公営住宅の階段は、紗月が体重をかける度に鈍く軋んでいた。
金属製の手すりは冬の名残を引きずるように冷たく、紗月は無意識に指先を離す。
二階。
端から三つ目の部屋。
よく知ったドアの前で、彼女は一度だけ息を整えた。
黒野本家を抜け出してから、どれくらい歩いたのかは覚えていない。
結界の圧、無駄に広い廊下、張り付くような視線。
それらが全部、背中に残ったままだ。
足の裏が、じんわりと重い。
疲労が遅れて追いついてきている。
──だからこそ。
紗月は、ドアノブに手をかける前に、口角を少しだけ持ち上げた。
意識的な動作だった。
がちゃり、と鍵を開ける。
「ただいまー」
少しだけ声を高く。
普段より、ほんの一段明るく。
「あぁ、おかえり。さっちゃん」
すぐに返ってきた声は、台所のほうからだった。
2DKの、狭いけれど整った部屋。
六畳の居間兼食卓と、四畳半の和室。
壁紙はところどころ色褪せているが、掃除は行き届いている。
祖母は、小柄な背中で流しに向かっていた。
エプロン姿で、鍋の火を止めるところだったらしい。
「お勉強会はどうだった? ちゃんと、受験の事は聞けたかい?」
振り返りながら、皺の刻まれた顔が微笑む。
「あー、うん。ぼちぼちかな」
紗月は靴を揃え、肩をすくめるようにして言った。
「お腹、すいたでしょ?」
祖母が食器棚から、いくつかの皿を取り出す。
「うん、ありがと」
紗月は上着を脱ぎ、ハンガーにかけた。
その動作の途中で、一瞬だけ腕が重くなる。
結界を抜けた時の、あの鈍い圧迫感。
魔力を抑え続けた反動が、今になって筋肉に出てきている。
けれど。
「今日ね、帰りにスーパー寄ったんだ」
居間に入りながら、紗月は話題を投げる。
「卵、安かったよ。あと、ばあちゃんの好きなみかん」
「あら、助かるねえ」
祖母は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、紗月は内心で小さく息を吐いた。
──大丈夫。
悟られていない。
和室の隅に置かれた古い仏壇。
その横の写真立てに、祖父と両親が並んでいる。
藍沢家。
かつては名家だった名前。
今は、この部屋がすべてだ。
紗月は畳に座り、足を伸ばした。
思わず、肩の力が抜ける。
鍋の蓋が外され、ふわりと湯気が立ちのぼった。
味噌の匂いと、煮物の甘い香りが、六畳間に広がる。
「ほら、冷めちゃうから」
祖母はそう言いながら、小鉢を二つ並べた。
大根と鶏肉の煮物。少し色が濃いのは、温め直したからだ。
「ありがとう」
紗月は箸を置き、自然な仕草で受け取る。
肩の力を抜くことに、ようやく慣れてきた。
祖母は腰を下ろし、自分の茶碗に味噌汁を注ぐ。
一息ついたところで、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばねえ」
その声は、他愛ない雑談の調子だった。
「今日のお勉強会には、誠ぼっちゃんも居たんでしょう? あ、あと黒野さんとこのお嬢さんも」
紗月の箸が、ほんの一瞬だけ止まる。
だが、祖母は見ていない。味噌汁をゆっくり啜っている。
「どうだった?」
間を空けず、続ける。
「ちゃんと──仲良くやれたかい?」
その問いかけは、柔らかかった。
声の調子も、表情も、ただの世間話だ。
けれど──
紗月には分かる。
祖母の言う「仲良く」は、決して「気が合ったか」ではない。
箸を動かしながら、祖母は続ける。
「灰原家は、あの事件で今は誠ぼっちゃん一人きりだろう?」
「色々あったけどね、こういう時こそ寄り添ってあげないと。後々何かと、便宜を図ってくれるかもしれないから」
味噌汁の湯気が、祖母の眼鏡を曇らせる
「変に気を悪くさせたりしなかったかい?」
紗月は、ゆっくりと煮物を噛んだ。
甘辛い味が、妙に舌に残る。
「……普通だったよ」
即答はしない。
だが、否定もしない。
