バーサーカーとキャスター。
火と鋼がぶつかる音が、夜気を震わせる。
遠くで何かが爆ぜ、遅れて熱波が街路を駆け抜けた。
屋根瓦が跳ね、風が灰を巻き上げる。
「くそっ……この距離でもこれか……」
誠は腕で顔を庇いながら、秀則を振り返る。
秀則はライダーを背負ったまま、よろめくように走っていた。
少女の白い包帯が灰に濡れ、ところどころ黒く染まっている。
それでも彼女は微動だにせず、ただ背中にしがみついていた。
「紫村! そのまままっすぐ行け!」
誠が叫ぶ。
秀則は息を切らしながら振り向いた。
「ひぃ……ひぃ……!」
誠は背後を一瞥した。
公園の方向が、赤黒い光で明滅している。
建物の影が歪み、空が焦げていた。
それでも──バーサーカーは、まだ立っていた。
炎の壁の向こうで、銀の影が跳ねる。
鋸鉈の火花が閃き、続いて銃声が夜を裂いた。
その一瞬だけ、世界が静止したように見えた。
秀則の肩が上下している。
背に負ったライダーは、まるで人形のように身じろぎひとつしない。
彼の息は荒く、喉の奥で何度も咳き込みながらも、足を止めなかった。
「灰原氏……!」
呼ばれて、誠は振り向く。
灰が舞い込み、視界が滲む。
「──どこに、逃げます?」
その問いは、あまりにも現実的で、あまりにも重かった。
どこに。
何を避けて。
どこまで逃げれば、この夜が終わるのか。
誠は息を吸い込もうとしたが、肺が焼けて言葉にならない。
思考が灰に沈むように鈍く、ただ視界の端に赤い光がちらつく。
公園の方向──まだ燃えている。
バーサーカーの影が、炎の中で跳ねたように見えた。
「灰原氏!」
秀則の声が再び届く。
その声音には焦りよりも、確かめるような響きがあった。
それでも誠は、首を振るしかできなかった。
「……わからない」
かすれた声が、自分でも聞き取れないほど小さく漏れた。
どこへ逃げるべきかなど、考えたこともない。
今はただ──走ることだけが、生きている証のように思えた。
「……とにかく、離れる!」
誠は叫ぶように言い、足を強く踏み出した。
灰が舞い上がり、視界を覆う。
焼け焦げた街路樹の影が歪み、遠くの灯が揺らぐ。
秀則は頷き、ライダーを背負い直した。
「ええ、離れますとも──どこまでも!」
二人の靴音が、夜の底で響いた。
灰を踏みしめる音、呼吸の乱れる音、遠くで爆ぜる音。
「──っ、紫村、ちょっと待て!」
舗道の向こう、灰の帳が風に散る。
そこに、何かが立っていた。
その輪郭が街灯の下に浮かんだ瞬間、誠は息を呑んだ。
かぼちゃの兜。
それは記憶の底から這い上がってくる悪夢だった。
以前、学校を襲撃した時に現れた“それ”。
セイバーが切り伏せ、バーサーカーが嬲り殺したあの異形。
だが今、その両者はいない。
鈍色の甲冑が軋みを上げ、かぼちゃのような頭部の内部でくぐもった笑い声が響く。
動くたびに鉄の継ぎ目が鳴り、地面が低く震えた。
秀則が息を呑んだ。
「あれは!? いや、見るからに敵ですな!」
誠は答えず、拳を握りしめた。
その瞬間、空気が裂けた。
かぼちゃ頭の大男が、足を一歩踏み出す。
アスファルトが砕け、破片が灰の中に散る。
その動作は、巨体に似合わぬほど静かだった。
「くそっ……なんでここに……!」
誠が吐き捨てる。
だが理由は明白だった。
キャスターが生み出した使い魔──主が戦う場所から離れた敵を、逃さないための“狩り犬”。
バーサーカーは今、キャスター本人と相対している。
この怪物を止められる者は、もう誰もいない。
ライダーを背負った秀則が、荒い息の合間に問うた。
「灰原氏……どうします!?」
誠は返事をしなかった。
