キャスターの燃える頭部の奥で、光が一度、明滅した。
ゆらめく火がひとつ、大きく揺れ──次の瞬間、キャスターの膝が折れた。
壁に片手を突き、よろめく。
灰がその動きに合わせて崩れ、舞い上がった。
外套の裾が擦れ、石畳に鈍い音を立てる。
「……キャスター」
誠が声を上げるより早く、キャスターは咳き込んだ。
吐き出された息の中に、焦げた灰と赤い光が混じる。
胸のあたりの布が裂け、そこから黒ずんだ焼け痕が覗いた。
「お待たせしました」
低い声が、夜気を震わせる。
彼女の唇が歪み、ゆっくりと笑みを形づくる。
「次は──あなた方の番だ」
その瞬間、足元の灰が浮き上がった。
キャスターの身体から迸る黄色の炎が、通路全体を染める。
黄色の光が夜を押しのけ、誠たちの影を壁へと叩きつけた。
炎の奔流が、呼吸するように脈を打った。
通路の奥から吹き出した熱が灰を巻き上げ、夜気を焦がしていく。
黄色の光が壁を舐め、舗装の割れ目を焼き潰した。
キャスターが一歩、踏み出す。
その足取りは確かに重く、身体は痛みに軋んでいた。
だが炎だけは、衰えを知らなかった。
むしろ、彼の苦痛を燃料にしているかのように強く、激しく、揺らめいていた。
誠が息を呑む。
熱風が頬を打ち、肌の上を焼き走る。
掌の小さな火が怯えるように震え、細くなった。
「バーサーカーは……どうした」
言葉は届かない。
キャスターはそのまま、真っ直ぐに誠へと歩みを進めた。
足元に散った灰が、踏まれるたび火花を上げる。
焦げた外套の裂け目からは光が漏れ、傷口の奥で炎が鳴っている。
まるで自らを焼き尽くしながら進む、崩れゆく太陽のようだった。
「この……化け物め、許しませんぞ」
秀則は、震える手で拳銃を構える。
腕が焼けるように熱く、汗が掌を滑らせる。
それでも引き金から指を離さなかった。
銃口の先──黄色の炎を纏うキャスターが、ゆっくりと歩いてくる。
火の揺らぎに照らされて、彼の姿は人の形を保ちながらも、とっくの昔に“人”の域を離れていた。
「……逃げないのですか」
キャスターが言った。
声は掠れていたが、その奥にある熱はなおも衰えを知らなかった。
「いいえ、見事です──あなたのような人間は、久しく見ていない」
秀則は息を呑む。
視界が熱で揺れる。
それでも構えた銃口は、わずかも下がらなかった。
キャスターが一歩、近づく。
彼女の足元に散った火花が、焦げた舗装の上で瞬いた。
肩で息をしながら、それでも彼女は微笑む。
「恐怖を抱きながらも退かない──実に、美しい」
その言葉は賞賛だった。
侮辱ではない。嘲笑でもない。
戦士として、ただ正当に“見事”と告げる声だった。
「だからこそ──燃やし尽くす価値がある」
その言葉と同時に、炎が唸りを上げた。
キャスターの背で揺れる黄色の火が一層膨れ上がり、通路の壁を焼く。
熱の波が押し寄せ、灰が溶けるように舞い散った。
秀則の額から汗が滴る。
指先が痙攣しそうになるのを必死に抑え、銃口を逸らさない。
その背後で──誠が、静かに一歩前へ出た。
「……やめろ」
その声は震えていた。
だが、確かに“前へ進む者”の声だった。
キャスターの炎がわずかに揺らぎ、頭部に成り代わった火の塊が誠の方を向く。
次の瞬間、誠の掌の上に山吹色の火が灯った。
小さく、頼りない光。
掌の上でふるふると揺れ、夜の熱に消え入りそうなほど儚い。
だが、その炎を見たキャスターの瞳が、確かに細められた。
「……あら」
彼女はわずかに首を傾げた。
炎の唸りが弱まる。
「おや……かわいらしい火だ」
苦痛に濡れた喉で、かすれた笑みが漏れる。
