白い天井が、ゆっくりと視界に戻ってきた。
蛍光灯の光は夜と朝の区別を持たないはずなのに、どこか湿った明るさがある。消毒液の匂いが鼻の奥に残り、喉が乾いていた。
──いつの間にか眠っていた。
紗月は、自分の手がベッドの縁を掴んだまま固まっているのに気づく。指先が痛いほど冷えている。握り締めていたらしい。
身体を起こそうとして、肩が軋んだ。昨夜の跳躍の反動が遅れて張り付いている。魔力の使い過ぎではない。むしろ、ずっと抑え込んでいたものが一気にほどけたせいだ。
隣。
簡易ベッドの上に、祖母が横になっている。
薄い毛布。点滴の管。酸素マスク。
胸が上下するたび、マスクの内側がかすかに曇って、また消える。昨夜より呼吸は整っている。それでも安定という言葉が、恐ろしく頼りない。
祖母の額に当てられた冷却シートが、汗で端から剥がれかけていた。
紗月は音を立てないように立ち上がり、そっとそれを押し戻す。祖母の皮膚は熱い。触れた指先が、すぐ熱を吸い取っていく。
──まだ、高い。
脈拍を確かめようと手首に指を置く。早い。規則的ではあるが、速さが止まらない。
「……ばあちゃん」
呼びかけは、ほとんど息だった。
祖母の瞼は閉じたまま。眉間に皺が寄り、時折、喉の奥で小さく咳が鳴る。苦しげに、身体がわずかに丸まる。
紗月は、反射的に毛布を整えた。
整えたところで熱は下がらないのに、何かをしていないと手が震えそうだった。
ベッド脇の簡易テーブルには、紙コップの水と、体温表らしい用紙。数字が並び、赤い線が何度も高い位置を横切っている。
視線が逸れる。
部屋の空気が、祖母だけのものではないことに気づいた。
カーテンで区切られた向こう側。
咳き込む音。うめき。点滴の落ちる微かなリズム。
同じ病室に、何人もいる。
紗月は、そっと顔を上げた。
窓際のベッドには、見覚えのある顔があった。あの公営住宅の一階に住んでいるはずの、背中の丸い男性。昨日、廊下ですれ違ったことがある。今は頬が赤く、汗で髪が額に貼りついている。
別のベッドでは、若い母親らしい女性が、毛布に包まれて震えていた。腕に点滴。顔色が悪い。隣の椅子には小学生くらいの子が座っていて、マスク越しに息を殺しながら母親の手を握っている。
咳は、あちこちで同じように鳴る。
熱に浮かされた呻きも、似た調子で重なる。
──同じだ。
昨夜、救急入口で見た“列”。
運ばれてきた人々の顔。
ここにいる住民も、祖母と同じ症状だ。
紗月の背筋に、冷たいものが走った。
この病室が、ただの個室ではなく。
地域全体の異常の、一部分でしかないと、改めて理解してしまう。
カーテンの隙間から、廊下が見えた。
早足の靴音が何度も往復し、看護師が二人、ストレッチャーを押して行く。誰かが「酸素!」と叫ぶ声が遠くで反響する。
朝なのに、昨夜の続きみたいだった。
紗月は、祖母の顔に戻る。
熱い額。
苦しげな呼吸。
それでも──昨夜の、あの崩れ落ちるような咳の連続よりは、少しだけ落ち着いている。
安堵が胸に浮かぶ。
同時に、浮かんだ分だけ、不安が沈殿する。
紗月は、祖母の手をそっと布団の上に戻した。
指先が離れるのを嫌がるように、祖母の指が微かに動く。反射だ。意識がある証拠でもある。
「……すぐ戻るから」
返事はない。
それでも言っておく必要があった。
紗月は、点滴の管や足元を確認してから、静かにカーテンを引いた。
同室の患者たちの呼吸音が、ひとつの重たい空気を作っている。
病室を出ると、廊下の明るさが急に目に刺さった。
夜勤と日勤が交錯する時間帯らしく、人の流れが途切れない。誰もが急ぎ、誰もが余裕を失っている。
──学校。
今は、祖母が最優先だ。
それでも、連絡を入れないわけにはいかない。
担任の顔が一瞬浮かび、すぐ消える。
理由は説明できる。説明しなければならない。
