Fate/You Died.   作:助兵衛

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第35話 不遜な侵入者

「皆さま」

 

 当主と青年を見送った使用人が穏やかに話し始めた。

 声は低く、柔らかい。

 どこか、接客の抑揚に似ていた。

 

「当家にて数日お過ごしいただくにあたり、設備のご案内をいたします」

 

 誠は思わず瞬きをした。

 “設備のご案内”。

 

 言葉だけ切り取れば、旅館のそれだ。

 だがここは、磨かれた床と沈黙で人を縛る屋敷である。

 

 老人は、四人の反応を待たない。

 淡々と、しかし抜け目なく、説明を並べる。

 

「まず入浴でございますが、浴室は二箇所ございます。東の廊下を進み、突き当たりを左手。大浴場のように広くはございませんが、足を伸ばしていただける造りです」

 

「湯は常に循環しており、温度は一定に保たれております。夜間もご利用いただけますが、深夜は結界の調整が入りますゆえ……その際はご案内を差し上げます」

 

 さらり、と。

 旅館の注意事項に紛れ込ませるように、“結界”を言う。

 

 秀則が小さく喉を鳴らした。

 誠も、肩の奥が冷えるのを感じる。

 

「次に食事でございます。お食事は、基本的に食堂にてご用意いたします。朝は七時、昼は十二時、夜は十八時。お時間が合わぬ場合は、お部屋までお運びいたします」

 

 老人は、視線を一度だけ理央へ向ける。

 確認というより、既に把握しているものへの形式的な目配せだった。

 

「献立につきましては、苦手なもの、宗教上の制限、体調により避けるべきものなどございましたら、遠慮なくお申し付けください」

 

「寝室でございますが──」

 

 老人は、手をわずかに開き、空間の地図を示すように指先だけで方角をなぞった。

 

「皆さまには、西棟二階の客室をお使いいただきます。夜間は結界が稼働いたしますゆえ、外への出入りはお控えください」

 

 紗月が、座椅子の背からわずかに身を起こし、短く息を吐く。

 

「……旅館みたい」

 

 つい口から漏れた、という声だった。

 

 老人は、表情を変えないまま、ほんの少しだけ頭を下げた。

 

「恐れ入ります。外界の形式に似せたほうが、皆さまの負担が軽かろうと。当家ではそのように整えております」

 

 理央の視線が、老人の足元──床の継ぎ目のあたりへ落ちる。

 何かを確かめているような眼だった。

 

「洗濯につきましても承ります。お召し物は、籠に入れて廊下へお出しください。夜のうちに整え、翌朝にはお戻しいたします……また、必要であれば簡素な衣類もご用意できます」

 

 誠は、自分の服が煤と血と汗の匂いを纏っているのを思い出し、胃がきゅっと縮む。

 

「医薬品、救急具もございます。怪我の手当ては当家の者が行いますが、魔術的な処置が必要な場合は──」

 

 そこで、老人の声が一段だけ低くなる。

 

「御当主様許可のもと、適切に手配いたします」

 

 旅館の説明のまま、釘を刺してくる。

 

 誠は、膝の上で手を握り直した。

 

 この屋敷の“優しさ”は、手を差し伸べる形をして、指の一本一本にルールが刻まれている。

 

 老人は最後に、変わらぬ恭しさで言った。

 

「以上が大まかなご案内でございます。これより、お部屋へお通しいたします。──どうぞこちらへ」

 

 襖が、また静かに開かれた。

 廊下の光が差し込む。

 

 使用人の老人は先頭を歩く。

 足音はほとんどしない。

 畳と板張りの境目ですら、音が吸い込まれていく。

 

 曲がり角を二度。

 渡り廊下をひとつ。

 

 外光が、格子越しに差し込む。

 

 そこが、西棟だった。

 

 主屋とは空気が違う。

 わずかに柔らかく、しかし同時に閉じている。

 長期滞在者用の“場所”だと、直感で分かる。

 

「こちらが西棟でございます」

 

