Fate/You Died.   作:助兵衛

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第38話 滅びの予兆

 夜。

 

 屋敷の廊下はすでに冷えきっていて、障子の向こうの闇が、音を吸い込んでいた。

 遠くで水を落とす音が一度だけして、それきり。

 

 理央に割り当てられた寝室は、質素だった。

 畳は新しくはない。壁の色も淡いまま、飾り気がない。

 置かれているのは、薄い布団と小さな卓、それと──灯りだけ。

 

 卓の上に、ノートが開かれている。

 

 ページの端から端まで、几帳面な文字が並んでいた。

 罫線を外さず、余白の取り方まで整っている。

 見出しは少し大きく、要点は短い線で区切られ、補足は括弧で添えられている。

 

 魔術を知らない人間が見れば。

 これから試験に臨む優等生が、予習を積み上げているように見えただろう。

 

 理央の指先が、鉛筆の先を整えるように軽く転がした。

 

 ノートの上部には、二つの名前が並んでいる。

 

 灰原 誠。

 紫村 秀則。

 

 それぞれの名前の下に、短い診断が箇条書きで続く。

 

 誠の欄には、行が多い。

 回路の本数、粗さ、火属性に偏りそうな兆候、そして「異物摂取(コーラル?)」という、丸で囲われた文字。

 

 秀則の欄は、簡潔だった。

 回路数・質ともに低い。

 攻撃運用は想定しない。

 優先は“生き残るための知識”。

 

 理央は、鉛筆を走らせ続けていた。

 

 名前の下に並んだ所見を一度線で区切り、ページの右側に新しい枠を作る。

 

【訓練スケジュール(暫定)】

 

 朝。

 昼。

 夕。

 

 時間帯ごとに、淡々と項目を書き足していく。

 

 誠──朝は回路の自覚のみ。

 立位、座位、呼吸を変えながら、流れを“感じるだけ”。

 十分を超えない。異常が出たら即中断。

 

 秀則──同時間帯、観察。

 誠の様子を見る。変化を言語化する。

 魔術に触れない訓練は、見ることから始まる。

 

 昼は共通。

 結界の兆候、呪いの初期症状。

 口頭確認と想定問答。

 身体を動かす訓練は入れない。

 

 夕。

 誠のみ、短時間の応用。

 火属性が出た場合でも、点火は禁止。

 熱を“溜めない”意識。

 

 秀則は──

 逃げる動線の確認。

 市街地の戦い方を学ぶ、死角、遮蔽物。

 

 理央は、ノートの下端に小さく書き足す。

 

(※戦闘訓練は行わない。生存率を上げるための準備に徹する)

 

 そのとき。

 

 ──す、と。

 

 空気の重さが、わずかに変わった。

 

 襖が、音も立てずに開く。

 

 理央は振り向かない。

 振り向かなくても、誰か分かっていた。

 

 黒。

 

 屋敷の薄暗さに溶けるような、いつもの黒服。

 無駄のない仕立てで、身体の線だけが静かに浮かび上がる。

 

 セイバーだった。

 

 足音は一切ない。

 それでも存在だけが、確かにそこにある。

 

「……遅くまで」

 

 低く、落ち着いた声。

 

「お疲れ様です、マスター」

 

 理央は、ようやく鉛筆を置いた。

 

「どうだった?」

 

「屋敷にはご当主様の物と見られる強固な結界が幾重にも、穏便な脱出は困難かと思われます」

 

 セイバーは一歩だけ中に入り、襖を閉める。

 

「そう……藍沢先輩はよく脱出できたわね。アサシンの能力かしら」

 

 所作は静かで、几帳面だ。

 

 視線が、卓の上のノートに向く。

 だが覗き込まない。

 必要以上に踏み込まない距離を、正確に保っている。

 

 セイバーは、少し間を置いてから続ける。

 

「何か、お飲み物でも?」

 

 問いかけは控えめだった。

 気遣いとして、最小限。

 

「温かいものがよろしいかと。集中が長時間続いています」

 

 理央は、首を横に振った。

 

「いい。今は要らない」

 

 言葉は短く、セイバーの提案をそこで断ち切る。

 気遣いを拒んだというより、思考の流れを遮りたくなかった声音だった。

 

 セイバーは一瞬だけ瞬きをし、それ以上は勧めない。

 そのまま、主の言葉を待つ姿勢に戻る。

 

 理央は、ノートを閉じなかった。

 開いたまま、しかし視線はそこに落ちていない。

 

「……セイバー」

 

「はい」

 

「灰原君の炎」

 

 空気が、ほんのわずかに張る。

 

 セイバーの表情は変わらない。

 だが、理央には分かった。

 この話題は、完全に想定内だ。

 

 指先で、卓を軽く叩く。

 

「あなたが扱う炎と、同じ匂いがする」

 

 断定ではない。

 だが、推測としては十分に踏み込んだ言い方だった。

 

 セイバーは、少しだけ首を傾ける。

 

「匂い、ですか」

 

「比喩よ」

 

 理央は即座に返す。

 

「魔術師の言葉に直すと、“系統が近い”」

 

 沈黙。

 

