Fate/You Died.   作:助兵衛

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第32話 後処理

 誠は──動けなかった。

 

 膝の上に抱えた秀則の身体は、もう軽かった。

 命という重さが抜けた人間は、こんなにも簡単に腕の中へ収まるのか──そんなことを、誠は考えてしまう。

 

 胸の下には、わずかに残っていた体温が、もうない。

 肩も、首も、手首も。

 どこを触れても、返ってくる温度は“世界の冷たさ”そのままだった。

 

 誠は、呼吸の仕方を忘れていた。

 

 視界は、ゆっくりと揺れている。

 世界が戻った住宅街の光景──街灯の橙色、道路の白いライン、民家の窓の明かり──

 それらが何も意味を持たず、ただ背景として遠ざかっていく。

 

 

 音も、ほとんど届かない。

 

 秀則の胸に耳を寄せても、何もない。

 呼吸の静かな摩擦音も、心臓の律動も、服の擦れる細い音すら無い。

 

 誠は、ただ抱いているだけだった。

 力も入っていない。

 抱きしめているのか、支えているのか、それすら自分で分からない。

 

「…………」

 

 声も出なかった。

 

 泣くという反応が、どこかに置き去りにされている。

 頭が叫んでいるのに、胸が追い付かない。

 胸が軋むのに、涙が出ない。

 

 ──何も繋がらない。

 

 途切れた輪郭のまま、誠は秀則を抱いていた。

 

 その少し離れた場所で、理央が立ち尽くしていた。

 

 血と灰の匂いがまだ地面に沈む中、

 理央は震える手でポケットに触れ──

 そこで、動きが止まった。

 

 ゆっくりと、スマートフォンを取り出す。

 

 ──本家へ連絡し、事後処理班を要請する。

 

 魔術師としては当然の行動だった。

 死体の処置、痕跡の除去、場合によっては──目撃者の処理。

 一般人の目に触れないよう、数分以内に動くべき。

 

 だが、画面を開こうとした親指が──

 石のように固まった。

 

 昼間の、自分と誠の会話が蘇る。

 

 淡々とした理央の返答に、誠が珍しく苛立ちを見せた瞬間。

 あの、刺すような視線。

 

 それが、胸の奥を急に締め上げる。

 

 ──また、同じことをするの? 

 ──今、この状況で。

 ──友人の死体の横で、事務処理を始めるの? 

 

 理央の肩が、小さく揺れた。

 

 魔術師なら迷わないはずだった。

 合理的な判断だけで、ただ速やかに処理を進めるはずだった。

 

 だが──

 

 誠が秀則を抱いて動けない、その背中を見た途端、

 昼間は理解できなかった“普通の感性”が、不意に胸を突いた。

 

 自分の手が、冷たく震えている。

 

 スマートフォンの画面は開かれているのに、連絡先へ指が触れない。

 

 触れた瞬間、誠に何を言われるのか。

 何を思われるのか。

 それ以前に、自分がそれを──

 “今だけはしたくない”と思ってしまっている。

 

 理央はふっと息を吸い、また止めた。

 

 胸がきつい。

 

 こんな感覚、自分には無縁だと思っていた。

 魔術師である限り、情は足枷だと、ずっと教えられてきた。

 

 だが。

 

 ──足が、動かない。

 

 誠の背中は、沈んでいた。

 世界に置き去りにされた人間の影だった。

 

 その横で、理央はスマートフォンを持つ手を、ゆっくりと下ろした。

 

 画面の光が消える。

 

 連絡は、まだしない。

 

 数秒かもしれない。

 数分かもしれない。

 だが、今この瞬間だけは──

 “魔術師の判断”を、ほんの少しだけ後回しにした。

 

 理央は、誠の背中を見つめる。

 

 夜風が吹き抜ける。

 

「……連絡……しないと……」

 

 掠れた声は、言葉になりきれない破片のようだった。

 

 誠は、抱えた秀則を少しだけ腕の中で支え直した。

 その仕草は、まるで“寝かさないように”気を遣っているかのように繊細で──

 しかし、その配慮に意味が無いことを、誠自身も分かっていた。

 

 それでも、そうせずにはいられなかった。

 

「……家族に……知らせないと……あと、警察と、一応救急車……だよな」

 