 老人は、立ち止まり、振り返る。

 

「二階が客室となっております。階段は正面をお使いください。お部屋の割り振りは、すでに済んでおります」

 

 誠は、階段の手すりに手をかけた瞬間、自分の脚が思った以上に重いことに気づいた。

 

 疲れている。

 

 自覚していた以上に、深く。

 気を張っていた糸が、ここに来て一気に緩み始めている。

 

「それでは──」

 

 老人は、ほんのわずかに頭を下げる。

 

「どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」

 

 その言い方は、完全に旅館のそれだった。

 

 引き留めない。

 見送らない。

 “ここから先は、客の時間です”と線を引く。

 

 そして、音もなく踵を返す。

 

 廊下の角へ。

 影が曲がり。

 気配が、すっと消えた。

 

 残されたのは、四人と、西棟の静けさだけだった。

 

「……じゃ、上行くか」

 

 誠はそう言って、階段に足をかけた。

 正直、考える余力はもうあまり残っていない。

 

 とにかく横になりたい。

 身体を伸ばして、眠りたい。

 

 秀則も、無言で頷き、後に続こうとする。

 

 ──そのとき。

 

「……待って」

 

 控えめな声だった。

 

 振り返ると、理央が立っている。

 一歩だけ前に出て、しかし距離は詰めない。

 

 表情は穏やかだが、どこか迷いが残っている。

 言うべきかどうか、最後まで悩んだ顔だ。

 

「灰原君……紫村君」

 

 理央は、一度だけ深く息を吸った。

 

 それから──

 

 秀則の前に立ち、迷いなく腰を折った。

 

 深々と、謝罪する。

 

 秀則が、ぎょっとして目を見開いた。

 

「……く、黒野女史?」

 

 理央は顔を上げない。

 

 声は低く、震えていなかった。

 だが、硬かった。

 

「紫村君。私は──あなたを、敵対する勢力だと疑った」

 

「あなたが不死であるかどうかを確かめるために……殺すという選択肢を、本気で考えた」

 

 西棟の静寂が、一段深くなる。

 

 言葉は、飾られていない。

 言い訳も、正当化もない。

 

「それは、魔術師としての判断だった。でも……人として、決して許されるものじゃない」

 

 理央の指先が、わずかに震えた。

 

「ごめんなさい。全て謝罪する。私が間違えていた」

 

 秀則は、しばらく何も言えなかった。

 

 目を伏せ、服の端を握りしめる。

 その指に、力が入ったり、抜けたりする。

 

「……あのとき」

 

 ようやく、声が出た。

 

「正直に申せば……恐ろしかったですな」

 

 理央は、まだ頭を下げたままだ。

 

「ですが──」

 

 秀則は、困ったように笑った。

 

「こうして、頭を下げられると……どう反応してよいか、分からぬものです」

 

 小さく息を吐く。

 

「構いませんぞ。あなたには責任があった、だから、仕方ありませぬ」

 

 その言葉に、理央の肩が、ほんのわずかに落ちた。

 

 だが、まだ終わらない。

 

 理央は、体を起こし──今度は、誠の前に立った。

 

 そして、同じように、深く頭を下げる。

 

「灰原君」

 

 誠は、思わず背筋を伸ばした。

 

「私は……あなたが当事者であるにもかかわらず、十分な情報を与えなかった」

 

 理央の声は、さっきよりも少しだけ弱い。

 

「守るつもりだった、と言えば聞こえはいい。でも実際には……囲い込んでいた」

 

 言葉が、静かに落ちる。

 

「相談もしなかった。判断を共有もしなかった。危険の輪郭だけを曖昧にしたまま、あなたを巻き込んだ」

 

 誠は、唇を噛んだ。

 

 否定も、肯定もできない。

 思い当たることが、あまりにも多すぎた。

 

「それは、信頼していなかったのと同じだと思う」

 

 理央は、そこで初めて、ほんの一瞬だけ声を詰まらせた。

 

「……ごめんなさい」

 