祖母はそれを肯定として受け取ったらしく、小さく頷く。
「そう、ならいいんだ」
そして、少し声を落とす。
「黒野さんのところはね……」
言い淀むでもなく、しかし慎重に。
「あそこは、昔から灰原の下で張り合ってきた家だから、気を付けるんだよ」
紗月は箸を置き、湯のみを手に取る。
熱さを確かめるふりをして、視線を逸らした。
「今は灰原に成り代わったなんて言うけど、そんなの今だけさ」
祖母の中では、序列はまだ整理されていない。
灰原は主君。
黒野は、その傘下で功を競い合う家。
没落も、台頭も、“一時的な浮き沈み”でしかない。
「だからね、さっちゃん」
祖母は、紗月のほうを見た。
「ちゃんと、顔を立ててきたかい?」
「失礼な事、言わなかったかい?」
「余計な意地、張らなかったかい?」
それは、媚びを売れたか、機嫌を損ねなかったか、という意味だ。
紗月は、湯のみを置いた。
指先が、ほんの少しだけ強く畳を押す。
「……大丈夫だよ。心配しすぎだって」
笑顔を作る。
さっきより、ほんの少しだけ丁寧に。
「そうかいそうかい。誠ぼっちゃん、再来年にはもう卒業だろう?」
その笑顔のまま、紗月は箸を進めた。
けれど、味はもう分からない。
「ちゃんと仲良くしておかないと。卒業したらとりあえず、籍だけでも入れておかないとねえ」
「……はは、だから付き合ってないって」
煮物を一口。
味噌汁を一口。
「そんなの、上手い事したらいいじゃない。そうだ、一度ご挨拶しないと、連れてきてくれるのはいつになるんだい?」
それだけで、胸の奥がざらついていく。
「…………──うるさいな」
「ええ? 何かいったかい?」
「なんもないよ、ごちそうさま」
少しだけ早いタイミングで、箸を揃えた。
祖母が、きょとんとする。
「あれ、もういいのかい?」
「うん。ちょっと、疲れちゃって」
声は柔らかく。
理由は、嘘ではない。
「先に寝るね」
立ち上がると、膝の裏が微かに震えた。
だが、それを見せないように、すぐ歩き出す。
「あぁ、無理しないでねえ」
背中に向けられた声に、振り返らない。
「お風呂は明日にする」
「うん。おやすみ」
それだけ言って、紗月は居間を出た。
四畳半の寝室。
引き戸を閉めると、外の音がすっと遠ざかる。
小さな部屋だ。
押し入れと、古い机と、布団。
壁には、色褪せた写真がいくつか飾られている。
祖父母がまだ若かった頃の一枚。
その隣に、父と母。
そして──
母と手をつなぐ、幼い自分。
丸い頬。
小さく握られた拳。
何も知らず、何も疑わず、ただ守られている顔。
──自分だ。
紗月は、写真の前に腰を下ろした。
膝を抱え、額を少しだけ前に倒す。
「……」
写真の中の母は、微笑んでいる。
その隣で、父は少し照れたように視線を外している。
祖父は、背筋が伸びていて、いかにも頑固そうな顔だ。
──みんな、生きている。
少なくとも、この一枚の中では。
紗月の胸の奥で、何かがゆっくりと反転した。
疲労でも、悲しみでもない。
怒りだ。
あの時のことを、思い出す。
灰原が起こした、大災害。
万能の願望器、聖杯を作り出す実験──灰原聖杯戦争。
結果として、父は死に、母も死に、当時当主だった祖父も──戻らなかった。
「……くだらない」
喉の奥で、低い声が擦れる。
灰原家は崩れた。
主君は死に、家は断絶した。
けれど、
生き残った者がいる。
灰原誠。
名前が、脳裏をよぎるだけで、
胸の内側が焼けるように熱くなる。
紗月は、はっとして机に視線を落とした。
机の上。
無造作に積まれた紙束。
文芸部の制作物。
コピー用紙を重ね、ホチキスで留めただけの、薄い冊子。
衝動的に、手が伸びる。
ぎゅっと、紙を掴む。
指先に伝わる、脆い感触。
──引きちぎってしまえばいい。
あんな家の名前が載っているもの。
灰原の生き残り、今も続くバカげた儀式の要。
力が、指にこもる。
灰原 誠。
