通路を覆っていた熱が、ゆっくりと退いていった。
空気が冷え、灰がひとひら、静かに降る。
セイバーは深く息をつくと、螺旋の剣を地に突き立てた。
刀身を這う火が、名残を惜しむように明滅し──やがて静かに消える。
残ったのは金の余燼だけだった。
それを見届けるようにして、セイバーは膝を折り、剣を鞘に納めた。
甲冑の中で、何かが軋む。
熱に焼かれた金属が冷え、微かに音を立てた。
誠の方を向く。
黒鉄の面頬の奥で、わずかに光が揺れた。
「……灰原様。ご無事ですか」
その声は、戦闘の時とは違っていた。
低く、抑えられた響き。だが確かに安堵を帯びていた。
誠は返事をしようとして、喉が張りついていることに気づいた。
焦げた空気が肺に残り、言葉が出ない。
それでも、震える息の合間にかすかに頷いた。
「……ああ……なんとか……」
その声を聞き、セイバーはゆっくりと頷いた。
彼の背で、まだ残る炎が細く立ち昇る。
それは護る意志の残り火のように、静かで確かな光だった。
と──。
遠くから駆ける足音が響いた。
夜の風を裂いて、硬質な靴音が近づく。
誠が振り向くと、通路の入口から一人の影が現れる。
黒いコートの裾を翻し、黒く長い髪の少女。
その右手が、かすかに光っていた。
「──灰原君!」
理央だった。
息を切らしながら走り寄る。
手の甲に刻まれた令呪は、誠が最後に見たときよりもさらに少なく。
今や赤い線が一本だけ、皮膚の上に残るばかりだった。
誠の目に、その光が焼きつく。
理央は立ち止まり、荒い呼吸を整えながら視線をセイバーへと移した。
夜気の中、彼女の瞳が静かに光を宿す。
セイバーはわずかに膝を折り、敬意を示すように頭を下げた。
「マスター、指令完了。灰原様の安全を確保致しました」
理央は短く頷くと、すぐに誠のもとへ歩み寄った。
靴底が砕けた石片を踏み、かすかな音を立てる。
その表情には、冷静さの奥に焦りが滲んでいた。
「……灰原君、怪我は? どこか、痛むところはない?」
声は震えていた。
普段の理央にはない、感情の揺れがあった。
その瞳が、誠の肩や手のひら、焦げ跡の残る服を確かめるように追う。
誠は一瞬、言葉を失った。
焦げた空気の匂いの中で、理央の息づかいだけが現実を引き寄せていた。
「……大丈夫だ。平気だよ。ありがとう」
そう答えながら、自分の声が思ったより掠れていることに気づく。
喉が痛い。
けれど、それ以上に胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
──どうして、自分は。
思い出す。
学校で理央に向けて吐き捨てた言葉。
人殺しだと罵り、距離を置こうとした。
自分とは違う、魔術師の感性を否定した。
それでも、彼女はここまで来た。
命を削って、駆けつけてくれた。
その手の甲に残る赤い線──たった一本。
それは、誠を救うために使い尽くされた証だった。
「……黒野」
声が震えた。
何を言えばいいのか、言葉が見つからない。
謝罪の言葉すら、薄っぺらに思えた。
理央は静かに首を振った。
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「無事なら、それでいいの」
そのとき、理央の視線がふと誠の右手に落ちた。
まだ微かに光を宿した掌。
金の残燼が、かすかな鼓動に合わせて呼吸するように明滅している。
「……それ」
理央の声が、息を呑むように低く漏れた。
「灰原君、その火……あなたの、魔術なの?」
誠は反射的に手を握りかけ、途中で止めた。
光は消えない。むしろ、彼の躊躇いに呼応するようにわずかに強まった。
「……多分、そうだと思う」
答えながら、自分でも確信が持てなかった。
どうして灯ったのか。
どうしてあの狂い火を押し返せたのか──何も分からない。
