食事を終えたあと、二人はしばらく席を立てずにいた。
テーブルの上には、空になったカップと包み紙。油の匂いと、遠くのざわめきだけが残っている。
紫村が小さく息をつき、氷の溶けたコーラを軽く振った。
「……さて。食うもん食ったはいいが、これからどうしますかな」
誠は答えず、窓の外を見つめていた。
夜の街。ガラス越しに流れる車のライトが、まるで別世界のように遠い。
その光をぼんやり追っているうちに、胸の奥に鈍い痛みが広がる。
──あの時、理央の声を振り切った。
彼女が何を言いたかったのか、本当は分かっていたはずだ。
それでも、あのまま言葉を聞けば、自分の中の何かが壊れそうで。
結局、拒絶するしかなかった。
紫村は、ふう、と小さく息を吐いてカップを置いた。
隣では、包帯の少女──ライダーが、まだ微かに残っていたポテトの端をつまみ、もぐもぐと噛んでいる。
表情は無い。だが、その仕草はどこかぎこちなく、まるで“人間の真似”をしているようだった。
ふと紫村は、その口元にケチャップが付いているのに気づいた。
ポケットからハンカチを取り出し、軽く身を乗り出す。
「おやおや、お転婆ガールですな」
ライダーは瞬きもせず、ただ紫村を見上げる。
「なあ、灰原氏」
「……なんだ」
「もし、自分が──この“聖杯戦争”というやつを、降りるにはどうすれば良いのですか?」
誠はストローを咥えたまま動きを止めた。
透明な氷がカランと音を立て、沈黙が落ちる。
秀則の声はいつになく真剣だった。
「灰原氏と黒野女史が話していた時のことを、思い出しまして。確か、令呪を他の誰かに譲渡すれば、リタイアできる、そうでしたな?」
誠はしばらく口を閉ざしたまま、ストローの先を見つめていた。
店内のざわめきが、遠くから波のように押し寄せては消える。
やがて、低い声で答えた。
「……ああ。黒野がそう言ってた。令呪を他人に譲れば、マスターの資格を失う──それで、聖杯戦争からは抜けられる。らしい」
紫村は身を乗り出した。
「では、実際にどうやって令呪を譲るんです? 魔術の儀式か、何か決まった手順でも?」
誠はその問いに言葉を失った。
頭の中で、理央との会話を必死に思い出そうとする。
──だが、思い出せない。
彼女は「譲渡できる」と言っただけで、方法までは教えてくれなかった。
「……知らない」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「知らない?」
「ああ。どうやるのか、聞いてない。理央は“危険だから、絶対にするな”って、それだけだ」
紫村は眉をひそめ、腕を組んだ。
「……それでは、絵に描いた餅ですな。“譲れば終われる”と言われても、肝心のやり方が分からねば話になりませぬ」
誠は冷めきった紙コップを指で転がし、紫村は沈黙のままストローを噛んでいた。
ライダーは変わらず表情を持たず、空になったトレイの端をぼんやりと見つめている。
外の街は、夜の喧騒を映す鏡のようだった。
車のヘッドライトがガラス越しに流れ、行き交う人々の声が遠い。
そのざわめきの中に、ほんの一瞬──異質な気配が混じった。
カラン、と。
ドアのベルが鳴る。
入ってきたのは、一人の男だった。
フード付きのパーカーにジーンズという、どこにでもいるような格好。
だが、誠は目を離せなかった。
その顔に、何かが引っかかった。
思考が先に進まず、ただ視線だけが男を追う。
男は周囲を軽く見渡したあと、まるで当然のように──誠たちの隣の席へと歩いてきた。
そして、何の遠慮もなく腰を下ろす。
誠の指先がわずかに震える。
どこかで、見たことがある。だがいつ、どこで。
その男がこちらを向き、微笑んだ。
柔らかな笑みだった。穏やかで、人間らしい。
しかし──それこそが、誠の記憶を決定的に繋いだ。
「……お、お前」
声がかすれる。
男は小さく頷き、まるで旧友に再会したかのように穏やかに口を開いた。