紗月は、壁に貼られた案内板を見上げた。
「……通話室……」
矢印に従って歩き出す。
消毒液の匂いが、場所によって濃くなったり薄くなったりする。床に貼られたテープは、臨時動線を示しているらしい。昨夜から増設されたものだ。
曲がり角をひとつ抜けたところで、ざわめきが耳に入った。
人の声ではない。
機械越しの声。
待合室だった。
広めの空間に、簡易椅子がぎっしり並べられている。座り切れない人が壁際に立ち、床に座り込んでいる者もいる。毛布を肩に掛けた高齢者、額を押さえる若者、ぐったりと項垂れる中年の男。
その正面。
天井近くに設置されたテレビが、音量を抑えたまま点いていた。
紗月は、足を止めた。
『──次に、昨夜から急増している原因不明の病についてです』
アナウンサーの声は落ち着いている。
だが、その落ち着きが、逆に現実味を帯びさせていた。
画面には、見慣れた地図が映し出される。
市内図。色分けされた区域。
『この症状は、昨夜から今朝にかけて突発的に発生しました。主な症状は高熱、強い倦怠感、立ち上がれないほどの全身疲労、呼吸困難──』
紗月の喉が、ひくりと鳴る。
高熱。
倦怠感。
立ち上がれない。
祖母と、同じだ。
『現在、患者は特定の地域に集中しており──』
画面が切り替わる。
赤く塗られた区域。
灰原地区。
紗月の背中が、冷たくなる。
『専門家によりますと、なぜこの地区にのみ患者が集中しているのかは、現時点では不明とのことです』
待合室の空気が、目に見えて重くなった。
誰かが小さく咳き込み、別の誰かが不安そうに画面を見上げる。
『一方で、数日前から市内各所で確認されている、原因不明の灰との関連性についても議論されています』
映像が切り替わる。
道路や屋根、車の上に薄く積もった灰色の粉末。住民がスマートフォンで撮影した映像らしい。
『この灰については、現在も成分分析が続けられていますが、火山灰や工業由来の粉塵とは一致しない部分があり──』
音声が少し途切れ、別の専門家のコメントが流れる。
『感染経路は不明です。空気中か、付着物か、あるいは……』
言葉が濁される。
紗月は、無意識のうちに自分の手を見ていた。
祖母を抱え、屋根を渡り、風を切ってきた手。
灰に、触れていなかったとは言い切れない。
『市は、不要不急の外出を控えるよう呼びかけています。灰原地区の住民に対しては、特に注意を──』
画面の下に、速報のテロップが流れる。
「発熱患者さらに増加」「市内医療機関ひっ迫」。
紗月は、ゆっくりと息を吐いた。
偶然じゃない。
少なくとも、祖母だけの問題ではない。
背後で、看護師が早足に通り過ぎる。
「次、また来ます!」という声が、待合室のざわめきに溶けた。
紗月は、視線をテレビから引き剥がし、案内板をもう一度見た。
通話室は、この先だ。
携帯を握り直す。
画面には、学校の連絡先が表示されている。
親指で画面をタップした、その瞬間だった。
通知欄が、するりと下りる。
見慣れた件名が、目に入った。
「……え」
一斉送信。
学校名。
配信時刻は──今朝、ついさっき。
紗月は足を止め、廊下の壁際に背を預けた。
周囲のざわめきが、少し遠のく。
メールを開く。
『【重要】本日以降の対応について』
簡潔な文章だった。
だが、一行一行が、はっきりと重い。
『現在発生している感染症拡大の状況を受け、本校は当面の間、休校とします』
『再開時期および今後の対応については、状況を見ながら追って連絡します』
『生徒の皆さんは、不要不急の外出を控え、自宅待機を徹底してください』
そこまで読んで、紗月は小さく息を吐いた。
「……そっか」
拍子抜けしたような声だった。
連絡を入れなきゃ。
理由を説明しなきゃ。
担任に、クラスに、余計な心配をかけないように。
さっきまで頭の中を占めていた義務が、
