「【獣狩りの夜】」
世界が──軋んだ。
バーサーカーが静かに歩み出る。その足取りは乱れず、恐れも焦りもない。ただ一人の狩人として、獲物を屠るためだけに前へ進む。
彼女の周囲で、空気が黒く染まり始めた。
──ザザァァァァ……
音とも風ともつかぬざわめきが、世界の縁から流れ込んでくる。まるで別の世界が、この現実へ侵入しようとしているかのように。
「……空間が……歪んでいく……?」
誠が息を呑んだ。
狂い火が巻き上げる災禍の廊下。だがその中心で、確かな“別の理”が侵入を始めていた。
──詠唱はすでに済んでいる。
あとはただ、宣言するだけ。
バーサーカーが鋸鉈を肩へ担ぎ、静かに告げた。
「獣狩りの夜がきた」
瞬間──世界が“裏返る”感覚が走った。
視界が闇に飲まれ、崩れ落ちる廊下も狂い火も、すべてが影の奥へ沈んでいく。
代わりに満ちていくのは──“夜”。
獣の遠吠えが木霊し、よどんだ霧が地を這う。
──空に月が浮かぶ。
それは月であって、月ではない。光を放ちながらなお穢れ、血に染まったような赤。
血のように紅い月が、この閉ざされた世界の天に昇る。
その光の下で、校舎は姿を変えていった。
石畳の路地が伸び、ねじれた街灯が屹立する。獣の死臭が漂い、異形の影が微かに蠢く。
ここはもう──学園ではない。
狩人の街、悪夢の領域。
「これ……固有結界……」
理央が呟いた。
その黒い瞳は、恐怖でも驚愕でもなく、ただこの現象を“理解”した者の光を宿していた。
「固有結界……って?」
状況を飲み込めない誠に、理央が呆然と答える。
「術者の心象風景を現実世界に投影する禁呪。魔法に最も近い、とされる魔術の到達点よ」
世界が塗り替えられたのだ。
バーサーカーは振り返らない。ただ前にいる──燃える災厄の塊、キャスターだけを見据えて歩み続ける。
石畳の路地に、鋼の靴底が静かに音を刻んだ。
バーサーカー──狩人はただ前へ進む。その視線の先には、黄色の狂焔をまとったキャスターがいる。
この世界において、外来の異物である狂い火は、場の空気そのものをきしませながら揺らめいている。しかし今──それを囲う世界の理は、確かに変質していた。
ここは《獣狩りの夜》──狩人が“獣”を屠るための世界。
理央が言った「こじつけ」は、確かに無茶だった。しかし結果として、この世界はキャスターを──“獣”として認識した。
──それはわかった。だが。
バーサーカーは小さく息を吐いた。
「……まさか、これで通ってしまうとは」
呆れとも溜息ともつかぬ声。しかしそこに焦りや苛立ちはなかった。あるのは、ただ「やれやれ」と肩を竦めたくなるような──静かな困惑。
「私の知る“獣”とは、獣の病に侵された末路。血に狂い、理を捨て、己を獣へと堕とした者たち……その名残と痕跡を狩るのが──狩人」
キャスターを見据えたまま、バーサーカーは淡々と続けた。
「人でも獣でもない、終末の火に魅入られた異形の存在……それを“獣”と定義するなど、本来は甚だ筋違いです」
鋸鉈を握る手には力がこもっていたが、それは興奮でも怒りでもない。
──冷静な狩人の判断。
「ですが──今の私は、サーヴァント」
小さく肩を竦める。
「この器は、人理に適応するため“解釈の余地”を持っている。ならば……この世界が“あれは獣だ”と定義したのなら」
足が止まる。
バーサーカーは正面に立った。キャスターとの距離、わずか十数メートル。
夜霧と狂い火の熱が渦を巻き、石畳が悲鳴を上げる。
鋸鉈が──低く、唸った。
「──獣狩りを遂行しましょう。対象は〈災厄の獣(ビースト)〉。あなたです」
狂い火がぎらりと揺れる。
キャスターにはもう顔がない。だが、その災厄は確かに嗤った。
この世界における、たった一つのルール。
──獣は狩られる。
それが、この夜の掟。
最初の一歩は、風も置き去りにする踏み込み。
バーサーカーの姿が掻き消えた。
次の瞬間にはすでに、キャスターの眼前へ──否、《喉元へ》肉迫していた。
ギィンッ!!
