秀則の手が、震えていた。
握りしめた拳銃の金属が、夜気の冷たさを吸い込んで微かに鳴る。
息が乱れ、喉の奥で掠れた呼吸音がこぼれた。
灰の帳の向こう──撃たれたはずのかぼちゃ頭が、まだ動いていた。
鉄の指が舗装を掻き、膝を引きずるようにして進む。
かぼちゃ頭が進むたび、不快な金属音が鳴り響く。
「……くそっ……」
秀則は歯を噛み締め、銃口を持ち上げる。
腕が重い。
汗で濡れた掌が滑り、引き金がかすかに音を立てた。
ライダーは彼の背で静かに身を預けたまま、じっとその横顔を見ていた。
包帯の奥の瞳に、恐れの色はなかった。
ただ──興味を持つように。
まるで、未知の現象を観察する研究者のような眼差しで。
「よし……」
秀則の声が震えた。
言葉と共に、指先がわずかに引き金を引く。
──銃声。
夜の灰を裂いて火花が走る。
弾丸はかぼちゃ頭の胸板を貫き、背後の壁に突き刺さった。
それでも動く。
倒れかけた巨体が、呻きのような金属音を漏らして持ち上がる。
橙の光が明滅した。
秀則の呼吸が荒くなる。
もう一発。
銃口が跳ね、二発目が額を撃ち抜く。
金属片が飛び散り、火花が闇に散った。
静寂。
灰が、降り続けていた。
秀則の腕がだらりと下がり、銃口が地面に向く。
その横顔は、怒りでも恐怖でもなかった。
ただ、何かを確かめるような──静かな決意に満ちていた。
ライダーは、背の上からその横顔を見下ろす。
秀則は、ゆっくりと息を吐いた。
肺の奥にこびりついた灰が、焼けるように喉を刺す。
震える手で拳銃を見下ろすと、まだ煙がかすかに立ちのぼっていた。
撃ち抜かれた使い魔は、ようやく動かなくなっていた。
その橙の光も消え、仰向けに崩れた鉄の巨体は、やがて静かに沈黙へと戻っていく。
夜風が吹き、灰をさらっていった。
秀則は膝を折り、肩で息をしながら銃を見つめた。
金属の冷たさが掌の汗で曇っている。
数秒の沈黙ののち、彼はその拳銃を無造作にポケットへ押し込んだ。
重みが衣の内で沈む音がした。
「……行きましょう、灰原氏」
振り返った彼の顔は、疲労に覆われながらも、奇妙な静けさを湛えていた。
息を荒げながらも、目だけはまっすぐだった。
戦いに慣れた者のものではない。
ただ、恐怖と決意を同時に抱えた──“普通の人間”の目だった。
誠は頷こうとして、足が動かないことに気づいた。
灰の降る路地を見つめながら、胸の奥が鈍く疼いた。
逃げなければならない。
あの公園から離れなければ、バーサーカーとキャスターの戦いの余波に呑まれる。
それは理屈として理解していた。
──だが。
秀則の背にいる少女。
戦うために召喚されたはずの英霊が、今はただ彼に背負われている。
彼はそれを守り、代わりに銃を撃った。
恐怖に震えながら、命を賭して。
それを見てしまった誠には、もう「逃げる」という行為がひどく醜く思えた。
普通の感性。
眩しいほどの善性。
それはこの地獄の夜に似つかわしくない──けれど、だからこそ痛烈に胸を刺す。
誠は俯いたまま、唇を噛んだ。
靴の先で灰を踏みしめても、脚が前に出ない。
頭では理解しているのに、心が拒んでいた。
──戦いを押し付けて自分だけ逃げるなんて。
灰の風が吹く。
遠くで、まだ何かが爆ぜた。
街の影が揺れ、二人の間に沈黙が落ちた。
秀則は気づかぬまま、背の少女を背負い直し、歩き出そうとする。
その背中を、誠は見つめていた。
灰が降る色褪せた夜の中で──
その姿は、誰よりも真っ直ぐで、誰よりも危うく、美しかった。
「……待ってくれ」
誠の声が、夜気を震わせた。
秀則が一歩進んだところで、その背が止まる。
「俺は──やっぱり戻る」
灰の舞う通りに、短い言葉が落ちた。
秀則が振り向く。
その顔は、疲労の影を浮かべながらも、何かを悟るように静かだった。
「戻る、とは……どこにです?」
誠は喉を鳴らし、唇を湿らせる。
「公園だ。バーサーカーがまだ戦ってる。……俺も、行く」
一瞬、風が止んだ。
言ってから、己の口から出た言葉の重さに気づく。
戦う──? 自分が?