 その言葉は、誠がようやく“現実に触れた”証だった。

 

 理央は、瞬きすら忘れたように止まった。

 

 誠が言う“家族”という語が、

 秀則の死をようやく確定させる音に聞こえてしまい、

 胸の奥を指でなぞられたような嫌悪に似た痛みが走る。

 

 だが誠は、その痛みを感じる余裕すらないまま、震える手でポケットを探っている。

 

 スマートフォンを取り出す指は、何度も同じポケットをまさぐり、ようやく端末に触れたときには、手が汗で濡れていた。

 

「……番号……どこ……」

 

 誠がそこまで呟いた瞬間、理央は反射的に身体を動かした。

 

「……私がやる。紫村君の……家族には、私からも連絡を入れるから……」

 

 その声は、昼間と同じ冷静さを装っていたが、

 喉の奥に“固いもの”が引っ掛かっている。

 

 理央は──自分を魔術師へ戻すために、

 本家への事後処置連絡に手を伸ばした。

 

 震えていた指に、再びスマートフォンの冷いガラスが触れる。

 

 今度こそ、押すべき連絡先へ指を滑らせる。

 誠に後ろめたさを感じる余裕も、ためらう理由も、

 本来なら、もうないはずだった。

 

 だが──

 

 そこに、違和感が走った。

 

 秀則の死体。

 

 誠の腕の中。

 

 その“見慣れたはずの死”が──

 理央の魔術師としての直感に、ひどい引っかかりを残した。

 

「……灰原君。少しだけ……そこを動かないで」

 

 理央の声が、静かに沈む。

 

 誠は顔を上げる余裕すらなく、

 それでも理央の声色の変化に、かすかに反応した。

 

 理央はゆっくりと膝を折り、秀則の身体に近づいた。

 

 死体の冷たさ──

 その質が、違う。

 

 皮膚の色の抜け方も、筋肉の弛緩も、熱の抜ける速度も。

 死体としては、整合しない。

 

 理央が言葉を切った、その瞬間だった。

 

 誠の視界の端で、

 “何か”が揺れた。

 

 ライダーだった。

 

 彼女はまだ立っていた。

 だが、その輪郭が──わずかに崩れている。

 

 鎧の隙間。

 胸元。

 肩口。

 そこから、細かな紅い粒子が、砂のように零れ落ち始めていた。

 

 光ではない。

 炎でもない。

 

 鮮やかな紅、血よりも軽く、煙よりも重い──

 

 理央の瞳が、はっきりと見開かれた。

 

「……なに、これ」

 

 紅い粒子は、落下しなかった。

 

 空中で、向きを変えた。

 

 ──引き寄せられている。

 

 誠の腕の中。

 秀則の身体へ。

 

 粒子は、流れるように、

 いや、吸い込まれるように、

 秀則の胸へ、首へ、四肢へと沈み込んでいく。

 

 皮膚を突き破ることはない。

 血管を裂くこともない。

 

 それでも確かに、

 “中へ入っていく”。

 

 誠は、それを止めることも、

 意味を理解することもできなかった。

 

「……黒野、これはなんなんだ? マスターが死ぬと、こうなるのか?」

 

 声が、震えた。

 

 理央は答える事が出来ない。

 真紅の粒子は、彼女にとっても理外の存在であった。

 

 最後の粒子が、

 秀則の胸元へ吸い込まれた、その瞬間。

 

 ──バチン!! 

 

 空気が裂けるような音がした。

 

 

 秀則の身体が、跳ねた。

 

 まるで強烈な電気ショックを受けたかのように、

 全身が大きく痙攣する。

 

「──っ!?」

 

 誠の腕の中で、

 死体が、暴れた。

 

 背中が反り、

 指が不自然な角度で開き、

 喉が、ひきつったように鳴る。

 

 次の瞬間──

 

 血が噴き出した。

 

 鼻から。

 口から。

 耳から。

 そして、目の端から。

 

 “顔の穴という穴”すべてから、圧を伴った血が一斉に溢れ出し、誠の腕と胸元を濡らす。

 

「う、わ──っ!!」

 

 誠は反射的に身を引こうとして、しかし秀則を抱えたまま、動けない。

 

 血は止まらない。

 

 噴き出し、零れ、石畳に落ちて、黒い染みを作る。

 

