Fate/You Died.   作:助兵衛

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第24話 ルビコンの恵みをナマで

 秀則の手が、震えていた。

 握りしめた拳銃の金属が、夜気の冷たさを吸い込んで微かに鳴る。

 息が乱れ、喉の奥で掠れた呼吸音がこぼれた。

 

 灰の帳の向こう──撃たれたはずのかぼちゃ頭が、まだ動いていた。

 鉄の指が舗装を掻き、膝を引きずるようにして進む。

 かぼちゃ頭が進むたび、不快な金属音が鳴り響く。

 

「……くそっ……」

 

 秀則は歯を噛み締め、銃口を持ち上げる。

 腕が重い。

 汗で濡れた掌が滑り、引き金がかすかに音を立てた。

 

 ライダーは彼の背で静かに身を預けたまま、じっとその横顔を見ていた。

 包帯の奥の瞳に、恐れの色はなかった。

 ただ──興味を持つように。

 まるで、未知の現象を観察する研究者のような眼差しで。

 

「よし……」

 

 秀則の声が震えた。

 言葉と共に、指先がわずかに引き金を引く。

 ──銃声。

 夜の灰を裂いて火花が走る。

 弾丸はかぼちゃ頭の胸板を貫き、背後の壁に突き刺さった。

 

 それでも動く。  

 

 倒れかけた巨体が、呻きのような金属音を漏らして持ち上がる。

 橙の光が明滅した。

 

 秀則の呼吸が荒くなる。

 もう一発。

 銃口が跳ね、二発目が額を撃ち抜く。

 金属片が飛び散り、火花が闇に散った。

 

 静寂。

 

 灰が、降り続けていた。

 秀則の腕がだらりと下がり、銃口が地面に向く。

 その横顔は、怒りでも恐怖でもなかった。

 ただ、何かを確かめるような──静かな決意に満ちていた。

 

 ライダーは、背の上からその横顔を見下ろす。

 

 秀則は、ゆっくりと息を吐いた。

 肺の奥にこびりついた灰が、焼けるように喉を刺す。

 震える手で拳銃を見下ろすと、まだ煙がかすかに立ちのぼっていた。

 

 撃ち抜かれた使い魔は、ようやく動かなくなっていた。

 その橙の光も消え、仰向けに崩れた鉄の巨体は、やがて静かに沈黙へと戻っていく。

 夜風が吹き、灰をさらっていった。

 

 秀則は膝を折り、肩で息をしながら銃を見つめた。

 金属の冷たさが掌の汗で曇っている。

 数秒の沈黙ののち、彼はその拳銃を無造作にポケットへ押し込んだ。

 重みが衣の内で沈む音がした。

 

「……行きましょう、灰原氏」

 

 振り返った彼の顔は、疲労に覆われながらも、奇妙な静けさを湛えていた。

 息を荒げながらも、目だけはまっすぐだった。

 戦いに慣れた者のものではない。

 ただ、恐怖と決意を同時に抱えた──“普通の人間”の目だった。

 

 誠は頷こうとして、足が動かないことに気づいた。

 灰の降る路地を見つめながら、胸の奥が鈍く疼いた。

 

 逃げなければならない。

 あの公園から離れなければ、バーサーカーとキャスターの戦いの余波に呑まれる。

 それは理屈として理解していた。

 

 ──だが。

 

 秀則の背にいる少女。

 戦うために召喚されたはずの英霊が、今はただ彼に背負われている。

 彼はそれを守り、代わりに銃を撃った。

 恐怖に震えながら、命を賭して。

 

 それを見てしまった誠には、もう「逃げる」という行為がひどく醜く思えた。

 

 普通の感性。

 眩しいほどの善性。

 それはこの地獄の夜に似つかわしくない──けれど、だからこそ痛烈に胸を刺す。

 

 誠は俯いたまま、唇を噛んだ。

 靴の先で灰を踏みしめても、脚が前に出ない。

 頭では理解しているのに、心が拒んでいた。

 

 ──戦いを押し付けて自分だけ逃げるなんて。

 

 灰の風が吹く。

 遠くで、まだ何かが爆ぜた。

 街の影が揺れ、二人の間に沈黙が落ちた。

 

 秀則は気づかぬまま、背の少女を背負い直し、歩き出そうとする。

 その背中を、誠は見つめていた。

 