 灯りが揺れ、壁の影がゆっくり形を変える。

 

「質問するわ」

 

 理央は、はっきり言った。

 

「灰原君の炎は──あなたと関係がある?」

 

 真正面からの問い。

 逃げ道はない。

 

 だが。

 

 セイバーは、困ったように微笑んだ。

 

 ほんのわずか。

 とぼけた、と言っていい表情だった。

 

「さて──私は魔術師ではありませんので、詳しい事は」

 

 肩をすくめるほど大げさではない。

 だが、言葉の端が意図的に曖昧だ。

 

「それ以上の誤魔化しは要らない。貴方の炎は、どういう代物なの?」

 

 声は低く、感情を抑えている。

 だが、逃がすつもりがないと分かる強さがあった。

 

 沈黙。

 

 灯りの芯が、かすかに鳴る。

 

 セイバーは、しばらく目を伏せていた。

 否定も、誤魔化しもせず、ただ考える時間を置く。

 

 やがて──小さく息を吐いた。

 

「……承知しました」

 

 低く、はっきりとした声だった。

 

「説明させていただきます、マスター」

 

 セイバーはそう前置きしてから、言葉を選ぶように続ける。

 

「私の扱う炎は、燃焼現象ではありません。世界を成立させるための“役割”を持った力です」

 

 理央は黙って聞いている。

 問いを挟まない。逃がさない代わりに、遮らない。

 

「光と闇、生と死、始まりと終わり。本来、混ざり合うはずの概念を分け、世界に流れを与えるためのもの」

 

 セイバーは、指先で空をなぞる。

 

「それが“はじまりの火”です」

 

 一拍。

 

「この火がある限り、世界は変化し、循環し、歴史が進む。逆に、火が衰えれば……世界は停滞し、形だけを残して腐っていきます」

 

 理央の眉が、僅かに動いた。

 

「燃料は?」

 

「ありません」

 

 即答だった。

 

「火は、誰かの意思と犠牲によってのみ保たれます。自らを捧げ、“世界を続ける”と選んだ者がいたから、火は燃え続けた」

 

 セイバーは静かに言う。

 

「王も、英雄も、神も……そうして薪になりました」

 

 言葉に重みはあるが、感情はない。

 事実を事実として述べているだけだ。

 

「ですが、やがて──」

 

 ほんの一瞬、間が空く。

 

「継ぐ者が尽きました」

 

 理央は、鉛筆を置いたまま、視線だけを向ける。

 

「強者は失われ、英雄は現れず。火そのものが限界に達した」

 

 セイバーは、そこで理央を見る。

 

「そこで呼び起こされたのが、私……“火の無い灰”です。役割は、蘇った歴代の薪を討伐し寄せ集め、火にくべる事」

 

 理央の喉が、わずかに鳴る。

 

「我が世界は、滅ぶべきだったのかもしれません。少なくとも、寿命は尽きかけていた」

 

 淡々と、しかし正確に。

 

「それでも世界は、続くことを選びました。だから──資格なき者にすら、選択が委ねられた」

 

 セイバーは、そこで言葉を切る。

 

「私は火を継ぎました、その先の事は分かりません。生きながらえた世界がどうなったのか」

 

 灯りが、微かに揺れた。

 

 理央は、しばらく黙っていた。

 ノートの文字でも、セイバーの顔でもなく、空間そのものを見ている。

 

 沈黙が、しばらく続いた。

 

 灯りの下で、ノートの白がやけに明るい。

 そこに書かれた訓練計画も、名前も──今は現実的すぎて、逆に遠く感じられた。

 

 セイバーは、ふっと息を整える。

 

 そして、先ほどまでの重さを、意図的に切り離すように口調を変えた。

 

「……ですが」

 

 一拍。

 

「今お話ししたことは、すべて」

 

 理央を見る。

 

「この世界とも、マスターとも──一切、関係のない話です」

 

 断定だった。

 逃げでも、濁しでもない。

 

「ある世界に、そういう火がありました。ある時代に、そういう選択をした者がいました」

 

 静かに、区切る。

 

「それだけの──与太話です」

 

 理央は、すぐには反応しなかった。

 鉛筆を持ち上げもしない。

 ただ、セイバーの言葉を“事実”として棚に置く。

 

「……関係ない、ね」

 

 低く、噛みしめるような声。

 

 理央は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「なら」

 

 一語、一語、確かめるように。

 

「どうして?」

 

 セイバーの視線を、真正面から捉える。

 

「どうして、そんなものが──神格だの、世界そのものだのと言えるような火が」

 

 理央は、そこで一度だけ息を吸う。

 

「灰原君に、発現したの?」

 

 部屋の空気が、再び張りつめる。

 

 これは詰問ではない。

 理論でもない。

 

 魔術師としての、純粋な疑問だった。

 

 セイバーは、即答しなかった。

 

 少しだけ視線を下げる。

 床を見るでもなく、ノートを見るでもなく──思考の内側を見る仕草。

 

「……分かりません」

 

 その言葉は、逃げではなかった。

 可能な限り誠実に切り詰めた結果の、最短の答えだった。

 