銃も、武器も、何一つ持たないのに?
誠の手が震えた。
頭ではすぐに否定が浮かぶ。
だが、心はもう止まらなかった。
秀則の背にある、ライダーの白い包帯。
汗と灰に汚れた背中。
その全てが──あまりにもまっすぐで、痛いほどに“正しい”。
その善性の光の中に立つ自分が、あまりにも薄汚れて見えた。
戦いを押し付けて逃げるなど、できるはずがなかった。
「俺も……戦う」
もう一度、誠は言った。
声はかすれていたが、確かに響いた。
秀則はしばらく黙って誠を見ていた。
灰が二人の間に舞い、時間が止まる。
やがて、静かに目を伏せる。
「──なら、止めはしません。もちろん、自分も同行いたしますぞ」
誠は頷いた。
胸の奥が熱くなる。
だがその熱の正体は、勇気なのか焦燥なのか、彼自身にも分からなかった。
誠は歩き出そうとした足を止め、掌を見つめた。
指先には灰が薄く積もり、冷たく湿っている。
その感触の中に、ふと、紗月の言葉が蘇る。
──灰原家はね、“聖杯”を生み出そうとした
その声が、遠くの記憶の底から響いた。
人の願いを叶える器──たいそうな、夢のような話。
だがそれを作ろうとした灰原家は、結局、すべてを失った。
財も、名も、魔術の系譜すらも。
誠は掌を握りしめ、もう一度空を仰いだ。
降る灰が、まるで祈りのようにゆっくりと落ちてくる。
「……俺にも、何か……できるはずだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして──手を振り上げた。
「出ろ……!」
何も起きない。
風の音だけが虚しく耳を抜ける。
今度は反対の手をかざし、指先を焦がすように意識を集中させた。
「燃えろ、光れ、何でもいい……!」
呼吸が荒くなり、額に汗が滲む。
空気の重さが変わる気がした。
だが、何も起きなかった。
灰が掌に落ち、指の間から崩れ落ちる。
誠の胸の奥を、冷たいものが這い上がってくる。
息を吸っても肺の奥まで届かず、手足の先が痺れる。
武器もない。魔術も使えない。
それなのに──戦場へ戻ると言った。
足が勝手に震える。
心臓が耳の奥で鳴っている。
頭では「恐れるな」と叫んでいるのに、身体は正直だった。
その様子を、ライダーは静かに見つめていた。
包帯の奥からのぞく片眼が、かすかに瞬く。
彼女の視線には哀れみも、軽蔑もなかった。
ただ、観察──それに近い。
興味深そうに、まるで何かを確かめるように。
やがて、彼女は秀則の背の上から身を少し起こした。
包帯の腕が誠の方へゆっくりと伸びる。
その指先が、震える誠の手に触れた。
誠は息を呑む。
「バーサーカーのマスター」
ライダーの声は低く、澄んでいた。
「私は──魔術のない世界から来た」
誠が顔を上げる。
彼女の表情は穏やかで、まるで遠い記憶を語るようだった。
「しかし、召喚に応じた時、この世界の基本的な知識は得た。魔術とは“学問”──理論の積み重ね。ある日、何の前触れもなく目覚める物ではない」
ライダーの手が、ゆっくりと誠の方へ伸びてきた。
包帯に覆われた指先が、灰を縫うように空気を裂き、彼の頬のすぐ前で止まる。
誠は身じろぎもできず、ただその動作を見つめていた。
「何を……?」
かすれた声が漏れる。
「きっかけは、強い方が良い」
その手のひらが、彼の口元へと近づいていく。
