空の色が変わっていく。
黒に沈んでいた夜が、青に薄まり、住宅街の屋根の輪郭だけが、少しずつ“輪郭を取り戻して”いく。
降り続く灰に、朝日が鈍く反射していた。
目の前では――
黒野本家の処理班が黙々と動いている。
黒い作業着。
無駄のない足運び。
顔は覆われ、目だけが淡く反射している。
誰も、叫ばない。
誰も、驚かない。
誰も、ため息すらこぼさない。
ただ、作業だけが進む。
焦げた外壁には、白いシートが掛けられる。
割れた窓は、板で塞がれる。
路面に走った亀裂には、灰色の充填材が流し込まれ、その上からアスファルトが撒かれて、短時間で“普通の道路”に戻されていく。
火の匂いは、薄い薬品の匂いに置き換わった。
煤の黒は、洗浄剤の泡に押し流され、赤黒い染みは、吸着シートで剥がされ、最後には、何もなかったかのような濡れた路面だけが残る。
誠はそれを眺めていた。
眺めるしかできなかった。
――誰かが、声を出す。
「ガス漏れ、からの引火。大爆発。周辺の住人は一時避難。死傷者多数。消防は“到着が遅れた”ことになる」
淡々とした報告。
誰に言うでもなく、作業班の中で確認される“筋書き”。
誠の耳に、その単語が刺さる。
ガス漏れ。
引火。
大爆発。
たったそれだけの言葉で、あの赤黒い夜も、キャスターの狂い火も、世界が裂ける音も、友人の死も――
全部、同じ棚に収まるのか。
誠は喉が乾いたのに、水を飲むことさえ思い出せない。
朝日が、じわりと石畳――いや、今はほとんど元に戻った路面を照らしている。
その光は暖かいはずなのに、誠の手先は冷えたままだった。
その少し離れた場所。
折り畳み式の簡易テントが張られ、そこに“医療スタッフ”がいた。
秀則が、椅子に座らされている。
毛布を肩に掛けられ、胸には機器が、手首にはカフが巻かれていた。
医療スタッフが秀則に問う。
「お名前を」
誠は、少し離れた位置からそれを聞いていた。
「……紫村秀則です」
返答ははっきりしている。
掠れも、震えもない。
それだけで、胸の奥に奇妙な違和感が残った。
「生年月日は」
「二月十四日……」
問いと答えが、滞りなく続く。
まるで、何事もなかった朝の健康診断のようだった。
誠は、無意識に秀則の姿を目で追う。
毛布を肩に掛けられ、椅子に座らされているだけの、いつもの友人。
包帯は見えない。
血の痕もない。
――昨夜、確かに。
そこまで考えて、誠は思考を止めた。
続きを思い出す勇気がなかった。
「痛むところは」
「特に、ありませぬ」
医療スタッフの手元で、何かが記録される音。
機械の小さな電子音が、朝の空気に溶ける。
誠は、喉が詰まるのを感じた。
元気だ。
声も、姿勢も、呼吸も。
それなのに。
「意識ははっきりしていますか?」
その問いだけが、少しだけ間を置いて発せられた。
秀則が、一瞬だけ言葉を探す。
誠には、その沈黙がやけに長く感じられた。
「はい。ですが……なんというか、現実感がないと言いますか」
その一言で、誠の胸がひくりと痛んだ。
それは、誠自身がずっと抱えている感覚と、あまりにも近かった。
スタッフはそれ以上踏み込まず、淡々と頷く。
問診は続き、やがて終わる。
「数値は安定しています。問題ありません」
区切りの言葉。
それで、この件は「解決」なのだと告げる声。
医療スタッフがテントを出ていく。
中には、秀則だけが残る。
誠は、しばらくその場から動けなかった。
秀則が生きている。
それは確かなはずなのに、頭のどこかで噛み合わない。
視線を逸らそうとして――
別の動きに気づく。
少し離れた場所。
黒服の男が立っていた。
黒野本家の処理班の中でも、明らかに立ち位置が違う。
周囲が、無言で距離を取っている。
――責任者。
誠には、そうとしか見えなかった。
その正面に、黒野理央がいる。
灰を踏みしめ、朝の光の中で立つその姿は、昨夜と何も変わらない。
疲労も、動揺も、読み取れない。
二人の会話は、断片的にしか聞こえない。
「……処理は概ね完了。報道機関、地元住民への説明等のカバーストーリー処置はお任せください」
