炎の巨人──キャスターは、ゆらめく視界の向こうでゆっくりと腕を伸ばした。
その指先は、空に浮かぶ“塊”へと向けられている。
顔の群れが呻き、令呪の光が波打つ。
拒むように、逃れようとするように、球体が軋んだ。
だが、その抵抗は無意味だった。
炎の腕が天へと伸び、空気を焼き裂く。
掌が塊を掴むと、肉と石が砕けるような音が響いた。
「……おお、我が主よ」
キャスターの声は、歓喜と哀惜の入り混じった響きを帯びていた。
炎の指が、塊をゆっくりと握りつぶす。
無数の顔が悲鳴を上げる。
その音は空気の震えでも声でもなく、魂が裂ける音だった。
「その身、その魂、その願い──すべてを、私に還しなさい」
塊が崩れ、液化した魔力と血が混ざり合い、キャスターの胸へと吸い込まれていく。
焼けた皮膚の隙間から光が溢れ、炎の内部で何かが鼓動を始めた。
それはまるで、異なる生命が融合していく音だった。
誠は息を呑む。
理央は唇を噛みしめ、言葉を失っていた。
キャスターの巨体が震える。
その輪郭が一瞬、崩れたかと思うと──次の瞬間、爆ぜるように再構築された。
狂い火が、新たな燃料を得て吼え上がる。
キャスターの声はもはや人のものではなかった。
狂気に塗れた恍惚の響き。
全身を覆う火が逆巻き、天へ向かって吹き上がる。
炎の巨体の内部、胸のあたりが脈動していた。
そこにはかつてマスターだった“核”が埋め込まれている。
肉も骨も残らず、ただ炉心として脈打ち、キャスターの内側で燃えていた。
熱が通路を包み、石が赤く光る。
空気が歪み、遠くの景色が揺らぐ。
理央がかすれた声で呟く。
「……マスターを……炉に……?」
セイバーは壁にもたれたまま、ゆっくりと顔を上げた。
その目に映るのは、燃え上がる巨人。
そして、その胸に宿る“魂の火”だった。
キャスターは笑った。
口から光が漏れ、言葉が炎となって迸る。
「これぞ完全なる契約。我が狂い火も、ようやく生前の火力に近付いてきた」
狂い火が咆哮した。
空が赤く染まり、灰が再び降り始める。
もはやそれは火ではなく、世界そのものを蝕む災厄の核だった。
炎の巨人が咆哮した。
地面が割れ、熱風が吹き荒れる。通路の壁が溶け、空気が歪む。
キャスターの胸の奥──取り込まれた“炉心”が、心臓のように脈動していた。
鼓動のたびに、狂い火は濃度を増し、空そのものが焦げつく。
「……理屈が、通じない……」
理央が小さく呟いた。
額に汗が滲み、令呪の最後の線が微かに疼く。
目の前の存在はもはやサーヴァントではなかった。
英霊の枠を踏み越え、己のマスターを魔力炉として取り込んだ異形。
熱だけで世界を焼く、災厄そのもの。
「……これは、無理だわ」
彼女の声は低く、冷たい。
恐怖ではなく、判断だった。
理央は即座に決断し、振り返る。
「灰原君、秀則さん──逃げるわよ!」
誠が息を呑む。
秀則が、焦げた瓦礫の影から姿を現した。
負傷しているのか、片腕を押さえながらも頷く。
「セイバーは……!?」
「もう戦えない。ここにいたら、全員焼かれる」
理央の声が鋭く響いた。
次の瞬間、キャスターの腕が動く。
その一振りだけで、空気が爆ぜ、瓦礫が吹き飛んだ。
熱波が押し寄せ、石畳が溶けて黒い水のように流れる。
「走って!」
理央が誠の手を掴んだ。
焼けた風の中を駆け出す。
視界が赤に染まり、背後で轟音が響く。
火の巨人が咆哮し、世界が軋む。
理央は息を切らせながら、崩れかけた通路を駆け抜けた。
熱気はなお背後から追いすがり、背中の皮膚が焼けるように痛む。
誠と秀則を引き連れ、瓦礫を飛び越えるたびに、足裏から震動が伝わってきた。
──逃げながら、理央はコートの内ポケットから携帯電話を引き抜いた。
手のひらが汗で滑る。指先で画面を叩くと、回線が途切れがちに接続された。
「……藍沢先輩、聞こえる? 応答して!」
数秒のノイズのあと、風の唸りが耳を刺した。
まるで高所にいるかのような音。金属のきしみ、突風のうなり、遠くで何かが崩れる音。
『……黒野さん? はいはい、聞こえるよ。こっちは上空から状況を観測中。すごい熱源だね……何をしたの?』
声の向こうで風が吹き荒れる。