 ──ごほっ。

 

 微かな音だった。

 

 だが、あまりにも場違いで、

 あまりにも“あってはならない”音だった。

 

 誠は、最初それを理解できなかった。

 

 腕の中の重さ。

 血に濡れた感触。

 冷え切ったはずの身体。

 

 それらすべてを否定するように──

 秀則の喉が、もう一度鳴った。

 

「……え……?」

 

 次の瞬間。

 

 秀則が、激しく咳き込んだ。

 

「──っ、ごはっ……! げほ……っ!」

 

 肺の奥に溜まっていたものを吐き出すような、

 生々しい、湿った咳。

 

 誠の腕の中で、

 “死体だったもの”が、はっきりと呼吸した。

 

 胸が、上下する。

 

 一度。

 二度。

 

 喉が動き、

 酸素を求めるように空気を吸い込む。

 

「し、紫村?」

 

 誠の声は、壊れかけていた。

 

 返事はない。

 

 だが──

 秀則の瞼が、ぴくりと動いた。

 

 ゆっくりと。

 本当に、ゆっくりと。

 

 閉じられていた瞼が、開く。

 

 焦点の合わない、

 だが確かに“生きている”目。

 

 秀則は、ぼんやりと夜空を見上げ、

 それから、誠の顔を視界に捉えた。

 

「……あ……?」

 

 かすれた、弱々しい声。

 

「……灰原氏?」

 

「……っ、紫村君!」

 

 理央の身体が、反射で動いた。

 

 膝をつく──では足りない。

 ほとんど転がり込むようにして誠の前へ滑り込み、秀則の顔を両手で挟む。

 

 呼吸。

 眼球の動き。

 皮膚の色。

 唇の乾き。

 

 どれも、“死”の条件を満たしていない。

 

「……嘘……」

 

 理央の声は、細く割れた。

 

 次に、手首へ指を当てる。

 脈拍──確かな拍動。

 

 首筋。

 胸元。

 心音──規則正しい。

 

 理央は息を止めたまま、秀則の瞳孔を覗き込む。

 光に反応して収縮する。

 

 遅れも鈍りもない。

 

 まるで──最初から、こうであったかのように。

 

 

「紫村君、動ける? 痛いところは? 息は……」

 

 問いかけながら、理央の視線は秀則の手の甲へ落ちる。

 

 令呪。

 

 一画は、完全に消えていた。

 だが残りは、まだ形を保っている。

 

 そして──

 

 理央は気付く。

 

 “枯渇”の臭いがない。

 

 秀則の体内を巡る魔力の流れが、乱れていない。

 無理に絞り出したはずの生命力の欠損も見当たらない。

 

 補填されている。

 それも、応急処置の域ではない。

 

 整いすぎている。

 

 理央はゆっくりと顔を上げ、ライダーを見る。

 

 声が硬い。

 

「……説明しなさい。ライダー」

 

 ライダーは、まだ“きょとん”とした顔のままだった。

 

 秀則の側に寄り、しゃがみ込む。

 確かめるように、指先で秀則の頬に触れる。

 

「分からない。この様な再生機能は、私の能力に含まれていない」

 

 理央は一歩も引かない。

 

「魔力が尽きた死体が動いたのよ。心拍も呼吸も正常。これは──蘇生じゃない。作り直した、に近い。分からないじゃ済まないわ」

 

 言いながら、理央は秀則の身体をもう一度、頭から足先まで視線でなぞる。

 

 出血の痕跡。

 痙攣の名残。

 なのに──皮下出血すら残っていない。

 

 筋肉の張りも、関節の可動域も、呼吸音も、すべてが健康体。

 

 矛盾が重なりすぎている。

 

「あなたもまた、不死の英霊という事なのね。その影響により紫村君が再構成された。そうとしか、今は考えられない」

 

 ライダーは口を開きかけて、閉じる。

 

 困惑が、そのまま表情に出ていた。

 

「……私は不死では無い、少なくともその自覚は無い。わたしは……こうなる事を知らなかった」

 

 言葉を探すように、ライダーは秀則の手を軽く持ち上げ、掌を返し、指の先を見た。

 

 何の傷もない。

 爪の欠けすらない。

 