メール一通で、あっさり消える。
──連絡、いらなかったんだ。
そう思って、ほんの一瞬だけ、肩の力が抜けた。
……けれど。
次の考えが、遅れて浮かぶ。
黒野本家。
あの屋敷で告げられた「休養期間」。
キャスター戦の負傷を癒す事を理由に、黒野本家に拘束されるはずだった期間。
もともと。
今日、学校に行く予定はなかった。
「……だったら、最初から」
口に出しかけて、やめる。
意味がない。
どのみち、祖母は倒れ、病院にいて、この街は異常の只中にある。
結果だけが、ここにある。
紗月は、携帯をそっとスリープにした。
画面が暗くなり、そこに映っていた文字が消える。
連絡の手間が省けた。
それは事実だ。
……でも、それで安心できる状況じゃない。
紗月は壁から背を離し、廊下に戻った。
画面を伏せるように携帯を握り直す。連絡事項は消えた。代わりに、やるべきことが残ったままだ。
紗月は歩調を落とし、廊下の角へ向かった。
人の流れに逆らわない程度に、壁際を滑る。視線は忙しなく動き、耳は足音を拾う。
藍沢家の術は、派手じゃない。
身体を強くする。速くする。
それだけで生き残ってきた家だ。
だから、呪いも同じ。
複雑な式は要らない。
「敵意」を見分けて。
近づいたら、報せる。
それだけでいい。
角を曲がる。
消毒液の匂いが濃くなり、手袋の擦れる音がすぐ背後を通り過ぎた。
紗月は、すれ違った看護師が視界から消えるのを待ってから、指先を壁に当てた。
ほんの一瞬。爪の先で、見えない線を引く。
──「藍沢」。
言葉は声にしない。
脳内で音にして、呼気に乗せる。
魔力は薄く。
この場所に溶ける程度。
壁紙の繊維に、微かな“棘”を仕込む。
触れない。刺さない。ただ、こちらを向く悪意だけを拾う棘。
角の内側に、ひとつ。
次に、非常口の扉。
ドアノブの金属に指を滑らせるふりをして、親指で小さく印を作る。
誰も見ない角度。誰も気にしない動作。
非常口の先は、階段。
上にも下にも繋がる。
──来るとしたら、そこだ。
もうひとつ。
次は、エレベーター前。
紗月は、床に貼られた臨時動線テープの端を踏み直すように体重を移しながら、靴底で小さな円を描いた。
テープの下、床材の上に、棘が残る。
さらに二つ。
ナースステーションに続く通路の入口。
病室のフロアへ戻る分岐。
紗月は一度だけ立ち止まり、視線を巡らせた。
患者の家族が壁に寄りかかっている。
老人が毛布を抱えて座り込んでいる。
誰も、紗月の指先が壁を撫でる程度の仕草に注意を払わない。
彼女は指先を引き、息を整えた。
──これで、最低限。
完璧じゃない。
病院全体を覆うような結界は張れないし、張ったら逆に目立つ。
だから、点でいい。
刺の列でいい。
来るなら、引っかかる。
「誰が何のつもりでやってるか知らないけど──来るなら来なよ」
紗月は歩き出し、病室のカーテンを探した。
廊下のざわめきが再び近づき、点滴スタンドの車輪が乾いた音で追い抜いていく。
目印の番号。
薄いカーテン。
同じ咳。
紗月は息を殺して中へ滑り込み、カーテンを閉めた。
祖母のベッドが、そこにある。
酸素マスク。
点滴。
額の熱。
昨夜より、呼吸は整っている。
でも熱は、まだ引かない。
紗月は祖母の手の近くに腰を下ろし、指先でそっと布団の端を整えた。
「……戻ったよ、ばあちゃん」
返事はない。
マスクの内側で、祖母の息が浅く上下するだけだ。
昼が過ぎた。
病室の外は相変わらず騒がしい。
廊下を走る靴音が絶えず、ストレッチャーの車輪が床を削る音が、ときどき近づいては遠ざかる。
同室の患者は入れ替わり、カーテンの向こうでうめきが増えたり減ったりする。
それでも。
紗月の耳の奥は、静かだった。
仕込んだ棘は、鳴らない。
紗月は、祖母の額の冷却シートを押さえ直しながら考える。
襲撃があるなら、夜だ。
