5
『久しぶりだね、デンジくん』
「……マキマさん」
声を聞けば、胸の奥がどきりと跳ねる。けれど、そう。それは今までのような、甘いばかりの苦しみじゃなくて、どこか。
後ろめたく、暗い。
『元気にしてたかな』
「……マキマさんは、どうっすか」
『私は、元気だよ。……色々と、トラブルもあったけれどね』
電話口の声は、以前と何も変わらない。静かで、淑やかで、愛らしい声。けれどどこか、今は。
少し、冷たく感じるような、気がして。
「……勝手に居なくなってすいません」
思わず、言葉が口をついた。デンジは、マキマに恩がある。一生かかっても返しきれないような、重たい恩が。だから、先に不義理を成したのはデンジだ。たとえ——愛しい人のためであっても。
デンジがマキマを裏切ったことには、変わりない。
『謝ってくれるんだね』
「悪いことをしたとは、思ってます……でも」
『でも?』
「公安にはもう、戻れません」
デンジはキッパリと言った。
道はもう、あの時に選んだのだ。
あの日、あの路地裏で。
デンジはマキマではなく、レゼを選んだ。
『困ったな』
言葉とは裏腹に、微塵も揺るがぬ平坦な声で、マキマは言った。
『もし、デンジくんが公安に戻らず逃げ続けるなら、私たちはデンジくんを犯罪者として扱わなくちゃいけない』
「覚悟の上です」
『私たちはしつこいよ。逃げられるとは思わない方がいい。君は捕まって、そして二度と幸せな暮らしなんて出来なくなる』
「そうならないように、全力で逃げます」
『……仮に逃げられたとしても、デンジくん。デンジくんがその道を歩むなら』
デンジくんと私は、敵同士になっちゃうんだよ?
マキマの言葉に、デンジは——
「わかってます」
と。
そう答えた。
「それでも俺は……レゼと逃げます」
『……そっか。デンジくんは、そんなにレゼちゃんのことが好きになったんだね』
「……はい」
『私よりも』
「…………はい」
『パワーちゃんよりも?』
「え?」
言われて——思考が空白になる。
『アキくんよりも、レゼちゃんの方が好き?』
問われて。
デンジはそれを、答えられない。
だって、そうだ。レゼに対する好きと、アキに対する好きは全然違う。パワーに対する好きだって、もちろん。だから、その問いはデンジにとって完全に予想外のもので——
『アキくんは悲しむだろうね。いや、それとも怒るかな……パワーちゃんは、泣いちゃうかも』
淡々と、マキマは言葉を続ける。
『今だって、二人はデンジくんのことを心配しているよ。今は、私が情報を止めて、デンジくんは連れ去られたってことにしている。でも、デンジくんが自分から逃げたってことになったら……どうなるかな?』
いつも通り、静かで淑やかな声が、鼓膜を通して、デンジの脳を揺らす。
『そう、そうだね。アキくんは、デンジくんの監督者だった。一緒に住んで、面倒を見ていた。それなのに……逃亡の予兆に気付かなかった。これは、明確にアキくんの責任だよね』
「……待ってくださいよ」
『いや、それだけじゃ済まないかもしれない。一緒に住んでいて、逃亡の予兆に気付かなかった……これは不自然だ。もしかしたら、アキくんはデンジくんの逃亡を幇助したのかもしれない。パワーちゃんも……知っていたのに嘘をついたのかも』
「待っ……二人は関係ないだろ!」
『私はそう信じているよ。でも、他の人がどう考えるかは、わからないよね』
「……っ、マキマさんの部下でしょう、二人とも!」
『そうだね。でも私にだって、庇える限界はある』
実を言うとね。
『今日、アキくんをここに呼んであるんだ』
「は?」
『デンジくんの返答次第では……どうなるかな』
こんこん、と。電話越しに小さく、ノックの音が聞こえる。
『ああ、来たみたい』
「——っ、マキマさ」
『デンジくんの口から、言ってみる?』
自分の代わりに、身代わりになってくれ、って。
くすり、と小さな笑い声。そして、吐息が離れていくような気配が電話越しに伝わって——
『やあ、こんにちは。アキくん』
『どうしたんですか、マキマさん。やっとサンタクロースの件が片付いたばっかりなのに、また急に呼び出して——』
『今。この電話、デンジくんに繋がってるんだ』
『……は?』
『でも、説得が上手くいかなくてね。……
『え、ちょ、共犯ってどう言う——』