 理央は、すぐに否定しない。

 魔術師として、その沈黙の意味を理解している。

 

「詳細は掴めない。因果も、経路も、確証もない」

 

 セイバーは淡々と続ける。

 

「私に言えるのは──推察だけです」

 

 一拍。

 

「灰原誠と、すでに同化している……と、される聖杯」

 

 理央の指先が、僅かに動いた。

 

「それが、最も可能性の高い“元凶”でしょう」

 

 断定はしない。

 だが、他に置きようがない。

 

「聖杯は、願望を集積する装置です。世界を歪め、因果を捻じ曲げ、成立し得ない結果を“成立させてしまう”」

 

 セイバーの声は低い。

 

「それが個人と完全に癒着した場合、外部から流入する異物を拒絶する理由がなくなる」

 

 理央は、ノートに視線を落とす。

 そこに書かれた「異物摂取(コーラル?)」の文字が、今はやけに重い。

 

「加えて──」

 

 セイバーは言葉を継ぐ。

 

「彼は、すでに一度“死んで”います」

 

 理央の喉が、小さく鳴った。

 

「バーサーカーの能力による蘇生。本来、世界が許容しないはずのやり直しです」

 

 それだけでも異常だ。

 だが、話は終わらない。

 

「さらに、ライダーの扱う“コーラル”」

 

 その名を口にした瞬間、空気がわずかにざらつく。

 

「異世界由来のエネルギー物質。生命活動、情報伝達、精神干渉……用途が定まらないもの」

 

「全部、同時に抱えている」

 

「はい」

 

 セイバーは、即答した。

 

「どうなるかは、分かりません」

 

 再び、その言葉。

 

 だが今度は、重みが違う。

 

「制御される可能性もあります。人として、魔術師として、かろうじて留まるかもしれない」

 

 一拍。

 

「あるいは──」

 

 言葉を、あえて続ける。

 

「異なる世界から持ち込まれたあらゆる歪みが、彼一点に集約していく可能性もある」

 

 理央は、静かに目を伏せた。

 

 優等生のノート。

 理論と安全を積み上げた訓練計画。

 

 そのどれもが、前提としているのは「人間」であることだ。

 

「……忌まわしい、わね」

 

 小さく、呟く。

 

 セイバーは否定しない。

 

「はい」

 

 淡々と。

 

「私の知る限り──あらゆる世界で忌避され、封じられ、切り捨てられてきた要素が」

 

 視線を上げる。

 

「今、灰原誠という個人に、集まっています」

 

 セイバーは、その言葉の余韻が理央の中に沈みきるのを待った。

 

 急かさない。

 慰めもしない。

 

 やがて、静かに口を開く。

 

「……差し出がましいことを申し上げますが」

 

 一拍。

 言葉の重みを測るように。

 

「これは、かつて一時なりとも“王”と呼ばれた者からの助言です」

 

 理央は顔を上げない。

 だが、聞いている。

 

「統治とは、選別です。

 守るものを定める行為であり、同時に──切り捨てるものを決める行為でもある」

 

 冷たい言い方ではなかった。

 理想を語る口調でもない。

 

「情は、判断を遅らせます。

 遅れた判断は、被害を拡大させる」

 

 セイバーは、理央を責めない。

 責める資格がないことを知っている。

 

「灰原誠が、今後も“人であり続ける”可能性はあります」

 

 一拍。

 

「ですが、“人でなくなる”可能性も、同時に存在している」

 

 理央の指先が、ノートの端をわずかに押さえる。

 紙が、かすかに鳴った。

 

「ですから──」

 

 セイバーは、言い切った。

 

「彼を守る覚悟と同時に、彼を切り捨て、処分する覚悟も、持っておくべきです」

 

 声は低く、静かだ。

 命令ではない。

 

「そして、覚悟だけでは足りません」

 

 ほんのわずか、視線が鋭くなる。

 

「実行する“手段”を、今のうちに準備しておくこと」

 

 理央は、何も言わない。

 反論もしない。

 

 否定できないからだ。

 

 セイバーは、それを理解している。

 

「それが出来ない王は、民を滅ぼします。

 それが出来ないマスターは、世界を巻き込みます」

 

 言い終えて、セイバーは一歩下がった。

 これ以上は踏み込まない、という合図。

 

「……以上です」

 

 深くも浅くもない、正確な一礼。

 

「今夜の助言は、ここまで」

 

 踵を返す。

 

 襖に手をかける前、ほんの一瞬だけ振り返った。

 

「なお──」

 

 声は、元の落ち着いた調子に戻っている。

 

「その決断を下す時が来ないことを、私は願っています」

 

 それだけを言い残し。

 

 セイバーは、音もなく襖を閉めた。

 

 夜の廊下に、気配が溶けていく。

 

 理央は、しばらく動かなかった。

 

 ノートは開いたまま。

 訓練計画も、名前も、そこにある。

 

 だが、その一番下の余白に──

 まだ書かれていない項目が、確かに存在していた。

 

 理央は、鉛筆を取る。

 

 だが、文字は書かない。

 

 ただ、静かに握りしめるだけだった。

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