後輩。
文芸部員。
不器用で、少し鈍くて、真面目で、やたらと真っ直ぐな──
紗月の指が、止まった。
紙が、くしゃりと音を立てる。
だが、それ以上は破れない。
「……」
歯を食いしばる。
怒りは、消えない。
許したわけでもない。
それでも。
紗月は、深く息を吐く。
握りしめていた冊子を、
ゆっくりと机の上に戻す。
乱れた紙の端を、指で揃える。
ホチキスの針を、元の位置に押し戻す。
何事もなかったかのように。
だが、胸の奥では、
黒い火種が、確かに燃え続けていた。
写真の中の家族は、何も言わない。
「全部無かったことになればいいのにな……」
紗月は、ゆっくりと息を吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
怒りを、肺の奥から追い出すように。
──落ち着け。
ここは家だ。
何か物音が、居間のほうで小さく聞こえた気がした。
それだけで、胸の奥が一瞬ひやりとする。
心配をかけるな、と自分に言い聞かせる。
畳に置いた掌を、ぎゅっと握る。
爪が皮膚に食い込む程度。
痛みで意識を戻す。
そのとき。
──す、と。
部屋の隅の暗がりが、形を持った。
襖も、障子も、開いていない。
それなのに、そこに“いる”。
気配だけが先に立ち、輪郭が遅れて追いつく。
影から抜け出してくるように、古びた忍び装束の男が姿を現した。
アサシン。
紗月の眉が跳ね上がる。
怒鳴りたくなるのを、喉の奥で押し殺して、声を低くした。
「……家では出てこないでって、言ってたよね」
苛立ちは隠せない。
ここは祖母のいる場所だ。
日常の薄い壁で成り立っている、唯一の避難所だ。
アサシンは表情を変えない。
「はい、しかし」
短く。
言い訳もない。
紗月は立ち上がりかけて、止まった。
足音を立てたくない。
祖母に気付かせたくない。
だから、視線だけで圧をかける。
「……じゃあ、何」
アサシンは一歩も近づかずに答えた。
それでも言葉だけが、床を滑ってこちらに届く。
「──祖母君が倒れました」
一瞬、意味が入ってこなかった。
倒れた。
その二文字が、遅れて胸に落ちる。
紗月の血の気が、すっと引いた。
「……は?」
声が裏返りそうになるのを、必死で押さえる。
紗月は反射的に襖のほうを見る。
居間の明かりは、まだ漏れている。
さっきまで、普通に話していた。
「どういう、意味……」
アサシンは淡々と言う。
「炊事場にて、突然。咄嗟に受け止めましたが、マスターの指示を仰ぎたく」
引き戸が、勢いよく開いた。
畳を踏む音が、はっきり鳴る。
気にする余裕はなかった。
「ばあちゃん──!」
紗月は居間へ飛び出した。
明かりは点いたまま。
鍋も、食器も、さっきの位置のまま。
日常の続きを示すものだけが、そのまま残っている。
そして。
台所と居間の境目。
流しの前。
祖母が、倒れていた。
「……っ」
言葉が喉で詰まる。
小柄な身体が、横向きに崩れている。
片腕が床に投げ出され、もう片方は胸元を押さえるように曲がっていた。
「ばあちゃん!」
紗月は駆け寄り、膝をつく。
肩に手を伸ばすが、力を入れるのが怖くて、触れきれない。
祖母の胸が、大きく上下する。
携帯を耳に当てる指が、うまく力を入れられない。
それでも、画面を操作する。
「……いち、いち、きゅう……」
呼び出し音。
一回。二回。
『はい、こちら消防です。火事ですか、救急ですか』
「救急です! ばあちゃんが倒れて、息が苦しそうで……!」
言葉が早口になる。
落ち着け、と頭のどこかが命じているが、身体が従わない。
『場所を教えてください』
住所を告げる。
公営住宅、二階、端から三つ目。
自分でも驚くほど、そこだけは正確だった。
『状況を確認します。意識はありますか』
「あります、でも苦しそうで……!」
祖母が、また咳き込む。
胸を押さえ、喉を鳴らすような音。
