昼休みのざわめきは、藍沢紗月が一歩踏み込んだだけで空気ごと凍った。
静まり返った教室。その入口から、紗月の視線がゆっくりと誠へ向けられる。
深い藍色の髪を肩で揃えた無駄のない美しさ──その存在感はまるで鋭く鍛えられた刃だ。
しかし──
誠に歩み寄ろうとしたその瞬間、彼女の進路を遮るように理央が立ち上がった。
椅子が静かに引かれる音だけが響く。
それは冗談でも偶然でもない──明確な拒絶の意思だった。
「悪いけど、藍沢先輩。昼休みに後輩の教室へ無断で乱入とは、校則違反では?」
理央の声は低く、澄んでいるのに冷たい。
紗月は微笑した。けれどその笑みには、温度が欠片もなかった。
「まあ、堅いことは言わないで。灰原君と少し“話”に来ただけなんだよね……個人的に」
──“話”。
その言葉の裏側に含まれた意味を、誠は理解していた。
理央は一歩前に出て、誠と紗月の間に立ちはだかる。
「“話”なら後にして。今は食事中よ」
理央の右手が机に触れた。その指先は静かに力を帯び、魔力の微かな震えを生んでいる──
紗月は動じなかった。むしろ──愉しんでいる。
「ふふ……ずいぶん過保護なんだね、黒野さん。そういうタイプだったんだ?」
「あなたに答える義理はないわ。藍沢先輩」
空気が張り詰める。
教室の空気はまだ昼休み──のはずだった。しかし今、この場だけ異質だ。
一見すればただの口論。しかし実態は違う。
目に見えない殺気──マスター同士の対峙。
クラスメイトたちは息を飲み、何が始まるのか理解できないまま固まっている。
──その時。
ひどく微かな“揺れ”が教室に走った。
風でも音でもない。何か、世界の表面がかすかに波打つような気配。
誠はハッと顔を上げた。同時に理央も、そして紗月も──わずかに視線を動かす。
「……今の」
誠の声はかすれた。
理央は素早く誠の側に近寄り、窓の外へ鋭い視線を向ける。
黒い瞳の奥で魔力が揺らめいた。
「何者かが魔術を行使している。はっきりとは感知出来ないけれど、相当大規模な物」
その言葉に誠の心臓が跳ねる。しかし周囲の生徒たちはキョトンとしていた。
──見えていない。魔力の揺らぎは一般人には認識不可能。
気づいているのは──この場で、わずか三人。
理央、誠、そして──藍沢紗月。
誠が紗月を睨む。
「……お前の仕業ね、藍沢沙月」
紗月は小さく首を横に振った。
「誤解しないで。私も今、それを確認に来たの。──まさにその件で話があるのだけれど」
「その件?」
理央の目が細くなる。
紗月はわずかな視線の動きだけで教室の扉を示した。
「ここじゃ話せない。外で話そ」
その抑えた声音には、ふだんの冷笑的な調子がなかった。そこにあったのは、緊張と──危機察知の色。
理央は一瞬だけ考え──短く言った。
「……分かったわ。灰原君、行くわよ」
「え、いいのか? もう休み時間が」
反論しかけたが、それよりも早く理央は誠の手首を掴み、席から立たせていた。
誠は覚悟を決めて立ち上がり、藍沢紗月とともに教室の前へ向かう。
ざわ……と、周囲のざわめきが一気に膨れあがる。
「灰原……行くのか?」「これ絶対ヤバいやつじゃん……」「なんだ? マジの修羅場ってやつか?」
クラスメイトたちの誤解もひどいが、今は構っていられない。
理央は一度だけ教室全体を振り返り、冷ややかに告げる。
「──灰原君と私は早退するわ、誰か先生に伝えておいてくれないかしら」
教室の空気が一瞬ざわめいて爆発しかけるのを背に、三人はドアを開け外へ出た。
廊下を抜け、階段を降り、校舎裏へ続く通用口へ向かう。
誰もいない中庭に出た瞬間──
理央の瞳が鋭く光った。
「──セイバー」
応える声はない。しかし、空気がわずかに重く変わる
霧がほどけ、そこから全身を甲冑を纏ったセイバーが姿を現す。
霊体化解除。
鋭い殺気を纏いながら、彼は理央の背後に静かに控えた。
続いて──藍沢紗月も、低く囁いた。
「──アサシン」
闇が揺れた。
気配だけがそこに現れる。姿は見えない。しかし──間違いなく、そこに“殺意”がいた。
