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アメリカの『ピエロ』。
日本の『魔女』。
ソヴィエトの『教官』。
中国の『狩人』。
イギリスの『船長』。
ドイツの『サンタクロース』。
フランスの『シェフ』。
現代に於いて大国と呼ばれるような国には、それぞれの『切り札』と呼べるデビルハンターがいる。
単身で戦略級の力を発揮するそれらの存在は、国家におけるある種の権威であると同時に、表向きにはその存在を秘されるものだった。なぜなら——解き明かされた神秘は恐怖を生みづらくなる。今の時代、力とは必ず秘されるものだった。
『船長』についても、出回っている情報は少ない。
本名不詳。性別不詳。年齢不詳。……少なくとも二十年前には表だった活動を開始しており、そのことから現在では最低でも四十代〜六十代の間だと考えられているが、それ以上の情報はない。
契約したのは海の悪魔とも溺死の悪魔とも魚の悪魔とも言われる。いずれにせよわかっていることは、『船長』の契約した悪魔は、人を魚人に変える力を持っていることであり——
「——走って走ってもっと早く走って!」
それは以前ニュース番組で見た、ボラの大量発生を思い出させた。
背後に迫り来る夥しい数の魚人たち。押し合い圧し合い犇き合い、お互いを踏みつけ合いながらも猛然とデンジたちを追いかけ続けている。
それに対し——デンジはなぜか、偽物のレゼを負ぶいながら走っていた。胸の感触が背に当たる。これが本物のレゼだったらよかったのに……デンジは奥歯を食いしばった。
「つーか自分で走れよオマエ!」
「無理無理! だってボク、足挫いちゃったんだもん!」
なんなんだよこいつはマジで。デンジは思う。捨てていっちゃダメか?
きっかけは本当に些細なこと。転びかけた偽レゼに思わず、手を伸ばしてしまった。それが運の尽きだった。一度助けてしまった手前、今更見捨てるのは夢見が悪い。デンジは彼女を背負ったまま、魚人たちからの逃走を迫られていた。
「オマエ、なんかできねーの!」
「で……きるけど、あと一時間はなんもできない……」
「どーいうこったよ!」
「ボクは契約してる悪魔の力で何にでも変身できるけど、変身の対象は一時間に一回しか選べないんだよ!」
それでレゼの姿に変身したのか。……せめて、爆弾の能力ごとコピーしてくれればよかったのに。
「そんなん言ってもしょーがないじゃん! あの時はそれが一番だと思ったんだもん! とにかく、一時間逃げ切ってくれたら『船長』はボクがなんとかするから、走って!」
「一時間も走ってられっかよ!」
デンジは言って、背後の偽レゼを投げ捨てた。
ただしそれは、見捨てたという意味ではない。
「三枚に下ろしてやるぜ」
ヴヴン。胸のスターターを引く。瞬間、デンジの額から電鋸の刃が突き出し——変身。チェーンソーの頭を持つ異形の人型——チェンソーの悪魔へと姿を変える。
「ギャーッハッハッハー!」
叫びながら、両腕からチェーンソーの刃を伸ばす。やってくる魚人たちを、片っ端から切り刻むように。飛び散る血潮。臓物。眼球。溢れる脳髄。迸る生臭い鮮魚の香り。
「今日からここはデンジ市場だぜ! 一尾九十八円、大安売りだ!」
びちびちと跳ね回る魚人たちを、チェーンソーの刃が寸断する。切り刻まれた肉片から噴き出る血潮を啜りながら、デンジは刃を振い続ける。
「す、すごい……」
漏れ出た感嘆の声を背に受けつつ、デンジは魚人たちを殺戮する。数は多く、力も強いようだが、硬くはない。濁流のように迫り来るそれらを、嵐となって切り刻むデンジ。今はキリが無く思えるが、しかし原材料が人間であることを考えれば、この空港内の人間以上には増えないはずだ。あとは、それだけを刻み続ければ——と、思ったところで。
考えなしにひたすらデンジへ目掛けて進んできていた魚人たちが、立ち止まる。
そして、互いに顔を見合わせ——
「……あ?」
合体した。
ずん、と、重たく足音が立つ。ひしめき合っていた魚人たちは、今は随分と数が減り——その代わり、巨大になっていた。背の高い廊下の天井に、目の突き出た頭を擦るほどに。四肢は大樹のように太く、強靭なそれに変わり、また表皮を覆う鱗は、以前よりもずっと鋭く、攻撃的な形状になっている。