 灰が降る色褪せた夜の中で──

 その姿は、誰よりも真っ直ぐで、誰よりも危うく、美しかった。

 

「……待ってくれ」

 

 誠の声が、夜気を震わせた。

 秀則が一歩進んだところで、その背が止まる。

 

「俺は──やっぱり戻る」

 

 灰の舞う通りに、短い言葉が落ちた。

 秀則が振り向く。

 その顔は、疲労の影を浮かべながらも、何かを悟るように静かだった。

 

「戻る、とは……どこにです?」

 

 誠は喉を鳴らし、唇を湿らせる。

 

「公園だ。バーサーカーがまだ戦ってる。……俺も、行く」

 

 一瞬、風が止んだ。

 言ってから、己の口から出た言葉の重さに気づく。

 戦う──? 自分が? 

 銃も、武器も、何一つ持たないのに? 

 

 誠の手が震えた。

 頭ではすぐに否定が浮かぶ。

 だが、心はもう止まらなかった。

 

 秀則の背にある、ライダーの白い包帯。

 汗と灰に汚れた背中。

 その全てが──あまりにもまっすぐで、痛いほどに“正しい”。

 

 その善性の光の中に立つ自分が、あまりにも薄汚れて見えた。

 戦いを押し付けて逃げるなど、できるはずがなかった。

 

「俺も……戦う」

 

 もう一度、誠は言った。

 声はかすれていたが、確かに響いた。

 

 秀則はしばらく黙って誠を見ていた。

 灰が二人の間に舞い、時間が止まる。

 やがて、静かに目を伏せる。

 

「──なら、止めはしません。もちろん、自分も同行いたしますぞ」

 

 誠は頷いた。

 胸の奥が熱くなる。

 だがその熱の正体は、勇気なのか焦燥なのか、彼自身にも分からなかった。

 

 誠は歩き出そうとした足を止め、掌を見つめた。

 指先には灰が薄く積もり、冷たく湿っている。

 その感触の中に、ふと、紗月の言葉が蘇る。

 

 ──灰原家はね、“聖杯”を生み出そうとした

 

 その声が、遠くの記憶の底から響いた。

 人の願いを叶える器──たいそうな、夢のような話。

 だがそれを作ろうとした灰原家は、結局、すべてを失った。

 財も、名も、魔術の系譜すらも。

 

 誠は掌を握りしめ、もう一度空を仰いだ。

 降る灰が、まるで祈りのようにゆっくりと落ちてくる。

 

「……俺にも、何か……できるはずだ」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 そして──手を振り上げた。

 

「出ろ……!」

 

 何も起きない。

 風の音だけが虚しく耳を抜ける。

 

 今度は反対の手をかざし、指先を焦がすように意識を集中させた。

 

「燃えろ、光れ、何でもいい……!」

 

 呼吸が荒くなり、額に汗が滲む。

 空気の重さが変わる気がした。

 だが、何も起きなかった。

 

 灰が掌に落ち、指の間から崩れ落ちる。

 

 誠の胸の奥を、冷たいものが這い上がってくる。

 息を吸っても肺の奥まで届かず、手足の先が痺れる。

 武器もない。魔術も使えない。

 それなのに──戦場へ戻ると言った。

 

 足が勝手に震える。

 心臓が耳の奥で鳴っている。

 頭では「恐れるな」と叫んでいるのに、身体は正直だった。

 

 その様子を、ライダーは静かに見つめていた。

 包帯の奥からのぞく片眼が、かすかに瞬く。

 彼女の視線には哀れみも、軽蔑もなかった。

 ただ、観察──それに近い。

 

 興味深そうに、まるで何かを確かめるように。

 

 やがて、彼女は秀則の背の上から身を少し起こした。

 包帯の腕が誠の方へゆっくりと伸びる。

 その指先が、震える誠の手に触れた。

 

 誠は息を呑む。

 

「バーサーカーのマスター」

 

 ライダーの声は低く、澄んでいた。

 

「私は──魔術のない世界から来た」

 

 誠が顔を上げる。

 彼女の表情は穏やかで、まるで遠い記憶を語るようだった。

 

「しかし、召喚に応じた時、この世界の基本的な知識は得た。魔術とは“学問”──理論の積み重ね。ある日、何の前触れもなく目覚める物ではない」

 