鋸鉈が狂い火の中心を裂く。
黄色の炎が弾け、空間が削れ、世界が揺れる。
「ほう──来るか、狩人ッ!!」
キャスターの袖から奔った炎の奔流が、獣の顎のようにバーサーカーを噛み砕こうとうねった。
紅など比にならない。焼くのではなく──存在を押し潰す力。
だが、狩人は止まらない。
「■■■■ァァァァァ──!!!」
裂帛の咆哮。
バーサーカーの動きは、もはや戦闘技術という次元に収まっていなかった。本能と殺意だけで構築された、獣の間合い。
しゃがみこみ、跳び、転がり、飛びかかる──
炎を避けるのではない。焼かれながら、喰らいながら──殺しに行く立ち回り。
「バーサーカー! いくら何でも無茶苦茶だ!」
誠の声は震えていた。
バーサーカーの右腕は炎に食われ、肘から先が溶けかけている。それでも彼女は止まらない。焼け落ちた腕のまま鋸鉈を振り抜く。
──ズバアッ!
狂い火の中、キャスターの胸を裂く。血が噴き出す。
──否、それは血ではなかった。
炎と呪いの混合物。災厄の権能が液状化したもの。純粋な──「穢れ」。
それを浴びれば──本来は霊基が腐る。霊魂が壊死する。
しかし。
「…………っ」
バーサーカーの口元が、笑った。
火傷じみた皮膚がボロボロと剥ける。しかしその下から──新しい皮膚が再生していく。
肩に喰い込んだ炎の傷が塞がっていく。
それどころか──彼女の目が、さらに輝きを増していく。
血を啜る獣のように。狩りを楽しむ狂人のように。
「──なるほど。あなたの血は、獣の様だ。匂い立つ、堪らぬ血で誘うではありませんか」
キャスターがわずかに息を呑んだ。
バーサーカーの瞳は、紅く、深く、底なしに濁っていく。
「狂って……狂化が進行して……」
理央が低く呟く。
「いや──違うと、思う」
誠は震える声で否定した。
「あれは──狩りに、血に酔っているんだ」
ギチギチギチ……
鋸鉈のリベットが軋む音とともに、バーサーカーは再び飛びかかった。
炎が彼女を焼く。
獣の血が傷を癒す。
狩人は止まらない。
狂い火に身を焼かれながらも迫り続けるバーサーカーに、キャスタ──―狂火の王は、はじめて明確な警戒の色を見せた。
「──チッ」
短い音とともに、キャスターは大きく後方へ跳んだ。その動きは逃走ですらなかった。間合いを開き、出力を引き上げるための準備動作。
黄色の炎が──揺れた。
いいや、それは揺れたのではない。
膨れ上がった。
世界を侵す脈動が辺りに満ちる。周囲の石畳が軋み、空気が軋み、理そのものが悲鳴を上げる。
「貴方もまた素晴らしい、血に酔った狩人よ! ならば僕もお見せしよう。すでにご存知だろうが、これが僕の宝具」
狂火が──爆ぜた。
──ゴウウウウウウウッッッ!!!!
夜空を覆う天蓋のごとく、狂い火が燃え上がる。
今までのそれは、ただ燃えていたに過ぎない。だが今は違う。炎が、世界を捕食し始めている。
石畳が燃え、崩れ──そこに穴が穿たれる。
地面が消えたのではない。世界が焼かれ、失われている。
紅い月が揺らぎ、空に走る黒いひびが裂け目のように広がっていく。
──ゴゴゴゴゴゴ……
バーサーカーの固有結界そのものが、黄色い炎に侵され始めていた。
「【狂い火・燼滅世界】」
理央が息を飲む。
「この炎……固有結界の境界を焼いて……世界そのものに穴を開け始めている……!」
獣狩りの夜が──消える。
バーサーカーの宝具は強い。だが、所詮は一時的に展開された内側の世界──固有結界という枠の上に成立する魔術に過ぎない。
だが今、その“世界”ですら──燃えている。
「面白い、面白いぞ狩人──!」
キャスターの声は、もはや人間の声ではない。燃える塊そのものが轟いている。
「君の世界ごと焼き尽くそう! 世界は燃える! 理は崩れる! 救いは沈み、すべては一つに回帰する──!」
狂い火は天を覆い、バーサーカーの展開した**固有結界《獣狩りの夜》**すらも焼き破ろうとしていた。
空の血の月が揺らぎ、世界は崩壊の音を立てる。
辺り一面を覆う石畳は崩落し、黒い深淵が口を開けていく。
キャスターは黄金の炎の中に立ち、両腕を広げて嗤った。