「その程度の種火で、私を止めるつもりですか?」
その言葉には、まだ余裕があった。
だが──
キャスターが一歩、近づいた瞬間。
その足が止まった。
炎が、わずかに後ろへ揺れた。
「なんだ……? 」
声が低く、掠れる。
山吹色の火が、静かに息づいていた。
燃え盛ることもなく、爆ぜることもなく──
ただ、そこに在るだけ。
だがその光が、キャスターの纏う炎をわずかに押し返していた。
黄色の火と山吹色の火が触れ合い、境界で波紋のように空気が震える。
キャスターの目が、鋭く細まる。
「その炎は、見覚えがある。なぜ貴方が」
誠は答えられなかった。
掌の上の光が、自分の鼓動と同じリズムで脈打っている。
火の色が深まり、黄から橙、そして金へと変わっていく。
キャスターの声色から笑みが消えた。
その身を覆う炎がざわめき、空気が悲鳴を上げる。
「ただの燃焼反応ではないな、我が狂い火と同じ……いや、対極にある」
キャスターの声が、低く湿った熱を帯びた。
その炎がさらに燃え上がるかと思われた──が、違った。
彼は足を止めたまま、微動だにしない。
金色の火を見据え、まるで理解の外のものを前にした学者のように息を殺していた。
通路の空気が、急に静まった。
灰が落ちる音さえ聞こえる。
誠もまた息を呑み、掌の上の炎を見つめる。
それはもはや山吹ではなかった。
光の中に黄金が混じり、金糸のような筋が火の芯でうねっている。
──そのとき。
不意に、静寂を裂く電子音が響いた。
ピリリリリ……ピリリリリ……。
誠のポケットが震えた。
この場の異常な静けさに、その音はあまりにも場違いで、
まるで現実が割り込んできたかのように感じられた。
キャスターの炎が、ぴたりと揺れる。
誠がわずかに身を引き、炎を掲げたままポケットに手を入れた。
取り出された携帯電話のディスプレイには見慣れない番号が表示されている。
呼吸を一つ整え、誠は通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
ノイズを含んだ空気の奥から、聞き慣れた声がした。
『──灰原君』
その声を耳にした瞬間、誠の心臓が跳ねた。
理央だった。
どこか張り詰めた、けれど冷静な声音。
彼女の声が、現実を引き戻すようにこの灼熱の通路に差し込んだ。
「……黒野、今──」
言いかけたその瞬間、通話口の向こうから短く、鋭い指示が飛ぶ。
『灰原君、位置情報を共有して』
それは焦りでも懇願でもない。
命令の響きを帯びた、理央の声だった。
誠は反射的に頷き、手のひらの火を少し下げながら携帯を操作する。
指が震え、ディスプレイの光が金の炎に照らされて揺れる。
送信──位置情報が送られた瞬間、通話の向こうで小さな電子音が重なった。
『……確認したわ』
理央の声が低くなる。
彼女のいる場所の気配──静寂と、遠くに吹く風の音。
何かを決断する音が、わずかに間を置いて響いた。
『──セイバー』
その名を呼ぶ声は、かすかに震えていた。
しかし次の瞬間には、確固たる意志が宿る。
『令呪、第二画をもって命ずる』
その言葉が発せられた瞬間、理央の右手に刻まれた紋章が、赤く燃え上がった。
皮膚の下で光が走り、静寂の中に低い脈動が響く。
『灰原誠を救いなさい』
風が割れた。
理央の立つ場所から、光の粒が散るように空気が波打つ。
令呪の命が、空間を貫いて放たれた。
そのとき、誠の耳にわずかに届いた。
電話越しに混じる、鉄靴が石を蹴る音。
そして、疾駆する風の唸り。
セイバーが、動いた。
誠は携帯を耳に当てたまま、息を呑む。