理央が一歩前へ進み、短く言う。
「ここまで来たんだもの。続きを聞かせてもらえるわよね、藍沢先輩」
紗月は頷いた。
「ええ。率直に言うわ──この学校にサーヴァントが侵入した。クラスは恐らくキャスター」
「狙いは?」
「──私たちマスター全員かな」
中庭に冷たい風が吹いた。
嵐の前の──静けさだった。
藍沢紗月の言葉に、理央は静かに眉を寄せた。
「……正気なの? 人目がある昼間の学校で、聖杯戦争の戦闘行為を仕掛けるなんて」
怒気でも呆れでもない──もっと冷たい、皮膚の内側が凍るような声だった。
「監督官をなんだと思っているのかしら、そのキャスターとやらは」
理央は額に手を当て、短くため息をついた。
「表向きこの儀式は“秘匿”が大原則よ。監督官は戦闘行為が露見しないよう監督する立場。あからさまに一般人を巻き込むような真似をすれば──」
「監督官が動く。消極的介入では済まない、直接制裁レベル……ってところかしらね」
紗月が代わりに言葉を継ぐ。
理央はわずかに視線を落とす。
「……キャスターのマスターは、自分の立場が理解できていないか、あるいは──理解した上で無視している」
誠は飲み込むように息を吸った。
「つまり、ヤバい奴ってことだな」
「ええ。とんでもなく“厄介”。私が言いたいのはそれだけ」
理央は眉間に指を当てた。
わずかにうんざりした気配をまとう。
「本当に……どうしてこう、みんな規律を守れないのかしら」
理央がこめかみを押さえて頭を抱えると、紗月は肩をすくめて言う。
「まあまあ落ち着いて。敵が変則的なら、こちらも歩調を合わせるしかないでしょう?」
理央は鋭い視線を向けた。
「あなた、先日灰原君を下校中に襲撃してきたわよね?」
「まあね、仕方ないじゃん」
「殺しに来たと言った方が早いかしら」
紗月は苦笑を浮かべ、それ以上は何も言えなくなる。
誠は唖然としてそのやり取りを見ていた。
だが、紗月は切り替えるように表情を引き締めた。
「とにかく──キャスターをどうにかしないと。何をしようとしているか分からないけど、一般生徒も巻き添えになるよ」
「……それは困るわね」
理央も短く同意する。
紗月はそこで一歩踏み出し──提案した。
「一時的に共闘しようよ、黒野さん」
空気がわずかに張りつめた。
誠は息をのむ。
理央は──間髪入れずに答えた。
「──断るわ」
「あら……」
紗月は特に傷つくでもなく、軽くため息をつく。
「灰原君は? 君はどう思う?」
「は? 俺は……!」
誠が返答するより早く、理央が言い切った。
「私たちは単独で対処する。──行くわよ、灰原君」
いつもの冷静さで言い放つと、理央は踵を返そうとする。
「ちょ、ちょっと黒野、本気で行くのか!?」
「当然よ。危険因子とは距離を取るべきだわ」
「誰が危険因子だって?」と紗月。
「あなたよ」と理央。
完全に話は平行線。
誠は額を押さえて言う。
「なあ、もうちょっとだけ落ち着い──」
理央が誠の手を取り、歩き出す。
その瞬間──
ゴン……ゴン……ゴン……
異様な“何か”が、地面を擦りながら近づく音がした。
「……ッ!?」
三人が同時に足を止める。
通用口へ続く裏道。その先の影──そこに、「それ」はいた。
2m近い巨漢、泥と灰に塗れた筋骨隆々の肉体と、異様な形状の兜。
──否。
それは兜ではない。
巨大な、鉄でできた“カボチャ”を模したような頭部装甲。
顔は見えず、呼吸音だけがひゅうひゅうと不気味に漏れる。
そして──
その手に握っているのは、地面を抉るほど巨大な鉄塊のハンマー。
いや、それも──
カボチャを模したような歪な打撃武器。
まるで悪夢の職人が作った拷問具。
「な、なんだよあれ……サーヴァント、なのか……?」
誠が震えた声で問う。
「セイバー」
「はい、マスター」
セイバーは理央の前に出て、剣を抜き構えた。
藍沢紗月も即座に構える。
かぼちゃ頭の男は、ゆっくりとハンマーを引きずりながら顔を上げる。
──笑っている。
顔は見えないのに、確かに分かる。
歪んだ嗤いが、そこにあった。
次の瞬間──
ゴウッ!!!