『分かりました。現在──』
ほんの、わずかな間。
回線の向こうで、何かを確認する気配。
『──っ、申し訳ありません。現在、近隣の救急車がすべて出動中です』
紗月の思考が、一瞬止まる。
「……え?」
『出動可能になるまで、少しお時間をいただく可能性があります』
「少しって……どれくらいですか」
声が、低くなる。
『正確な時間はお伝えできません』
胸の奥が、きしむ。
『ご家族の方で、タクシーや自家用車などで病院へ向かうことは可能でしょうか』
「……タクシー……」
この時間帯。
近くに待機している車は──少ない。
「呼んでも……来るまで、十分以上かかります」
それは、確認ではなく、ほとんど独り言だった。
『可能であれば、楽な姿勢にして、呼吸を──』
「分かりました」
紗月は、通話を切った。
切断音が、やけに大きく耳に残る。
十分。
それは、今の祖母にとって、長すぎる。
紗月は、携帯を床に置くと、迷いなく祖母の身体に腕を回した。
「……大丈夫、ばあちゃん」
声は、震えている。
けれど、言葉ははっきりしていた。
小柄な身体。
それでも、想像以上に重い。
祖母の呼吸が、耳元で乱れる。
「……さっちゃん……」
「喋らなくていい」
紗月は、居間の窓に向かう。
カーテンを掴み、勢いよく引く。
夜の空気が、ガラス越しに滲む。
鍵。
留め具。
がちゃり、と音がして、窓が開いた。
冷たい夜風が、部屋に流れ込む。
二階分の高さ。
下は、暗いが──見える。
紗月は、祖母を強く抱き直した。
「アサシン! 他陣営の攻撃の可能性もある、一通り周囲を確認してから追従してきて!」
「御意……マスターは?」
「私は先行する!」
紗月は、振り返らないまま言い切った。
返事を待つ余裕はない。
祖母の身体を抱え直す。腕の中の重さが、現実を突き刺す。
息が浅い。咳が苦しげに喉を削る。
「ばあちゃん、目、閉じてて」
言いながら、紗月は自分の足元──畳ではなく、身体の“内側”に意識を落とした。
藍沢家の魔術は、古い。
複雑さを捨て、ただ一点に絞ったものだ。
肉体強化。
筋繊維の一本一本を締め、骨の並びを整え、関節に“余裕”を作る。
血流を押し上げ、肺を拡げ、心臓の拍動を強制的に揃える。
魔術回路が、短く脈を打つ。
熱ではない。冷たく硬い、刃のような覚醒。
床が、遠くなる。
窓枠に足を掛けた瞬間、外気が頬を叩いた。
二階の高さ。暗い地面。
普通なら躊躇の距離。
紗月は、躊躇しない。
「——行くよ」
踏み切り。
世界が、音を失った。
身体が軽い。祖母を抱えているはずなのに、重心が沈まない。
筋力ではなく、“速度”が彼女を支えていた。
落下ではない。跳躍だ。
影が地面に触れるより先に、紗月の足は隣家の低い屋根を捉えた。
瓦が一枚、乾いた音を立てる。
だが滑らない。足裏が吸い付く。
次。
さらに次。
家と家の間を、夜の切れ目のように飛ぶ。
祖母の体が揺れぬよう、腕の中で微細に角度を調整する。
抱えるというより、支える。骨格ごと固定する。
呼吸が、短くなる。
それでも息切れはない。身体が“持つ”ように組み替えられている。
街灯が流れる。
犬の吠え声が遅れて届く。
誰かが窓を開ける気配がして、また閉じる。
見られてはいけない。
だが、止まれない。
屋根の端で一瞬だけ速度を殺し、次の建物へ。
コンクリの平面。手すり。給水塔。
公営住宅の区画を抜け、商店街の裏を跨ぎ、幹線道路の明かりを避けるように高所を選ぶ。
「……大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせるように囁き、次の跳躍へ。
病院の建物が見えた。
白い外壁。夜間入口の灯り。
そこに辿り着いた瞬間、紗月は初めて、ほんの少しだけ歯を食いしばった。
最後の跳び。
駐車場の端の塀を踏み、外来棟の庇へ。
庇の鉄板が低く鳴る。
そのまま夜間入口の前へ降りる。