「ええ、ありがとう。その……死傷者は」
「想定内です」
「……そういう事じゃ……いえ、良いわ。了解」
理央が、静かにその場を離れた。
正確には、こちらへ向かって歩き出した。
隣には、黒服の責任者。
足音は、ほとんど聞こえない。
灰を踏んでいるはずなのに、音がない。
誠は、それをぼんやりと眺めながら、身体の奥がわずかに緊張していくのを感じた。
理由は分からない。
ただ、本能的に――自分に関係のある話になると分かってしまった。
二人は、誠の数歩手前で止まった。
黒服の男が、一礼する。
深すぎず、浅すぎず。
感情の入らない、儀礼として完成された動作だった。
「灰原様で、よろしいですね」
確認の言葉。
問いというより、事実の照合。
「……はい」
声が、少し遅れて出た。
自分の名前を呼ばれた感覚が、まだ現実に結びついていない。
黒服の男は、誠の反応を気に留める様子もなく、続けた。
「まず、今回の一連の騒動につきまして――黒野本家としては、極めて不本意なものであった、という点を明確にさせてください」
不本意。
その言葉が、誠の中で引っかかる。
昨夜の惨状。
燃えた夜。
死んだ友人。
それらが、「不本意」という一語で括られる。
「本来、この地域であの規模の事象が発生することは、想定されておりませんでした」
黒服の男の声音は、終始一定だった。
謝罪でも、弁明でもない。
事実の説明。
「にもかかわらず、結果として大きな被害が発生した。その点については、我々の管理体制の不備と認識しております」
誠は、何も言えなかった。
何かを言うべきなのかどうかすら、判断がつかない。
黒服の男は、わずかに視線を動かす。
理央の方を一瞬だけ見てから、再び誠に戻した。
「ただし」
その一語で、空気が変わる。
「事態の最悪化を防ぎ、これ以上の被害拡大を抑えた点において――今回、現場で対応に当たった四名のマスターの行動は、黒野本家として高く評価しております」
「取り急ぎ――その四名に対し、直接、感謝の意を伝えたいとの意向が示されております」
感謝。
その言葉が、ひどく浮いて聞こえた。
誠は、眉をひそめる。
「……誰から、ですか」
問いは短かった。
だが、その裏には、説明しきれない違和感が詰まっていた。
黒服の男は、静かに答える。
「黒野家、ご当主様より」
その言葉が落ちた瞬間だった。
誠の視界の端で、理央の表情が歪んだ。
ほんの一瞬。
呼吸一つ分にも満たない時間。
だが――誠には、はっきりと分かった。
口元が、わずかに引きつる。
奥歯を噛み締めたような、苦虫を噛み潰した表情。
これまで一切揺らがなかった黒野理央の顔に、初めて浮かんだ露骨な拒否の色だった。
黒服の男は、それに気づいた様子もなく、淡々と続ける。
「正式な謝意については、後日あらためて場を設ける予定ですが――本日はまず、顔合わせと状況確認を」
理央は、短く息を吐いた。
感情を押し戻すように、視線を伏せる。
そして、すぐにいつもの無表情に戻る。
だが、誠は見てしまった。
当主という存在が、彼女にとって“歓迎すべきものではない”ことを。
黒服の男は、くるりと視線を巡らせた。
「……そちらの紫村様も」
簡易テントの方へ、声を投げる。
秀則が、毛布を肩に掛けたまま顔を上げた。
状況を完全に理解している様子はないが、名前を呼ばれたことだけは分かったらしい。
「あ、はい……」
立ち上がる動きは、ぎこちない。
身体は動くが、意識が少し遅れてついてきているようだった。
黒服の男は、さらに視線を動かす。
「――そちらも」
誠が振り向くと、少し離れた場所で、紗月が立っていた。
処理班の動線の外。
しかし、決して遠くへは行かない位置。
うろうろと歩き回りながら、現場を眺めていた彼女は、呼び止められると、わずかに肩をすくめた。
「はいはい。今度は何?」
軽い口調。
だが、その目は鋭い。
黒服の男は、四人を一瞥する。
誠。
理央。
秀則。
紗月。
まるで、名簿と照合するかのような視線だった。
「皆様を、こちらへご案内します」
そう言って、男は歩き出す。
