椅子の革が、わずかに軋んだ。
誠は背筋を伸ばしたまま、応接間を見回していた。
広い。
天井が高い。
窓は大きく、朝の光が斜めに差し込んでいる。
それなのに──飾りがない。
絵もない。
花もない。
置物もない。
あるのは、整いすぎた空間と、磨かれた床と、無音に近い沈黙だけだった。
隣では、秀則が毛布の端を指でいじりながら、落ち着かない視線をさまよわせている。
視線は、壁から天井へ。
窓枠の角へ。
床の木目へ。
まるで、何かが隠れているのではないかと探しているようで──同時に、何もないことに戸惑っているようでもあった。
「……こんな大きな家が……我らの住む町にあったのですな」
前方の扉の近くに、年老いた使用人が立っている。
先ほどから、動かない。
呼吸しているのかすら分からない。
ただ、そこにいる。
必要なときにだけ、必要な動作をする機械のように。
誠はふと、自分の背後を意識した。
霊体化したサーヴァントたちは、見えない。
だが、いないわけではない。
空気が、妙に濃い。
この部屋の“何もなさ”が、逆に気配を浮き立たせる。
その対照が、余計に誠の神経を尖らせた。
向かい側。
理央が座っている。
姿勢は完璧だった。
膝の上に置かれた手は静かで、指先すら動かない。
目線は、正面の一点。
扉の方を、まっすぐに見ている。
表情も整っている。
だが、誠には分かった。
──緊張している。
皮膚の下に、見えない刃が通っているような硬さ。
ただ、微動だにしないことで、それを隠している。
隣の紗月も同じだった。
さっきまで外では、肩をすくめる余裕があった。
だが今は違う。
座椅子の背もたれに寄りかかりもしない。
足も組まない。
背筋を立て、視線を落とさない。
緊張というより──警戒。
ここに来るまで見せていた軽さが、切り落とされている。
誠はそこで、初めて理解する。
自分と秀則は、この屋敷を「初めて知った場所」として眺めている。
だが、理央と紗月は違う。
この場所の意味を、ある程度知っている。
あるいは──知らされてきた。
だからこそ、動けない。
沈黙が続いた。
時計の針の音もない。
風の音も聞こえない。
誠は、何十分か経ったように錯覚したが、実際の時間は分からない。
使用人は、相変わらず扉のそばに立ち、微動だにしない。
秀則が、また周囲を見回す。
視線が、壁に吸い寄せられる。
何もない壁に。
何もないはずなのに、視線が離れない。
誠も同じだった。
この部屋は、何かを見せるための部屋ではない。
何かを──奪うための部屋だ。
余計なものを削ぎ落とし、言い訳も、感情も、逃げ道も奪い。
ただ、ここに座る者だけを、裸にする。
誠は、背中に冷たい汗が滲むのを感じた。
そして──
廊下の奥から、音がした。
足音。
ひとつ。
ふたつ。
一定の間隔で、こちらへ近づいてくる。
理央の視線が、わずかに鋭くなる。
紗月も、肩の力がほんの少しだけ変わる。
秀則が息を止める。
誠の心臓が、音を立てた気がした。
使用人が、初めて動いた。
襖へ手を掛ける。
その動きは、ゆっくりで、正確で──
この屋敷の空気と同じだった。
──す、と。
襖が滑るように開く。
廊下の奥の光が、細い線になって応接間へ差し込んだ。
その線の中を、まず一人の老人が入ってくる。
七十代前後。
背は低くないが、体の厚みは削げている。
白髪は整えられ、着物のようにも見える落ち着いた装いが、部屋の無地の空気に馴染んでいた。
老人は、穏やかな笑みを浮かべていた。
その笑みが、逆に誠の喉を乾かした。
感情のない処理班の無表情よりも、ずっと作為があるように見えたからだ。
「待たせてしまって、すまなかったね」
声は柔らかい。
しかし、部屋の隅まで届く。
老人は、使用人に軽く頷き、誠たちに向かってゆっくりと頭を下げる。
謝罪の形は完璧だった。
そして、躊躇なく席へ向かう。
椅子に腰を下ろす動作に迷いがない。
ここが自分の場所であると、当然のように理解している動き。
誠は、反射的に背筋をさらに伸ばした。
老人の後ろ──
もう一人が入ってくる。
金髪。
朝の光が、髪に触れた瞬間、白金に近い輝きが走った。
赤い瞳。
血の色ではなく、宝石のような濃い赤。