「焼け落ちろ、狩人──君の幻想も、誇りも、この夜もだ! 狂い火とは世界の終焉だ! 誰にも止められはしない!」
──ギィン。
その声を断ち切るように、鋼の軋む音が鳴った。
バーサーカーはまだ立っていた。
全身が焼け爛れ、片腕は消失し、脚も黒焦げに変色している。
だが──その瞳は、まだ獲物から逸れていない。
逃さない。
絶対に逃がさない。
狩人の眼だ。
「良く吠える……獣の自覚がおありの様ですね」
その瞬間──狩人が地を蹴った。
爆発のような踏み込み。肉体が裂ける音が聞こえるほど無理やりな加速。
狂い火が襲う。押し寄せる炎は壁ではない。世界そのものの崩壊波──触れれば存在ごと削れて消える。
普通なら、絶対に踏み込めない領域。
だが、彼女は躊躇なく踏み込んだ。
焼かれて構わない。削れて構わない。骸になろうと、止まらなければ、それでいい。
鋸鉈が振り下ろされる。
キャスターは咆哮し──炎で迎撃する。
四肢が焼け飛ぶ。
肋骨が露出し、炭のように砕け散る。
それでもバーサーカーは──前に進む。
「ッッああああああああああああああああああッ!!!!」
鋸鉈が振り下ろされ──狂い火を裂く。何度でも。
焼かれながら、霧散しながら──食らいついて離さない。
「馬鹿な──ありえない──何故そこまで──!」
狂い火の咆哮が揺らぐ。
バーサーカーの全身はもう原形を留めていない。
それでも彼女は笑っていた。
血に酔い、狩りに酔い──殺すこと以外を捨て去った──純粋な狩人の笑み。
「──いいえ。やはりあなたは、獣だ」
バーサーカーの声は低く、暗く、熱を持っていた。
──そしてそれは、合図だった。
バーサーカーは自分の状態を確認する。
四肢は破壊され、肉体は焼かれ、それでもなお再生し、狂気と血に染まっていく。
もう十分だ。
この領域に踏み込んだ時点で、後戻りなどできない。
──だから。
バーサーカーは鋸鉈を構え直す。
その声は静かに、しかしこの夜に明確な変化を告げる。
「宝具【獣狩りの夜】──第二段階」
世界が裂けていた。
狂い火の炎が《獣狩りの夜》を食らい尽くし、空に走るひび割れから、現実そのものが崩壊していく。
バーサーカーは、それでも前を向いていた。
焼けただれた肌、溶けた肉、崩れ落ちそうな骨。
それでもなお、獣の眼をしていた。
その時──だった。
──オギャアァァァ……オギャアァァァァ……。
どこからともなく、赤子の泣き声が響いた。
男でも女でもない、形を持たぬ声。
それはまるで、世界そのものが啼いているようだった。
狂い火が、わずかに──揺らいだ。
バーサーカーはその声を聞いた瞬間、顔を顰めた。
眉をひそめ、吐き捨てるように呟く。
「……嗚呼……忌まわしい」
その声音には、怒りでも恐怖でもない。
ただ、深い嫌悪と──記憶の痛みがあった。
紅い月の下で、バーサーカーの周囲の霧がざわめく。
その泣き声に呼応するように、夜の空気が粘つき、腐敗していく。
理央が思わず息を呑む。
「……なに、今の……? 赤ん坊の声……?」
「聞いてはなりません!」
セイバーが即座に遮る。その声には明確な警告の色があった。
「──あれは、“夢の底”から響くものでしょう」
オギャアァァァァ……。
再び、泣き声。
バーサーカーの表情が歪む。牙のような歯が軋みを上げる。
その瞬間、キャスターの狂い火が跳ねた。
まるで、何かに気づいたように。
「……今のは……何だ?」
狂い火の王は、わずかに後ずさった。
あの炎の化身が、“本能的な恐怖”に駆られたように。
──違う。
それは恐怖というより、生存本能の発火だった。
キャスターは、すべての炎を引き戻した。
燃え広がっていた狂い火が、一瞬で収束する。
空を覆っていた光がひとつにまとまり、まるで“太陽”のように凝縮していく。
「──これは、危険だ……! この夜の下には、何がいる!」
狂火の王の声が震える。
それは怒りでも嘲りでもなく、本能の危機感。
生者も死者も、狂気すらも焼き尽くす彼が、初めて見せた「退きの色」。
キャスターは炎を一点に集中させ──
バーサーカーの固有結界へ突き立てた。
──ゴオオオオオオッ!!