「やあ、こんばんは。狩人、そしてそのマスター」
──キャスター。
誠の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
あのとき、燃え盛る火の頭部で、狂気と理性の狭間に立っていた“あの存在”が──
今は、炎を纏わず、人間の姿で、微笑んでいる。
「……どうして、ここに」
誠の声には、わずかな怒気と警戒が滲んだ。
だがキャスターは、まるでそれすら懐かしむように目を細めた。
「君たちに会いたくてね」
キャスターは、ゆるやかに背を椅子へ預けた。
その動作一つに、敵意も殺気も感じられない──それなのに、誠の喉はひどく乾いた。
無意識に椅子から腰を上げかけたその瞬間、
キャスターの声が、まるで喉元に刃を当てるように響いた。
「──不用意に動けば、この場の全員を殺す」
言葉は静かだった。
だが、その響きには何の誇張も脅しもなかった。
ただの事実として、淡々と告げられた“宣告”。
誠の足が止まる。
店内にはまだ十数人の客と、カウンターの奥で作業する店員たち。
誰も異変に気づいていない。
ただ、日常の音だけが流れている。──ポテトを揚げる油の音、氷のぶつかる音、笑い声。
そのどれもが、今にも破裂しそうな硝子細工のように脆く感じられた。
「……卑怯だぞ、脅しか」
誠は低く唸るように言ったが、声には力がなかった。
キャスターは肩を竦め、微笑を崩さぬまま小さく首を振った。
「違うさ。私にそのつもりはない──だが、君たちが剣を抜けば、抑えられなくなる。“火”というのはね、意志とは別に燃え広がるものなんだ」
その穏やかな声音が、逆に誠の背筋を冷たく撫でた。
理性の底に、かつて見た“狂い火”の記憶が蘇る。
あの炎の奔流──狂気の光景が、脳裏を焼いた。
誠は唇を強く噛み、低く呟いた。
「……バーサーカー、動くな」
隣で静かに座っていた銀髪の女が、わずかに頷く。
その視線はキャスターを捉えたまま、わずかも揺れない。
キャスターは、カップの縁を指でなぞりながら、ゆっくりと息を吐いた。
その横顔は穏やかだったが、瞳の奥には形容しがたい熱が宿っている。
「……賢明だ」
その声は柔らかく、しかし確かな重みを持っていた。
「人通りの多い場所を避難先に選ぶ。正しい判断だ。血なまぐさい戦いから距離を置き、理性を保とうとする──それもいい。
君は戦士ではなく、現実的な人間だ。だからこそ、生き延びる術を知っている」
一瞬だけ、誠の胸に安堵が灯る。
だが次の言葉が、それを容易く打ち砕いた。
「だがね──」
キャスターの指先が、空になったカップを軽く叩いた。
その音は、どこか冷たい金属の響きを帯びていた。
「それは所詮、“常人の発想”だ。つまらない」
誠の瞳が鋭く細まる。
紫村は息を呑み、ライダーは微動だにしないまま、その声の揺らぎを測っている。
店内の空気が、わずかに凍った。
「君は良くも悪くも、人を傷つけ、人に傷つけられることを恐れている。──だが、それではこの戦いでは生き残れない」
キャスターは身を乗り出すでもなく、ただ視線だけを誠に向けた。
それはあまりにも自然で、あまりにも人間らしい動きだった。
だが誠には、その眼差しの奥に、焼けた大地と血の匂いが見えた。
「君のような者を、私は嫌いではない。
しかし、そんな“正しさ”は──いずれ灰になる」
言葉と同時に、キャスターの笑みがふっと薄れる。
その変化はごくわずかだったが、確実に空気を変えた。
「この店も、じきに閉まるだろう」
彼は、窓の外の時計をちらりと見た。
夜は深く、街の喧騒が少しずつ静まり始めている。
「終電が終われば、人通りも途絶える。そうなれば──」
キャスターは軽く笑った。
その笑みはあまりにも穏やかで、まるで死の宣告を語っているとは思えなかった。
「君たちを殺す」
誠はキャスターの視線に囚われたまま、息をすることさえ忘れていた。