地面が爆ぜるほどの踏み込みで、かぼちゃ頭は突進してきた。
轟音。
かぼちゃ頭が振り下ろしたハンマーは、地面を砕きながらセイバーを叩き潰そうと襲いかかる。
だが──
「突撃力は相当な物だ」
鈍い金属音と同時に、その一撃はいとも容易く弾かれた。
セイバーは片手で構えた騎士盾で衝撃を斜めにそらし、衝突の力を地面へと逃がす。地を揺るがすほどの怪力にも、表情すら変えない。
再び振り上げられた巨大ハンマー。質量も攻撃範囲も桁外れ。まともに受ければサーヴァントであってもただでは済まない。
──だが。
セイバーの剣が走る。
静かな剣速だった。
気負いも、血気もない。ただ淡々と“斬るためだけ”に磨かれた質実剛健な剣撃。
ギンッ!!
かぼちゃ頭の手元が揺らいだ。
切断には至らない──しかし関節の可動域を狙った鋭い一撃で動きを封じる。
「あのかぼちゃ君は、多分キャスターの尖兵かな。サーヴァントにしては何から何まで雑過ぎる」
藍沢紗月がわずかに目を細めて声を漏らした。
「すごい、全然相手になってない」
誠の隣で見ていた理央も、セイバーの戦いぶりを見つめながら小さく呟く。
「彼は──“力で殴り合うタイプの剣士”じゃないわ。徹底した戦闘経験と技量で敵を処理するタイプ。ああいう手合いの相手ならお手の物よ」
その評価通り、セイバーは一切押されていない。
かぼちゃ頭が再び怨嗟のような唸り声を上げ、獣じみた横薙ぎを繰り出す。ハンマーは地面を抉り、視界を砂埃で覆い尽くす。
ズガアァァァァン!!!
しかし──その豪打は、またしても当たらない。
砂埃が晴れるほんの一瞬、セイバーの姿が──消えた。
跳躍。
高く跳び上がり、かぼちゃ頭の懐を取ったセイバーが天から振り下ろす。
「──ッ!!」
対格差を利用する機動。
盾でバランスを制御し、全身の力を乗せた──一点突破の斬撃。
西洋剣が、鈍い金属音を立てながら敵の胸部を裂く。
ガンッ──ガギィィィン!!
分厚い鎧の隙間を狙い突破した剣は、内部に届いた。
かぼちゃ頭の巨体がよろめく。
胸部装甲には──深々と斜めの切り傷。
普通の戦士なら致命傷。それほどまでの一撃だった。
しかし──かぼちゃ頭は、ぐらりと立ち直る。
黒い煤のような“何か”が、傷口からじわりと溢れ出す。
それが血なのかすら分からない。だが──
それは確かに、“流れ出していた”。
かぼちゃ頭はよろめき、胸に触れた。
指にまとわりつく黒い液体──。
その瞬間、奴の動きが止まる。
しばらくの間、自分の手についたそれを見つめ──ゆっくりと、掬い上げるようにして掌を傾けた。
とろり、と液体が滴る。
──ゴ……お……
くぐもった、何かを押し殺したような声。
何を思ったのか、かぼちゃ頭は震える指でその“血”を撫で──
次の瞬間、突如として狂った。
「──────アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
耳をつんざくような絶叫。
かぼちゃ頭は自らの兜──いや、頭部装甲を両手で掴み、何度も何度も自分の頭を地面へ叩きつけ始めた。
ガンッ! ガンッ! ガンガンガンガンガン!!
「な、なんだよあれ……!? イカれてるだろ完全に!!」
誠が声を震わせる。
砂煙が跳ね上がり、鉄と石がぶつかり砕ける音が響き続ける。信じられないことに、奴は自傷行為を繰り返しながら喜悦に震えていた。
歪んだ呼吸音が笑い声に変わっていく──。
ヒュウゥ……ヒュ、ヒュヒュヒュ……ヒィ──!