理央は小さく息を吐いた。
驚きと安堵が入り混じった表情だった。
掌の火を見つめながら、言葉を探しているようだったが、結局何も言わなかった。
代わりに、沈黙を破ったのはセイバーだった。
甲冑の奥の光が、わずかに揺れる。
セイバーはゆっくりと誠の手を見つめていた。
その視線は、警戒でも敵意でもない。
──信じられないものを目の前にした、古の戦士の眼差しだった。
何かを思い出すように、あるいは確かめるように。
目の奥の光が、微かに震える。
誠は、喉の奥に小さく息を詰まらせた。
セイバーの視線はまっすぐだった。そこには畏れでも驚きでもなく、もっと深い何か──かつて見た光景を、今もう一度見ているかのような静かな確信があった。
「……セイバー、その……」
誠は口を開く。
何をどう言えばいいのか、自分でもわからなかった。
けれど、尋ねなければならない気がした。
「この火……君には、何か……」
そのとき──。
乾いた音がした。
ひび割れた石畳の上で、何かがずるりと動く。
セイバーが一瞬で身を翻した。
その動きに合わせ、理央も反射的に腕を上げる。
通路の奥──金の残光が届かぬ闇の中で、黒く焦げた外套がゆらりと揺れた。
「……う、あぁ……」
かすれた声。
燃え尽きたはずの影が、よろめきながら立ち上がる。
キャスターだった。
全身が焼け爛れ、皮膚の下で光がまだ微かに蠢いている。
髪は煤にまみれ、片腕は肘から先が崩れ落ちていた。
それでも──彼は立っていた。
燃え尽きる寸前の薪のように、身体の奥でわずかな火がくすぶっていた。
誠は息を呑む。
理央はその隣で、冷静にキャスターを見据えた。
そして、低く言った。
「……立つのがやっとね。あの火を受けて、再生なんてできるはずがない」
その声には、確信があった。
冷たくも、揺るぎない魔術師としての判断。
「霊核が焼け爛れている。あそこから立ち直るには──どう足掻いても、魔力が足りないわ」
彼女の言葉の通り、キャスターの身体はもはや限界だった。
膝が震え、立っていること自体が奇跡に見える。
それでも、焦げた唇がゆっくりと開く。
「……終わってなど……いない……」
声はひどく掠れ、灰の中で消えかけていた。
それでも、その目の奥には、まだ黄色の光がわずかに瞬いていた。
キャスターは膝を折りそうになりながらも、壁に片手を突いて立っていた。
骨が砕ける音がした。だが、彼は笑った。
それは皮膚が焼け落ち、声帯が焦げついた者の笑み──もはや人のそれではなかった。
「……ふふ……」
掠れた喉から漏れる音は、息と呻きの境界にあった。
理央が一歩前に出て、セイバーの肩越しにその姿を見据える。
「もうやめなさい。霊核は損壊している、魔力も底をついた。貴方が不死であったとしても、戦闘の継続は不可能よ」
キャスターは理央を見た。
その眼窩の奥で、残る火がくすぶるように明滅する。
「おやおや、勝利宣言には……気が早いのではありませんか」
嗄れた声に、微かな嗤いが混じった。
「こうなれば、出し惜しみは無しです。奴に対する切り札のつもりでしたが、やむを得ない」
そう言って、キャスターはゆっくりと顔を上げた。
焦げた喉から、呼吸にも似た呪文が漏れる。
「来い……」
声は震えていたが、確かに命令だった。
それは召喚でも通信でもない。
──まるで、使役していた召使を呼びつけるような声音。
「……“マスター”」
理央が息を呑む。
その呼び方に、明確な上下が逆転していた。
サーヴァントがマスターを呼ぶ──ではなく、王が奴隷を呼びつけるように。
「馬鹿な……」
理央の声が低くなる。
「そんな関係、成立するはずが──」
その瞬間だった。
空が唸った。
地鳴りのような振動が通路を伝い、石畳が震える。
誠が思わず顔を上げると、夜空の奥──雲の切れ間から、光のない“何か”が降りてきていた。