『アキくん。一緒に住んでいたのに、デンジくんの逃亡に気が付かなかったっていうのは、不自然だよね』
『待ってください、マキマさん、俺は本当に何も知らな——』
『そう扱われるかどうかは、この電話にかかってる』
マキマは笑う。
『アキくん。そしてパワーちゃん……デンジくんが戻ってこなければ、君たちには責任をとってもらうことになる』
『っ!』
『電話に出てあげて、アキくん。デンジくんが待っているから』
吐息の気配が、近づき。
『……デンジか?』
アキの声が、聞こえる。
「……早パイ」
喉の奥から漏れ出た声は、思ったよりもずっと小さく、情けないそれだった。
『……お前は、逃げるのか』
「……っ」
『全てを捨てても……あの女と一緒に居たいのか?』
問われて、デンジは——それでも。
「ごめん、早パイ。俺は……俺はレゼと一緒に行きたい」
震える声で、言う。
それがどれほど残酷な裏切りであるのかを、わかった上で。
だから——
『……そうか』
応答は、静かに。
『なら、パワーのことは、俺に任せろ』
そして、確かに。
早川アキはそう言って、デンジに笑いかけた。
「……えっ?」
『こっちのことは、こっちでなんとかする。だから、デンジ。お前は
じゃあな。
その言葉を最後に、ブチリ、と。
電話が切られる。
デンジは。
目を見開いて、切れた電話の画面を見つめた。
「……チェンソー様?」
「……ビーム」
デンジはビームに、視線を向ける。
「無茶を承知で、頼む……アキのことを、助けてやってくれないか」
「っ、チェンソー様……」
「頼む」
デンジは。
ビームに向けて深々と、頭を下げた。
「わかっ、た……」
ビームは。
躊躇いながらも、それに頷く。
「……バイバイ、チェンソー様」
「ああ、じゃあな、ビーム」
言葉を交わし合い。
それを最後に、ビームはとぷりと、床に沈み込んだ。
二人の道は別れ。
そして二度と、交わらない。
「……あの、え? 助っ人の人、行っちゃったけど!?」
別れの名残を噛み締めるデンジに、無粋にも少女が声をかける。偽レゼ……と、呼ぶのもいい加減馬鹿らしい。
「……お前さ、名前は?」
「え?」
「本当の名前、あるだろ?」
「えっと……ポゴ」
「じゃあ、ポゴ。お前も、どっか逃げろ。俺はこっから、本物のレゼ探さなきゃいけねぇからよ。お前のこと、守ってやれる状況じゃねぇ」
「え、ちょ、待って、待って——」
ヴヴン。もう一度、スターターを引いて、エンジンを蒸し、デンジは歩き出そうとして——
「あっ、あーっ!」
「なんだようるせーな。俺はもう行くんだって——」
「そうじゃなくて、窓、窓!」
窓? 尋常じゃない様子でポゴが指差す先に、デンジは視線を向けて——
「——は?」
6
爆発を封じられるとは言っても、それは逆に言えば、相手に爆発を封殺させるためのリソースを使わせているという意味でもある。
「——シィッ!」
鋭く息を吐きながら、蹴りを放つ。爆発。それはもちろん粛清され、この世から消え失せるが——次の爆発を。
拳、肘、肩、膝、爪先、踵——近接格闘に合わせて爆発を振り、また時に距離を取りつつ爆弾を撒く。
「『粛清』」
相手はそれらを全て封殺する——せざるを得ない。そう、どれだけ強力な力を持っているとしても、悪魔と契約している本人は人間なのだ。爆発に晒されれば、良くて重症、悪くて即死。必然的に、爆発には必ず『粛清』で対応しなければならない。
依然として——強みを押し付けているのは、レゼの側だ。
対応する側と、させる側。後者に立ち続ける限り、レゼの優位は揺るがない。
「なかなかいい動きをするようになった」
褒め言葉ではないだろう。ただの、事実の確認。息も乱さず、チーストカは言う。
肉弾戦では互角だった。悪魔としての身体能力を持つレゼに対し、ただの人間に過ぎないチーストカが互角の戦いを演じていることは驚異的だったけれど、しかし脅威的とまでは言い難い。肉弾戦に限って言えば、チーストカは『普通に強い』デビルハンターだ。その戦闘能力は、噂に聞く『狩人』のそれほど逸脱してはいない。
だから——前に出る。
鎌と鉄鎚の同時攻撃、それを恐れることもなく。
狙うは首。爆発は封じられても、体を爆弾に変えることによる『硬さ』はそのままだ。首への打撃は、上手くすれば骨を折っての即死を狙え、そうでなくても、一瞬でも呼吸が止まれば大きく隙ができる。狙い、伸ばした手刀で喉を突くけれど——
