誠は──動けなかった。
膝の上に抱えた秀則の身体は、もう軽かった。
命という重さが抜けた人間は、こんなにも簡単に腕の中へ収まるのか──そんなことを、誠は考えてしまう。
胸の下には、わずかに残っていた体温が、もうない。
肩も、首も、手首も。
どこを触れても、返ってくる温度は“世界の冷たさ”そのままだった。
誠は、呼吸の仕方を忘れていた。
視界は、ゆっくりと揺れている。
世界が戻った住宅街の光景──街灯の橙色、道路の白いライン、民家の窓の明かり──
それらが何も意味を持たず、ただ背景として遠ざかっていく。
音も、ほとんど届かない。
秀則の胸に耳を寄せても、何もない。
呼吸の静かな摩擦音も、心臓の律動も、服の擦れる細い音すら無い。
誠は、ただ抱いているだけだった。
力も入っていない。
抱きしめているのか、支えているのか、それすら自分で分からない。
「…………」
声も出なかった。
泣くという反応が、どこかに置き去りにされている。
頭が叫んでいるのに、胸が追い付かない。
胸が軋むのに、涙が出ない。
──何も繋がらない。
途切れた輪郭のまま、誠は秀則を抱いていた。
その少し離れた場所で、理央が立ち尽くしていた。
血と灰の匂いがまだ地面に沈む中、
理央は震える手でポケットに触れ──
そこで、動きが止まった。
ゆっくりと、スマートフォンを取り出す。
──本家へ連絡し、事後処理班を要請する。
魔術師としては当然の行動だった。
死体の処置、痕跡の除去、場合によっては──目撃者の処理。
一般人の目に触れないよう、数分以内に動くべき。
だが、画面を開こうとした親指が──
石のように固まった。
昼間の、自分と誠の会話が蘇る。
淡々とした理央の返答に、誠が珍しく苛立ちを見せた瞬間。
あの、刺すような視線。
それが、胸の奥を急に締め上げる。
──また、同じことをするの?
──今、この状況で。
──友人の死体の横で、事務処理を始めるの?
理央の肩が、小さく揺れた。
魔術師なら迷わないはずだった。
合理的な判断だけで、ただ速やかに処理を進めるはずだった。
だが──
誠が秀則を抱いて動けない、その背中を見た途端、
昼間は理解できなかった“普通の感性”が、不意に胸を突いた。
自分の手が、冷たく震えている。
スマートフォンの画面は開かれているのに、連絡先へ指が触れない。
触れた瞬間、誠に何を言われるのか。
何を思われるのか。
それ以前に、自分がそれを──
“今だけはしたくない”と思ってしまっている。
理央はふっと息を吸い、また止めた。
胸がきつい。
こんな感覚、自分には無縁だと思っていた。
魔術師である限り、情は足枷だと、ずっと教えられてきた。
だが。
──足が、動かない。
誠の背中は、沈んでいた。
世界に置き去りにされた人間の影だった。
その横で、理央はスマートフォンを持つ手を、ゆっくりと下ろした。
画面の光が消える。
連絡は、まだしない。
数秒かもしれない。
数分かもしれない。
だが、今この瞬間だけは──
“魔術師の判断”を、ほんの少しだけ後回しにした。
理央は、誠の背中を見つめる。
夜風が吹き抜ける。
「……連絡……しないと……」
掠れた声は、言葉になりきれない破片のようだった。
誠は、抱えた秀則を少しだけ腕の中で支え直した。
その仕草は、まるで“寝かさないように”気を遣っているかのように繊細で──
しかし、その配慮に意味が無いことを、誠自身も分かっていた。
それでも、そうせずにはいられなかった。
「……家族に……知らせないと……あと、警察と、一応救急車……だよな」
その言葉は、誠がようやく“現実に触れた”証だった。
理央は、瞬きすら忘れたように止まった。
誠が言う“家族”という語が、
秀則の死をようやく確定させる音に聞こえてしまい、
胸の奥を指でなぞられたような嫌悪に似た痛みが走る。
だが誠は、その痛みを感じる余裕すらないまま、震える手でポケットを探っている。
スマートフォンを取り出す指は、何度も同じポケットをまさぐり、ようやく端末に触れたときには、手が汗で濡れていた。
「……番号……どこ……」
誠がそこまで呟いた瞬間、理央は反射的に身体を動かした。
「……私がやる。紫村君の……家族には、私からも連絡を入れるから……」
その声は、昼間と同じ冷静さを装っていたが、
喉の奥に“固いもの”が引っ掛かっている。
理央は──自分を魔術師へ戻すために、
本家への事後処置連絡に手を伸ばした。
震えていた指に、再びスマートフォンの冷いガラスが触れる。
今度こそ、押すべき連絡先へ指を滑らせる。
誠に後ろめたさを感じる余裕も、ためらう理由も、
本来なら、もうないはずだった。
だが──
そこに、違和感が走った。
秀則の死体。