最初は黒い影にしか見えなかった。
だが、落下してくるうちに輪郭が露わになる。
──球体。
だが、ただの球ではない。
その表面には、無数の“顔”が張りついていた。
石像のように固められた人の顔。
歪んだ目、叫ぶ口、ねじれた鼻。
それらが互いに押し合い、潰し合い、ひとつの球を形づくっていた。
球体の隙間から、微かに呻き声が漏れる。
生きているのか、死んでいるのかも分からない。
だが確かに、苦痛と恐怖を孕んだ“声”だった。
「……あれが……キャスターのマスター?」
誠が呟く。
理央はその顔を強ばらせたまま、言葉を返さなかった。
ただ、ゆっくりと頭を振る。
「いいえ──あれは、もはや人間じゃないわ。なんて事……」
空気が軋む。
球体がゆっくりと回転しながら、地面すれすれまで降下してくる。
顔の一つが、苦悶に歪みながら目を開いた。
そして、震えるような声で──キャスターの名を呼んだ。
「……キャスター……」
声は、かすれた呻きのようだった。
それは命令でも意志でもなく、壊れた祈りの残響。
まるで自我という枠を失い、ただ声帯だけが命令を反復しているかのようだった。
球体の内部で、無数の顔が微かに動く。
石のように硬化した皮膚の下で、筋肉がぴくりと痙攣する。
苦悶に歪んだ口々が、不協和音のように小さく開き──
「……レイ……ジュ……」
その単語が、空気を震わせた。
理央が目を見開く。
通路を満たす冷気が一瞬で熱を帯び、球体の一部──顔面の群れが重なり合う中心に、赤い紋が浮かび上がる。
それは、令呪だった。
だが本来の令呪の形とは異なる。
精密な魔術刻印ではなく、肉の裂け目に直接焼きつけられたような不定形の印。
複数の人間の魔力が、強制的に一つの器へと押し込められた痕跡だった。
球体の表面に刻まれた紋章が赤熱する。
次の瞬間、道路全体を貫くような声が響いた。
それは誰の声でもない。
無数の口が同時に命を発した結果、声帯の区別が消えた“音”だった。
『──キャスターよ、令呪を以て命ずる』
空気が震える。
理央が歯を食いしばった。
誠の胸が、嫌な圧迫感に締めつけられる。
『──身を狂い火に焚べよ』
キャスターの肩がびくりと震える。
焼け焦げた皮膚の下で、黄色の光が走った。
『──世界を溶かし尽くすほどに』
球体の全表面が赤に染まる。
無数の顔が苦悶に歪み、絶叫のような声が重なり合う。
『──燃え上がれ』
その瞬間、地が爆ぜた。
キャスターの身体から、再び炎が噴き出す。
先ほどまで命の灯のように弱かった火は、今や嵐だった。
黄色の狂火。
狂気そのものが形を持って噴き上がる。
誠は反射的に腕で顔を覆った。
熱が皮膚を焼き、灰が雪のように舞う。
キャスターは両腕を広げ、空を仰いだ。
口元が笑みを形づくる。
皮膚が裂け、内側から炎が漏れ出す。
「ええ、仰せのままに、マスター」
炎が吼えた。
塊と化したマスターの表面からも、同じ色の火が滲み出す。
無数の顔が、悲鳴とも祈りともつかぬ声を上げた。
球体の表面が再び波打った。
ひとつ、ふたつと顔が崩れ、奥の方から赤い光が滲み出る。
ひび割れの隙間で、もうひとつの令呪が形を取り始めていた。
理央が息を呑む。
「……まさか、第二画を──!?」
彼女の言葉を遮るように、塊が呻いた。
それは人の声ではなかった。
無数の喉が、ひとつの命令を発するために無理やり共鳴していた。
『続けて、令呪、第二画を以て命ずる』
その声は、空気を裂くように響いた。
球体の裂け目から、無数の赤光が脈打つように走る。
熱が一瞬で通路全体に広がり、灰が蒸発する。
『──キャスターよ』
キャスターの身体がびくりと跳ねた。
全身の亀裂から光が溢れ、裂けた皮膚の下で炎が蠢く。
『──世界を踏み焼く巨人となれ』