 誠は、すぐには口を開かなかった。

 

 理央の頭は下がったまま。

 西棟の静けさが、その姿勢を責めも庇いもしない。

 

 誠は一度、階段から手を離した。

 掌に残った木の感触が、妙に現実的だった。

 

「……顔、上げてくれ」

 

 理央が、わずかに息を詰める。

 

 それでも、すぐには動かない。

 許されるかどうかを、言葉で確かめるまで、上げないつもりなのだと分かる。

 

 誠は、軽く頭を掻いた。

 

「全部が全部、なかったことにできるわけじゃない」

 

 正直な言葉だった。

 

「怖かったし、腹も立った」

 

 理央の指先が、きゅっと縮む。

 

「でも」

 

 誠は、息を吐く。

 

「ちゃんと謝っただろ。逃げなかったし、言い訳もしなかった」

 

 一拍。

 

「それで、今は……それで十分だと思う」

 

 理央の肩が、ゆっくりと下がった。

 張り詰めていた糸が、ようやく緩む。

 

 誠は続ける。

 

「俺は魔術師じゃない。判断材料がなきゃ、正しい選択もできない」

 

 視線を、まっすぐ理央に向ける。

 

「だから次は、ちゃんと教えてほしい。全部とは言わなくても……隠さないでほしい」

 

 理央は、そこでようやく頭を上げた。

 

 目は真っ直ぐだった。

 逃げも、揺らぎもない。

 

「……分かった」

 

 短く、はっきりとした声。

 

 そして、もう一度だけ、今度は深くない角度で頭を下げる。

 

「今夜」

 

 言葉に、覚悟が乗る。

 

「少し休んで、心身が落ち着いたら……私の知っていることを、全部話す」

 

 逃げ道を残さない言い方だった。

 条件も、前置きもない。

 

「聖杯戦争の事、灰原君のお祖父様の事、灰原君自身の事」

 

 誠の喉が、わずかに鳴る。

 

「本当に、全部か?」

 

「うん」

 

 理央は頷いた。

 

「隠したまま守るより、知った上で一緒に考えてもらう。そのほうが……ずっと誠実だと思うから」

 

 誠は、返事の代わりに小さく頷いた。

 

 言葉にするほどの力が残っていない。

 それでも──理央の「今夜」という約束が、胸のどこかに杭みたいに打ち込まれたのが分かった。

 

 秀則も、少し遅れて頷く。

 

「……承知いたしましたぞ。今宵、改めて」

 

 理央は、短く「ありがとう」と言った。

 その声が、いつもの彼女より少しだけ人間らしく聞こえた気がする。

 

「じゃ、ほんとに寝よう……限界だ」

 

 誠が階段に手をかけると、身体がそれを待っていたように傾いた。

 一段上がるたび、関節の奥で何かが外れていく。

 

 秀則も、足取りが重い。

 階段を上る背中が小さく見えた。

 

 二階は、畳の匂いが濃かった。

 障子越しの光が柔らかく、音がさらに吸われる。

 

 廊下の突き当たり。

 札のない襖。

 

 誠は、教えられた通りに一つ目の部屋へ入る。

 畳の上に、きちんと畳まれた布団。

 枕。

 白いシーツ。

 旅館の整い方そのもの。

 

 秀則は隣室へ通されたらしく、襖の向こうで衣擦れの音がした。

 

 誠は靴下だけ脱ぎ、上着を脱ぐ気力もなく、畳に膝をつく。

 布団を広げる動作さえ億劫で、用意されていた形を少し崩すだけで横になった。

 

 背中が沈む。

 

 その瞬間──身体の内側で張っていた糸が、ぷつんと切れた。

 

 まぶたが落ちる。

 思考が、底へ沈む。

 

 眠る、という意識すら間に合わなかった。

 

 ──けれど。

 

 畳の空気が、ほんの一瞬だけ変わった。

 

 ひやりとした気配が、部屋の隅で立ち上がる。

 匂いではない。

 温度でもない。

 

 “在る”という密度。

 