誠の腕の中。
その“見慣れたはずの死”が──
理央の魔術師としての直感に、ひどい引っかかりを残した。
「……灰原君。少しだけ……そこを動かないで」
理央の声が、静かに沈む。
誠は顔を上げる余裕すらなく、
それでも理央の声色の変化に、かすかに反応した。
理央はゆっくりと膝を折り、秀則の身体に近づいた。
死体の冷たさ──
その質が、違う。
皮膚の色の抜け方も、筋肉の弛緩も、熱の抜ける速度も。
死体としては、整合しない。
理央が言葉を切った、その瞬間だった。
誠の視界の端で、
“何か”が揺れた。
ライダーだった。
彼女はまだ立っていた。
だが、その輪郭が──わずかに崩れている。
鎧の隙間。
胸元。
肩口。
そこから、細かな紅い粒子が、砂のように零れ落ち始めていた。
光ではない。
炎でもない。
鮮やかな紅、血よりも軽く、煙よりも重い──
理央の瞳が、はっきりと見開かれた。
「……なに、これ」
紅い粒子は、落下しなかった。
空中で、向きを変えた。
──引き寄せられている。
誠の腕の中。
秀則の身体へ。
粒子は、流れるように、
いや、吸い込まれるように、
秀則の胸へ、首へ、四肢へと沈み込んでいく。
皮膚を突き破ることはない。
血管を裂くこともない。
それでも確かに、
“中へ入っていく”。
誠は、それを止めることも、
意味を理解することもできなかった。
「……黒野、これはなんなんだ? マスターが死ぬと、こうなるのか?」
声が、震えた。
理央は答える事が出来ない。
真紅の粒子は、彼女にとっても理外の存在であった。
最後の粒子が、
秀則の胸元へ吸い込まれた、その瞬間。
──バチン!!
空気が裂けるような音がした。
秀則の身体が、跳ねた。
まるで強烈な電気ショックを受けたかのように、
全身が大きく痙攣する。
「──っ!?」
誠の腕の中で、
死体が、暴れた。
背中が反り、
指が不自然な角度で開き、
喉が、ひきつったように鳴る。
次の瞬間──
血が噴き出した。
鼻から。
口から。
耳から。
そして、目の端から。
“顔の穴という穴”すべてから、圧を伴った血が一斉に溢れ出し、誠の腕と胸元を濡らす。
「う、わ──っ!!」
誠は反射的に身を引こうとして、しかし秀則を抱えたまま、動けない。
血は止まらない。
噴き出し、零れ、石畳に落ちて、黒い染みを作る。
──ごほっ。
微かな音だった。
だが、あまりにも場違いで、
あまりにも“あってはならない”音だった。
誠は、最初それを理解できなかった。
腕の中の重さ。
血に濡れた感触。
冷え切ったはずの身体。
それらすべてを否定するように──
秀則の喉が、もう一度鳴った。
「……え……?」
次の瞬間。
秀則が、激しく咳き込んだ。
「──っ、ごはっ……! げほ……っ!」
肺の奥に溜まっていたものを吐き出すような、
生々しい、湿った咳。
誠の腕の中で、
“死体だったもの”が、はっきりと呼吸した。
胸が、上下する。
一度。
二度。
喉が動き、
酸素を求めるように空気を吸い込む。
「し、紫村?」
誠の声は、壊れかけていた。
返事はない。
だが──
秀則の瞼が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
閉じられていた瞼が、開く。
焦点の合わない、
だが確かに“生きている”目。
秀則は、ぼんやりと夜空を見上げ、
それから、誠の顔を視界に捉えた。
「……あ……?」
かすれた、弱々しい声。
「……灰原氏?」
「……っ、紫村君!」
理央の身体が、反射で動いた。
膝をつく──では足りない。
ほとんど転がり込むようにして誠の前へ滑り込み、秀則の顔を両手で挟む。
呼吸。
眼球の動き。
皮膚の色。
唇の乾き。
どれも、“死”の条件を満たしていない。
「……嘘……」
理央の声は、細く割れた。
次に、手首へ指を当てる。
脈拍──確かな拍動。
首筋。
胸元。
心音──規則正しい。
理央は息を止めたまま、秀則の瞳孔を覗き込む。
光に反応して収縮する。
遅れも鈍りもない。
まるで──最初から、こうであったかのように。
「紫村君、動ける? 痛いところは? 息は……」
問いかけながら、理央の視線は秀則の手の甲へ落ちる。
令呪。
一画は、完全に消えていた。
だが残りは、まだ形を保っている。
そして──
理央は気付く。
“枯渇”の臭いがない。
秀則の体内を巡る魔力の流れが、乱れていない。
無理に絞り出したはずの生命力の欠損も見当たらない。
補填されている。
それも、応急処置の域ではない。
整いすぎている。
理央はゆっくりと顔を上げ、ライダーを見る。
声が硬い。
「……説明しなさい。ライダー」
ライダーは、まだ“きょとん”とした顔のままだった。
