Fate/You Died.   作:助兵衛

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第22話 迫る狂気

 食事を終えたあと、二人はしばらく席を立てずにいた。

 テーブルの上には、空になったカップと包み紙。油の匂いと、遠くのざわめきだけが残っている。

 

 紫村が小さく息をつき、氷の溶けたコーラを軽く振った。

 

「……さて。食うもん食ったはいいが、これからどうしますかな」

 

 誠は答えず、窓の外を見つめていた。

 夜の街。ガラス越しに流れる車のライトが、まるで別世界のように遠い。

 その光をぼんやり追っているうちに、胸の奥に鈍い痛みが広がる。

 

 ──あの時、理央の声を振り切った。

 彼女が何を言いたかったのか、本当は分かっていたはずだ。

 それでも、あのまま言葉を聞けば、自分の中の何かが壊れそうで。

 結局、拒絶するしかなかった。

 

 紫村は、ふう、と小さく息を吐いてカップを置いた。

 隣では、包帯の少女──ライダーが、まだ微かに残っていたポテトの端をつまみ、もぐもぐと噛んでいる。

 表情は無い。だが、その仕草はどこかぎこちなく、まるで“人間の真似”をしているようだった。

 

 ふと紫村は、その口元にケチャップが付いているのに気づいた。

 

 ポケットからハンカチを取り出し、軽く身を乗り出す。

 

「おやおや、お転婆ガールですな」

 

 ライダーは瞬きもせず、ただ紫村を見上げる。

 

「なあ、灰原氏」

 

「……なんだ」

 

「もし、自分が──この“聖杯戦争”というやつを、降りるにはどうすれば良いのですか?」

 

 誠はストローを咥えたまま動きを止めた。

 透明な氷がカランと音を立て、沈黙が落ちる。

 

 秀則の声はいつになく真剣だった。

 

「灰原氏と黒野女史が話していた時のことを、思い出しまして。確か、令呪を他の誰かに譲渡すれば、リタイアできる、そうでしたな?」

 

 誠はしばらく口を閉ざしたまま、ストローの先を見つめていた。

 店内のざわめきが、遠くから波のように押し寄せては消える。

 やがて、低い声で答えた。

 

「……ああ。黒野がそう言ってた。令呪を他人に譲れば、マスターの資格を失う──それで、聖杯戦争からは抜けられる。らしい」

 

 紫村は身を乗り出した。

 

「では、実際にどうやって令呪を譲るんです? 魔術の儀式か、何か決まった手順でも?」

 

 誠はその問いに言葉を失った。

 頭の中で、理央との会話を必死に思い出そうとする。

 ──だが、思い出せない。

 彼女は「譲渡できる」と言っただけで、方法までは教えてくれなかった。

 

「……知らない」

 

 小さく呟いた声は、自分でも驚くほど乾いていた。

 

「知らない?」

 

「ああ。どうやるのか、聞いてない。理央は“危険だから、絶対にするな”って、それだけだ」

 

 紫村は眉をひそめ、腕を組んだ。

 

「……それでは、絵に描いた餅ですな。“譲れば終われる”と言われても、肝心のやり方が分からねば話になりませぬ」

 

 誠は冷めきった紙コップを指で転がし、紫村は沈黙のままストローを噛んでいた。

 ライダーは変わらず表情を持たず、空になったトレイの端をぼんやりと見つめている。

 

 外の街は、夜の喧騒を映す鏡のようだった。

 車のヘッドライトがガラス越しに流れ、行き交う人々の声が遠い。

 そのざわめきの中に、ほんの一瞬──異質な気配が混じった。

 

 カラン、と。

 ドアのベルが鳴る。

 

 入ってきたのは、一人の男だった。

 フード付きのパーカーにジーンズという、どこにでもいるような格好。

 だが、誠は目を離せなかった。

 その顔に、何かが引っかかった。

 思考が先に進まず、ただ視線だけが男を追う。

 

 男は周囲を軽く見渡したあと、まるで当然のように──誠たちの隣の席へと歩いてきた。

 そして、何の遠慮もなく腰を下ろす。

 

 誠の指先がわずかに震える。

 どこかで、見たことがある。だがいつ、どこで。

 

 その男がこちらを向き、微笑んだ。

 柔らかな笑みだった。穏やかで、人間らしい。

 しかし──それこそが、誠の記憶を決定的に繋いだ。

 

「……お、お前」

 

 声がかすれる。

 男は小さく頷き、まるで旧友に再会したかのように穏やかに口を開いた。

 

「やあ、こんばんは。狩人、そしてそのマスター」

 

 ──キャスター。

 

