緯がどれほど悲惨で、そして望まれぬものだったとしても。幸いなことに、生まれた子は親に愛された。あるいは、最悪なことに、か。ソヴィエトという国家は、自らが生み出した恐怖を最大限に利用することに成功していた。
粛清の悪魔の能力は、そのものずばり。
この世界で、契約者にとって不都合なものを『粛清』し、消滅させる能力。
規格外の理不尽にして、取り返しのつかない、つきようがない最悪の能力。
あまりにも強すぎるその力は、ゆえにこそ使い所を限られ、また惜しまれ、近年では滅多に前線には出されなくなったはずだったのだけれど——
(今、私の前に出向いている、ということは)
それだけ——デンジの心臓が欲しい、ということか。
なぜデンジの心臓がこれほどまでに求められるのか。その理由を、レゼは知らない。単に悪魔の力を持つ人間が欲しい、というわけではないだろう。それならばわざわざ目的を心臓だけに限定する必要はない。チェンソーの悪魔……悪魔としてははっきり言って、そう強くはなさそうに思える。悪魔はそれが司る概念に対して向けられる人々の恐怖に応じて力を増す。だからこそ爆弾の悪魔は圧倒的な火力を誇るし、粛清の悪魔は理不尽とも言える能力を持つ。対してチェンソー……チェンソーの悪魔が、それだけ強い恐怖を人から向けられるか? あるいは……レゼの知らない秘密があるのか。
粛清の悪魔……それを国外に差し向けるほどに、重要な何かが。
(だとしたら……)
想定を改めなくてはならない。アメリカまで逃げた……程度では、平穏な生活は望めないかもしれない。もしかしたら、アメリカという国家がその国是を踏み躙ってでも求めるほどに——デンジの心臓の価値は高いのかもしれない。祖国がわざわざ『レゼ』を差し向けるほどなのだから、価値は高いのだろうと思っていたけれど——それはあくまでも、強力な兵器として、くらいのものかと思っていた。
しかし——それは多分、違うのだ。そんな次元ではない。そう、それこそ——
マキマという魔女が手元に置いて可愛がるほどに。
デンジには——『何か』がある。
(守れる……かな)
レゼは拳を握る。
粛清の悪魔。そんな存在がいてもなお、ロシアはまだ、世界に覇を唱えられてはいない。それは他の国にも、同レベルの『切り札』があるからで——
あるいはこれから。それらが大挙してデンジを狩りに来るということもあり得る。
そうなった時。
己はどうする?
(……本場のハンバーガーは、無理かもね)
でも、せめて、サーフィンくらいは。
それくらいの夢は、見たい。
(待ってて、デンジくん)
きっとまた、二人で逃げられますように。
思いながら、レゼは拳を振るった。
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