理央は息を荒げながら答えた。
「キャスターが……マスターを取り込んだの。炉心にして、完全に制御不能。あれはもうサーヴァントじゃない」
『……取り込んだ? そんなこと、理論上も……いや、考えるだけ無駄だね』
「そっちから見える? あの巨体、どこまで拡大してる?」
『視認した、大きいね。魔力も同時に観測……こりゃ、英霊というより神霊……この前の屁理屈が現実になったね、正しくビースト──世界の敵というに相応しい』
理央は息を呑んだ。
「……アサシンは? そちらから、何かできない?」
ノイズの向こうで、風が一瞬だけ止んだ。
代わりに、沙月の低い息づかいが聞こえる。何かを見据えながら考えている気配だった。
『……無理だね』
短く、断ち切るような言葉。
理央は思わず足を止めそうになり、息を詰める。
「……どうして。アサシンなら──先輩の自慢していたアレなら、届くはずでしょう?」
『届くよ。理論上は、ね』
風が再び唸り、通信の向こうで何かが軋む。
沙月の声はその雑音の中でも、冷静で確信に満ちていた。
『今のキャスターはもう“神格”に片足突っ込んでる。サーヴァントという枠組みを超えて、自分のマスターを神性炉心に組み込んだんだ。あれを削るなら、同格の“概念”で殴るしかない』
「つまり……」
『アサシンの“不死殺し”を使えば、確かに通る可能性はある。でもね──』
言葉の間に、風が混じった。
金属を叩くような高音。まるで何かが破裂する瞬間のような緊迫した音。
『隙がない。あの火は常時、自身の存在を更新し続けてる。霊子の密度も桁違い。あれに攻撃を当てるには、ほんの一瞬でも“止まる”時間が必要なの。今の状態じゃ、無駄打ちになるだけ』
理央は唇を噛み、沈黙した。
走りながら、視界の端で誠と秀則の影が揺れる。
背後では地鳴りが続き、世界そのものが崩れていくような轟音が響いていた。
通信がまだ繋がっているうちに、理央は息を整えた。
遠くで爆ぜる音。夜空は赤く焼け、街の輪郭が歪んでいる。
「……先輩、この規模……あれだけ派手に暴れてたら、もう隠せない。一般人が見てるはずよ」
言いながら、理央は振り返る。
通路の裂け目から見える炎は、夜の雲を照らしていた。
熱の揺らぎが空に届き、遠方の建物のガラスに反射している。
火災というには不自然すぎる。誰が見ても異常だ。
『うん、見えてる。衛星経由の映像にもはっきり映ってる。普通なら即アウトだけどね……』
沙月の声がノイズ越しに続いた。
強い風が吹き、金属が鳴る。おそらくビルの屋上、あるいは浮遊観測機の上。
『でも安心して。たぶん、あのキャスター……いや、あの“神”の仕業だ。周囲一帯に、広域の意識遮断魔術が展開されてる。学校を襲った時と同じタイプ。相当大規模だよ』
「……つまり、見えていても、見ていない」
『そう。夢の中みたいな認識状態にされてる。記録装置もほとんどノイズ化してる。抜け目ないね。あれは“隠す”ことも含めて構造化されてる』
理央は短く息を吐いた。
足を止めずに走りながら、唇を噛む。
「……こんな規模で現界して、なお秘匿を維持できるなんて……神格の干渉範囲って、ここまで──」
『普通じゃありえない。けど、奴は“火の理”そのものを内包してる。世界構造の根に触れてる存在だ。人の認識なんて簡単に焼き切れる』
風が再び吹き荒れ、通信が一瞬、途切れた。
雑音の奥で、沙月の声が低く戻る。
『黒野さん。もう魔術の秘匿とか、倫理とか、そういう次元じゃない。あれは世界のルールそのものを侵食してる。見える・見えない以前に、“世界が耐えられるか”の問題だ』
理央は黙って夜空を見上げた。
炎の巨人はなお立っている。
その存在だけで、都市が軋み、空気が焦げていた。
その瞬間、空気が震えた。
炎の巨人──キャスターの頭部が大きく脈打ち、そこから奔流のような狂い火が迸った。
色は黄色に近い白。だが光ではない、熱そのものだった。
「──下がって!」
理央の声と同時に、セイバーが誠の腕を掴んで跳躍した。
刹那、さっきまで彼らが立っていた場所を、灼熱の奔流が呑み込む。
石畳が泡を吹き、通路の壁が液化して崩れ落ちる。
空気が悲鳴を上げ、音すらも焼き切れた。
