──翌朝。
鈍い曇天の下、誠は理央と紗月と並んで登校していた。
校舎はすでに修復を終え、外観だけを見れば、まるで何事もなかったかのように整っていた。
だが──その整いすぎた静けさが、かえって不気味だった。
門をくぐった瞬間、誠の足取りがわずかに重くなる。
焼けた床、崩れた壁、倒れた机──あの夜の記憶が、鮮明に蘇る。
それらはすべて修繕され、塗り直され、見た目だけは“元通り”になっていた。
けれど、空気の中にはまだ残っている。焦げたような、冷たい魔力の残滓。
教室の扉を開けると、ざわめきが止んだ。
全員が一瞬だけこちらを見る──
「……おはよう」
そう言っても、返ってくる声はまばらだった。
席につき、周囲を見渡す。
空席が、いくつか。
窓際の一番後ろ──篠田。前の列の端──高原。どちらも、事故当時、現場にいたはずの生徒だった。
担任が教壇に立ち、いつも通りの調子で出席をとる。
「えーっと……篠田は、今日もお休みか。……高原も、まだ入院中だな」
淡々と読み上げる声。
その無関心さが、逆に現実を突きつけてくる。
誠はノートを開きながら、隣を見る。
理央は、机にまっすぐ背筋を伸ばして座っていた。
視線は黒板だけを向いている。
教師の説明に合わせて淡々とノートを取り、何の感情も見せない。
休み時間になっても、誰に話しかけることもなく、静かに参考書を開いていた。
まるで、何かを遮断するように。
“人間”という存在そのものを、距離の外に置いているようだった。
──昨日まで、同盟を結んだ仲間として言葉を交わした。
けれど、教室の中にいる彼女はまるで別人のようだった。
その孤立は、選ばれたものの覚悟か、それともただの防衛か──誠にはわからなかった。
午前の授業が三つほど過ぎたころだった。
黒板にチョークの音が響く中、誠は半ば惰性でノートを取っていた。
理央は相変わらず黙々と文字を並べ、表情一つ動かさない。
教室の空気はどこか重く、以前よりも明らかに沈んでいる。
そんな中──背後から、机を小さく叩く音がした。
「……灰原氏、灰原氏」
聞き慣れた、鼻にかかった声。
振り向くと、後ろの席の紫村がぷにっと膨れた頬を寄せるようにしてこちらを覗き込んでいた。
シャツのボタンは相変わらず限界まで引き伸ばされベルトは悲鳴を上げている。
彼の腹は机に押しつぶされており、まるでそこから別の生き物が顔を出しているようだった。
「……紫村、授業中だぞ」
「しっ、声小さく。これはトップシークレット……」
そう言いながら、彼は小さく目をぎょろぎょろさせ、いかにも“秘密の共有”といった表情を作る。
誠は半眼になりながら、教科書の陰で囁き返した。
「……何だよ、またアニメの円盤でも買えなかったのか?」
「ち、違う違う! 今回はマジのやつですぞ。ガチ相談」
紫村は小刻みに首を振り、机の上で太い指をこすり合わせながら、落ち着きなく周囲を見回した。
前の席の理央がちらりとこちらを振り向くと、慌てて咳払いをして誤魔化す。
誠は半ば呆れたように眉を上げた。
「……どうせまた誰にも言えない“重要機密”なんだろ?」
「いや、そうなんだけども! これは、ちょっと……教室じゃ話せない」
紫村の声がかすかに震えていた。
その様子はいつもの冗談めいた調子ではない。
だが、あえて誇張したような喋り方は変わらず、本人なりの“平静”のつもりなのかもしれない。
「……昼休み。話せるますかな? 場所は……屋上で」
誠は瞬きをした。
「屋上?」
「うむ、あそこの階段のとこで……ちょっと、相談したくて」
その瞬間、誠の背筋がぴたりと固まった。
屋上に続く階段。
──キャスターと、初めて遭遇した場所。
あの異様な魔力の奔流、耳を裂く炎の音、崩れた空間の記憶。
理性の奥に押し込めていた光景が、一瞬で蘇る。
紫村の口からその場所の名が出た瞬間、空気の色が変わった気がした。
チョークの音が遠のき、鼓動だけが耳に響く。
誠は、ほんの短い間を置いて、ゆっくりと頷いた。
その表情はいつもの柔らかさを消し、鋭く、静かに引き締まっていた。