病院が薄暗くなり、人の目が減り、監視が緩む。
騒がしさの種類が変わる。
日勤の秩序が消えて、夜勤の“穴”が現れる。
そして、夜。
照明が少し落とされ、カーテンの影が濃くなる。
祖母の呼吸は、まだ荒い。熱は高いまま。
それでも、昨夜ほど崩れない。
──鳴らないなら、それでいい。
紗月は自分に言い聞かせた。
鳴らない夜が、最善だ。
そのとき。
カーテンの外側から、控えめなノックがした。
布越しに、看護師の声が落ちる。
「失礼します。ご家族の方ですよね、少しよろしいですか」
紗月は立ち上がり、カーテンをわずかに開けた。
スクラブ姿の女性が立っている。目の下に疲労が濃い。
「……はい」
「申し訳ないんですけど……今夜から、面会の制限がさらに厳しくなって。患者さんのご家族も、一旦ご帰宅をお願いしています」
紗月の頭が、一瞬だけ白くなった。
「私、ここに……」
「気持ちは分かります。ですが、感染の疑いもありますし、院内の動線を確保しないと……」
看護師は言い訳をしない。
謝罪と同じ速度で、現実だけを並べる。
「どうしても、という場合は申請が必要なんですが、今の状況で許可が下りるかは……」
言葉を濁すのではない。
希望を与えないために、正確に切る。
紗月は祖母を見る。
マスクの下で、苦しげに眉を寄せている。
その顔を置いて帰る──という選択肢が、最初から存在しない。
けれど、ここで押し問答をしても意味がない。
目立てば、棘の外側の現実に捕まる。
紗月は、ゆっくり頷いた。
「……分かりました。帰ります」
看護師は少しだけ安堵した顔をし、簡単な手順を説明する。
「荷物をまとめたら、受付の方でお名前を確認して──」
「はい」
紗月はカーテンを閉めた。
カバンを肩にかける。
上着を羽織る。
病室の外へ出る。
廊下は夜の顔をしていた。
人は減っていない。ただ、目が合わない。
誰もが自分の仕事に追われ、他人を見ている余裕がない。
紗月は、指示された通りの方向へ歩いた。
受付の前を通り、出口に近づく。
その途中で、仕込んだ棘の位置を、視線だけでなぞる。
──鳴っていない。
今のところは。
自動扉の前。
外気の冷たさが、ガラス越しに滲んでいる。
紗月は一度だけ、外へ出るふりをした。
扉が開きかける。
夜の空気が頬を撫でる。
その瞬間、紗月は足を止め、靴紐を直す仕草でしゃがみ込んだ。
通り過ぎる誰かの影を待つ。
影が消えるのを待つ。
次いで、体を起こすと同時に、入口横の非常口へ滑り込んだ。
階段室。
蛍光灯が一本だけ点き、壁は冷たい灰色。
紗月は、呼吸を一段落とした。
外の世界から、病院の裏側へ切り替える。
──帰ったことになっている。
それでいい。
残るのは、隠れる場所。
そして、祖母の近くに戻る経路。
紗月は階段を一段だけ上がり、踊り場で立ち止まった。
上にも下にも繋がる。
音が響く。
人が来ればすぐ分かる。
紗月は膝を折り、背中を壁に預けた。
──待つ。
携帯を点ける気にはならなかった。
時間を見たところで、熱は下がらない。
ニュースを見たところで、祖母は起きない。
耳だけが働く。
廊下を誰かが通るたび、靴底の音が床を叩く。
カーテンの擦れる音。
機械の警告音。
遠くで鳴るサイレン──外の救急車が、まだ止んでいない。
それでも、棘は沈黙したままだ。
仕込んだ棘は、ただの警報じゃない。
藍沢に向けられた“敵意”を拾う。
通り過ぎるだけの恐怖も、不安も、疲労も──拾わない。
敵意だけ。
だから鳴らないなら、今夜は誰もこちらを狙っていない。
──そう思いたかった。
時間が、粘るように過ぎていく。
足の感覚が消え、戻って、また消える。
肩に掛けたバッグの重さだけが変わらない。
呼吸を浅くしているはずなのに、喉は渇く。
病院は眠らない。
けれど、病院の“隙”は、深夜にだけ現れる。