着地。
膝が沈む。衝撃が逃げる。
祖母の身体は一切揺らさない。
紗月は、扉に向かって叫んだ。
「すみません! 救急です! だれか!」
声が、夜の静けさを破る。
この瞬間だけは、見られても構わなかった。
遅れて、背後の闇がひとつ揺れる。
アサシンが、屋根の影から滑り降りてくる気配。
紗月は振り向かない。
扉が開くまで、祖母の胸の上下だけを見る。
夜間入口の内側で、何かが落ちる乾いた音がした。
次いで、鍵の解錠音。
自動扉が、途中で引っかかったように一瞬もたつき、それから勢いよく開いた。
「救急ですか!?」
白衣ではない。スクラブ姿の女性──看護師が、息を切らして飛び出してくる。
肩には無線。胸元の名札が揺れている。
「患者さん、こちらに! ストレッチャー!」
叫び声は廊下の奥へ飛び、すぐ返事が返る前に、別の足音が重なった。
男性職員がストレッチャーを押してくる。車輪が床を擦る音が高い。
紗月は、その瞬間だけ、胸の奥の硬いものがほどけた気がした。
「……お願いします。祖母が、急に倒れて……息が——」
「分かりました。お名前と年齢、今言えますか!」
問われる声が早い。
だが、慣れている早さだ。切迫しているのに、手順が崩れていない。
「藍沢——藍沢ツネ。七十……八、です」
「意識あり。呼吸苦。咳嗽あり。今夜から? 発熱は?」
「分からない、さっきまでは普通で……!」
「いったん、こちらに移します」
看護師が素早く祖母の脈を取る。もう片方の手で酸素飽和度計の準備をする。
別の職員が紗月の腕の位置を指示し、抱えていた身体をストレッチャーへ滑らせた。
祖母が咳き込み、胸が大きく跳ねる。
その音に紗月の心臓も同じだけ跳ね、すぐに喉の奥が冷える。
「大丈夫、大丈夫。今、酸素入れますね」
マスクが当てられる。
祖母の呼吸が、わずかに──ほんの少しだけ整った。
紗月は、息を吐いた。
長く、苦い息だ。
そのまま、付いて行こうとして──
扉の向こうの光景が、目に入った。
病院の中が、騒がしいというレベルではない。
走る足音。ストレッチャーの車輪。怒鳴るような指示。
点滴スタンドが並び、救急処置室の前に、人が“列”になっている。
まるで、何かが一気に崩れ落ちたみたいだった。
秩序が残っているのが、逆に恐ろしい。
崩壊しないように、全員が必死で押さえつけている。
そして──救急車。
サイレンが止まる間もない。
一台がバックで入り、扉が開く。担架が降りる。
次の一台が、もう外で待っている。
「次! 次来るよ!」
「処置室、空けて! 酸素足りない、ボンベ——!」
「熱発・呼吸苦、同じパターン! トリアージ前倒し!」
紗月の背中が、じわりと冷たくなった。
運ばれてくる患者は、皆、同じだ。
顔が赤い。汗で濡れている。
祖母と同じように──熱病のような症状を訴えている。
「……なに、これ」
声が、勝手にこぼれた。
聞こえたのか、看護師が一瞬だけ紗月を見る。
「昨日から急に増えました。地域一帯で同じ症状が出てるって……」
言いながらも足は止めない。
祖母のストレッチャーを押す手が、少しだけ強くなる。
「ご家族の方、受付——じゃなくて、そこ! 臨時の確認台で情報取ります! 離れないで!」
指差された先には、机が急ごしらえで置かれている。
紙とペン、手袋と消毒液。
“臨時”という言葉が、現状の全てを示していた。
紗月は、祖母の顔を見た。
マスクの下で、苦しげに目を細めている。
助かった、と思ったのは──間違いではない。
でも、ここは安全じゃない。
この病院自体が、今夜の地獄の中心に立っている。
背後、夜間入口の影が、わずかに揺れる。
アサシンが、扉の外に残るように立っている気配。
紗月は、その気配を背中で受けながら、机に向かった。
ペンを握る指が、微かに震えていた。
そして、次の救急車のサイレンが、扉の向こうでまた一段高く鳴り響いた。