JANE DOEに花束を   作:忘旗かんばせ

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第四話 2

 

 4

 

 始まりの記憶は凍えるような暗闇の奥にある。

 

 打ちっぱなしの冷たいコンクリート。ベッドが一つと、ほとんど穴だけのトイレ。机はない。窓も、本も、電灯も。

 

 独房のような場所だ、なんて感想は、記憶を振り返ってやっと出てくる連想だった。当時のレゼにとって……『レゼ』ですらなかった小さな子供にとって、世界とはつまり、それだけの形だった。

 

 部屋から出られたのは、だから『実験』のためだった。多くの同胞が名前もなく死んで、そしてレゼだけが生き残った。それを幸運だとは思わなかったし、死んだ同胞を哀れだとも思わなかった。ただ『そういうもの』だ、と思っていた。思うしかなかった。思わなくてはいけなかった。

 

 ご飯が食べれる。眠れる場所がある。生きていける。それだけが全てで、だからそれだけが全てじゃなくなった時が、多分、軋みの始まりだった。

 

 実験の成功は、レゼの立場を上げた。悪魔との融合実験……何が、それを成功させたのか、結局のところわからない。ただの運かもしれない。何かの罰かもしれない。逃したネズミの恩返しかもしれなければ、殺したネズミの復讐かもしれない。冷たいスープの一雫。カビ臭いオートミールの一欠片。残さず食べたのが良かったのか、悪かったのか。それだけのことで、レゼは生き残って、そして爆弾の悪魔の力を得た。

 

 祖国を作り上げた偉大なる指導者を礼賛する以外の教育を受け始めたのは、だからそれ以降だった。

 

 言葉を覚えた。人を殺すために。

 表情を覚えた。人を殺すために。

 感情を覚えた。人を殺すために。

 愛情を覚えた。人を殺すために。

 

 それに溶け込むために、『普通の暮らし』を教えられた。暖かい部屋。暖かいベッド。暖かい食事。……暖かい、家族。何もかもが、御伽噺みたいに遠い世界のお話にしか聞こえなかった。

 

 見て、触れて、潜り込んで。

 それでもまだ、それは遠い遠い世界で。

 レゼの世界はずっと、暗くて冷たいままだった。

 

 この世の全ての鋭い透明が、彼女の両足を、もうずっと傷つけ続けていた。

 

 自分は……何者なのだろう?

 

 暗い部屋の中、ただひたすらに、思う。

 

『レゼ』の名前が与えられたのは、最近のことだった。

 一つ前は『オリガ』。その前は『ソフィア』。その前は『アリサ』。その前は、その前は、その前は……。

 

 本当の彼女に、名前なんて、ない。

 

 彼女は……生きた爆弾。

 爆弾は人に使われる武器。

 武器が、己の意思を持ってはいけない。

 

『レゼ』は道具だった。ずっと、道具であり続けた。

 

 人を殺す、道具。

 どんな使い方にだって耐えて、全てを破壊する。

 

 望まれれば、なんだってやった。

 誰にでもなって、誰とでも仲良くした。

 誰の友人にでもなった。

 誰の恋人にでもなった。

 誰の子供にでもなって。

 誰の人形にでもなった。

 

 そして……。

 

 全てを殺した。

 

 初めてできた友人も。

 初めてを捧げた恋人も。

 初めて『娘』と呼んでくれた老人も。

 誰も彼も、殺した。

 

 殺して。

 殺して。

 殺した。

 ……なんのために?

 

 彼女はずっと、暗い部屋の中にいる。

 

 富を得ても。

 地位を得ても。

 暖かい部屋を、暖かいベッドを、暖かい食事を、手に入れても。

 

 彼女の心はずっと、凍えるような暗い部屋の中。

 

 遠く暖かな明るい世界と、何が違う?

 彼らはなぜ、そこにいて。

 自分はなぜ、ここにいる?

 

 だんだんと。

 軋みが。

 少しずつ。

 大きくなって……。

 

 罅が、走る。

 

 彼女は暗い部屋の中にいる。

 ここに窓はない。机も、本も、電灯も。

 ドアも。

 

 ここには全てがない。

 

 ただ、閉じている。

 冷たく、暗く、閉じている。

 閉じているんだ、ずっと……。

 

 彼女の世界に、他人はいらない。

 だって、そう。

 他の誰かは、いつも……。

 彼女のことを、傷付けるばかりで。

 いつしか。

 それすら。

 殺さなくては、いけなくなって。

 消える。

 全てが、消えていく。

 それなら。

 それなら……。

 

 初めから、一人でいい。

 

 失うくらいなら、何もいらない。

 それが、『レゼ』の生き方。

 田舎のネズミの、生き方……。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………いつまで。

 

 いつまでこの生き方は、続くんだろう?