それが誠の視線を一度捉え、次の瞬間には興味を失ったように逸らされる。
美青年だった。
年齢は二十前後に見える。
だが、幼さはない。
整いすぎた顔立ちが、むしろ人間味を薄くしていた。
誠は、息を飲む。
理央の横顔が硬くなるのが、視界の端で分かった。
紗月も、ほんのわずかに目を細めたまま動かない。
青年は、老人の後ろを歩きながら、周囲を見回す。
応接間の何もない壁。
何もない床。
何もない空間。
それを確認するように一度見渡して──鼻で笑った。
そして、席へ向かわない。
椅子の背にも触れず、テーブルにも近づかず、部屋の隅へ歩いていく。
壁へ、無遠慮に肩を預けた。
もたれかかる。
腕を組む。
そこが“自分の居場所”であるかのように。
人は、穏やかな笑みを保ったまま、誠たち四人を順に見渡した。
視線は柔らかい。
だが、逃げ場を与えない。
「改めて名乗ろう」
そう言って、背筋を正す。
その所作だけで、部屋の空気が一段締まった。
使用人も、青年も、誰一人として動かない。
「黒野家当主──黒野恒一郎だ」
名乗りは簡潔だった。
誇示も、重みづけもない。
それなのに、その名が落ちた瞬間、誠の胸の奥で何かが音を立てて沈んだ。
──当主。
先ほどまで言葉として聞いていた存在が、目の前に座っている。
それだけで、現実感が歪む。
老人──黒野当主は、わずかに首を傾ける。
「まずは、礼を言わせてほしい」
声は相変わらず穏やかだ。
「今回のキャスターの暴走。あれは、本来であれば──我々が監督官として、より早い段階で対処すべき案件だった」
誠の喉が、ひくりと鳴る。
監督官。
その単語が、ここに至るまでの全てを、別の枠に押し込めようとする。
「神秘の秘匿を無視し、一般社会への暴露すら厭わない手段に出た時点で、本来ならば即時介入がなされて然るべきだった」
黒野当主は、淡々と事実を並べる。
言い訳の響きはない。
だが、責任の所在を自分たちに置いていることも、はっきりと分かる。
「だが、我らは手をこまねいているのみで、実際には何の対処も行えなかった」
そこで、わずかに間を置く。
誠は、その沈黙に耐えながら、無意識に拳を握りしめていた。
「代わりに──君たちが動いた」
視線が、誠へ。
次いで、秀則へ。
理央へ。
紗月へ。
「神秘の暴露を招くことなく、街を混乱に陥れることもなく、キャスターを討伐した」
言葉が、静かに重ねられる。
「犠牲者は少なからず出てしまったが……君たちはあの場で最善の選択をしてくれた」
誠は、胸の奥がざわつくのを感じた。
昨夜の光景が、断片的に蘇る。
火。
音。
裂ける空気。
あれが──評価される行為だと言われている。
「我々の不手際を補い、結果として神秘の秘匿を守り抜いた。その点について、黒野家当主として、正式に礼を述べる」
黒野当主は、深くはないが、確かな角度で頭を下げた。
誠は、思わず身を強張らせる。
こんな人物が、頭を下げる。
それ自体が、異常だった。
黒野当主は、頭を上げると、再び穏やかな表情に戻った。
その間、誰も口を挟まない。
秀則も、誠も、理央も、紗月も──ただ、その言葉の重みを受け止めるしかなかった。
当主は、指先を軽く組み、視線を落とす。
「さて……本題に入ろう」
声は低く、しかし柔らかい。
「今回の戦闘痕跡の隠蔽、結界の再調整、周辺住民への心理的補正、報道機関への対応──正直に言って、どれも一朝一夕には済まない」
誠は、胸の奥で小さく息を吸った。
あの夜の惨状が、数日の作業で“無かったこと”にされていく。
その現実が、言葉として突きつけられる。
「最低でも、数日はかかるだろう」
黒野当主は、そう断言した。
「その間、諸君らが市中を動き回るのは、望ましくない。キャスターのような手段を選ばない者も、まだもいるかもしれないからね」
誠の眉が、わずかに動く。
それは命令ではない。
だが、拒否を想定していない言い方だった。
「誤解しないでほしい。聖杯戦争そのものを休止するつもりはない」
当主は、軽く周囲を見回す。
無装飾の応接間。
厚い壁。
外界から切り離された静寂。
「少なくとも、この数日。諸君らには“小休止”が必要だ」
秀則が、思わず目を瞬かせた。