灰の降る音が、耳の奥でかすかに響いた。
次の瞬間──。
包帯の間から、光が滲んだ。
その光は赤。だが炎ではなく、液体のようにゆらめく深紅。
それは静かに形を結び、彼女の掌の中心にひとしずくの液体となって現れた。
誠は息を止めた。
その赤が──まるで生きているかのように、鼓動していた。
ライダーの視線が、ゆっくりと彼を捉える。
「ぱちぱち弾けて、脳みそ幸せ」
そう囁いた瞬間、彼女の手がさらに近づいた。
その深紅の雫が、重力に逆らうように掌から離れ、空中を滑った。
そして、誠の唇の端に触れる。
冷たい。
次の瞬間、その冷たさは舌の上で熱に変わった。
赤い雫はゆっくりと流れ込み、喉の奥へ落ちていく。
「──っ!」
誠の身体が反射的に動く。
拒もうとした意識より早く、喉がそれを受け入れていた。
息を呑むような熱が、胸の奥に落ち、心臓を叩く。
鉄の味。
それは血のようでいて、血ではなかった。
舌の上に残る甘みと鉄の匂いが、奇妙な調和をなして消えていく。
喉の奥に落ちた瞬間、世界が反転した。
熱。
それは火傷ではなかった。
だが、骨の髄まで焼き尽くされるような熱が、誠の全身を駆け抜けた。
心臓が一度、深く脈打つ。
次の瞬間には、もう数えることもできなかった。
音も、光も、風も──あらゆる感覚が混ざり合い、溶け合っていく。
「……ぁ、あ……」
声が出ない。
膝が砕け、路面に手をついた。
灰が舞い上がる。
それが光を帯びているように見えた。
世界が柔らかい。
風が頬を撫で、遠くの炎の音が美しい旋律に聞こえる。
視界が歪み、夜の闇の中に無数の光が走った。
「……これ……なん……」
言葉が漏れた。
自分の声すら、自分のものではないように響く。
あらゆる存在が意味を持ち、あらゆる痛みが祝福に思えた。
悟った、と錯覚した。
世界を理解した気がした。
自分が今なら、火でも風でも、命でも掴める──そんな錯覚が全身を満たす。
息を吸うだけで、灰の粒が光を放つ。
心臓の鼓動一つごとに、街の影が呼吸する。
それは星ではなかった。
──理だ。
この世界を形作る無数の線、法則の糸。
それが、全て見える。
「……俺は……」
誠は立ち上がろうとしたが、足が空を掴むようにふらついた。
頭の中で何かが爆ぜ、視界の端で灰が星屑に変わる。
それはあまりに強烈で、あまりに甘美だった。
痛みも、恐怖も、すべてがひとつの“快”に溶けていく。
立っていられない。
なのに──笑いが零れた。
「はは……これ……すげ……」
その笑みの奥で、瞳は確かに燃えていた。
灰色の世界の中、誠の身体から立ちのぼる微かな光が、風に滲んで揺れた。
「──灰原氏!」
声がした。遠くから。
音の粒が、海の底から届くようにゆっくりと歪みながら耳へ沈んでくる。
その名を呼ぶ声が何度も響き、やがて重なっていく。
熱の奔流の中、誠は誰かに肩を掴まれた。
強い力だった。世界がぐらりと傾く。
次の瞬間、視界の縁に色が戻り始める。
「灰原氏! しっかりして下さい!」
秀則の顔が、焦りに滲んだ。
額には汗が浮かび、呼吸が荒い。
その手が、誠の両肩を掴み、激しく揺さぶる。
「おい、聞こえますか! ライダーちゃん! ……一体、何をしたんです!」
誠は呆然としたまま、呼吸を整えようとした。
耳の奥でまだ何かが脈打っている。