「……図体はデカくなったみてーだが、数が減ったんならむしろありがてーぜ!」
デンジは叫び、腕のチェーンソーを突き出して切り掛かるけれど——
「——っ、硬ぇ!」
鱗に阻まれ、チェーンソーの刃が止まる。摩擦によるものか火花が散り、耳障りな金属音が鳴り響く。それでも怯まず、回転する刃を押し当て続ければ、ぞぶりと刃が貫通し、内部の肉を抉ったが——
「あっ!」
その隙に、横から。デンジの体が巨大な手に掴まれる。当然、デンジは手の中でチェーンソーの刃を回転させるけれど、それが手の鱗を断ち切るよりも早く、デンジの体は床に叩きつけられた。
「ガッ——!」
血を吐き散らす。床はひび割れ、そしてそれだけの威力で叩きつけられたデンジの体は相応のダメージを負っていた。骨の圧壊、内臓の破裂。すぐさまスターターを引いて、傷を回復させるけれど——
ずどん。
回復する側から、強烈な踏み付けがデンジの体を押しつぶす。
「え、うそ、やば——」
偽レゼは口元を抑える。デンジを踏み潰した魚人が、その肥大化した瞳で彼女を見つめた。次なる獲物として目をつけられたのは明らかだった。
今の彼女に、戦闘能力はない。おまけに、足を挫いたせいで逃走能力も。え、これ、死ぬやつ? 嘘でしょ、こんなところで——振りかぶられる拳を前に、巡りかける走馬灯。ああ、せめて死ぬなら理想の姿で死にたかった——目を瞑りかけた、その時。
魚人の首が——ずれる。
いや、首だけではない。手が、腕が、肩が、胸が、腹が、腰が、足が、ずれて、ずれて、ずれてずれてずれてずれて——
切り刻まれる。
バラバラと。
まるで積んであったブロックが崩れるように、通路を満たしていた全ての魚人が、寸断された。
一体、何が。疑問が脳裏に浮かぶよりも早く——
「——大丈夫? お嬢さん」
気が付けば。
彼女の隣に——一人の女が立っていた。
彼女は眼帯をして、髪を結んでいた。
黒いタンクトップ。革のベルトにスラックス。戦闘を期してだろう。頑丈そうな軍用ブーツ。スラリと長い手足に、起伏に富んだ女性らしい体付き。けれどそれはあくまでも表面上の話で——うっすらと乗った脂肪の下には、引き締まった強靭な筋肉が潜んでいるのが見て取れる。
美人。そしてそれ以上に、危険な気配。彼女は両手に一本ずつ、片刃の剣を持っていた。
「あ、あ……」
「おっと、失礼」
彼女は言って、剣の片方を腰の鞘にしまった。そして、へたり込んだままの偽レゼへと手を伸ばす。
「立てる?」
「あ、ひ……へ、はぃ……」
女は、苦手だ。どうしても、その手を握る気にならなくて——ふと、視線を逸らせば。
「クァンシ様、いましたよ!」
女が、一人。魚人たちの死体が積み上がる中から、意識を失ったデンジを引っ張り出していた。
「でかした、ピンツイ」
「えへへ」
女の頭からは、まるで結ばれた髪のようにぴょんと、もう一つの『口』がついた黒い触手が伸びていた。人間じゃない——魔人だ。
「それから、クァンシ様」
「ん?」
「そいつ、本物の女じゃないです。悪魔の力で変身してるみたいですね。中身は男です。変態ですね」
「…………知りたくなかったな」
女——クァンシの視線が、凍てつく。
「あっ、あ……」
バレた、バレてしまった。変態、変態って……そんな、そんな酷いこと言わなくたっていいじゃないか。確かに、女に変身するのは、自分でもちょっと嫌だったけど、でも、仕事のためで、仕方ないことだし——
「……じゃあ、行こうか」
興味をなくしたように、クァンシは視線を外して、ピンツイの方を向く。ピンツイはデンジの足を持って引きずっている。
「えっ、あっ、待っ……そ、それっ!」
「悪いけど、もらっていく」
「あ、あっ……!」