頭の中が真っ白だった。
足は止まっているのに、心臓だけが走り続けている。
夜風が吹き抜け、灰が頬に当たる。
街灯の光がその粒を照らし、銀の粉のように舞った。
──逃げなければ。
それだけは分かっているのに、脚が動かない。
かぼちゃ頭がゆっくりと顔を上げた。
鉄の継ぎ目が鳴り、仄かな橙光が眼窩の奥で灯る。
その無機質な光は、笑っているようにも見えた。
秀則が背中のライダーを支え直し、歯を食いしばる。
「……戻りましょう! こいつを避けて、元の道に──!」
誠は我に返り、頷いた。
背後には、まだ火の海が広がっている。
それでも、そこ以外に逃げ道はなかった。
二人は息を合わせるようにして踵を返す。
靴音が灰を蹴り上げ、夜の静寂を裂いた。
だが、数歩と進まないうちに──。
「……嘘だろ」
誠が声を失う。
前方の灰の帳が、ふっと揺れた。
そこから現れたのは、もう一体の影だった。
同じ、かぼちゃ頭。
その顔面の奥でも、同じ橙の光が脈動していた。
退路は塞がれた。
道の両端に、無言の死が立っている。
灰の中で息を呑む音だけが響いた。
秀則は肩越しに、かぼちゃ頭と誠のあいだを見比べた。
「……詰んだ、ですな」
乾いた声が震える。
かぼちゃ頭の片方が、ゆっくりと腕を上げた。
指のような鉄の鉤爪が、灰を散らしながら誠たちを指す。
それはまるで、「見つけた」と言っているかのようだった。
しかし、次の瞬間。
──破裂音。
甲高い銃声が、灰を突き抜けた。
耳を裂く衝撃と同時に、かぼちゃ頭の右脚が弾けた。
鉄片が飛び散り、地面に火花が散る。
誠が振り返る。
秀則の背中──そこに背負われたライダーが、
いつの間にか身を起こしていた。
その手には、見たことのない大口径の拳銃。
包帯の隙間から覗く指が、黒い引き金を確かに握っている。
照準はぶれず、煙の中で瞳が光った。
「……今のうちに」
掠れた声。
そして、再び銃声。
「み、耳がっ……」
二発目が放たれ、鉄の巨体が膝をつく。
炎と灰が風に巻かれ、夜が震えた。
誠の喉が鳴る。
「……撃った、のか……?」
ライダーは答えない。
ただ無表情のまま、銃口をわずかに下げた。
背負われたままのその姿勢は、不自然なほど安定していた。
誠は咄嗟に叫んだ。
「今だ──走れッ!」
秀則は即座に反応した。
背中のライダーを支え直し、灰を蹴り上げて駆け出す。
誠も後を追った。
銃弾を受けたかぼちゃ頭の動きが鈍っている。
膝をついたまま、軋む金属音を響かせて立ち上がろうとするが、右脚が重く沈む。
「こっちですぞ! 早く!」
秀則が叫び、狭い側道へ身を滑り込ませる。
ライダーの拳銃が再び光り、後方の壁を撃ち抜いた。
跳弾が灰を弾き、鉄の巨体がわずかに怯む。
その隙に、二人は走った。
息が荒い。
視界は灰と汗で滲み、灯りはぼやけて見える。
舗道の割れ目から熱気が漏れ、遠くで火花が弾けた。
公園の方向からはまだ、バーサーカーとキャスターの戦いの音が続いている。
だが、その轟音も徐々に遠のいていくように感じた。
どれほど走ったのか分からない。
気づけば、灰の少ない通りへ出ていた。
建物の影が高く、風が流れる。
ようやく、使い魔の気配が消えていた。
「……ふう……」
秀則が壁に片手をつき、肩で息をする。
背中のライダーはまだ無言のまま、拳銃を握っていた。
その黒い銃身が、月の光を受けて微かに光る。
誠も膝に手をつき、荒く息を吐いた。
肺の奥が痛い。
灰を吸いすぎて、喉が焼けているようだった。
しばらく沈黙が続いたのち、秀則がようやく口を開く。
「……ライダーちゃん」
振り返る。