処理班の動きの隙間を縫うように進んだ先――
道路脇に、一台の車が停められていた。
黒塗りのクラシックカー。
流線は古く、だが手入れは行き届いている。
現代の車列の中では、異様なほど浮いていた。
誠は、それを見た瞬間に思った。
――これは、隠すための車だ。
派手さではなく、重みで周囲を黙らせるための存在。
黒服の男が、後部座席のドアを開ける。
「どうぞ」
理央が、僅かに立ち止まる。
一瞬だけ、誠の方を見る。
何か言いたげな視線。
だが、言葉は出ない。
そのまま、彼女は車へ向かった。
誠は、遅れて一歩踏み出す。
背後で、秀則が小さく呟いた。
「あの、灰原氏。これ、なんか乗っちゃいけない気が……取り返しがつかなくなるような」
誠は、答えられなかった。
判断する基準が、もう分からない。
ただ分かるのは――
自分たちは今、黒野家という巨大な意思の内部へ運ばれようとしているということだけだった。
ドアが閉まった。
重たい音ではなく、奇妙に静かな密閉音。
外の空気が一枚の膜で切り離され、灰の匂いも、薬品の匂いも、少しだけ遠くなる。
誠は後部座席で、無意識に膝の上の手を握りしめていた。
隣に理央。
反対側に秀則。
向かいの補助席に紗月が座っている。
車内は広いはずなのに、息が詰まる。
革張りの座席が、身体を柔らかく押し返す感触だけが妙に現実的だった。
外では、サーヴァントたちが立ち尽くしている。
次の瞬間、外の気配が、ふっと薄れる。
灰の上に残っていた“重さ”が抜け落ち、視界の端の輪郭が揺らいで――消えた。
誠の背筋に、冷たいものが走る。
目に見えないだけで、そこにいる。
車内の空間が、急に狭くなった気がした。
運転席で黒服の男が、何事もなかったようにレバーを操作する。
エンジンが低く唸り、クラシックカーはゆっくりと動き出した。
窓の外、処理班の黒い影が遠ざかる。
白いシートで覆われていく外壁。
塞がれていく窓。
塗り直される路面。
“普通”が、後ろへ流れていく。
誠は窓に視線を固定した。
自分の中で何かが追いつこうとしては、追いつけずに滑り落ちていく。
車は住宅街を抜け、徐々に道幅の狭い山道へ入っていった。
朝の光が、木々の間で細く裂ける。
灰が舞っているのに、山の空気は澄んで見える。
それが、なおさら不気味だった。
理央は、窓の外を見たまま動かない。
先ほどの苦い表情の残滓だけが、誠の記憶に刺さっている。
紗月は、足を組み直し、楽しげでも退屈でもない顔で前方を眺めていた。
その態度が逆に、現実味を奪っていく。
車は、淡々と山の方向へ進んだ。
何分走ったのか、誠には分からない。
時計を見る気になれなかった。
時間は、昨夜からずっと歪んだままだった。
ただ、窓の外の景色が変わっていくことで、移動だけは確かに続いていると分かる。
道路脇の家が消え、
畑が消え、
木と岩だけの世界になっていく。
そして――
不意に、前方の視界が開けた。
山の斜面の間。
そこに、巨大な影が現れる。
門。
それは、屋敷の門というより――境界そのものだった。
黒塗りの鉄。
厚い石柱。
その上に組まれた意匠は古く、しかし手入れが行き届いていて、朝の光を鈍く跳ね返している。
誠は、息を呑んだ。
理央の屋敷の門など、比べものにならない。
規模も、重みも、圧も。
門の向こう側が、別の国みたいだった。
秀則が、小さく声を漏らす。
「……は?」
誠も同じ言葉を飲み込んだ。
生まれてから、この街で生きてきた。
山道も、裏道も、抜け道も知っている。
それなのに――
こんなものを、見たことがない。
存在を、知らない。
門の隙間から、さらに奥が見える。
高い塀。
木々の影に隠れるように建つ、巨大な屋敷の輪郭。
山の間に、押し込めるように。
この街の地形そのものが、隠蔽に協力しているようだった。
誠の胸の奥が、冷たくなる。
――知らなかったのではない。
――知らされなかった、その権利がなかった。
車は門の前で減速し、ほとんど音も立てずに停まる。
黒服の男が何かを操作すると、門はゆっくりと開き始めた。
金属が擦れる音はしない。