 誠の意識は薄い膜の向こうに沈みかけていたが、それでも、背筋がわずかに反応した。

 

 軋み。

 

 床板ではない。

 布と革の擦れる、乾いた微音。

 

 バーサーカーが実体化していた。

 

 煤けた中世の狩人服。

 銀髪が、障子の淡い光を受けて鈍く光る。

 血のように赤い瞳が、部屋全体を一度だけ静かに見渡し──誠へ戻る。

 

 口調は丁寧だった。

 だが、そこに温度はない。

 

「マスター」

 

 誠は返事をしようとしたが、声が出ない。

 喉も、舌も、眠りに引かれている。

 

 バーサーカーはそれを咎めず、わずかに頭を下げた。

 

「私は適当に辺りを散策しておきます」

 

 断り。

 確認ではない。

 

「この屋敷の“気配”、特にあの男は気に入りません……油断できるものではない」

 

 その言葉の端は、刃のように静かだった。

 

 誠の視界の端で、障子がわずかに揺れる。

 

 バーサーカーが歩く。

 足音は、ほとんどしない。

 

 襖が、す、と開き、そして閉じる。

 

 気配が、廊下へ流れていった。

 

「……クソガキって言ったの忘れてない、からな」

 

 次の瞬間。

 

 誠は完全に、眠りへ落ちた。

 

 隣室からも、ほどなくして音が消える。

 秀則もまた、限界だったのだろう。

 

 西棟二階は、旅館のように整った静けさの中で──四人分の呼吸だけを、薄く抱え込んでいた。

 

 

 

 

 

 ──

 

 ──ごう、と。

 

 風の音が、耳の奥に滑り込んできた。

 

 誠は最初、それを夢の続きだと思った。

 戦闘の残響みたいに、どこか現実感が薄い。

 

 だが、次の瞬間。

 

 畳の上を撫でる冷気が、頬を打った。

 

「……っ」

 

 喉が、痛い。

 乾いている。

 

 まぶたを持ち上げると、視界が白く滲んだ。

 障子の向こうの光が、昼とも夕ともつかない色に変わっている。

 

 夕方。

 

 身体の芯が、重い。

 それでも、眠りの底から引き上げられるには十分な違和感があった。

 

 風が、入っている。

 

 誠は、ゆっくりと上体を起こした。

 

 窓。

 

 ──開いていた。

 

 いつの間に。

 自分が開けた覚えはない。

 そもそも、起き上がって窓へ行く気力すらなかったはずだ。

 

 

 障子ではなく、縁側側の窓が半分ほど開き、外の空気が部屋へ流れ込んでいる。

 畳の匂いに混じって、冷えた木と、乾いた庭の匂いがした。

 

 その窓の縁に──

 

 人影が腰掛けていた。

 

 金髪。

 

 夕日の角度で、白金に近い光が髪の端を縁取っている。

 

 赤い瞳。

 

 応接間で一度だけ誠を捉え、すぐに興味を失ったはずのあの目が、

 今は、まっすぐこちらを見ていた。

 

 誠の背中に、遅れて冷汗が浮く。

 

 青年は、気怠げだった。

 

 片足を外へ垂らし、もう片方を膝の上に軽く折る。

 背中は窓枠に預け、肩は力なく落ちている。

 

 眠そうに見える。

 退屈そうにも見える。

 

 それなのに──不遜だった。

 

「そこに居て当然」とでも言うように、部屋の空気を占有している。

 

 そして。

 

 言いようのない圧が、じわじわと畳を沈めていた。

 

 誠に魔力を感知する技能は無い。

 殺気とも違う。

 

 もっと根源的な、こちらの存在を軽くする重さ。

 呼吸の仕方まで、相手に合わせさせられるような圧迫。

 

 誠は、喉を鳴らした。

 

「……お前……」

 

 声が掠れた。

 寝起きのそれではない。

 身体が本能で、音を絞っている。

 

 青年は、まばたきひとつしない。

 

 ただ、誠を眺める。

 