「セイバー! 灰原君を!」
誠は突然伸びてきたセイバーの腕の中で息を詰めた。
視界の端で、理央の黒いコートがひるがえる。彼女は転がるように避け、壁際に身を押し付けていた。
──しかし。
「紫村君!」
理央の叫びが遅れた。
熱波の中、秀則の姿が見える。背に負っていたライダーの身体を庇うように、腕を交差して立っていた。
だが次の瞬間、奔流が地を裂き、二人の間を焼き切った。
炎が壁を突き破り、地形そのものを変える。
理央と誠の立つ側と、秀則のいる側の間に、赤熱した溝が生まれた。
溶けた石が流れ、灼けた空気が奔流のように押し寄せる。
「マスター! お下がりください!」
セイバーが叫ぶ。
熱が甲冑を鳴らし、金属の表面に亀裂が走る。
それでも彼は誠を背に庇いながら、腕をかざして炎を受け止めた。
刀身の残火が一瞬だけ煌めき、衝撃を逸らす。
理央は腕で顔を覆いながら叫んだ。
「紫村君! 聞こえる!? 返事を──!」
返答はない。
ただ、炎の向こうで何かが崩れる音がした。
ライダーの気配も、魔力の流れも、すでに霞のように遠い。
誠は息を呑み、焦げた空気の中で呟いた。
「……まさか、二人とも……」
理央は首を振った。
涙ではなく、汗と灰が頬を伝って落ちる。
彼女の瞳は冷たく、震えていた。
「まだ断定しない……でも、このままじゃ……」
背後で再び轟音が響く。
キャスターの巨体が動いた。
狂い火が更に吹き荒れ、夜空の雲が赤黒く裂けた。
逃げる余裕は、もうほとんどなかった。
──
視界が、炎に染まっていた。
秀則は、焼けた空気の中で目を細めた。
熱が皮膚を刺す。息を吸えば喉の奥が焼け、肺が軋む。
背には、ライダーの重みがある。意識はない。
それでも、その身体を下ろすことができなかった。
「……くそっ……! なんとか……」
周囲は崩れた瓦礫と、流れる溶岩のような石の川。
理央たちの姿は見えない。
炎の壁が、まるで生きているように蠢き、逃げ道を塞いでいた。
秀則は袖で汗を拭い、足元を探った。
まだ崩れていない足場を見つけて、焼ける石の上を駆ける。
だが、踏み出すたびに靴底が溶け、焦げた匂いが立ち上る。
背後で、轟音。
キャスターの咆哮が響く。
音ではなく衝撃だった。鼓膜を破るほどの圧が、肺を潰す。
「ライダーちゃん! しっかり捕まっておいてくだされよ!」
返事はない。
それでも秀則は、焼けた壁の隙間を見つけて走り込む。
熱気が視界を歪ませる。
次の瞬間、頭上から崩落した瓦礫が進路を塞いだ。
彼はとっさに腕で庇い、壁に背を打ちつけた。
息が詰まり、視界が白くなる。
その間にも、炎は地を這って迫ってきていた。
「……はは……詰んだ」
膝をつく。
溶けた金属が床を流れ、背中のライダーの髪が焦げた。
熱の渦が音を呑み込み、何も聞こえない。
逃げ道は、もうなかった。
目の前の炎が、息を吸うように大きく膨らむ。
秀則はそれでも立ち上がろうとした。
足が震え、靴底が焼けて剥がれる。
呼吸のたびに喉が軋んだ。
それでも秀則は、背のライダーを支えながら立ち上がった。
灼熱の空気が皮膚を削る。
逃げ場はない。だが、まだ終わりではないと本能が告げていた。
「セイバー殿の剣……確か、宝具」
声がかすれた。
炎の向こうで剣を掲げた英霊の姿を思い出す。
『宝具』──英霊が持つ最後の切り札。
あれがあったから、キャスターをあと一歩のところまで追い詰める事が出来た。
彼は唇を噛み、肩にかけたライダーを見た。
「ライダーちゃん、君にもああいう切り札的な、宝具は存在するのですかな」
しばし、返答はなかった。
だが、焦げた風の中でライダーの身体がわずかに動いた。
乾いた唇がかすかに動く。
「……存在する」
その声は、息と共に零れた。
焼けるような痛みに耐えるように、ライダーは目を開ける。
瞳の奥に、鈍い光が宿っていた。
「私の宝具はかつて戦場で、実際に扱っていた兵器を召喚する物」
「兵器……兵器ですか……それをうまいこと扱えば、ここから脱出出来たり……あの化け物を倒したりなんて事は」
秀則の声に、ライダーはゆっくりと首を振った。
「理屈の上では、可能。しかし……」
唇が震える。
その続きを言うことを、ためらうようだった。