「その銃、いったいどこから出したんです? まさかポケットってわけでもありますまい」
ライダーは首だけを僅かに傾け、答えた。
「これは──宝具」
声は静かだった。
包帯の隙間から覗く瞳が、微かに光を宿している。
「“主武装”ではない。けれど、状況に応じて形を変えられる……今は、パイロット用サイドアームの一部だけ顕現させた」
秀則は思わず息を飲む。
「なるほど……?」
誠は、ライダーの拳銃を見つめていた。
あの静かな一撃──ほんのわずかな隙を正確に撃ち抜く、その動作。
バーサーカーのように荒々しい力や圧倒的な膂力はない。
だが、それでも確かに“戦っていた”。
彼女はただ守られる存在ではない。
状況を読み、敵を制し、戦場で生き延びる術を持っている。
誠は、胸の奥で小さく息を吐いた。
「さっきはありがとう、おかげで助かったよ」
ライダーは返事をしない。
ただ、背中の上でゆっくりと銃の安全装置を戻す音がした。
その静かな仕草が、かえって確かな“実力”を物語っているようだった。
誠は灰に濡れた前髪をかき上げ、疲れた笑みを浮かべた。
「バーサーカーみたいな派手さはないけど……それでも、十分だ。これで、戦うって事になっても安心だな」
その言葉に、秀則はちらりと振り向いた。
汗と灰に汚れた顔に、どこか複雑な影が落ちている。
「うむ……」
短い返答だった。
歯切れが悪く、どこか引っかかるような声音。
誠は訝しげに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
秀則の肩はまだ上下し、ライダーの軽い体を支える手がわずかに震えている。
無理もない。
ここまでの逃走で、彼の体力も限界に近いはずだった。
しばらくの休息を終え、三人は再び歩き出そうとしていた。
空はまだ灰に覆われ、街の輪郭が霞んでいる。
遠くでは、焦げた街灯が時折、ちらちらと明滅していた。
「……よし、行こうか」
誠が低く言い、足を踏み出す。
その瞬間だった。
風が変わった。
耳の奥に、金属の軋む音がかすかに響いた。
次いで、地面が僅かに揺れる。
まるで、重い何かが──地を這うように近づいてくる。
秀則が振り返る。
「まさか……!」
灰の帳の向こう、路地の奥で橙の光が二つ、ゆらりと灯った。
──かぼちゃ頭。
脚を撃ち抜かれ、倒れたはずの使い魔が、這うようにして立ち上がっていた。
膝を引きずり、腕を支えにして進むその姿は、人の形を保ちながらも、もはや人ではなかった。
「……まだ動くのかよ」
誠の喉が乾く。
音もなく、汗が頬を伝った。
秀則がライダーを背負い直し、わずかに身構える。
だが彼の表情には、明らかな疲労と恐怖が滲んでいた。
誠は短く息を吸い、ライダーを見た。
包帯の少女の掌には、すでにあの黒い拳銃。
撃鉄に指をかけ、視線を上げた。
「……ライダー、また、頼めるか」」
誠の声は掠れていた。
それでも、彼女には届いたらしい。
わずかな間。
灰が一片、静かに落ちた。
ライダーは答えなかった。
だが、無言で銃を構えた。
その動きには迷いがなかった。
灰を吸い込む空気の中で、彼女の瞳だけが確かな光を宿していた。
かぼちゃ頭が吠える。
鉄の喉がひび割れたような音を立て、橙の光が閃いた。
ライダーの指が、静かに引き金へとかかる。
その刹那。
秀則の手が、不意に伸びた。
「──ライダーちゃん」
掴む。
強引に、銃を奪い取る。
ライダーの細い指がわずかに開き、黒い拳銃が彼の掌に収まった。
「紫村!? なにを──!」
誠の叫びが届くより早く、秀則は構えていた。
構え──などというものではない。
両手は震え、狙いもつかない。
それでも、彼は引き金を引いた。