 誠の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。

 あのとき、燃え盛る火の頭部で、狂気と理性の狭間に立っていた“あの存在”が──

 今は、炎を纏わず、人間の姿で、微笑んでいる。

 

「……どうして、ここに」

 

 誠の声には、わずかな怒気と警戒が滲んだ。

 だがキャスターは、まるでそれすら懐かしむように目を細めた。

 

「君たちに会いたくてね」

 

 キャスターは、ゆるやかに背を椅子へ預けた。

 その動作一つに、敵意も殺気も感じられない──それなのに、誠の喉はひどく乾いた。

 

 無意識に椅子から腰を上げかけたその瞬間、

 キャスターの声が、まるで喉元に刃を当てるように響いた。

 

「──不用意に動けば、この場の全員を殺す」

 

 言葉は静かだった。

 だが、その響きには何の誇張も脅しもなかった。

 ただの事実として、淡々と告げられた“宣告”。

 

 誠の足が止まる。

 店内にはまだ十数人の客と、カウンターの奥で作業する店員たち。

 誰も異変に気づいていない。

 ただ、日常の音だけが流れている。──ポテトを揚げる油の音、氷のぶつかる音、笑い声。

 

 そのどれもが、今にも破裂しそうな硝子細工のように脆く感じられた。

 

「……卑怯だぞ、脅しか」

 

 誠は低く唸るように言ったが、声には力がなかった。

 キャスターは肩を竦め、微笑を崩さぬまま小さく首を振った。

 

「違うさ。私にそのつもりはない──だが、君たちが剣を抜けば、抑えられなくなる。“火”というのはね、意志とは別に燃え広がるものなんだ」

 

 その穏やかな声音が、逆に誠の背筋を冷たく撫でた。

 理性の底に、かつて見た“狂い火”の記憶が蘇る。

 あの炎の奔流──狂気の光景が、脳裏を焼いた。

 

 誠は唇を強く噛み、低く呟いた。

 

「……バーサーカー、動くな」

 

 隣で静かに座っていた銀髪の女が、わずかに頷く。

 その視線はキャスターを捉えたまま、わずかも揺れない。

 

 キャスターは、カップの縁を指でなぞりながら、ゆっくりと息を吐いた。

 その横顔は穏やかだったが、瞳の奥には形容しがたい熱が宿っている。

 

「……賢明だ」

 

 その声は柔らかく、しかし確かな重みを持っていた。

 

「人通りの多い場所を避難先に選ぶ。正しい判断だ。血なまぐさい戦いから距離を置き、理性を保とうとする──それもいい。

 君は戦士ではなく、現実的な人間だ。だからこそ、生き延びる術を知っている」

 

 一瞬だけ、誠の胸に安堵が灯る。

 だが次の言葉が、それを容易く打ち砕いた。

 

「だがね──」

 

 キャスターの指先が、空になったカップを軽く叩いた。

 その音は、どこか冷たい金属の響きを帯びていた。

 

「それは所詮、“常人の発想”だ。つまらない」

 

 誠の瞳が鋭く細まる。

 紫村は息を呑み、ライダーは微動だにしないまま、その声の揺らぎを測っている。

 店内の空気が、わずかに凍った。

 

「君は良くも悪くも、人を傷つけ、人に傷つけられることを恐れている。──だが、それではこの戦いでは生き残れない」

 

 キャスターは身を乗り出すでもなく、ただ視線だけを誠に向けた。

 それはあまりにも自然で、あまりにも人間らしい動きだった。

 だが誠には、その眼差しの奥に、焼けた大地と血の匂いが見えた。

 

「君のような者を、私は嫌いではない。

 しかし、そんな“正しさ”は──いずれ灰になる」

 

 言葉と同時に、キャスターの笑みがふっと薄れる。

 その変化はごくわずかだったが、確実に空気を変えた。

 

「この店も、じきに閉まるだろう」

 

 彼は、窓の外の時計をちらりと見た。

 夜は深く、街の喧騒が少しずつ静まり始めている。

 

「終電が終われば、人通りも途絶える。そうなれば──」

 

 キャスターは軽く笑った。

 その笑みはあまりにも穏やかで、まるで死の宣告を語っているとは思えなかった。

 

「君たちを殺す」

 

 誠はキャスターの視線に囚われたまま、息をすることさえ忘れていた。

 まるで全身を目に見えぬ糸で縫いとめられたように、筋肉が微動だにしない。

 意識だけが、ゆっくりと沈んでいく。

 

 視界の端では、店員が無言で椅子を積み上げていく。

 カウンターの照明が一つずつ落とされ、蛍光灯の残光が天井を淡く照らす。

 