 ライダーの手が、ゆっくりと誠の方へ伸びてきた。

 包帯に覆われた指先が、灰を縫うように空気を裂き、彼の頬のすぐ前で止まる。

 誠は身じろぎもできず、ただその動作を見つめていた。

 

「何を……?」

 

 かすれた声が漏れる。

 

「きっかけは、強い方が良い」

 

 その手のひらが、彼の口元へと近づいていく。

 灰の降る音が、耳の奥でかすかに響いた。

 

 次の瞬間──。

 

 包帯の間から、光が滲んだ。

 その光は赤。だが炎ではなく、液体のようにゆらめく深紅。

 それは静かに形を結び、彼女の掌の中心にひとしずくの液体となって現れた。

 

 誠は息を止めた。

 その赤が──まるで生きているかのように、鼓動していた。

 

 ライダーの視線が、ゆっくりと彼を捉える。

 

「ぱちぱち弾けて、脳みそ幸せ」

 

 そう囁いた瞬間、彼女の手がさらに近づいた。

 

 その深紅の雫が、重力に逆らうように掌から離れ、空中を滑った。

 そして、誠の唇の端に触れる。

 

 冷たい。

 次の瞬間、その冷たさは舌の上で熱に変わった。

 赤い雫はゆっくりと流れ込み、喉の奥へ落ちていく。

 

「──っ!」

 

 誠の身体が反射的に動く。

 拒もうとした意識より早く、喉がそれを受け入れていた。

 息を呑むような熱が、胸の奥に落ち、心臓を叩く。

 

 鉄の味。

 それは血のようでいて、血ではなかった。

 舌の上に残る甘みと鉄の匂いが、奇妙な調和をなして消えていく。

 

 喉の奥に落ちた瞬間、世界が反転した。

 

 熱。

 それは火傷ではなかった。

 だが、骨の髄まで焼き尽くされるような熱が、誠の全身を駆け抜けた。

 

 心臓が一度、深く脈打つ。

 次の瞬間には、もう数えることもできなかった。

 音も、光も、風も──あらゆる感覚が混ざり合い、溶け合っていく。

 

「……ぁ、あ……」

 

 声が出ない。

 膝が砕け、路面に手をついた。

 灰が舞い上がる。

 それが光を帯びているように見えた。

 

 世界が柔らかい。

 風が頬を撫で、遠くの炎の音が美しい旋律に聞こえる。

 視界が歪み、夜の闇の中に無数の光が走った。

 

「……これ……なん……」

 

 言葉が漏れた。

 自分の声すら、自分のものではないように響く。

 あらゆる存在が意味を持ち、あらゆる痛みが祝福に思えた。

 

 悟った、と錯覚した。

 世界を理解した気がした。

 自分が今なら、火でも風でも、命でも掴める──そんな錯覚が全身を満たす。

 

 息を吸うだけで、灰の粒が光を放つ。

 心臓の鼓動一つごとに、街の影が呼吸する。

 

 それは星ではなかった。

 ──理だ。

 この世界を形作る無数の線、法則の糸。

 それが、全て見える。

 

「……俺は……」

 

 誠は立ち上がろうとしたが、足が空を掴むようにふらついた。

 頭の中で何かが爆ぜ、視界の端で灰が星屑に変わる。

 

 それはあまりに強烈で、あまりに甘美だった。

 痛みも、恐怖も、すべてがひとつの“快”に溶けていく。

 立っていられない。

 なのに──笑いが零れた。

 

「はは……これ……すげ……」

 

 その笑みの奥で、瞳は確かに燃えていた。

 灰色の世界の中、誠の身体から立ちのぼる微かな光が、風に滲んで揺れた。

 

「──灰原氏!」

 

 声がした。遠くから。

 音の粒が、海の底から届くようにゆっくりと歪みながら耳へ沈んでくる。

 その名を呼ぶ声が何度も響き、やがて重なっていく。

 

 熱の奔流の中、誠は誰かに肩を掴まれた。

 強い力だった。世界がぐらりと傾く。

 次の瞬間、視界の縁に色が戻り始める。

 

「灰原氏! しっかりして下さい!」

 