天地を裂く衝撃。
世界の布が引き裂かれ、空間に“穴”が穿たれる。
紅い月が一瞬、歪んだ。
夜の理が破られ、外の現実が覗く。
キャスターはその“穴”へ身を投げる。
逃亡──それは、燃え尽きる前に残された、最後の理性の行動。
「この夜は……危険だ。狩人よ、貴方も中々厄介な物を宿しているようですね」
狂火の王は炎の奔流とともに闇へ消えた。
世界を貫いた光の筋だけが残り──
その余波で、固有結界は大きく軋んだ。
「はあ!? 逃げるつもりか!」
──オギャアァァァァ……。
泣き声は、まだ響いていた。
バーサーカーはその音に、忌々しげに目を細める。
鋸鉈を地に突き立て、唇を噛み、呟いた。
「……このまま維持する意味はありませんね」
バーサーカーは赤子の泣き声に眉をひそめながら、鋸鉈を肩に担ぎ直した。その行動には、焦りも動揺も一切ない。だがその声音には、確かに苛立ちが混じっている。
「──閉じます」
その一言と共に、世界が静かに“折り畳まれた”。
血のように赤かった月は暗い影に飲まれ、霧に満ちた悪夢の街路は瓦礫の中へ沈んでいく。崩れた建物、歪んだ街灯、血臭を孕んだ夜風──それら全てが、砂のように崩れ、崖の上から落ちていくかのように現実の狭間へと消えていく。
やがて視界を満たしたのは──崩壊した学園の廊下だった。
割れたコンクリート、焦げ跡、瓦礫だらけの通路。そこに満ちていた灼熱の炎は完全に消えており、キャスターの気配は──どこにもなかった。
「……消えた。逃げたのね、キャスター」
理央が低く呟く。
「逃亡と言うより撤退でしょう。腹の底では、早急に仕切り直すべきと判断したのでしょうね」
バーサーカーは淡々と答え、血のついた手で髪を払う。
その瞬間──残っていた“狩人の夜”の気配までも霧散した。
完全に、宝具は解除された。
──その時だ。
「……っ──あ……?」
誠が短く息を吸い込み、ふらついた。
胸の奥をつかまれたように、何かが抜け落ちていく。熱でも痛みでもない。だが、確かに──致命的な喪失。
「ま……て……何だ、これ……」
膝が崩れた。
誠は力を失い、床に倒れ込む。視界が暗く染まっていくのに、何が起きたのか理解できない。ただ──自分の中心にあった何かが、ごっそりと失われた実感だけがある。
「灰原君!」
理央が駆け寄り、膝をついて誠の肩を支えた。すぐに紗月も駆け寄ってきて、慌てて誠の体を抱き起こす。
誠の体から力が抜け落ち、彼は理央の腕の中でゆっくりと崩れ落ちた。
閉じられた瞼の下で、微かに息があるのを確かめて、理央は深く息を吐いた。
「……無理もない。固有結界の展開に、キャスターの宝具との干渉……魔力消費は桁違いだったはず。生きているだけで奇跡よ」
バーサーカーは、そんな三人を静かに見つめていた。
鋸鉈を静かに地面へ下ろし、深く息を吐く。
「……申し訳ありません、マスター。貴方の負担を、読み切れませんでした」
その声は、夜の余韻の中で淡く響いた。
廊下の天井から、崩れたコンクリートがぱらりと落ちる。
戦いの終わりを告げる、冷たい音だった。
狩りの夜(ナイト・オブ・ビーストハント)
ランク:A+ 種別:対獣宝具/対界宝具(第二段階)
レンジ:自身~最大2km(結界内)
最大捕捉:結界内の「獣」全て
かつて彼女が歩んだ永遠の夜、血に狂い獣に堕ちた者たちを狩るためだけに存在した「狩人の悪夢」を現界へと再現する固有結界。
この宝具は通常の固有結界と異なり、世界法則を『狩りの理』へと書き換える性質を持つ。内部では世界構造が歪められ、生者も死者も獣と成り果てる呪いを浴び、そしてただ一つの法則――“獣は狩られる”――が絶対の真理として成立する。
結界内においてバーサーカーは多数の補正を得る。
全行動に対する身体能力補正(筋力・敏捷上昇)
血への渇望による超再生(獣の血を浴びることで肉体再生)
精神攻撃に対する耐性上昇(狂気馴化)
対「獣」特攻補正(霊格差を無視)
「獣」の定義は異常に広く捉えられ、理性の喪失・呪い・進行性変質・世界汚染など、人理の外側に逸脱した存在はすべて“獣”として判定されうる。ゆえに本宝具は、ビーストクラスを含む『人類悪』への対抗手段として成立し得る特異な性質を持つ。
■第二段階:???
種別:対界宝具(内部解放) ランク:EX
《狂い火・燼滅世界(フレイム・オブ・フレンジ)》
ランク:EX 種別:対界宝具 レンジ:∞ 最大捕捉:全世界
■解説
かつて「狭間の地」を焼き尽くし、秩序も理も因果も意味もすべてを無に還そうとした災厄――狂い火(フレンジー)。
キャスターが身に宿すのは火の一形態でも、魔術のカテゴリーでもない。
それは世界そのものを侵す“概念の炎”であり、万物の境界と認識を焼き壊し、すべての存在を溶かして「ひとつ」へと統合する終末の火である。
聖杯戦争を根底から崩壊させる宝具であるが、あまりにも消費魔力が多くどれほど卓越した魔力量を持つマスターであっても単体では短時間しか発動は出来ない。