──あれは“炎”と呼べるのか。
廊下を裂いて広がる黄色の災禍を前に、誠は言葉を失っていた。
爆発でもなく業火でもない。熱も煙もほとんど伴わず、それでいて触れたものを焼き滅ぼす──ただそこに存在するだけで、すべてを壊す力。
人間の知る自然法則から乖離した、理を侵す炎。
「……何だよ、あれ……火じゃない……燃えてるのに、熱くない……」
崩れた床の上に尻もちをついたまま、誠は呆然と呟いた。
バーサーカーが横にいた。鋸鉈を構えて立つ彼女の表情はいつも通り──いや、違った。
そのこめかみに、一筋、冷たい汗が伝っていた。
「──マスター、迂闊に近づいてはなりません」
いつもの、礼を失しない静かな声。だが、その声音には張り詰めた緊迫があった。
「バーサーカー、あれはいったい──」
「……世界を焼く焔、もしくは──」
彼女は慎重に言葉を選ぶように、一瞬だけ視線を伏せた。
「かつて世界を焼き尽くした焔。その“延焼”そのもの」
誠は息を呑む。
バーサーカーが恐れている──?
あの、どんな怪物を前にしても微動だにしなかった女狩人が。
「どういう意味だよ……世界を焼くって……冗談だろ?」
声が震えていた。そんな誠に、バーサーカーはゆっくりと首を振った。
「冗談で済むなら──どれほど良かったことでしょう」
黄色の炎がゆらりと揺れ、まるで意思ある生き物のように迫ってくる。
「この焔は、物質ではなく概念を焼く炎。触れれば霊基を蝕まれ、魂を侵食される。たとえサーヴァントであっても──ひとたまりもありません」
「サーヴァントでも……?」
誠の背筋を冷たいものが走る。
確かに、セイバーもアサシンも、炎に触れた瞬間に吹き飛ばされていた。攻撃というより、存在そのものが拒絶されるかのように。
「──あれは火ではありません。世界そのものを焼き続ける“終わり”の力」
バーサーカーは睨みつけるように災禍の向こうを見た。
「キャスターは異端者ではなく、世界そのものの敵……。取り返しのつかぬ存在を、この聖杯戦争は呼び寄せてしまった」
誠は息を呑む。
世界の敵──そんな言葉、漫画や映画の中だけの話だと思っていた。
だが、その現実が今、手を伸ばせば届きそうなほどの距離にいる。
「……でも、じゃあどうするんだよ……」
誠は歯を食いしばった。
セイバーも紗月も理央も、みんな散り散りになった。キャスターはあの〈黄色い炎〉を展開している。真正面から挑めば──バーサーカーでさえ焼き尽くされる。
ならば、打開方法は──
「バーサーカー……宝具は? まだ見せてない、切り札があるんだろ?」
誠の言葉に、バーサーカーはわずかに視線を揺らした。
「宝具、ですか……」
「バーサーカーってクラスは本来最強の火力を持ってるんだろ! セイバーだって宝具を使えばキャスターの使い魔を一掃できた! バーサーカーだって──!」
しかし、バーサーカーは首を横に振った。
「──私の宝具は、獣狩りのためのものです」
「……獣?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「獣を殺すための宝具です。それ以外には本来、適合しません」
「……つまり、キャスターは獣じゃない。だから、お前の宝具は通用しない、ってことか」
自分で言いながら、その残酷な結論に喉が詰まる。
バーサーカーはすぐに否定も肯定もしなかった。ただ、炎の向こうを睨みつけながら言った。
「……まだ、断定はできません」
「え?」
「あれが“獣”であるかどうか。判断材料が足りません」
誠は戸惑いを隠せなかった。
「ちょっと待ってくれ。俺の知ってる獣ってのは──熊とか、狼とか、そういう……生き物の分類の話じゃないのか?」
バーサーカーは小さくかぶりを振る。
「いいえ、マスター。私の言う“獣”は……もっと、別のものです」
その声音には、僅かに冷たい響きがあった。
「獣とは、血に狂った者の末路。人でも、神でも、概念すらも堕ち得る“形なき咎”の一つ。──呪いに絡め取られ、世界の理を蝕みながら増殖する……そういう、汚泥のような存在です」
誠の背筋を冷たいものが走った。
──それは、確かに今のキャスターに近い。
しかし。
「……じゃあ聞くけど、キャスターは……今、あれは獣なのか?」
「……わかりません」
短い答え。だがそれは、重い現実だった。
「私の知る“獣”は本来、しっかりとしたルーツのある存在でした。この世界には存在はしえない」
バーサーカーは、ゆっくりと黄色の炎を見る。
誠は、初めて胸の奥で本当の焦りを覚えた。
「じゃあ……じゃあ、どうするっていうんだよ……!」
押し寄せる無力感に、拳が震える。
バーサーカーでさえ宝具の有効性を断言できず、キャスターは異常そのもの。
この状況で何ができる──?