「……たぶん、コーラルが勝手にやった。肉体を再構成して、アップロードしていた意識を死体にインストールして、魔力も……必要な分を満たした」

 

 理央の眉間が、さらに深く寄った。

 

「……コーラルって何なのよ、ふざけないで」

 

 言葉は静かだった。

 けれど、声の底にあるものが硬い。

 

「代償も媒介も回路も要らない再生なんて、魔術じゃない──世界法則の踏み倒しよ」

 

 理央は顔を上げ、ライダーを真っ直ぐに見据えた。

 

「死んだ肉体を新品にして、欠損を埋めて、記憶まで戻す? 因果も、代償も、術式も、手順も、全部すっ飛ばして? ……なんでもありじゃない。あなた、魔法使いにでもなったつもり?」

 

 

 誠は口を開けない。

 秀則は、自分の胸に手を当てて、まだ状況を測りかねている。

 

 ライダーは──

 

「……」

 

 言い返さなかった。

 

 眉をひそめ、唇を尖らせるように息を吐き、「そんな事、私に言われても」とでも言いたげに、その場にどさりと座り込んだ。

 

 膝を抱え、視線を逸らす。

 あからさまに不機嫌そうな沈黙。

 

 理央の手だけが、わずかに震えた。

 

「……あなたが分からないなら、余計に質が悪い」

 

 目の前には、“死んで戻った”紫村秀則がいて、その原因が“コーラル”という、説明の枠外にある何かで──

 

 理央は、喉の奥で言葉を噛み潰した。

 

 理央は、いったん目を閉じた。

 

 コーラルだの、再構成だの、意識のアップロードだの──

 今この場で詰めても、答えは出ない。

 そして答えが出ない間にも、現実の後始末だけが残る。

 

 住宅街の先。

 黒く焦げた外壁。割れた窓。

 路面に走った亀裂と、まだ燻る匂い。

 

 戦闘の余熱が、日常に食い込んだ痕跡。

 キャスターの工作によって人々の意識こそ失われているものの、死傷者ゼロとはいかないだろう。そのストーリーもでっち上げねばならない。

 

「……なんなのよ、もう」

 

 理央は自分に言い聞かせるように呟き、スマートフォンの画面を起こした。

 指先の震えを、意識で押さえつける。

 

「火災と崩壊の処理。痕跡の封鎖……」

 

 いつもの手順。いつもの言葉。

 

 通話ボタンを押す。

 

 呼び出し音が一度。二度。

 

 理央は周囲を見回した。

 誠はまだ膝をついたまま、秀則の肩に手を置いている。

 離せないというより、離し方が分からない顔。

 

 そして当の秀則は──

 

 地面に座り込んでいた。

 制服の袖口を赤黒く汚したまま、ぼんやりと夜気に目を泳がせている。

 隣ではライダーが同じように座り込み、膝を抱えたまま不機嫌に頬を膨らませていた。

 

 秀則は、ふと視線を横に滑らせる。

 ライダーと目が合う。

 

 互いに、何も言えないまま。

 

 ──コールが繋がった。

 

『……黒野でございます。理央様、ご用命は』

 

 理央は息を吸い、声を平らに整えた。

 

「サーヴァント、キャスターとの戦闘により大規模な戦闘痕跡が発生。火災、建物損壊、路面亀裂。一般人圏域。現場封鎖と事後処置班を要請します」

 

『場所は』

 

 理央は住所を口にする。

 番地まで言い切るたび、現実が釘で固定されていく。

 

「目撃者、報道の可能性は無し。死傷者不明」

 

『かしこまりました。直ちに処理人員を派遣致します。理央様の勝利をお祝い申し上げます。それでは、お疲れの出ませんように』

 

「……ええ」

 

 通話が切れた。

 

 画面の光が消えた瞬間、理央はようやく肩から力を抜いた。

 それでも、足元の石畳──いや、もう半分はアスファルトの地面が、冷たく現実を主張している。

 

 理央は秀則に視線を戻す。

 

 秀則は、まだ呆然としていた。

 隣のライダーとまた目が合い、どちらも何か言いかけて──結局、口を閉じた。

 

 理央はその沈黙を一度だけ噛みしめ、言った。

 

「……とりあえず、動かないで。全員。今から来る人間に、余計な混乱を増やしたくない」

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