手を伸ばす——けれど、どうしようもない。今の彼には戦闘能力がないのだ。ああ、なんでよりにもよってこの姿を変身対象に選んでしまったのか。いや、あの時はそれが最善だったのだ。彼らは何もしなくてもアメリカに行く予定を立てていて、つまり絶好のチャンスだった。それを自分の手柄にするためには、だからあの女の子に化けて連れ出すのが最適だと思ってしまったのだ。ターゲットは馬鹿そうだったし、大丈夫だと思った。それなのに、ああ、よりにもよってピンが抜けてすぐバレるわ、『船長』が襲ってくるわ、挙句の果てには『狩人』の乱入。最悪に最悪が重なり、今まさに目の前で鳶に油揚攫われそうになっている。ああ、自分はなんて不運なんだろう——思う中。
けれど天はまだ、彼を見捨ててはいなかったようだ。
すい、と。
床下から、何か、三角形の——そう、
それは滑るように——まるで地中の中を泳ぐ魚がいるかのように、すいすいと床の上を進んで——
「——ギャワッ!!」
飛び出した。
「——っ、なんだ」
ピンツイがクァンシへと差し出したデンジを抱きしめるようにして奪い取り、それはまたも地面を泳ぎ出す。人と魚——サメが融合したようなその姿は、同じ魚と人間のキメラでも、『船長』が操る魚人とはまるで異なる姿で——
「チェンソー様、起きて——!」
ヴヴン。彼——サメの魔人の手によって、スターターが、引かれる。
「——でかしたぜ、ビーム」
ビーム。それこそが、サメの魔人につけられた名。そう。偽レゼは思い出す。事前資料に、それは刻まれていた。サメの魔人——ビーム。彼は先の爆弾事変において、チェンソーの悪魔の力を持つ少年と、抜群のコンビネーションを見せ、台風の悪魔を倒してみせたと——!
うなりをあげるチェーンソー。復活したデンジは、電鋸の刃を回転させながら叫ぶ。
「ったくよ〜〜、俺ぁ今日初めてヒコーキ乗るはずだったんだぜ。それがよぉ〜、いつのまにか出発時間が過ぎちまってるじゃねーか! どうしてくれんだよ〜!」
「……そのまま寝てればよかったのに」
言って、クァンシは剣を構える。
が。
「あ」
デンジがクァンシの背後を指差す。
「その手には乗らない」
クァンシは振り返らない。当たり前だ。だが、今だけは、その判断は間違いだった。
「——まずいです、クァンシ様!」
「——っ、しまった!」
ビチビチと、廊下の奥から——大量の魚人がやってくる。それはクァンシもピンツイも、デンジもビームも偽レゼも分け隔てなく轢き潰すようにして——
「あばよ!」
完全に悪魔の姿となったサメの魔人、ビームに跨って、デンジは逆方向へと去る。偽レゼは必死になってその尾鰭にしがみついた。
「ちっ」
舌を打って、クァンシが動き出す。本当はデンジを追いたいが——それをすると、ピンツイを置いていくことになる。切り刻まれる魚人たちの悲鳴を尻目に、デンジたちは悠々と廊下を逃げていく。図らずも、クァンシを殿として残しながら。
「上手くいったぜ、よくやった、ビーム」
「チェンソー様、最高!」
「この調子で、本物のレゼんとこまで連れてってくれ! お前なら匂いでわかるだろ?」
言われて——けれどビームは、困ったように沈黙した。
「……ビーム?」
「チェンソー様、オレ……オレ、マキマ様と、約束してる……」
ビームは弱々しく言った。
「マキマ様、今、弱ってる。他のみんな、今、動けない。オレだけ、自由に動ける。マキマ様の指示で、オレ、ここに来た……」
チェンソー様、連れ戻すために。
ビームは言う。
「ビーム……」
「チェンソー様、お願い、オレと一緒に、公安に、戻って……!」
廊下の果てで、ビームはデンジを降ろす。尾鰭にしがみついていた偽レゼが、床に叩きつけられてゴロゴロと転がった。ビームは魔人の姿に戻って、デンジと視線を合わせ、訴えかける。
「チェンソー様……お願い……!」
けれど——
「……悪ぃ」
デンジは、伸ばされた手を掴まなかった。
「俺ぁ、レゼと一緒に行くって決めちまったんだ。公安には、戻れねぇ」
言えば。
ビームは何かを堪えるように奥歯を噛み締め——
「チェンソー様……これ」
「……これは?」
「マキマ様が、チェンソー様を連れ戻せなかった時には、渡せって……」
差し出されたのは、携帯電話だった。
受け取れば、その瞬間。
ピリピリと音色を立てて、着信。
デンジは。
それに出た。
『——もしもし、デンジくん?』
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