「……わかった。昼だな」
それだけ告げて前を向く。
紫村は安堵したように笑い、机に突っ伏す。
その腹が小刻みに揺れた。
「サンキュー……灰原氏」
誠は返事をしなかった。
ノートに視線を落としながら、心の奥に冷たい影を感じていた。
──なぜ、屋上の階段なのか。
偶然か、それとも必然か。
教壇の教師の声が、まるで遠い場所から聞こえるように響く。
誠の指先は、ノートの端を握りしめていた。
昼休みまで、あと一時間。
教室の時計の針が、妙に遅く感じられた。
昼休みのチャイムが鳴った。
どこか緊張の抜けきらない教室の空気の中で、弁当箱を取り出す音がちらほらと響く。
誠も自分の鞄から弁当を取り出そうとしたその時──隣の理央が、静かに声をかけた。
「……灰原君」
彼女は、机の上に手作りらしき弁当箱を置いていた。
白い包みをほどきながら、わずかに視線を逸らして言う。
「これ、今日のお弁当」
言葉は淡々としていたが、その声音にはどこか遠慮が混じっていた。
誠が返事をしようと口を開きかけた──その瞬間。
「お、おい灰原氏ッ!!」
後ろから勢いよく手が伸びてきた。
ずしりとした衝撃とともに、誠の腕をがっしり掴んだのは紫村だった。
「さっき話した相談の件で、ちょっと来てもらえますな! 」
「は? お、おい紫村、何──」
理央がわずかに眉をひそめる。
紫村は焦った様子で言葉を早口に並べた。
「すまない黒野女史! ちょっと灰原氏、借りる! 緊急の──えっと、男子的事情で!」
誠が止める間もなく、太い腕で半ば引きずられるようにして教室を出る。
理央の視線が背中に突き刺さるのを感じながらも、振り返る余裕はなかった。
廊下を抜け、人気のない階段へ。
昼休みとはいえ、生徒の気配はほとんどない。
紫村は息を切らしながら、屋上へ続く鉄の扉の前で立ち止まった。
そこは──あの場所。
キャスターと初めて遭遇した、焼け焦げた階段。
修復されているはずなのに、誠の脳裏には、黒煙と炎の残像がよぎる。
「……おい、紫村。強引すぎるだろ」
紫村はあたりをきょろきょろと見回し、額の汗を拭った。
その目にはいつものおどけた色がなかった。
「……誰も、いないな」
小声でそう呟くと、階段の陰へ手招きした。
その仕草がやけに慎重で、まるで誰かに見られていることを恐れているようだった。
「こっち来てくれますかな。誰かに聞かれたら困る」
だが、誠は動かなかった。
階段の段差をひとつ残した位置で、立ち止まったまま彼を見据える。
表情は一変して、警戒の色を帯びている。
「……何の話だ。ここでいい」
その声に、紫村の喉が小さく鳴った。
焦りとも、恐怖ともつかない声。
誠の中では、すでにキャスターとの夜の記憶が警鐘を鳴らしていた。
あの時も、最初はただの偶然に見えた。
だからこそ──同じ場所で、同じように呼び出された今、偶然で済ませることはできない。
紫村は、それでも必死に笑みを作りながら、
「いや、その……だからさ……」
と、言葉を詰まらせた。
誠の目が、冷たく光った。
階段の上から差し込む昼の光が、二人の影を鋭く伸ばしていた。
紫村は、誠が一歩も動かないのを見て、焦ったように唇を噛んだ。
額ににじむ汗が、首筋を伝って制服の襟を濡らす。
「……そうか。来てくれませんか、灰原氏」
苦笑を浮かべるような声色。
だが、その目の奥に、妙な諦めの色が見えた。
誠の眉がわずかに動く。
次の瞬間、紫村は小さく首を傾げ──誰かに向かって、言葉を放った。
「おーい、出てきて大丈夫ですぞ」
その声は、迷子の子猫に呼びかけるような遠慮がちな声だった。
誠の視線が、階段の陰へと向く。
──カサ、と。
薄暗い壁の影がわずかに揺れ、小さな人影が動いた。
服の裾のような布がちらりと見える。
その瞬間、誠の心臓が跳ねた。
──罠だ。
思考が稲妻のように閃く。
体が反射的に動き、声が先に走った。
「──バーサーカーッ!!」
叫びが空気を裂いた。
直後、何もない空間が揺らぎ、圧倒的な魔力の奔流が階段に吹き荒れる。
風が爆ぜ、冷気が弾ける。