──パンッ。
乾いた音。
銃口が跳ね、火花が夜を裂いた。
弾丸は、遠くの壁を穿ち、灰の中に消える。
二発目。外れ。
三発目。外れ。
四発目──火花だけが散り、かぼちゃ頭の肩をかすめた。
「くそっ……むずかしい!」
五発目。
今度こそ、と言わんばかりに息を止め、引き金を引いた。
──命中。
鉛弾が鉄の胸板を叩き、甲冑が軋む。
巨体が一歩よろめき、火花を散らしながら膝をついた。
誠は思わず叫んだ。
「なんでお前が撃ってるんだよ!」
秀則は深く息を吐き、銃を握る手を見つめていた。
その顔には、疲労と焦燥、そして何か別の──強い意志の影があった。
秀則は、静かにライダーを背負い直した。
その瞳の奥は、どこか遠くを見ていた。
まるで、今この場にいながら別の景色を見ているようだった。
「……普通の、生活……」
ぽつりと、呟いた。
それは、誰に向けた言葉でもなかった。
自分の胸の奥に沈めていたものが、ふいに漏れたような声。
誠は眉をひそめる。
秀則は続けた。
「この子が、聖杯に望む物は……普通の生活です」
ゆっくりと顔を上げる。
背中のライダーは、相変わらず無表情のままだった。
「“普通の生活”。そう言ってたんです」
秀則の声は、かすれていた。
拳銃を握る指がわずかに強張る。
「……だから、気づいたら、奪っておりました」
彼は苦笑のような表情を浮かべた。
「戦わせたくなかった。そんな子に、もう一度銃を握らせたくありません」
誠は、灰を吸い込みながら、秀則の言葉を聞いていた。
「普通の生活」──その響きが、焼け焦げた夜の空気の中で、あまりにも場違いに思えた。
「……なに、綺麗事を言ってるんだよ」
声は低く、押し殺すようだった。
だが、胸の奥に溜め込んでいた怒りが、その一言に滲んでいた。
「バーサーカーが命を賭けて戦って、キャスターがあの地獄を作ってる最中だ。そんな中で“普通の生活”だって? そんなの、どうやったって無理だ!」
誠が一歩踏み出す。
足元の灰がざりと鳴った。
秀則は動かない。
ただ、静かに誠を見返していた。
「……それでも、です」
短く、しかしはっきりとした声だった。
秀則は拳銃を下ろし、背中の少女を支え直した。
「この子には戦わせない。自分はそう決めました」
その言葉に、誠の目が見開かれる。
「なに言ってる……それじゃお前、自分が死ぬぞ。英霊なんだぞ、こいつは! お前なんかよりずっと強い、戦うために呼ばれた存在だ!」
「ええ、そうでしょうな」
秀則は頷いた。
「だが、灰原氏。あなたも、あのとき自分を庇いましたな。普通の感性で。『人を殺すな』と言ってくれた」
誠は言葉を失った。
「自分にもあるのです、そういう“普通”が」
秀則の声は、静かで、どこか澄んでいた。
「この子の願いを尊重したい。戦うことよりも、生きることを選ばせてやりたいのです。ウォルターさんとやらが、この子に託した願いです」
風が灰を運び、二人の間を通り抜けた。
月光のように白い灰が、ライダーの包帯に積もっていく。
誠は唇を噛んだ。
怒鳴りたかった。
理屈を突きつけてでも否定したかった。
だが、何も言えなかった。
──普通。
その言葉が、胸の奥で重く響く。
焼け落ちた街の中で、それでも誰かを守ろうとする「普通の人間」。
秀則は静かに言った。
「灰原氏。あなたが“正しさ”を選んだように、自分は“普通”を選びます」
誠は、息を呑む。
その瞬間、夜が音を失ったように感じた。
灰がゆっくりと降り続け、遠くの爆音さえ届かない。
──そして誠は気づく。
彼が今、真正面から向かい合っているのは、信念でも理屈でもなく、
ただの“人間”そのものだった。