答えのない沈黙。
その時──
瓦礫を蹴って二つの影がこちらへ駆け込んでくる。
セイバーがその身を盾にするように理央を守り、炎の進行から逃れてきたのだ。
「二人とも無事か!?」
誠が立ち上がると──目に入った。
セイバーの半身が焼け爛れていた。
装甲のように硬いはずの鎧は崩れ、英雄の肉体は焼け焦げ、ところどころ光の粒子がこぼれ落ちるように霧散している。
右手の剣はまだ握られている──だが激しく震えていた。
「セイバー……その体──」
顔を歪めながらも、セイバーは短く首を振る。
「問題……ありません。私は死にません、特に火によっては」
しかし、その声は低く、かすれていた。
──戦えるのか。この状況で。
誠は言葉を失った。だが次の瞬間、理央が鋭い声で言う。
「状況を整理するわ──ここで止まってる暇はない」
事態は最悪だ。
セイバーは荒く息を吐きながら、理央の前に立った。
焼け爛れた鎧の隙間からは、霊子の光が漏れ、まるで命そのものが蒸発していくかのようだった。
「マスター……ここは退くべきです」
その声には、かすかに焦燥が滲んでいた。
「このままでは部隊の再集結もままならない。キャスターの“炎”は進行を止める気配がありません。今は一時撤退を──」
理央は一瞬だけ俯いた。
だが、その瞳に迷いはなかった。
「……いいえ、退くわけにはいかないわ」
その言葉に、セイバーの表情が僅かに動く。
誠も息を呑んだ。
理央は続ける。
「この炎を放置すれば、校舎だけじゃない。生徒も、教師も……結界の外の町にまで被害が及ぶ」
「時間をかければかけるほど、“あれ”は広がる。もはやキャスターひとりの暴走じゃない。──これは、災厄よ」
彼女の声は震えていなかった。
恐怖は確かにそこにある。だが、それを押し殺すだけの覚悟が、その小さな身体の奥底に宿っていた。
「しかし──」
セイバーが言葉を継ごうとするが、理央はそれを遮った。
「撤退しても、次はないわ。炎は止まらない。ここで食い止めるしかないのよ」
短い沈黙。
やがて、セイバーは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……承知しました。ならば、命令に従います」
その言葉の裏には、確かな覚悟と諦念があった。
彼は戦場を幾度もくぐり抜けた者の目で、すでに理解している──この戦いが、勝てる戦いではないことを。
理央は振り返り、バーサーカーへ視線を向けた。
「バーサーカー。あなたの宝具──使えないの?」
静かに問う声。
誠が同じ問いを先に投げかけたばかりだというのに、その声音には僅かな希望が残っていた。
バーサーカーは短く息を吐いた。
「……宝具の発動条件は“獣”。理性を失い、血に狂った存在には確かに通用するはずですが──」
視線が炎の奥に潜むキャスターの影を捉える。
男の姿は炎の中に滲み、もはや“人”の輪郭ではなかった。
理央は黙ってバーサーカーの言葉を聞いていた。しかし──そこで「獣」という単語が出た瞬間、彼女の表情がわずかに揺れた。
ほんの数秒の静寂。その直後、理央は何かに気付いたように目を細めた。
「……ビースト、ね」
その声は低く、しかし確信を帯び始めていた。
誠が振り返る。
「……理央?」
理央はすぐに答えず、代わりにセイバーへ視線を向けた。
「セイバー、あなたの霊基の損耗具合を教えて。宝具は──あと何度使える?」
セイバーは即座に答えた。
「威力を抑えずに解放した場合──あと二回。防御か牽制の用途も含めれば三回が限度です。しかしその場合、霊基の再構築に時間を要し、しばらく戦闘は不可能になるでしょう」
「最低でも二発撃てるのね。なら──間に合う」
理央の声が強くなる。
バーサーカーが僅かに眉を寄せた。
「……作戦がありますか?」
理央はうなずくと、短く息を吐いた。
「あるにはある。でも、とんちみたいなものよ。こじつけと言ってもいい。──だけど、やる価値はある」
誠が身を乗り出す。
「どんな作戦なんだ!?」
理央ははっきりと言い放った。
「──キャスターを、『ビースト』……人類悪、世界の敵として抑止力に認識させる。人類史の淀みであるとか、原罪から生れ出たとか本来の定義とは外れるけれど……とにかく獣であると定義させればいい」
バーサーカーの目が細くなる。セイバーは表情を変えず問う。