そこに現れたのは──霊体化して随行していたバーサーカーだった。
銀の髪が舞い、獣のような紅の瞳が閃く。
その出現は一瞬。
巨躯が空気を切り裂き、紫村の襟首をまるで紙切れのように掴み上げた。
「ぐえっ……!? ちょっ、まっ──」
抵抗する間もなく、紫村の背中が壁に叩きつけられる。
轟音。鉄骨の軋む音。
制服の背が軋み、彼の足が宙を泳ぐ。
バーサーカーの表情には、怒りでも嘲りでもない。
ただ、冷え切った警戒と、主の命令を果たすための静かな殺気。
「マスター」
低く、澄んだ声が響く。
彼女は紫村を片手で壁に押さえつけたまま、誠の方に視線を向ける。
「この者……どういたしますか」
誠は呼吸を整えながら、階段の陰をにらみつけた。
そこに潜む“何か”が、まだ動きを見せていない。
冷たい汗が背中を流れる。
階段の上から射し込む光の中、紫村の喉が掠れた悲鳴を上げた。
「ま、待ってくれ! 俺はっ……!」
その声を遮るように、バーサーカーの指がわずかに力を込める。
誠は静かに息を吐いた。
「……貴方の首なんて、一瞬でへし折れますよ。動かないほうがいい」
声は低く、冷たく。
誠の瞳に宿るのは、恐怖ではなく、決意だった。
──同じ場所で、二度も不意を打たれるつもりはない。
階段の陰に、微かな動き。
誠とバーサーカーが同時にそちらへ視線を向けた。
やがて──物陰の奥から、すっと一人の影が姿を現す。
小柄だった。
十代前半、少女。
だが、その姿は「普通」という言葉からはあまりにも遠かった。
色の抜けたような白髪が肩口で乱れ、肌の色は紙のように白い。
深紅の瞳だけが異様に鮮烈で、その視線がこちらをじっと捉える。
全身に包帯が巻かれており、制服の袖口や襟元から白布が覗いている。
やせ細った体。
唇は血の気を失い、表情というものがほとんど存在しなかった。
誠は、思わず息を止めた。
──違う。
自分が想像していた“敵”ではなかった。
頭部が燃え盛る炎の怪物──キャスターそのものが現れると身構えていた分、
あまりに“静かな”その姿に、拍子抜けにも似た違和感を覚えた。
「……子供……?」
呟いたその声に、バーサーカーがわずかに顎を傾ける。
その視線は、すでに少女を正確に“測って”いた。
「マスター、油断は禁物です」
バーサーカーの声音は冷ややかで、わずかな緊張を含んでいる。
「──あれは、サーヴァントです」
その一言に、誠の背筋が再び張り詰めた。
脳裏で、魔力の流れを感知する。
確かに──少女の周囲には、微細な、しかし確かな霊的圧が漂っている。
少女はただ、無表情のまま誠たちを見つめていた。
その眼差しに敵意も、恐怖も、感情と呼べるものが何ひとつ存在しない。
──まるで、“生きている”こと自体が不自然な存在。
紫村が喉を鳴らした。
バーサーカーに押さえつけられたまま、苦しげに声を絞り出す。
「ま、待ってくれ……! そいつは……!」
誠は紫村を見ずに、少女へ視線を向けたまま低く言った。
「誰だ。お前のマスターは紫村なのか」
問いかけても、少女は瞬き一つしない。
その無反応が、逆に不気味だった。
風が階段の隙間を抜け、包帯をかすかに揺らす。
白と紅──その対比が、どこか異様に美しくさえあった。
バーサーカーが更に紫村を締め上げる。
重い靴音が階段に響き、鉄の手すりが低く唸った。
「マスター。命令を」
その声に、誠は短く息を吸い、少女を見据える。
誠の合図を待つように、バーサーカーの腕に力がこもった。
紫村の顔が苦痛に歪み、壁に押しつけられた背中が軋む。
「ま、待て待て待てっ! 話せば分かる! 本当にっ、誤解なんですぞ灰原氏!」
声は上ずり、額から脂汗が吹き出していた。
だが誠の表情は微動だにしない。冷ややかに問いを重ねる。
「……なら、説明してもらおうか。その子は何だ。なぜここにいる」
紫村は視線を泳がせ、絞り出すように答えた。
「そ、そいつは……! お、俺の──姪っ子……ですぞ!」
言ってから、しまったといった顔をする。
年齢的にあまりにも無理がある。