背後でキャスターがわずかに首を傾げた。
「令呪……聖杯戦争の絶対命令権か」
黄色の炎が揺らぎ、再び誠の方へと傾いた──その瞬間だった。
視界が一瞬、白に弾けた。
耳を打つ衝撃音と共に、灰が四方へ散る。
次の瞬間には、誠の目の前に“それ”が立っていた。
鉄靴の底が地面を砕く。
風が逆流し、熱の奔流を押し返す。
鉄の甲冑に覆われた巨躯。
夜の光を吸い込むような、圧倒的な存在感。
セイバーだった。
その出現は、まるで瞬間移動のようだった。
音も、予備動作もなく──
ただ“在る”という結果だけが、唐突に世界へ突きつけられた。
誠とキャスターの間に割って入ったセイバーは、すでに完全な戦闘態勢だった。
右手には黒鉄の特大剣。
刃がわずかに鈍色の光を帯び、熱で歪む空気を裂いていた。
左手には短くも鋭いダガ──―
長剣と短剣、相反する二つの武器が彼の両腕で均衡を保ち、
その構えは、理と殺意を同時に象ったかのようだった。
甲冑の隙間から白い蒸気が漏れる。
セイバーは、ゆるやかに首だけを振り、誠を振り返った。
黒鉄の兜の隙間から覗く瞳が、かすかに光る。
「灰原様、お下がりください」
その声は低く、だが確実に命を伝えるものだった。
命令ではなく、保証の響きを持っていた。
誠は一瞬ためらったが、セイバーの視線が再び前へ戻ったことで我に返る。
炎の熱が肌を焼く。
それでも一歩、また一歩と後退し、壁際に身を寄せた。
セイバーが動いたのは、その瞬間だった。
──風。
大地を蹴る音が響くよりも早く、彼の姿が揺らぐ。
黒鉄の特大剣が振り上げられ、地を滑るように踏み込み、
左手のダガーが地面に突き刺さる。
硬質な音とともに、石畳が弾け飛ぶ。
ダガーを支点にして、セイバーの身体が跳ね上がった。
まるで獣のように低く、鋭く、重力を無視した動き。
黒鉄の剣が弧を描き、空気を裂いた。
キャスターの炎が反応するより早く、
その刃が頭上を掠め、火花と灰が一斉に散る。
「っ……!」
キャスターが腕をかざし、炎の壁を展開する。
だがセイバーは止まらない。
突き刺したダガーを軸に、身をひねり、もう一撃を叩き込む。
黒鉄の刃が火を弾き、火花が夜を照らした。
獣の動き──それが最も近い。
予備動作はなく、脚の筋肉が鳴るたびに、
剣が、刃が、音よりも速く迫る。
キャスターの黄色の炎が爆ぜた。
熱波が通路を包み、周囲の灰が溶ける。
だがセイバーは怯まない。
地に刺したダガーを引き抜き、そのまま逆手に構え、低く滑る。
短剣が閃き、火壁の下を切り裂く。
黒鉄の剣がその隙を突いて突進──
轟音とともに火花が弾け、キャスターが後方に弾かれた。
「これは……随分威勢がいい」
炎の防壁が裂け、通路の奥に焦げ跡が走る。
キャスターがよろめき、距離を取る。
黄色の炎が再び彼の周囲を取り巻くが、
その灯は先ほどよりも荒く、不安定だった。
セイバーは追撃せず、低く構えたまま息を殺す。
甲冑の継ぎ目から立ち上る蒸気が、夜の空気を白く染めた。
誠は壁際で、息を呑んでその光景を見ていた。
キャスターが息を荒げながら呟く。
「凄まじい剣技です、まさに獣……いや、狼か」
セイバーは応じなかった。
ただ、黒鉄の剣をゆっくりと持ち上げる。
甲冑の隙間から、鈍い光が漏れた。
「……
その名が、低く響いた瞬間──空気が震えた。
彼の手に握られた長剣とダガーが、同時に淡く光り出す。
鈍色の鉄が熱を帯び、境界が溶け合うように滲んでいく。
音がした。
鉄と鉄がうねり合い、悲鳴のような金属音を立てながら絡み合う。
誠が息を呑む間に、二本の刃が捻じれ合い、形を変えていった。