秀則の側に寄り、しゃがみ込む。
確かめるように、指先で秀則の頬に触れる。
「分からない。この様な再生機能は、私の能力に含まれていない」
理央は一歩も引かない。
「魔力が尽きた死体が動いたのよ。心拍も呼吸も正常。これは──蘇生じゃない。作り直した、に近い。分からないじゃ済まないわ」
言いながら、理央は秀則の身体をもう一度、頭から足先まで視線でなぞる。
出血の痕跡。
痙攣の名残。
なのに──皮下出血すら残っていない。
筋肉の張りも、関節の可動域も、呼吸音も、すべてが健康体。
矛盾が重なりすぎている。
「あなたもまた、不死の英霊という事なのね。その影響により紫村君が再構成された。そうとしか、今は考えられない」
ライダーは口を開きかけて、閉じる。
困惑が、そのまま表情に出ていた。
「……私は不死では無い、少なくともその自覚は無い。わたしは……こうなる事を知らなかった」
言葉を探すように、ライダーは秀則の手を軽く持ち上げ、掌を返し、指の先を見た。
何の傷もない。
爪の欠けすらない。
「……たぶん、コーラルが勝手にやった。肉体を再構成して、アップロードしていた意識を死体にインストールして、魔力も……必要な分を満たした」
理央の眉間が、さらに深く寄った。
「……コーラルって何なのよ、ふざけないで」
言葉は静かだった。
けれど、声の底にあるものが硬い。
「代償も媒介も回路も要らない再生なんて、魔術じゃない──世界法則の踏み倒しよ」
理央は顔を上げ、ライダーを真っ直ぐに見据えた。
「死んだ肉体を新品にして、欠損を埋めて、記憶まで戻す? 因果も、代償も、術式も、手順も、全部すっ飛ばして? ……なんでもありじゃない。あなた、魔法使いにでもなったつもり?」
誠は口を開けない。
秀則は、自分の胸に手を当てて、まだ状況を測りかねている。
ライダーは──
「……」
言い返さなかった。
眉をひそめ、唇を尖らせるように息を吐き、「そんな事、私に言われても」とでも言いたげに、その場にどさりと座り込んだ。
膝を抱え、視線を逸らす。
あからさまに不機嫌そうな沈黙。
理央の手だけが、わずかに震えた。
「……あなたが分からないなら、余計に質が悪い」
目の前には、“死んで戻った”紫村秀則がいて、その原因が“コーラル”という、説明の枠外にある何かで──
理央は、喉の奥で言葉を噛み潰した。
理央は、いったん目を閉じた。
コーラルだの、再構成だの、意識のアップロードだの──
今この場で詰めても、答えは出ない。
そして答えが出ない間にも、現実の後始末だけが残る。
住宅街の先。
黒く焦げた外壁。割れた窓。
路面に走った亀裂と、まだ燻る匂い。
戦闘の余熱が、日常に食い込んだ痕跡。
キャスターの工作によって人々の意識こそ失われているものの、死傷者ゼロとはいかないだろう。そのストーリーもでっち上げねばならない。
「……なんなのよ、もう」
理央は自分に言い聞かせるように呟き、スマートフォンの画面を起こした。
指先の震えを、意識で押さえつける。
「火災と崩壊の処理。痕跡の封鎖……」
いつもの手順。いつもの言葉。
通話ボタンを押す。
呼び出し音が一度。二度。
理央は周囲を見回した。
誠はまだ膝をついたまま、秀則の肩に手を置いている。
離せないというより、離し方が分からない顔。
そして当の秀則は──
地面に座り込んでいた。
制服の袖口を赤黒く汚したまま、ぼんやりと夜気に目を泳がせている。
隣ではライダーが同じように座り込み、膝を抱えたまま不機嫌に頬を膨らませていた。
秀則は、ふと視線を横に滑らせる。
ライダーと目が合う。
互いに、何も言えないまま。
──コールが繋がった。
『……黒野でございます。理央様、ご用命は』
理央は息を吸い、声を平らに整えた。
「サーヴァント、キャスターとの戦闘により大規模な戦闘痕跡が発生。火災、建物損壊、路面亀裂。一般人圏域。現場封鎖と事後処置班を要請します」
『場所は』
理央は住所を口にする。
番地まで言い切るたび、現実が釘で固定されていく。
「目撃者、報道の可能性は無し。死傷者不明」
『かしこまりました。直ちに処理人員を派遣致します。理央様の勝利をお祝い申し上げます。それでは、お疲れの出ませんように』
「……ええ」
通話が切れた。
画面の光が消えた瞬間、理央はようやく肩から力を抜いた。
それでも、足元の石畳──いや、もう半分はアスファルトの地面が、冷たく現実を主張している。
理央は秀則に視線を戻す。
秀則は、まだ呆然としていた。
隣のライダーとまた目が合い、どちらも何か言いかけて──結局、口を閉じた。
理央はその沈黙を一度だけ噛みしめ、言った。
「……とりあえず、動かないで。全員。今から来る人間に、余計な混乱を増やしたくない」