「小……休止、ですかな?」
「そうだ」
黒野当主は頷く。
「休息、療養、情報整理。その全てを、この場所で行えるよう手配する」
黒野当主の声は、変わらず穏やかだった。
だが、言葉の端々に“決定事項”の硬さが混じる。
「外界からは切り離されるが、必要な情報は入る。食事も、寝所も、結界も整っている。君たちは、ここで数日休むといい」
誠は頷くことも、否定することもできなかった。
頭の中で、昨夜の破片がまだ落ち着ききっていない。
秀則が、毛布の端を握ったまま、恐る恐る口を開く。
「……しかし、その……我らは、聖杯戦争の参加者で──」
「分かっている」
黒野当主は、秀則の言葉を遮らない。
ただ、先に答えを置いた。
「聖杯戦争は続く。休止はしない。だが、監督官として言うなら──今の諸君らは、動くべきではない」
その言い方に、誠は背中の冷えを覚える。
“監督官として”という枕詞が、優しさを装った命令に変わる瞬間を、はっきり示していたからだ。
黒野当主は、視線を秀則へ向けた。
穏やかな目。
だが、何かをすでに知っている目。
「紫村君」
呼び方だけで、秀則の肩がわずかに跳ねた。
「君が、今回の件を経て──聖杯戦争からのリタイアを望んでいることも、承知している」
黒野当主は、責めない。
慰めもしない。
ただ、事実のように言う。
「その処置についても、こちらで手続きを進める。焦る必要はない。──心身が落ち着いてからでいい」
秀則の目が、揺れた。
逃げ道を与えられた安堵ではない。
逃げ道の存在を、最初から握られていたと知った恐怖だ。
誠は、無意識に唾を飲み込む。
この屋敷は“休ませる場所”ではなく、
“決めさせる場所”なのかもしれない──そんな疑念が胸の底で膨らむ。
黒野当主は、四人を一度だけ見渡した。
「ひとまず今日は休みなさい。詳細は、後でこちらから伝える。──理央」
名を呼ばれた瞬間、理央の背筋がさらに硬くなる。
「……はい」
声は平静だった。
しかし、誠には分かった。
喉の奥で、何かを噛み殺している。
「君もよくやった。また、食事でもしようじゃないか」
「……」
黒野当主は立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音すら、ほとんどしない。
それが余計に不気味だった。
「では──一旦、失礼する」
穏やかな笑みを崩さぬまま、当主は応接間を出ていく。
年老いた使用人が、影のように後ろへつき、襖を静かに引いた。
残されたのは、沈黙と──
壁にもたれていた金髪の青年だった。
青年は、最後まで座らない。
赤い瞳が、ふと誠を捉える。
一瞥。
それだけだった。
値踏みでも、敵意でもない。
ただ、“そこにいた”という確認のように。
次の瞬間、青年は肩を壁から離し、興味を失ったように踵を返す。
襖が閉まる。
その瞬間。
空気が、ふっと軽くなった。
誠は驚く。
同じ部屋なのに、圧が一枚剥がれたように感じる。
理央の吐息が、ようやく部屋の空気に馴染んだ。
紗月も額に手を当て、短く目を閉じる。
その仕草ひとつで、さっきまで張り詰めていたものがどれほどだったか、誠にも伝わってきた。
理央が、肩を落とした。堪えていた息を、深く吐く。
それはため息というより、溺れていた者がようやく浮上した音だった。
「……っ」
紗月も同じだった。
背筋を張っていた糸が切れ、座椅子の背にほんの少しだけ身を預ける。
そして、抑えきれなかったように、深いため息を漏らした。
誠は、その二人を見てようやく理解する。
自分と秀則が“物珍しさ”でこの屋敷を見ていた間、理央と紗月は、ずっと別のものを見ていた。
誠はわざと軽い話題を探して──口を開く。
「……さっきの金髪の人さ。黒野家って、外国人もいるんだな」
自分でも分かる。
場を和ませるには、あまりに浅い言葉だ。
それでも、言葉が落ちた瞬間、理央の視線がこちらに向いた。
理央は一瞬、言うべきか迷った顔をした。
眉がわずかに寄る。
唇が薄く閉じられる。
そして──決めたように、息を整える。
「……違うわ」
声は小さい。
だが、硬い。
「彼は、黒野家の人間じゃない。それどころか……普通の人間でもない」
誠は瞬きをした。