 まるで、何かの展示を確認するみたいに。

 

 そして、ほんの少しだけ口角を持ち上げた。

 

 笑みではなかった。

 軽い嘲りの形を借りた、余裕の表情だ。

 

「ようやく起きたか。まあよい、戦の後だ」

 

 青年は、窓枠から片足をぶら下げたまま、欠伸を噛み殺すように喉を鳴らした。

 

「用は一つだ」

 

 気怠げに言い捨てて、赤い瞳だけが鋭くなる。

 

「灰原一之進の遺作、その進捗を確認しに来た」

 

 誠の呼吸が、一拍遅れる。

 

「……は?」

 

 言葉の意味が、脳内で形になりきらない。

 

 遺作。

 進捗。

 確認。

 

 その単語の並びが、誠の中の何かを逆撫でした。

 

「何の話だよ。俺の──」

 

「煩い。(オレ)の許可なく話すでないわ」

 

 青年は声を荒げない。

 なのに、その一語で空気が押し潰される。

 

 次の瞬間。

 

 青年は窓枠から、音もなく部屋へ降りた。

 

 畳に足が触れたはずなのに、足音がない。

 風だけが一瞬、強く流れた。

 

 誠は布団の上で身構えようとした。

 だが身体が追いつかない。

 

 青年は、距離というものを無視して来る。

 

 す、と視界が近づいた。

 

「……っ」

 

 誠が顔を引いた瞬間には、もう遅い。

 

 冷たい指先が、無遠慮に顎へ触れた。

 

 掴む、というより「固定」する。

 骨の角度を決めるみたいに。

 

「やめ──」

 

 声が出る前に、もう片方の手が頬を押さえた。

 

 指が、頬骨に沿って滑る。

 肌に触れられているだけなのに、触感のほうが現実を奪う。

 

 誠は反射的に手を上げる。

 青年の手首を掴もうとした。

 

 掴めた──はずだった。

 

 だが、掴んだ感触が、薄い。

 

 硬いのに、熱がない。

 人間の筋肉のしなりがない。

 

 誠の指が、握り込む前に力が逃げる。

 

 青年は淡々と言って、誠の顔をさらに近づけた。

 

 そして、指が──瞼にかかる。

 

「……やめろ!」

 

 誠が叫ぶ。

 

 青年は答えない。

 

 親指と人差し指で、誠の上瞼を摘まむ。

 痛みはない。だが、容赦がない。

 

 無理矢理に、瞼を持ち上げた。

 

「っ──!」

 

 眩しさで視界が裂ける。

 涙が反射で滲む。

 

 青年の赤い瞳が、異様な近さで迫る。

 

 誠の瞳孔を覗き込むように、角度を変える。

 左右。

 上下。

 

 まるで、器の底を確かめるみたいに。

 

「なんだ、まるで満ちておらんではないか。昨夜はあれほど派手に戦っていたというのに、無駄な事を。もっと効率良く殺し合わんか」

 

 ──ぶつり、と。

 

 誠の中で、何かが切れた。

 

 青年の指が瞼を押し上げたまま、赤い瞳がこちらの奥を覗き込んでいる。

 その距離の近さよりも、言葉が──刺さった。

 

 無駄。

 効率。

 もっと殺し合え。

 

 昨夜の火の匂いが、喉の奥から蘇る。

 

 焦げたアスファルト。

 割れたガラス。

 爆音。

 冷たくなった秀則の死体。

 

 誠の手が動いた。

 

 考えるより先に、青年の手首を叩き落とす。

 掌の芯が、硬いものに当たる感触がした。

 

 それでも構わない。

 

「触るな!!」

 

 畳が軋む。

 息が荒くなる。

 

 青年の手は、あっさりと離れた。

 抵抗ではなく、ただ「観察を終えた」みたいに。

 

 その態度が、さらに腹の底を煮えさせた。

 

 誠は、青年を睨みつける。

 

 視界の端が熱い。

 涙ではない。

 怒りのせいで、血が頭に上っている。

 