 秀則の顔が、焦りに滲んだ。

 額には汗が浮かび、呼吸が荒い。

 その手が、誠の両肩を掴み、激しく揺さぶる。

 

「おい、聞こえますか! ライダーちゃん! ……一体、何をしたんです!」

 

 誠は呆然としたまま、呼吸を整えようとした。

 耳の奥でまだ何かが脈打っている。

 波のような熱が、内側からゆっくりと引いていく。

 

 遠ざかっていく。

 狂おしいほどの光の奔流が、少しずつ形を失っていく。

 視界の輪郭が戻り、風の冷たさが皮膚を刺した。

 

「……紫村……?」

 

 ようやく声が出た。

 自分の声が、自分の喉を通って響く。

 その当たり前の感覚が、どこか懐かしくさえ思えた。

 

 秀則は安堵の息をつき、しかしすぐに顔をこわばらせた。

 彼の視線は、誠の右手へ向けられていた。

 

「それを──」

 

 彼の声が震えた。

 

「──それを、消してくださいな!」

 

 誠は反射的に自分の掌を見た。

 

 そこには──火があった。

 

 小さな炎だった。

 

 掌の中心に、ゆらりとひとつ。

 息をすれば消えてしまいそうなほど──弱々しい火。

 それでも確かに、そこに在った。

 

 誠は呆然と、手のひらを見つめた。

 火は、どこからともなく灯ったわけではない。

 燃料も、導線もない。

 ──自分の中から、生まれている。

 

 そう理解した瞬間、胸の奥が微かに震えた。

 熱が脈を打ち、心臓の鼓動と同じリズムで火が揺らめく。

 その光は温かく、痛みを伴わない。

 むしろ懐かしい。

 長い間、冬の中にいた人間が、初めて火に手をかざしたような、

 そんな安らぎがそこにあった。

 

「……これ、俺が……?」

 

 指先を動かすと、火もまたつられて揺れた。

 まるで生き物のように、誠の意志を真似る。

 風が吹いた。

 灰を運ぶ夜気が、指の隙間を抜ける。

 炎が一瞬、細くなり、今にも消えそうに震えた。

 

 秀則が思わず息を呑む。

 

「待って……駄目です、それ、危険かもしれません!」

 

 けれど誠は首を振った。

 その目は、不思議な静けさを湛えていた。

 

「違う……これは、怖くない」

 

 掌の上の火が、まるで答えるように、かすかに明るさを増した。

 橙と金が混じる色。

 その光が、三人の頬をやわらかく照らす。

 

 誠はしばらく、その小さな火から目を離せなかった。

 

 掌に宿る熱が、心臓の鼓動とゆっくり重なる。

 呼吸のたびに炎が揺れ、かすかに周囲の灰が金色に染まった。

 

 その光に包まれていると、ふと──奇妙なことに気づいた。

 

 音が、しない。

 

 さっきまで確かに聞こえていたはずの轟音──

 爆発の残響も、鉄骨の軋みも、地面を震わせる衝撃も。

 すべてが、消えていた。

 

 まるで世界そのものが呼吸を止めたかのように、

 灰の降る音すら、途絶えている。

 

「……あれ?」

 

 誠は耳を澄ませた。

 遠く、夜の向こう。

 何かがあったはずの方向──公園の方角を振り返る。

 

 静寂。

 風すら止まっている。

 

 秀則も、気づいたのだろう。

 息を詰めたまま、銃を構え直し、通路の先を見据えた。

 ライダーが、その背でわずかに身を起こす。

 包帯の隙間から覗く眼が、細く、鋭く光った。

 

「──来る」

 

 その囁きと同時に、

 何かの気配が、ゆっくりと満ちていった。

 

 通路の奥。

 黒い影が、ひとつ。

 

 黄色の揺らめく光に照らされながら、ゆっくりと歩いてくる。

 その輪郭は、静かで、確信に満ちていた。

 足取りは迷いなく、まるで灰の上を滑るように軽い。

 

 誠は息を呑む。

 掌の火が、彼の心の鼓動と同じ速さで震えた。

 

 闇を縫って現れたのは──

 頭部が激しく燃える狂い火となった怪物。

 

「……キャスター……」

 

 その声が、夜気に溶けた。

 

 キャスターは無言のまま立ち止まり、三人を見つめた。

 雪のような灰が、その肩に静かに降り積もる。

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