「“それ”を呼ぶには……莫大な魔力が必要。私自身が蓄えた魔力では到底、足りない」
秀則は息を呑む。
ライダーの声は穏やかで、諦めが混じっていた。
「では、どうすれば……魔力を補う手段は……」
「──あなたの命」
その言葉が、炎より重く落ちた。
秀則は一瞬、呼吸を止めた。
「……自分の、命……?」
ライダーは静かに頷いた。
「魔術師であれば、魔力供給で出力を底上げ出来る。だが、あなたには、その才がない。ゆえに、“生命そのもの”を変換しなければならない。手の甲にある命令権……令呪を消費したとしても、貴方は死ぬ」
──静寂があった。
炎が唸りを上げているのに、音が遠ざかっていく。
秀則は口を閉じ、ライダーの言葉を咀嚼したまま動けなかった。
命を代償にする──恐ろしい響きだった、つい先日まで普通の生活を送ってきた秀則にとって、死は余りに現実離れした、しかし何よりも恐ろしい物だった。
けれど、胸の奥で渦を巻くものは、恐怖ではない。
それは、どうしようもなく人間的なためらいだった。
「……ライダーちゃん、君……言っておりましたな」
焼けた喉で、かろうじて声を出す。
「普通の生活を願うと。それを君に願ったウォルターさんとやらは、君の恩人や育ての親なのでしょう、とても愛に満ちた願いです」
ライダーの瞳が、静かに揺れた。
焦げついた頬に灰が降る。彼女は何も言わない。
ただ、秀則の声を黙って聞いていた。
「そんな君に……また兵器を呼ばせて、戦えだなんて……到底、言えるはずもない……ッ!」
秀則は拳を握りしめた。
手の皮膚が裂け、血が滲む。だが、それさえ熱で蒸発した。
「君を戦わせないと大それた事を言いました、それが到底無茶な宣言だった事は、分かってはいました」
それは独白だった。
ライダーではなく、自分自身への問いかけ。
「情けない……ッ! 自分が恥ずかしい、死ぬのだって、怖くてたまりません……!」
しばらくの沈黙の後、ライダーは小さく息を吐いた。
その声音は、燃え盛る世界の中でも穏やかだった。
「愚かな人、戦場にいてはいけない人」
秀則は顔を上げた。
彼女の微笑みは、戦場の光の中でさえ穏やかだった。
「……もし、貴方が“戦え”と命じるなら、私は戦う。それが──私の在る意味」
あまりにも静かな言葉だった。
あまりにも優しい声だった。
ライダーの腕が、そっと秀則の胸へまわった。
背に預けられていた重みが、柔らかく、確かなものへと変わる。
焼けた風の中で、彼女の体温だけが現実だった。
ライダーは顔を寄せ、彼の肩越しに微かに囁く。
「……マスター」
秀則は動けなかった。
その声が、火の轟きよりも静かに響いたからだ。
「私と一緒に──死んでくれる?」
時間が止まったようだった。
炎の音も、地鳴りも、遠くへ押し流されていく。
秀則は振り返りかけ、間抜けなほど素っ頓狂な顔をした。
ぽかんと口を開けたまま、言葉を失う。
そして──ふっと息を漏らし、笑った。
「……はは、最高ですな、それ」
顔をしかめながら、どこか照れくさそうに口角を上げる。
「“死んでくれますか”なんて……人生で言われるとは思いませんでしたよ」
ライダーは目を伏せた。
その頬をかすめる灰が、まるで雪のように儚かった。
「怖い?」
「いや、むしろ……」
秀則はゆっくりと息を吐く。
炎の光に照らされ、瞳が赤く揺れる。
「最高の口説き文句です。前言撤回すら、惜しくありません」
秀則は短く笑った。
笑いながら、焼けるように痛む右手を掲げた。
見よう見まねの、たどたどしい所作。
だが、言葉には確かな想いが宿っていた。
「ライダー! 令呪を以て命ずる!」
焼けた空気が揺らぐ。
令呪が一線、眩い光を放って崩れた。
皮膚が焼けるような痛みとともに、彼の体内から熱が逆流する。
「宝具を使用せよ! あんな化け物、やっつけてしまえ!」
その瞬間、世界が鳴った。
秀則の血が魔力へと変換され、空気に散った。
彼の背に抱かれていたライダーの身体が震え、閉じていた瞳が見開かれる。
焦げた髪がふわりと浮き、赤い光がその身を包んだ。
か細かった呼吸が、鋼のような律動へと変わっていく。
「命令を確認しました。ハンドラー」