「昨日は……みんな死にかけたんだよ」

 

 声が、勝手に大きくなる。

 抑えようとしても、喉が聞かない。

 

「俺も、みんなも──ギリギリだった!」

 

 昨夜の光景が、言葉と一緒に溢れてくる。

 

 瓦礫。

 血の色。

 動かない指先。

 

 誠は、歯を食いしばった。

 

「実際、紫村は死んだ! 生き返ったけど、本当に死んだんだぞ!?」

 

 

 一拍。

 声が、掠れる。

 

「関係ない人だって……何人も死んだ」

 

 青年は、まばたきもしない。

 ただ、面倒そうに誠を見ている。

 

 その無関心が、誠の胸をさらに焼いた。

 

「監督官だか何だか知らないけどさ!」

 

 誠は怒鳴りつけた。

 

「滅茶苦茶言うなよ!」

 

 拳が震える。

 怖さも混じっている。

 だが、今は引かない。

 

 誠の怒鳴り声が、畳を震わせた。

 

 喉の奥が焼ける。

 頭の中に昨夜の火が蘇って、言葉が止まらない。

 

 ──止まらない、はずだった。

 

 青年が、ほんのわずかに眉を動かした。

 

 気怠げなまま。

 面倒そうなまま。

 

 それでも、赤い瞳の奥だけが、刃物みたいに冷たくなる。

 

 そして、ただ一言。

 

「黙れ」

 

 声は大きくない。

 怒鳴ってすらいない。

 

 なのに。

 

 誠の肺が、ひゅっと縮む。

 喉が締まり、次の言葉が噛み砕かれる前に消えた。

 

 舌が動かない。

 顎が、ほんの少し震える。

 

 ──音が出ないのではない。

 出す、という選択肢が、最初から奪われたみたいだった。

 

 誠は歯を食いしばる。

 抵抗しようとして、体の内側で力を掻き集める。

 

 だが、青年の圧は、筋力でどうにかなる種類ではない。

 

 青年は、誠の反応を眺めたまま、淡々と言い捨てる。

 

「雑種が何人、何億人死のうが知れた事か」

 

 言い捨てた直後、青年の関心はもう誠から剥がれていた。

 

 怒りに硬直した誠の表情すら、視界の端の埃みたいに扱う。

 

「まぁ良い。励めよ、雑種」

 

 青年は踵を返し、窓辺へ歩いた。

 歩いた──はずなのに、畳が鳴らない。

 空気だけが、背を撫でられたみたいに遅れて揺れる。

 

 夕風が、半開きの窓から一段強く流れ込んだ。

 

 青年は窓枠に手を掛ける。

 その動作すら億劫そうで、しかしどこにも隙がない。

 

 外へ身を乗り出す前に、ふと、思い出したように首だけをこちらへ向けた。

 

 赤い瞳が、誠を見た。

 見た、というより──値踏みの残り香を投げつけた。

 

「とはいえ」

 

 気怠げな声。

 だが、言葉の刃は鈍っていない。

 

「死んだのは九割がた狩人か。あの女をバーサーカーに据えたのは英断だったな」

 

 誠の背筋が、遅れて冷えた。

 

 青年は笑わない。

 ただ、淡々と続ける。

 

「良く振り撒かれておる」

 

 何を。

 どこに。

 誰が。

 

 問いが喉まで上がるのに、声は形にならないままだった。

 

 青年はそれを待たない。

 

 窓枠に腰を預けるように、軽く身を浮かせ──

 

 次の瞬間には、外へいた。

 

 庭へ降りた音もない。

 枝を踏む気配もない。

 

 風だけが、ふっと途切れ、窓の外の夕焼けが薄く揺れた。

 

 誠は窓を睨んだまま、しばらく動けなかった。

 

 畳に残った圧だけが、遅れてほどけていく。

 

 開いた窓から、冷たい空気が入り続ける。

 

 ──まるで、さっきまでそこに居たものが、最初から居なかったみたいに。

 

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