 

 誰も。

 本当の彼女を知らない。

 

 今だって、そうだ。

 彼女がここにいることを。

 世界の誰も、知らない。

 もうずっと、この暗い部屋に閉じ込められたままだってことを。

 この世の誰もが、知らないんだ。

 

 私は。

 

 ずっと、独りのまま——

 

 

 

 ヴヴン。

 

 

 

 ……どこか、遠くから。

 その音は、聞こえた。

 懐かしいような、恐ろしいような。

 ……愛おしいような、恋しいような。

 うなりをあげる、呼び声のように低い音色。

 

 それを聞いたのは、いつだっけ?

 

 そう。

 いつか。

 ずっと昔のようでいて——振り返れば、昨日のことのような。

 

 思い描く。回転する刃と、舞い散る火花の眩さを。

 いつかそれに宿った、血潮と熱を。

 

 回転する刃の音色は、どんどんと強く、けたたましく、叫びを、咆哮を、産声をあげて——

 

 ぞぶり。

 

 硬い壁を、貫いて。

 

 

 

 世界が、切り裂かれる。

 

 

 

「——よう、レゼ」

 

 光が、差し込む。

 

 暗い部屋に。

 暖かく、柔らかく、どこかほんの少し、涙のような。

 煌めく白が、差し込んで——

 

 その光を背負い。

 一人のヒーローが、立っている。

 

 異形の頭。伸びる電鋸の刃。それは両手にも、同じものが付いていて——けれどそれは、すぐに溶け消え。

 

 内側から現れたのは、一人の少年。

 

『オリガ』でなく。『ソフィア』でなく。『アリサ』でなく。——ずっと。

 名前のない独りの少女が、生まれて初めて恋した少年。

 

「——デンジくん」

 

 名前を呼べば。

 金髪の少年は、に、と、歯を見せて笑う。

 

「遅くなって、悪かった」

 

 彼は言って、彼女を見つめる。

 

「迎えに来たぜ」

 

 差し伸べられる、手に。

 彼女はそっと、手を伸ばす。

 

「……いいの?」

「ん、何が?」

「私、嘘吐きだよ」

 

 真実なんて、一つもない。

 

 隠してることは、山ほどある。

 

 それでも、それでも——

 

「いいぜ」

 

 デンジは頷く。

 

「俺がレゼのこと好きって気持ちは、本当だから」

 

 伸ばされた手を、伝って。

 抱きしめる。

 

「会いたかった」

「ああ」

「遅いよ」

「悪い」

「怖かった」

「ごめんな」

「……いいよ」

「うん」

「許してあげる」

「うん」

「迎えにきてくれて——ありがとう」

「いいってことよ」

 

 抱きしめ合う。

 二人だけの世界で。

 暗い部屋は引き裂かれ。

 世界にはただ、白い光が祝福のように満ちている。

 

「レゼ」

「うん?」

「この世界から出るために、もう一踏ん張り頑張らなきゃなんねぇ。手伝ってくれるか?」

「……いいけど」

 

 抱きしめ合うまま、レゼは言う。

 

「もうちょっとこのままじゃ、ダメ?」

「えぇっ!? だ、ダメじゃ、ないけどォ……!?」

「うそ」

 

 言って、レゼはひらりとデンジから離れる。

 

「続きは」

 

 言って。

 彼女は朗らかに、笑う。

 

「全部終わってからにしよう」

 

 彼女は。

 張り詰めたそれじゃない。

 媚びたそれじゃない。

 冷たいそれじゃない。

 作り物のそれじゃない。

 本物の笑顔で、そう言った。

 

「デンジくんのこと、たくさん教えて」

 

 目を見つめて言えば、デンジもまた、逃げずに彼女の瞳を見つめ返して。

 

「……レゼのことも、たくさん知りたい」

「知ったら嫌いになるようなことも、あるかもよ」

「ならねぇ」

「絶対?」

「絶対」

 

 言われて。

 レゼはデンジの手を引き——そのまま。

 

 唇を、重ねる。

 

 いつかのように、舌を絡めることも、噛みちぎることもない。

 普通の、キス。

 

「私、好きな人とキスするの、初めて」

 

 デンジは、もう一度キスしたくなるくらい顔を赤らめていた。

 

「嘘だと思う?」

「信じる」

「好き」

「それも」

「違うでしょ?」

「……俺も好き」

「よくできました」

 

 言って——レゼは首元のピンに手をかける。

 

「それじゃあ、行こうか」

「……おう」

 

 少しだけ締まらない、火照ったままの顔で、デンジは頷く。

 

 スターターが引かれ、ピンが抜かれる。

 

 そして、世界は。

 





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