まるで全身を目に見えぬ糸で縫いとめられたように、筋肉が微動だにしない。
意識だけが、ゆっくりと沈んでいく。
視界の端では、店員が無言で椅子を積み上げていく。
カウンターの照明が一つずつ落とされ、蛍光灯の残光が天井を淡く照らす。
「閉店のお時間でーす」
面倒くさそうな店員の声が響き、客たちは一人、また一人と立ち上がる。
最後に残った誠たちのテーブルにも、その静かな視線が向けられた。
キャスターは何も言わなかった。
ただ、カップの底を指で転がすように弄びながら、穏やかに笑っていた。
誠は喉の奥で何かを飲み込む。
椅子を引く音さえ、爆発の引き金になりそうで──ただ、息を殺すことしかできなかった。
シャッターの降りる音が遠くから響き、店内の照明が落ちた。
店員が申し訳なさそうにドアを開けると、誠と紫村は、追い出されるようにして夜の空気の中へ出た。
街の明かりが冷たく滲んでいる。
夜気が肌を刺すように痛い。
「……どうしますか」
紫村が低く言った。
誠は返事をせず、駅の方向を見やる。
人の多い場所──それだけを頼りに、二人は歩き出した。
駅前には、まだ人の流れがあった。
遅い帰宅客、酔った会社員、タクシー待ちの列。
そのざわめきの中を、誠と紫村は黙って歩いた。
だが、時間は確実に人の熱を奪っていく。
ネオンが一つ、また一つと落ち、終電を知らせるアナウンスが遠くで響く。
線路の向こうを最後の列車が滑り、灯りを引きずりながら夜の闇に消えた。
──それが、区切りだった。
改札口を出入りする人影はもうなく、駅前広場は次第に空気だけを残した。
吹き抜ける風が紙くずを転がし、街灯が二人の影を細長く引き伸ばす。
誠は周囲を見渡した。
人影は、ほとんどない。
紫村が苦笑を浮かべる。
「彼は、敵なのですか? 黒野女史の言っていた、キャスターとやらで……?」
その言葉に、誠は答えられなかった。
背後で、靴音が静かに鳴る。
振り向かずとも分かった。
キャスターだ。
数歩後ろ──人混みが途絶えた夜の舗道を、まるで散歩でもしているように、穏やかな足取りでついてくる。
パーカーのフードを下げたその顔は、笑っている。
敵意はない。殺気もない。
だが、その存在そのものが、世界から温度を奪っていた。
誠の喉が、また乾いた。
何度も振り返ろうとして、そのたびに思いとどまる。
振り返れば、きっと──終わる。
夜風が冷たく吹き抜けた。
遠くのビルの時計が、午前零時を指す。
公園のベンチは冷たく、夜露に濡れていた。
人の気配はもうどこにもなかった。
街灯の光が丸く地面を照らし、その外側には闇が濃く沈んでいる。
誠と紫村は、並んで立っていた。
何をするでもなく、ただ呼吸だけを確かめるように。
遠くで信号が切り替わる音がして、風が乾いた枝葉を揺らした。
誠は、駅の方角を振り返った。
すでに電車の音は途絶えて久しい。
ネオンの明かりも消え、残るのはコンビニの看板と、自販機の微かな唸りだけ。
まるで世界のすべてが、眠りに落ちてしまったようだった。
紫村が、小さく息を吐いた。
「……駅前でも、0時を回ればこんなものですか」
誠は頷こうとして、ふと気づいた。
背中に、冷たい気配が落ちている。
足音はなかった。
風も止んでいた。
それでも確かに、何かがそこに“いる”。
──声がした。
「ここでいいのかい?」
あまりにも穏やかな声音だった。
まるで散歩中に道を尋ねるような口調で。
誠の喉がひくりと動く。
視線だけを後ろへ向けようとして、それもできなかった。
代わりに、紫村の指先がかすかに震えたのが見えた。
数秒の沈黙。
風が、遠くのフェンスを叩いた。
恐る恐る、誠は振り返った。
そこに──キャスターが立っていた。
もはや人の顔ではなかった。
その頭部は、黄の炎に覆われていた。
ゆらゆらと揺らめくそれは、光であり、熱であり、そして──狂気だった。