次の瞬間。
──かぼちゃ頭はセイバーを完全に無視した。
跳ねるように立ち上がり──一直線に、理央へ向かって走り出す。
セイバーが追いすがるが、かぼちゃ頭は狂気的な速度で一直線に突進し続ける。ハンマーを振り上げ、その狙いは理央ただ一人。
セイバーが叫ぶ。
「下がれ、マスター!!」
しかし──理央の瞳は一切揺らがなかった。
その一瞬で理解していた。
この敵は、致命的に“異常”だ。
ただの前哨戦──小競り合いで済ませられる相手ではない。
生半可に戦闘を長引かせれば、それだけ一般生徒や民間人に被害が出る。
だから──理央は即断した。
今、この場で“確実に仕留めるべき”だと。
「──セイバー」
呼びかけられたその名に、セイバーの瞳がわずかに揺れた。
「叩き潰しなさい、方法は任せるわ」
炎のように揺れる黒紅の瞳が、理央の許可を受けてわずかに光を帯びた。
「──御意」
静かな返答。だがその一言が、この世界における戦闘階梯の変化を告げる合図となった。
セイバーは走り出す。
荒れた地面を蹴り砕き、かぼちゃ頭──狂った尖兵に向かって風を裂く。
「ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァァ──ッ!!!」
獣じみた咆哮が上がる。ハンマーが振り上げられる。
──それでも届かない。
セイバーの剣が、淡く燃えた。
いや──燃え始めた。
金属が溶けるように、形状が崩れていく。
同時に、灼熱の灰が舞った。
「なんだ……剣が、燃えて……崩れて──」
誠の息が詰まる。その現象は、剣としての機能崩壊を意味するはずだった。
だが、違う。
崩れ落ちた金属は形を失ったのではない──変形していた。
舞う灰が渦を巻く。
剣身は消え、代わりに巨大な──炎の獣の爪痕が出現した。
「【灰の遺剣】……【デーモンの爪痕】」
セイバーの手に宿ったのは、紅蓮渦巻く“火の爪”。
セイバーは踏み込む。
灰が爆ぜる。
足元の地面が崩れ落ちる。
放たれた剛腕は──炎の渦と共に回転する。
轟烈な回転斬撃。
「────ッ!!」
あまりにも激しい回転と共に、セイバーの身体そのものが“竜巻”となった。
炎と灰が暴風を巻き起こし、その中心に宿るのは──世界を焼く焔。
紅蓮の渦が、かぼちゃ頭を真正面から飲み込んだ。
次の瞬間、
爆炎。
轟音。
灰塵。
その全てが、一秒の中で炸裂した。
──抵抗はなかった。
巨大なかぼちゃ頭の装甲は、炎に触れた瞬間に燃え崩れる。
肉体は焼失し、大質量のハンマーさえも灰に沈む。
一体、何が起きたのか──
誠はただ呆然と見ていることしかできなかった。
ほんの一撃。
それだけで。
──あの異常な化け物が、“存在ごと消滅”した。
校舎裏の地面には、ただ焦げた痕跡と灰だけが残る。
セイバーは回転を止め、静かに灰を払った。
紅蓮の火柱が消え、世界が音を取り戻す。
焼けた土の匂いと、まだ空気中に残る熱気だけが、この場で起きた破壊の余韻を物語っていた。
ぼろぼろと炎が崩れ、赤い灰が舞う。それは剣の形へと収束し、やがて元の西洋剣へと姿を戻した。
宝具、解除。
その瞬間、セイバーの視線がわずかに理央へ向けられる。
「……敵性存在の殲滅を確認。付近に魔力残滓──依然反応あり」
「ええ、分かってる。早くここを──」
そこで理央の声がわずかに揺れた。
誠は、その異変を見逃さなかった。
一瞬──本当に一瞬だけ、理央の肩が微かに沈んだ。
その白い額には、小さな冷や汗が浮かんでいた。
──宝具の使用。
──それが、どれだけ魔力を消費する行為なのか。
誠は、ようやく理解し始めていた。
「ねえ、黒野さん」
緊張を破ったのは、藍沢紗月の声だった。
彼女は、セイバーの火焔を見届けた後でも、わずかに笑みを崩さない。
──が、その額には薄い汗。
アサシンのマスターでありながら、セイバーの宝具を見た直後でも動揺を見せない胆力。それでも完全には無傷ではいられなかったらしい。
「やっぱり──ここで潰し合う余裕なんて、ないよね?」
理央は紗月を見据えた。
数秒の沈黙──それはこの場の誰もが呼吸を止めた時間。
そして──
黒野理央は静かに告げる。
「──分かったわ。藍沢先輩。一時的な共闘を受け入れる」
「……っ、そうこなくっちゃ」
紗月はふっと笑うが、すぐに表情を引き締める。
「勘違いしないでね。仲良しごっこをするつもりはない。ただ──」
理央が言葉を継ぐ。
「キャスターが本当にこの学園全体を覆う規模で動くなら──共闘以外の選択肢はない」
互いに短い視線を交わす。
そこに信頼はない。けれど──理性だけはあった。