「閉店のお時間でーす」

 

 面倒くさそうな店員の声が響き、客たちは一人、また一人と立ち上がる。

 最後に残った誠たちのテーブルにも、その静かな視線が向けられた。

 

 キャスターは何も言わなかった。

 ただ、カップの底を指で転がすように弄びながら、穏やかに笑っていた。

 

 誠は喉の奥で何かを飲み込む。

 椅子を引く音さえ、爆発の引き金になりそうで──ただ、息を殺すことしかできなかった。

 

 シャッターの降りる音が遠くから響き、店内の照明が落ちた。

 店員が申し訳なさそうにドアを開けると、誠と紫村は、追い出されるようにして夜の空気の中へ出た。

 

 街の明かりが冷たく滲んでいる。

 夜気が肌を刺すように痛い。

 

「……どうしますか」

 

 紫村が低く言った。

 誠は返事をせず、駅の方向を見やる。

 人の多い場所──それだけを頼りに、二人は歩き出した。

 

 駅前には、まだ人の流れがあった。

 遅い帰宅客、酔った会社員、タクシー待ちの列。

 そのざわめきの中を、誠と紫村は黙って歩いた。

 

 だが、時間は確実に人の熱を奪っていく。

 ネオンが一つ、また一つと落ち、終電を知らせるアナウンスが遠くで響く。

 線路の向こうを最後の列車が滑り、灯りを引きずりながら夜の闇に消えた。

 

 ──それが、区切りだった。

 

 改札口を出入りする人影はもうなく、駅前広場は次第に空気だけを残した。

 吹き抜ける風が紙くずを転がし、街灯が二人の影を細長く引き伸ばす。

 

 誠は周囲を見渡した。

 人影は、ほとんどない。

 紫村が苦笑を浮かべる。

 

「彼は、敵なのですか? 黒野女史の言っていた、キャスターとやらで……?」

 

 その言葉に、誠は答えられなかった。

 背後で、靴音が静かに鳴る。

 

 振り向かずとも分かった。

 キャスターだ。

 

 数歩後ろ──人混みが途絶えた夜の舗道を、まるで散歩でもしているように、穏やかな足取りでついてくる。

 パーカーのフードを下げたその顔は、笑っている。

 敵意はない。殺気もない。

 だが、その存在そのものが、世界から温度を奪っていた。

 

 誠の喉が、また乾いた。

 何度も振り返ろうとして、そのたびに思いとどまる。

 振り返れば、きっと──終わる。

 

 夜風が冷たく吹き抜けた。

 遠くのビルの時計が、午前零時を指す。

 

 公園のベンチは冷たく、夜露に濡れていた。

 人の気配はもうどこにもなかった。

 街灯の光が丸く地面を照らし、その外側には闇が濃く沈んでいる。

 

 誠と紫村は、並んで立っていた。

 何をするでもなく、ただ呼吸だけを確かめるように。

 遠くで信号が切り替わる音がして、風が乾いた枝葉を揺らした。

 

 誠は、駅の方角を振り返った。

 すでに電車の音は途絶えて久しい。

 ネオンの明かりも消え、残るのはコンビニの看板と、自販機の微かな唸りだけ。

 まるで世界のすべてが、眠りに落ちてしまったようだった。

 

 紫村が、小さく息を吐いた。

 

「……駅前でも、0時を回ればこんなものですか」

 

 誠は頷こうとして、ふと気づいた。

 背中に、冷たい気配が落ちている。

 

 足音はなかった。

 風も止んでいた。

 それでも確かに、何かがそこに“いる”。

 

 ──声がした。

 

「ここでいいのかい?」

 

 あまりにも穏やかな声音だった。

 まるで散歩中に道を尋ねるような口調で。

 

 誠の喉がひくりと動く。

 視線だけを後ろへ向けようとして、それもできなかった。

 代わりに、紫村の指先がかすかに震えたのが見えた。

 

 数秒の沈黙。

 風が、遠くのフェンスを叩いた。

 

 恐る恐る、誠は振り返った。

 

 そこに──キャスターが立っていた。

 

 もはや人の顔ではなかった。

 その頭部は、黄の炎に覆われていた。

 ゆらゆらと揺らめくそれは、光であり、熱であり、そして──狂気だった。

 

 火は風に揺れながらも形を崩さず、まるで意志を持つ生き物のように蠢いている。

 人間だった頃の穏やかな輪郭だけが、残酷なほど鮮明に思い出せた。

 

 キャスターは一歩、こちらへ歩み寄った。

 その炎の奥で、確かに笑っていた。

 

「──夜は、静かだ」

 