火は風に揺れながらも形を崩さず、まるで意志を持つ生き物のように蠢いている。
人間だった頃の穏やかな輪郭だけが、残酷なほど鮮明に思い出せた。
キャスターは一歩、こちらへ歩み寄った。
その炎の奥で、確かに笑っていた。
「──夜は、静かだ」
次の瞬間、世界が裏返ったように見えた。
キャスターが指先をわずかに払う。
それだけで、夜の空気が破裂するように膨張した。
音もなく、炎が降った。
風に散る花びらのように、黄色の火が夜空から零れ落ち、公園一帯を覆っていく。
枯れ草が燃え、ベンチが軋み、街灯の根元で金属が溶ける。
静寂の中に、焼けた空気の音だけが満ちていった。
「宝具
誠は反射的に腕で顔を庇った。
熱が皮膚を舐め、息を吸うたび肺が焼けるように痛む。
キャスターの姿は、炎の中心にあった。
それはもはや人の形ではなく、“燃える何か”の輪郭だった。
バーサーカーが動いた。
風が跳ね、灰を蹴り上げる。
彼女の身体に、黒布と革の影が重なり──瞬く間に狩人の装束が現れた。
煤けた外套が夜風をはらみ、月光の下で金具が鈍く光る。
右手には鋸鉈、左手には単発銃。
その立ち姿は、まるで異界の儀礼を踏むような静けさを纏っていた。
炎の海が唸りを上げる。
空気が焼け、地面の砂利が赤く光りはじめていた。
誠は息を荒げながら、腕で熱気を遮った。
皮膚が痛い。喉が乾く。だがそれ以上に、理不尽な苛立ちが胸を満たしていた。
「……あの野郎、宝具ばっかり撃ちやがって……!」
乾いた声が漏れた。
怒鳴る余裕もない。ただ悔しさだけが言葉になった。
炎の向こうで、キャスターの姿が歪んで見える。
あの燃え盛る頭部が、淡く脈打つたびに空間そのものが軋んでいた。
「バーサーカー!」
誠は叫んだ。
「前みたいに、宝具で返り討ちに出来ないのか!?」
言葉の途中で、バーサーカーがこちらを振り向いた。
その瞳は静かだった。熱も怒りも、何も映していない──ただ、戦場を見据える目。
「──駄目です」
彼女の声は、燃える音の合間に沈むように響いた。
「私の宝具は貴方には消耗が激しすぎる。支援が戦えるか怪しいライダーとそのマスターでは、余りに危険です」
バーサーカーは、鋸鉈を構え直す。
外套の裾が炎に照らされ、影が長く伸びた。
「時間を稼ぎます。マスター、そして紫村秀則。今のうちに離脱を」
「な……バーサーカー!?」
誠が顔を上げるより早く、バーサーカーは駆け出していた。
熱の中を、影が走る。
炎を裂いて踏み込み、鋸鉈が唸りを上げた。
火花と火の粉が弾け、鋼の軋む音が夜を震わせる。
キャスターはその攻撃を正面から受け止めた。
掌で火を巻き上げ、爆ぜる熱波が二人の間を押し広げる。
バーサーカーの外套が焦げ、火の粉が髪に降る。
それでも彼女は退かなかった。
「早く! 聖杯戦争から離脱するにしろ、戦い続けるにしろ、貴方に死んで貰っては困ります」
炎が爆ぜる。熱風が背を叩く。
バーサーカーとキャスターの戦いは、もはや音ではなく“圧”となって世界を揺らしていた。
誠は一歩、二歩と後ずさる。
視界の端で、紫村が顔を覆いながら言った。
「なんじゃこれは……これが聖杯戦争……」
熱で声が震えていた。
ライダーはその隣で、小さく息をしている。
炎の輝きが包帯の隙間から覗く白い肌を照らし、影がゆらりと揺れた。
誠が腕を伸ばす。
「紫村、ライダーを連れて──」
「わかっとります!」
紫村が即座に動いた。
だが次の瞬間、彼は顔をしかめた。
「ライダーちゃん、走れますか」
ライダーは瞬きひとつせず、静かに首を振った。
「困ったちゃん!」
紫村はため息をひとつ。
次の瞬間、彼はしゃがみ込み、ライダーの腕を引き上げた。
そのまま背中に担ぎ上げる。
ライダーを背負ったまま走る彼の歩幅は短い。
誠が振り向きざまに叫んだ。
「急げ、紫村!」
「はいはい!!」
彼は笑うように言い捨て、肩の上のライダーを支え直す。
息が荒く、額から汗が落ちた。