「え」
理央は、応接間の扉──さっき恒一郎が出ていった方を、一度だけ見た。
確認するように。
この屋敷の壁に耳があることを、当然の前提にしている視線だった。
それから、誠へ戻る。
「灰原聖杯戦争が始まる……数か月前」
その言い方が、妙に具体的だった。
「突然、現れたの。名前も素性も、経歴もない。──なのに、最初から当主と行動を共にしていた」
誠は、さっきの光景を思い出す。
当主の隣に立ち、
勝手に壁にもたれ、
座りもしないまま、部屋を支配していた赤い瞳。
不遜。
だが、それが許されている不遜。
「……じゃあ、あいつ何なんだよ」
誠が言うと、理央は一拍置いた。
迷いが、また戻る。
言葉にすると確定してしまう何かを、躊躇っている。
そして、最後に小さく息を吐いた。
「私の推測よ」
そう前置きしてから、理央は言った。
「──サーヴァント」
「当主が監督官としての任を全うするために……召喚した存在だと思う」
「監督官は、聖杯戦争に“積極的に関わらない”。公平性のために。運営が運営として機能するために」
誠は、言葉の意味より先に、理央の“温度”に気づく。
説明しているのに、どこか緊張が抜けきらない。
理央は続けた。
「でも──任を全うするには、条件がある」
言い淀みが消える。
魔術師としての“講義”の声になる。
「少なくとも、聖杯戦争の運営に支障をきたすような問題……例えば、神秘の暴露、規模の大きい破壊行為、外部勢力の介入、無差別虐殺みたいな“想定外”に対抗できる圧倒的な実力が必要」
誠は眉を寄せる。
「でも、監督官って戦わないんだろ?」
「だからこそ、必要なの」
理央の返答は速い。
「戦うためじゃない。──止めるため」
その言葉が、誠の背筋を冷やした。
紗月が、椅子の背に預けた身体を起こし、短く鼻で息を吐く。
「要するに、運営側が“最後の手段”を持ってないと話にならないってこと」
理央は、紗月の言葉を否定しない。
「そう。監督官は表には出ない。でも、“出る必要が生じた瞬間”に勝てないなら、最初から監督官として成立してない」
誠の脳裏に、金髪の青年がよぎる。
壁にもたれ、部屋を値踏みし、出ていく前にこちらを一瞥した赤い瞳。
ただの不遜。
ただの美形。
ただの同席者──そう思えていたはずなのに。
理央は、声を落とす。
「……あの青年がサーヴァントだとしたら、あれは“実力装置”に相応しい」
誠は反射的に言った。
「そんなの、見ただけで分かるのか?」
理央は、少しだけ口を噤む。
答えを探すのではない。言い方を選んでいる。
「灰原君には……分からないと思う」
突き放す言い方ではなかった。
ただ、事実の仕分けだった。
「私たちは、魔術師として育てられて、研鑽してきた。魔力の濃淡とか、場の歪みとか……そういうのを無意識に拾う癖がついてる」
理央は、迷いを捨てた声で言い切った。
「あれは神に近いもの。あるいは、神そのもの」
誠の口が、乾いたまま動く。
「待てよ。サーヴァントって、英霊だろ。英雄とか……偉人とかそういう……」
「英雄でも、神性を帯びるのはいる。古い存在であればあるほどね」
理央の言葉は淡々としている。
「神話の中で神に愛され、呪われ、あるいは神として祀られた者。神性が混じった英雄。神霊に近い霊基──そういう“格”」
「深入りしたら、こっちが持たない。考察するほど、気持ち悪くなるだけ」
誠は、膝の上で手を握り直す。
考えれば考えるほど、あの一瞥が喉に刺さってくる。
“神性”という単語が、勝手に脳内で反芻される。
理央は、そこで話を切るように息を吐いた。
「とにかく──監督官に逆らわないこと」
声は小さいのに、はっきりしていた。
命令でも忠告でもなく、生存のための前提。
「黒野家当主に逆らう、っていう意味じゃないよ。監督官としての判断に、反抗しない。勝手に動かない。屋敷の中で、余計なことをしない」
紗月が肩をすくめる。
誠は、もう一度襖に目をやり、それから理央へ戻した。
「……分かった。今は休む。黙って、ここにいる」
理央は、わずかに肩の力を抜いた。
「それでいいと思うわ。みんな……色々あって疲れちゃったでしょう」
言葉はそこで途切れた。
応接間の無音が戻ってくる。