誠が眉をひそめた瞬間、紫村は慌てて言い直した。
「いやっ! ちがっ、従妹! そう、従妹です! 田舎の方から来てて! ちょっと体が弱くて、だから隠してたんですぞ!」
必死に弁明する声は、まるで泥に足を取られたように頼りなかった。
バーサーカーは無言で紫村の腕を掴み直す。
その動作は静かで、だが容赦がなかった。
紫村の腕をねじり上げ、袖を乱暴に押し上げる。
「ひぃっ!? ま、待ってくだされお姉さん!」
その叫びは途中で止まった。
肌色のテーピングが、ぐしゃりと剥がれ落ちる。
下から、赤黒い紋章が覗いた。
令呪──三つの刻印。
まるで焼き鏝を押しつけたように皮膚へ深く刻まれ、淡く脈動していた。
誠の目が細められる。
「……お前、それ」
低く、鋭い声。
紫村は青ざめた顔で、腕を隠そうとするが、バーサーカーの掌がびくともしない。
「紫村。お前……マスターか」
問い詰める声に、紫村は脂汗を流しながら口をぱくつかせる。
「ま、待ってくれ! 一体何の話!? 俺は、気付いたらこれがあって!」
「気づいたら?」
誠の声が低く沈み、空気がぴんと張りつめた。
バーサーカーがさらに力を込め、紫村の喉元が苦しげに震える。
「お前のその“従妹”……いや、そのサーヴァントを召喚したのは誰だ。お前じゃないのか?」
問いに、紫村は目を泳がせた。
少女は依然として階段の影に立ち、何の反応も見せない。
「サーヴァント!? わ、わからん……俺は何も……! 本当に、知らないんだ……気づいたら、この子が部屋にいて……!」
その声は震え、恐怖と混乱が滲んでいた。
だが、誠の胸中から疑念が消えることはなかった。
彼の眼前で──令呪が、確かに淡い赤光を放っていたからだ。
バーサーカーが誠へ視線を向ける。
「マスター命令を。殺しますか? 幸い目撃者はいません、黒野理央が上手い事処理してくれるでしょう」
その冷徹な声音に、誠はわずかに眉をひそめた。
紫村の喉元を押さえつけるバーサーカーの指先が、今にも骨を砕きそうなほどの力を帯びている。
「……待ってくれ、バーサーカー」
誠は低く、しかしはっきりとした声で制した。
バーサーカーの指が止まり、紫村が息を詰まらせたまま、咳とも呻きともつかない音を漏らす。
誠は一拍おいて、静かに問いを投げかけた。
「マスター一人につき、サーヴァントは一人。だよな?」
バーサーカーは視線を誠に移し、わずかに顎を引いた。
その仕草は軍人のような厳密さを持っている。
「はい。聖杯戦争の原則として、マスターは一騎のサーヴァントと契約します。例外はあるのでしょうが、稀なケースかと」
「そうか……」
誠は紫村と、白髪の少女を交互に見た。
少女は依然として無表情のまま、誠たちを見つめている。
そこには敵意も、焦りも、何ひとつ読み取れなかった。
「──つまり、この子は“キャスター”じゃない」
誠が呟くように言うと、バーサーカーは静かに頷いた。
「おそらく別のクラスでしょう。魔力の質も、キャスターのものとは異なります。この男が“キャスターのマスター”である可能性は、低いかと」
その言葉に、誠は長く息を吐いた。
慎重に、状況を整理するように。
「……なら、離してやってくれ。殺す必要はない」
バーサーカーの紅の瞳が一瞬だけ鋭く光る。
しかし、すぐに冷静さを取り戻し、従順に頷いた。
「了解しました、マスター」
押さえつけていた腕を放すと、紫村の身体が重力に従って崩れ落ちた。
床に両膝をつき、激しく咳き込みながら、喉を押さえて苦しそうに息を吸い込む。
「げほっ……ひ、ひどいですぞ……! 首が折れるかと思った……!」
その横で、少女がゆっくりと動いた。
静かに階段の影から出てくる。
包帯の下で関節の浮いた腕をだらりと下げたまま、倒れた紫村のそばに歩み寄る。
しかし──心配の色は、一切なかった。
まるで命の温度を持たない人形のように、彼の隣に腰を下ろす。
その赤い瞳は、感情のないまま紫村の背を見つめていた。
誠はその光景を黙って見ていた。
あまりにも異様で、あまりにも静かな主従の姿だった。
「どうしたものかな……」