「あふぁい」
がちり。火花が散る。チーストカは伸ばされた手刀の先端に噛みつき、咬合力によって突きを受け止めた。そんなことをすれば、普通は歯がへし折れるはずだが——
「いい入れ歯。チタン?」
「タングステンだ。重いが、硬い」
お返しのように、鉄鎚が振るわれる。生身の部分を狙って的確に。防ごうと腕を上げるが、瞬間、差し込まれるのは鎌。
肋骨を貫いて——ヒヤリと感触。内臓に、触れている。
「——っ!」
爆発によるリセット。それを狙おうとして、けれど当然のように粛清される。
「前に出たのは失策だったな」
肉を抉るように、わざと出鱈目に鎌を引き抜く。噴き出た血潮が、チーストカのスーツを赤く濡らした。
レゼは脇腹を抑えて、三歩、後退する。
「恐怖を克服するのはいいことだが、克服した気になるのは頂けない。レゼ。ああ、レゼ。教えたはずだぞ。恐怖とは立ち向かうものではなく、飼い慣らすものである、と」
鎌についた血肉を振り払って、チーストカは言う。
「お前は俺を恐れているようだ。それはいいさ、構わない。そう、教官を恐れ敬うことは生徒の役目だ。だが、その恐れをないもののように扱おうというのは愚かなことだな。ああ、レゼ。お前はまた選択を『間違った』。俺に対する恐怖を振り払おうとするあまり、お前は必要以上に攻撃的になり、逆に致命傷を負った。レゼ、ああレゼ……残念だよ、本当に」
口からこぼれ落ちる血を拭いもせずに、レゼはチーストカを見つめ続ける。
「……致命傷を負ったのは——」
「……?」
「——どっちかな」
ぶ。
レゼは血を吐き出し——それを爆弾に変える。サーモバリック。次世代型の気化燃料爆弾へと。
「『粛清』」
しかし——それは無慈悲にも消滅する。そう、これまでと同じように。何か策があるのかと思えば、しかし破れかぶれの爆撃が一つ。結局は、その程度か。チーストカは失望を覚えかけ——瞬間。
俄かに、チーストカのスーツが熱を帯びる。
まずい。直感する。そうだ、そのスーツには、先ほど、
「『粛せ——』」
「遅いよ」
ボン。
服に染み込んだ血肉を爆弾に変え——爆発。チーストカの上半身が——弾け飛ぶ。
人の肉が焼ける、醜悪な匂い。焼け爛れたチーストカの体が崩れ落ちてようやく、レゼはため息を吐いて、その場にへたり込んだ。
「いてて……」
脇腹を抑え、血反吐混じりに呟く。内臓の損傷はひどい。放っておけば死ぬだろう。回復させるために、レゼは首元のピンを抜いて——
「————『粛清』」
爆発は——しない。
レゼは振り返った。
「そういえば、お前にはまだ教えていなかったな」
廊下の向こう側から——その男は現れる。
スキンヘッド。着ているスーツが軋むほどに筋肉質な体。瞳孔の開いた真っ黒い瞳に、浮かぶ五芒星。
それが——十人。
「祖国ソヴィエトに於いて——粛清は、終わらないものなんだ」
ゾロゾロと、現れた男たちは、ゆったりと笑う。
「さあ、レゼ。続きを——と」
しかし——ふと。
男たちの目が、レゼではない方を向く。その視線の先にあるのは——窓。
「ふむ、タイムリミットか……『船長』め。厄介なことをしてくれる」
呟かれた言葉に、レゼもまた窓の方を向く。
そして、目を見開いた。
窓の向こうでは。
海が——
高く、高く——どこまでも高い、
その津波に——どこか古風な、過剰に装飾が施された軍服を着た男が一人。無数の魚人たちを引き連れて、乗っている。
『船長』。本名を、ジョナサン・C・クラネス。イギリスが誇る最強のデビルハンター。公的に出回っている情報ではないが——契約した悪魔は、『津波の悪魔』。その力は陸に住む人間を海に住む魚人に変え——そして、海そのものをも操る。
「なるべく、これはやりたくはなかったんだがな……仕方ない」
その常軌を逸した破滅の光景を見ながら、しかしすべてのチーストカは落ち着いていた。
胸に手を当て、そして、宣言する。
「地獄の悪魔よ。四五九人の『俺』を代償として捧げる」
現れた十人のチーストカの内——九人が自らの首に鎌の刃を突き立てる。
そして。
「代わりに——この空港にいるすべての存在を、地獄へ落としてくれ」
彼方より、地獄がやってくる。
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