その言葉は呪いのように染み込み、
空間の温度が一気に跳ね上がる。
『──立て、燃えよ、すべてを焦がせ』
命令の終わりと同時に、地面が炸裂した。
キャスターの足元から炎柱が噴き上がり、通路を貫く。
焼け崩れた肉体がひしゃげ、再び膨張を始める。
骨が軋み、皮膚が破れ、筋肉の代わりに炎がその形を満たしていく。
人の形はすでに失われていた。
それは、燃えながら再構築される“存在”だった。
やがて、建物の屋根をも越える巨体が姿を現す。
身の丈二十メートル。
炎の塊が人の形を模し、灼ける鉄のような皮膜を纏う。
眼窩の奥には、狂った太陽の光が渦巻いていた。
理央が震える声で呟く
『なんて出鱈目を……! こんなの、滅茶苦茶よ!? サーヴァントがマスターを改造して使役し、令呪を使わせるだなんて……」
理央は叫ぶように命じた。
「セイバー、あの塊を──今すぐ破壊して!」
その声は悲鳴にも似ていた。
これ以上の令呪発動を許せば、現実そのものが焼き尽くされると、魔術師として直感していた。
セイバーはゆっくりと顔を上げた。
甲冑の中で、軋む音。
彼は無言で頷き、螺旋の剣を再び構える。
だが、動かない。
膝がわずかに沈み、足元の石を砕く。
跳躍しようと力を込めた瞬間、全身の鎧が鳴動し、崩れるように壁へと手をついた。
重い呼吸。
甲冑の隙間からは、白い蒸気のようなものが漏れ出していた。
「……く、っ……」
低く漏れた声には、苦痛と焦燥が入り混じっていた。
理央が息を詰める。
「セイバー……? どうしたの、立って──!」
返答の代わりに、セイバーの肩がわずかに震える。
その背に宿っていた金の余燼が、風に散るように消えていく。
「……申し訳、ありません……マスター」
かすれた声。
セイバーは壁に片腕をつき、片膝を地に落とした。
その動作すら、金属の擦れる音を伴って重く響く。
「宝具の連続使用……そして、第二の宝具の起動」
言葉が途切れる。
喉の奥で、金属と火花が混ざったような音が鳴った。
「……あれを振るうために、貴女の令呪を使わせていただきましたが、その効力は……もう残っていません」
そう言って、視線を炎の巨人へと向けた。
キャスターは、崩れかけた壁に手をつくセイバーを見下ろしていた。
その眼窩の奥で、火が蠢く。
まるで、敗者の姿を慈しむように、ゆっくりと口角を上げた。
「──火継ぎの英雄よ、もう終わりにしよう」
声は熱に歪み、地を伝って響く。
足元に溜まった炎が、低く呻くように鳴った。
セイバーは答えなかった。
甲冑の奥、微かに残る光が一度だけ瞬き、やがて沈黙する。
その様子を見て、キャスターはゆっくりと天を仰いだ。
──塊。
空に浮かぶ、顔を繋ぎ合わせた“マスター”が、苦痛に満ちた呻きを漏らす。
それでもキャスターは、まるで優しく諭すように語りかけた。
「さあ……主よ。最後の一画を」
その声は穏やかだった。
狂気と慈愛がないまぜになった、静かな死の囁き。
「貴方の役目は、ここで終わる。私に力を与え、私を完全としなさい」
球体の中心で、赤い光が脈打つ。
顔のひとつが引きつり、無数の口が同時に開く。
「……レ……イ……ジュ……」
重なる言葉に応じるように、球体の中心部が裂けた。
そこに現れた令呪は、他の二つとは違った。
まるで血そのものが煮えたぎるように、赤黒い光を放っていた。
理央が息を呑んだ。
「……やめて……これ以上は、本当に──!」
しかし、キャスターは彼女を見ず、ただ命じた。
『──令呪、第三画を以て命ずる』
声が重なった。
マスターの壊れた声帯が、キャスターの声と同期する。
『──我がすべてを、キャスターに捧げる』
空気が悲鳴を上げた。
球体の中で、無数の顔が一斉に苦悶に歪む。
肉と魂が引き裂かれる音が、世界の底から響くようだった。
『──勝利せよ』