長剣の刀身が細く、短剣の刃がそれに巻き付くようにして溶解する。
まるで灰の中から骨が生え、血脈が通うかのように──
二つの金属がひとつの生き物へと融合していく。
やがて、そこに現れたのは一本の剣だった。
だがそれは通常の直剣ではない。
刀身が微かに螺旋を描き、ねじれた筋が光を反射する。
まるで燃え上がるDNAの鎖。
灰と命の記憶を刻んだ、奇妙な螺旋の剣だった。
刀身の中心から、淡い赤橙の火が滲む。
最初は小さな灯だった。
だが次第にそれは勢いを増し、呼吸するように膨張する。
「その炎……以前とは比べ物になりませんね。それが本領ですか」
炎が──吹き出した。
キャスターの狂い火とは異なる色。
それは怒りでも破壊でもない。
生の熱。
焦土から芽吹く命の炎。
セイバーの周囲の灰が、一瞬で弾かれる。
螺旋の剣から放たれる炎が、空間そのものを押し返した。
熱と冷気が同時に混じり合い、空気が悲鳴を上げる。
キャスターの黄色の狂炎が触れた。
瞬間、激しい爆音とともに弾ける。
灰が上がり、熱が衝突する。
だが──押し負けたのは狂い火だった。
黄色の炎が裂け、後退する。
狂気の燃焼が、命の焔に駆逐されていく。
キャスターの肩口が火花を散らし、呻きが漏れた。
「……馬鹿な、火で……私の炎を押し返すだと……?」
セイバーは答えない。
ただ螺旋の剣を構え、ゆっくりと前へ歩を進めた。
甲冑の継ぎ目から吹き出す蒸気が、まるで呼気のように見える。
「お前のそれは、滅びの火だ。世界を灼き、溶かし尽くす力」
低く響く声。
灰の降る空の下、剣の炎が脈動する。
「ならば私は、世界創生の火を以て応えよう」
螺旋の刀身がうなりを上げる。
通路の灰が一斉に舞い、金色の光が夜を裂いた。
轟音が、世界の形を変えた。
螺旋の剣の根元から、金赤の光があふれ出す。
それはもはや炎ではなかった。
存在を生み出す光──生命の根源にして、最初の火。
「──第二宝具、起動」
セイバーの声は、静かで、だが確定的だった。
「
瞬間、通路が白光に呑まれた。
爆発ではない。
純粋かつ、ただ膨大な生命エネルギーの
灰が反転し、黒い夜が金の昼に塗り替えられる。
セイバーの足元から迸る炎は螺旋の剣を軸に昇り、
火柱となって天へ伸びる。
熱の圧で空気が歪み、通路の石が割れて跳ねた。
キャスターの狂い火が応じるように噴き上がる。
黄色い炎が獣のように唸り、奔流となって襲い掛かる。
だが、それは届かなかった。
金の光が、ぶつかった瞬間に飲み込む。
滅びの熱量が、誕生の熱量に押し潰される。
触れた端から崩れ、焼かれるのではなく、還元されていく。
燃焼の果てに残った灰すらも、光に溶かされて消えた。
「──っ、ぐ……あああああっ!!」
キャスターの絶叫が、熱の奔流にかき消される。
狂い火をまとった身体が軋み、溶けるように崩れる。
その身の中で渦巻く火が、別の何かに書き換えられていく。
セイバーの剣が振り下ろされた。
螺旋の刃が一閃し、金の焔が弧を描く。
それは風のようでもあり、裁きのようでもあった。
直後、轟音。
キャスターの狂火が四散し、爆ぜる光の中でその姿が弾き飛ばされる。
炎が消えた通路に、崩れ落ちる影。
焼け爛れた外套が裂け、焦げた皮膚から煙が立つ。
キャスターは呻き声を漏らしながら、舗装の上を転がり、
最後に道路の中央で止まった。
黄色の火は──もう、揺れていなかった。
狂い火は跡形もなく消え失せ、
残ったのはただ、灰と、蒸気のみ。
セイバーは螺旋の剣を地に突き立てた。
刀身の火がゆるやかに収束し、
金色の余燼が夜気の中に漂う。