ただ、重いものが空間を移動する圧だけが伝わる。
門が開き切ると、車は再び動き出した。
タイヤが砂利を踏むはずなのに、音がしない。
屋敷の内側に入った瞬間、外の世界の雑音が薄い布で覆われたように遠のいた。
左右に伸びる並木は高い。
枝の影が車体を撫で、朝の光を切り刻む。
誠は窓の外を見ながら、胸の内側がじわりと冷えるのを感じていた。
ここは同じ灰原地区のはずだ。
山も、道も、空気の匂いも、確かに知っている。
なのに――知らない。
車はゆっくりと坂を上り、視界の先に屋敷の全容が現れた。
巨大だった。
建物の輪郭が、山肌に溶け込むように沈んでいる。
派手な装飾はない。
だが、石と木と瓦の量そのものが、圧として迫ってくる。
屋敷の前で車が止まった。
エンジンの低音が途切れ、沈黙が落ちる。
黒服の責任者が先に降りる。
ドアが開くと、空気が冷たく流れ込んだ。
誠も降りた。
足元は丁寧に掃かれた石畳。
灰は、ここにはほとんど積もっていない。
それが逆に不気味だった。
――こんな場所が、同じ空の下にあったのか。
理央が降りる。
顔は平静に戻っているが、誠はさっきの苦い表情を思い出してしまう。
秀則が最後に降りた。
毛布を肩に掛けたまま、周囲を見回し、目を瞬かせる。
「……これ、どこ……?」
声は、現実に触れられないまま浮いていた。
紗月は車から降りると、屋敷の外壁を見上げ、軽く鼻で笑うような息を漏らした。
だが、その目は笑っていない。
そして――
正面の玄関に、ひとりだけ人影が立っていた。
年老いた使用人。
背は高くない。
白髪をきちんと撫でつけ、古いが皺一つない燕尾のような服を着ている。
手には何も持っていない。
たった一人。
この規模の屋敷に対して、あまりにも釣り合わない人数。
誠はそのギャップに、妙な眩暈を覚えた。
処理班の無言の群れを見た後だからこそ、余計に際立つ。
使用人は、深く頭を下げた。
「……ようこそ、お越しくださいました」
声は枯れていない。
静かで、しかしよく通る声だった。
黒服の責任者が一歩前に出る。
「到着しました。四名、揃っております」
使用人は頷き、視線を誠たちに向ける。
一人ひとりの顔を、確認するように見た。
そこに好奇心も評価もない。
ただ、“数”を確かめる眼。
誠は背筋が伸びるのを感じた。
使用人が、玄関の扉を開く。
扉の向こうは、さらに静かだった。
廊下は広い。
床板は黒く、磨かれているのに、艶を誇示しない。
壁は白い。
天井は高い。
そして――何もない。
絵画がない。
壺がない。
置物がない。
花一輪すらない。
あるのは、建物そのものの気配だけ。
誠は歩きながら、胸の内側がざわつくのを感じた。
この屋敷は、屋敷そのものが美術品のようだ。
いや、それよりも――文化財のように、触れてはいけない圧がある。
なのに、飾りが一切ない。
空っぽなのに、満ちている。
廊下を曲がるたび、同じ感覚が強くなる。
秀則が、小さく息を呑む音がした。
誠は横目で見る。
秀則も、同じように落ち着かない顔をしていた。
地元の人間としての常識が、ここで静かに崩れていく。
使用人は足音を立てずに進み、やがて一つの扉の前で止まった。
「こちらへ」
扉が開く。
応接間。
大きな窓から朝の光が差し込んでいる。
だが、そこにも装飾はない。
椅子とテーブルだけが、必要最低限の位置に置かれている。
カーテンは厚いのに、模様がない。
壁も、床も、徹底して無地だ。
誠は、思わず一歩踏み出すのを躊躇った。
ここは客を迎える部屋のはずだ。
なのに、客を歓迎する“温度”がない。
使用人が淡々と言う。
「お掛けください。……ご当主様が、間もなく」
その言葉で、空気がさらに一段冷えた気がした。
誠は椅子に腰を下ろしながら、無意識に背後を気にした。
霊体化したはずの“気配”が、どこかにいる。
見えない同伴者たちが、部屋の隅に沈黙しているように感じる。
理央は、誠の隣に座った。
背筋は真っ直ぐ。
表情は整っている。
だが、手元だけが――膝の上でわずかに固くなっているのが、誠には見えた。