波のような熱が、内側からゆっくりと引いていく。
遠ざかっていく。
狂おしいほどの光の奔流が、少しずつ形を失っていく。
視界の輪郭が戻り、風の冷たさが皮膚を刺した。
「……紫村……?」
ようやく声が出た。
自分の声が、自分の喉を通って響く。
その当たり前の感覚が、どこか懐かしくさえ思えた。
秀則は安堵の息をつき、しかしすぐに顔をこわばらせた。
彼の視線は、誠の右手へ向けられていた。
「それを──」
彼の声が震えた。
「──それを、消してくださいな!」
誠は反射的に自分の掌を見た。
そこには──火があった。
小さな炎だった。
掌の中心に、ゆらりとひとつ。
息をすれば消えてしまいそうなほど──弱々しい火。
それでも確かに、そこに在った。
誠は呆然と、手のひらを見つめた。
火は、どこからともなく灯ったわけではない。
燃料も、導線もない。
──自分の中から、生まれている。
そう理解した瞬間、胸の奥が微かに震えた。
熱が脈を打ち、心臓の鼓動と同じリズムで火が揺らめく。
その光は温かく、痛みを伴わない。
むしろ懐かしい。
長い間、冬の中にいた人間が、初めて火に手をかざしたような、
そんな安らぎがそこにあった。
「……これ、俺が……?」
指先を動かすと、火もまたつられて揺れた。
まるで生き物のように、誠の意志を真似る。
風が吹いた。
灰を運ぶ夜気が、指の隙間を抜ける。
炎が一瞬、細くなり、今にも消えそうに震えた。
秀則が思わず息を呑む。
「待って……駄目です、それ、危険かもしれません!」
けれど誠は首を振った。
その目は、不思議な静けさを湛えていた。
「違う……これは、怖くない」
掌の上の火が、まるで答えるように、かすかに明るさを増した。
橙と金が混じる色。
その光が、三人の頬をやわらかく照らす。
誠はしばらく、その小さな火から目を離せなかった。
掌に宿る熱が、心臓の鼓動とゆっくり重なる。
呼吸のたびに炎が揺れ、かすかに周囲の灰が金色に染まった。
その光に包まれていると、ふと──奇妙なことに気づいた。
音が、しない。
さっきまで確かに聞こえていたはずの轟音──
爆発の残響も、鉄骨の軋みも、地面を震わせる衝撃も。
すべてが、消えていた。
まるで世界そのものが呼吸を止めたかのように、
灰の降る音すら、途絶えている。
「……あれ?」
誠は耳を澄ませた。
遠く、夜の向こう。
何かがあったはずの方向──公園の方角を振り返る。
静寂。
風すら止まっている。
秀則も、気づいたのだろう。
息を詰めたまま、銃を構え直し、通路の先を見据えた。
ライダーが、その背でわずかに身を起こす。
包帯の隙間から覗く眼が、細く、鋭く光った。
「──来る」
その囁きと同時に、
何かの気配が、ゆっくりと満ちていった。
通路の奥。
黒い影が、ひとつ。
黄色の揺らめく光に照らされながら、ゆっくりと歩いてくる。
その輪郭は、静かで、確信に満ちていた。
足取りは迷いなく、まるで灰の上を滑るように軽い。
誠は息を呑む。
掌の火が、彼の心の鼓動と同じ速さで震えた。
闇を縫って現れたのは──
頭部が激しく燃える狂い火となった怪物。
「……キャスター……」
その声が、夜気に溶けた。
キャスターは無言のまま立ち止まり、三人を見つめた。
雪のような灰が、その肩に静かに降り積もる。