「……世界に“認識”させる、とは?」
「簡単な話よ。キャスターは今、人間としてサーヴァントの枠に存在している。だからどれほど異常でも、この世界はまだ“キャスターはキャスター”として扱っている。でも──もし、この世界そのものに、“あれはビーストだ”と認識させることができれば──」
理央は、横に立つバーサーカーを見た。
「バーサーカーの宝具は、ビーストに対して最大威力を発揮する。使う条件が“獣”なら──キャスターを“獣だ”と認めさせればいい」
誠は一瞬言葉を失った。
そして──呆然と呟く。
「……そんな、理屈が通るのかよ……」
理央は答えた。
「通さなきゃならないのよ。これは理屈の問題じゃない。──認識の問題。世界は、観測によって形を変える。キャスターの狂い火が世界の理を侵すっていうなら──私たちも、理を侵してやるだけ」
黄色い炎が遠くで唸る。
理央の黒い瞳は、その向こうを射抜いていた。
「証拠を揃え、概念を塗り替え、世界に宣告するの。──あれはキャスターじゃない。“災厄の獣(ビースト)”だって」
それは暴論であり、無茶であり、それでもなお──
──唯一の活路だった。
理央は迷いなく言い切った。
「キャスターの炎は、ただ強力な魔術なんかじゃない。世界の側からしても例外指定されるべき“災厄級の権能”よ。もし──あの『黄色い炎』の出力が今よりさらに上がったら?」
バーサーカーがはっとしたように顔を上げた。
「……世界が、見過ごさない……!」
「そう。世界そのものの維持を脅かす“明確な敵”として──キャスターを認識する。そうなれば、世界は必ず反応する。あれを“人間”として扱うことをやめる。そうなれば──」
理央は振り返り、バーサーカーの瞳を真っ直ぐに射抜く。
「──あなたの宝具が発動する。期待していいのよね、バーサーカー」
暴論だ。だが理論は繋がっている。
世界の理を狂わせる狂い火──その出力が上がり、外界への危機と認められれば、キャスターは確実に“人理の敵”に分類される。
そうなれば一気に「災厄指定」の烙印が押され、“獣(ビースト)”として扱われる可能性が高い。
要は──世界に「そうだ」と認めさせれば勝ち。
「……どうやって──出力を上げる?」
誠が問う。理央は即答した。
「簡単よ。──刺激するの」
黄色の炎は、意思を持つかのように蠢き続けている。だがいまはまだキャスター本体の制御下にある範囲内の炎だ。
ならば──本気を出させればいい。
「セイバー、もう一度キャスターに突っ込んで。“殺すための攻撃”じゃなく──“挑発して応戦を引き出すための攻撃”を」
セイバーは静かに頷いた。
「了解しました」
だが誠は叫ぶ。
「待てよ! もう半身が焼けてボロボロじゃないか! これ以上やれって──!」
理央は冷たく言った。
「やるしかないの。ここで終われば──本当に全部焼かれるわよ」
セイバーはわずかに微笑んだ。誰にも見せない、ほんの一瞬の穏やかさだった。
「問題ありません、マスター。これは──私の役目です」
次の瞬間──セイバーの剣が変形を始めた。
ガキン──! ガギン──ッ!
刃が、捻れる。
刀身が裂け、内部機構が露出する。
剣身は螺旋状に軸を捻じ曲げながら形成され──残火が燻る渦巻く杭のような異形へと変貌していく。
誠は息を呑んだ。
「【灰の遺剣】……【火継ぎの大剣】」
セイバーが掲げたそれは、まるで世界の理を打ち砕くためだけに生まれた武器だった。
螺旋状の刀身が、空気を震わせる。
「──行く」
セイバーは躊躇なく踏み出した。
炎の奔流が、彼を迎え撃つ。
──だが止まらない。
セイバーは炎の奔流をものともせず踏み込んだ。
その一歩ごとに──紅い火花が舞う。
違う、それは火花なんかじゃない。
炎だ。
セイバー自身の身から噴き上がる、灼熱の──紅蓮の炎。
──ゴウッ!!
セイバーの剣が、黄色の狂い火とぶつかった。
だが燃え広がることはなかった。
炎同士が激突し、押し合っている。
「……炎が、ぶつかってる……!? セイバーも炎を!」
誠が呆然と声を漏らす。
紅蓮と狂黄。
二つの炎が、あたかも互いを拒むように──拮抗していた。
セイバーは狂い火の壁を押し込みながら、低く吠えるように地を蹴る。
「何のまだまだ……温いぞ、世界を焼く炎とやらはこんなものか」
ボンッ!!