 次の瞬間、世界が裏返ったように見えた。

 キャスターが指先をわずかに払う。

 それだけで、夜の空気が破裂するように膨張した。

 

 音もなく、炎が降った。

 風に散る花びらのように、黄色の火が夜空から零れ落ち、公園一帯を覆っていく。

 枯れ草が燃え、ベンチが軋み、街灯の根元で金属が溶ける。

 静寂の中に、焼けた空気の音だけが満ちていった。

 

「宝具【狂い火・燼滅世界】(フレイム・フリンジ)

 

 誠は反射的に腕で顔を庇った。

 熱が皮膚を舐め、息を吸うたび肺が焼けるように痛む。

 キャスターの姿は、炎の中心にあった。

 それはもはや人の形ではなく、“燃える何か”の輪郭だった。

 

 バーサーカーが動いた。

 風が跳ね、灰を蹴り上げる。

 彼女の身体に、黒布と革の影が重なり──瞬く間に狩人の装束が現れた。

 

 煤けた外套が夜風をはらみ、月光の下で金具が鈍く光る。

 右手には鋸鉈、左手には単発銃。

 その立ち姿は、まるで異界の儀礼を踏むような静けさを纏っていた。

 

 炎の海が唸りを上げる。

 空気が焼け、地面の砂利が赤く光りはじめていた。

 

 誠は息を荒げながら、腕で熱気を遮った。

 皮膚が痛い。喉が乾く。だがそれ以上に、理不尽な苛立ちが胸を満たしていた。

 

「……あの野郎、宝具ばっかり撃ちやがって……!」

 

 乾いた声が漏れた。

 怒鳴る余裕もない。ただ悔しさだけが言葉になった。

 炎の向こうで、キャスターの姿が歪んで見える。

 あの燃え盛る頭部が、淡く脈打つたびに空間そのものが軋んでいた。

 

「バーサーカー!」

 

 誠は叫んだ。

 

「前みたいに、宝具で返り討ちに出来ないのか!?」

 

 言葉の途中で、バーサーカーがこちらを振り向いた。

 その瞳は静かだった。熱も怒りも、何も映していない──ただ、戦場を見据える目。

 

「──駄目です」

 

 彼女の声は、燃える音の合間に沈むように響いた。

 

「私の宝具は貴方には消耗が激しすぎる。支援が戦えるか怪しいライダーとそのマスターでは、余りに危険です」

 

 バーサーカーは、鋸鉈を構え直す。

 外套の裾が炎に照らされ、影が長く伸びた。

 

「時間を稼ぎます。マスター、そして紫村秀則。今のうちに離脱を」

 

「な……バーサーカー!?」

 

 誠が顔を上げるより早く、バーサーカーは駆け出していた。

 

 熱の中を、影が走る。

 炎を裂いて踏み込み、鋸鉈が唸りを上げた。

 火花と火の粉が弾け、鋼の軋む音が夜を震わせる。

 

 キャスターはその攻撃を正面から受け止めた。

 掌で火を巻き上げ、爆ぜる熱波が二人の間を押し広げる。

 バーサーカーの外套が焦げ、火の粉が髪に降る。

 それでも彼女は退かなかった。

 

「早く! 聖杯戦争から離脱するにしろ、戦い続けるにしろ、貴方に死んで貰っては困ります」

 

 炎が爆ぜる。熱風が背を叩く。

 バーサーカーとキャスターの戦いは、もはや音ではなく“圧”となって世界を揺らしていた。

 

 誠は一歩、二歩と後ずさる。

 視界の端で、紫村が顔を覆いながら言った。

 

「なんじゃこれは……これが聖杯戦争……」

 

 熱で声が震えていた。

 ライダーはその隣で、小さく息をしている。

 炎の輝きが包帯の隙間から覗く白い肌を照らし、影がゆらりと揺れた。

 

 誠が腕を伸ばす。

 

「紫村、ライダーを連れて──」

 

「わかっとります!」

 

 紫村が即座に動いた。

 だが次の瞬間、彼は顔をしかめた。

 

「ライダーちゃん、走れますか」

 

 ライダーは瞬きひとつせず、静かに首を振った。

 

「困ったちゃん!」

 

 紫村はため息をひとつ。

 

 次の瞬間、彼はしゃがみ込み、ライダーの腕を引き上げた。

 そのまま背中に担ぎ上げる。

 

 ライダーを背負ったまま走る彼の歩幅は短い。

 誠が振り向きざまに叫んだ。

 

「急げ、紫村!」

 

「はいはい!!」

 

 彼は笑うように言い捨て、肩の上のライダーを支え直す。

 息が荒く、額から汗が落ちた。

 

 

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