セイバーの全身が燃え上がった。
爆炎のような紅の輝きが彼の甲冑を包み、剣に渦巻く炎の圧力はさらに増す。
紅い炎が咆哮した。
それに──狂い火が呼応した。
──グワァァァアアアアア!!!
キャスターの周囲で渦巻く黄色の炎が勢いを増し、触れた空間そのものを破壊しながら膨れ上がっていく。
理央が息を呑む。
「……出力が上がった……キャスター自身が反応してる……!」
狂い火がぶつかる。
紅蓮が押し返す。
世界の終焉を引きずるような黄の焔。
灰の残火を宿したような紅の焔。
二色の地獄が、衝突点を中心に、うなるような爆音を響かせていた。
「フフッ──ああ、素晴らしい!」
狂い火の中心──キャスターは笑っていた。
キャスターの笑い声は、もはや人間のそれではなかった。
「もっとだ──もっとだセイバー!! その炎を──その抵抗を!! 僕に見せてくれ!!」
キャスターの頭部を覆っていた皮膚や骨の輪郭は、すでに跡形もなかった。そこにあるのは──揺らめく災厄そのもの。
黄色の炎が“頭部の代わり”として燃え続けている。
目も鼻も口もない。ただ炎が燃えているだけなのに──それでも、笑っているのがわかる。
「──あれが……“本性”か」
セイバーの声がかすれた。
キャスターの炎は、さらに増す。
もはや廊下だけの話ではない。空間そのものが──歪んでいた。
黄色の炎が触れた場所は、熱によって焼けるのではなく──空間ごと削れ落ちていく。
壁が消える。床が失われる。世界の表面が剥がれ、むしろ異常な“穴”だけが残る。
「世界が──……!」
誠が呆然と呟く。
校舎の構造が変形しているわけではない──存在そのものが削られているのだ。
セイバーの紅蓮の炎が押し返していたはずの狂い火は──もはや、それを圧倒していた。
「──ぐっ……!」
膝が、落ちた。
セイバーが片膝をついた。
螺旋剣を支える腕が震え、紅蓮の炎が明らかに弱まっていく。
「セイバー!!」
誠の叫びが届く。しかしセイバーは顔を上げず、唇を噛む。
「……これが……世界を焼く炎か」
紅蓮の炎が一瞬だけ強く揺らめき──消えた。
剣を包んでいた紅の輝きが、音もなく霧散していく。
「く……ッ!!」
セイバーの体が地面に叩きつけられる。肩で荒く息をしながら、それでも立ち上がろうと腕に力を込める──だが、炎は戻らない。
狂い火に押し潰されたのだ。
「──これが限界かい、セイバー? マスターなんか庇うからだよ」
キャスターの声が響く。
それは先ほどまで人間の姿をしていた男のものではなかった。
災害そのものが、言葉を発しているかのように響いた。
「君は素晴らしいよ。僕の焔にここまで抗った存在は、今までにいなかった──本当に美しい抵抗だ」
炎の塊がこちらを向く。顔などないのに──確かに、こちらを見ている。
キャスターはゆっくりと、しかし確実にセイバーへ歩み寄った。
一歩、踏み出すたびに、床が「焼けて消えていく」。
そこに熱はない。跡も残らない。ただ存在が削れていくだけ。
「──だからこそ、燃やし尽くす価値がある」
キャスターの右腕がゆらりと持ち上がる。
指はなく、肉もない。ただ“炎”が腕の形を真似ているだけだ。
それでも、誰の目にも理解できた。
──あれは、とどめを刺す動き。
誠は息を呑み、叫ぼうとした。
「やめ──!」
しかし声は喉に貼りつき、掠れただけだった。
それほどまでに──キャスターは“絶対的”だった。
セイバーは立ち上がれない。
紅蓮の炎は消え、灰の騎士は剣を杖のようにしてかろうじて膝を支えているだけ。
──届かない。もう止められる力は──
そのときだ。
一人だけ、まったく違う方向を見ていた者がいた。
バーサーカ──―女狩人。
彼女はキャスターではなく──その背後を見ていた。
いや、もっと正確に言えば。
“空”を見ていた。
「…………──【我が身は血に穢れ】」
女狩人は静かに前へ出る。
「【幾千幾万の獣を狩り】」
薄く笑った──それは歓喜でも憎悪でもない。
「【終わらぬ夜を彷徨い歩く】」
黄の業火に焼かれゆく世界に──別の闇が滲み始めた。
それは血の匂いを孕み、獣の息遣いが混じる“夜”。
「【我、悪夢の輪廻より逃れず、ただ一刃をもって獣を断つ】」
「【──獣、狩るべし。我が祈りは狩りの継続】」
「