紗月は、耳の奥で数えた。
看護師の足音が途切れる間。
エレベーターの到着音が間延びする間。
誰も廊下を走らず、誰も怒鳴らない、短い空白。
その空白が増える頃。
日付が変わる。
──あと少し。
そう思った瞬間だった。
胸の奥が、ちくりと刺された。
痛みではない。
感覚だ。
皮膚の内側から、極細の針で合図を送られたような──藍沢の“棘”が立った時の、独特の震え。
紗月の呼吸が止まる。
どの棘だ。
彼女はすぐに目を閉じた。
棘の配置を頭の中で並べる。
角の内側。非常口。エレベーター前。ナースステーション手前。分岐。
反応は、一本。
距離感。
震えの強さ。
方向──
エレベーター前。
──来た。
思考より先に、身体が動いた。
紗月は踊り場の壁から背を剥がし、非常口の扉へ滑った。金属のバーに掌を添える。押し込む力は最小。蝶番の鳴き声を、指先で押さえ殺す。
扉の隙間から漏れる廊下の光が、刃みたいに細い。
棘の震えが、まだ続いている。
“敵意”──。
紗月は息を吸わずに、扉を開けた。
次の瞬間、走った。
身体強化。
藍沢の、最短距離。
筋肉が締まり、骨の遊びが消える。床が柔らかく感じるほど、足裏の感覚が研ぎ澄まされる。蹴り出しは短く、着地は浅く──それでも速い。
角。
廊下の端に置かれた点滴スタンドの影が、伸びている。
誰もいない。誰も気づかない。気づかれてはならない。
紗月は壁際を切り、エレベーター前の通路へ飛び込んだ。
そこで、棘の震えが──最高潮に達した。
そして、急に、途切れた。
「……?」
反応が消えた。
ということは、敵意が離れたか、消えたか、あるいは──棘の“判定”が終わったか。
紗月は、足を止めた。
エレベーターホールは、妙に静かだった。
ボタンのランプは消え、扉は閉じている。天井の非常灯が白い床を薄く照らし、影がくっきり落ちている。
その影の中に──人がいた。
入院着の男が、倒れている。
横向きに崩れ、片腕が床に伸び、もう片方が腹のあたりで固く曲がっている。スリッパが片方だけ脱げ、足先が変に捩れている。
紗月の喉が、乾いた。
近づく。
一歩ごとに、周囲の気配を探る。
──いない。
紗月は男の傍まで膝を落とした。床に触れる前に、指先で空気をなぞる。魔力の残滓。術式の臭い。殺意の余韻。
……何もない。
代わりに、男の額の熱だけが、距離越しに分かる。
汗が浮き、頬が赤い。口元が震え、かすかな呼吸が漏れている。
「……患者?」
声は出さない。
口の中で形だけ作る。
……棘が、誤作動した。
紗月はそう結論づけた。
病院の中は、恐怖と焦燥と痛みで満ちている。敵意と見分けがつかない“濃さ”が、空気に沈んでいる。いくら藍沢の棘が「敵意だけ」を拾うよう作ってあっても、今夜は条件が悪すぎる。
倒れているのは、ただの患者だ。
高熱と倦怠感で立てず、夜中にトイレでも探して──力尽きた。
そういうことだ。
紗月は男の肩に手を伸ばし、力を込めないように揺すった。
「……大丈夫ですか。聞こえますか」
声は、息に近い。
廊下に響かせないための、薄い音。
男の身体は熱を持っていた。入院着の布越しでも分かる。汗で湿って、冷えた床に貼りついている。
紗月は男の脇に腕を入れ、上体を起こす補助をする。
重い。
熱に浮かされた身体は、妙にだるく、素直に動かない。
「今、看護師の方を呼んでくるので──」
言いかけたところで。
男の顔が、非常灯の光を拾った。
瞼が、薄く開く。
その瞬間、紗月の背中を冷たいものが走った。
目が。
血のように赤い。
ただ充血しているとか、熱で潤んでいるとか、そういう赤ではない。
白目が染まっているのでもない。
瞳孔の奥から、赤が“発光”しているみたいに──均一で、濃く、濡れている。
紗月の指が、止まる。
男の喉が、かすかに鳴った。
「……ゥ……」
息の漏れ方が違う。
咳でも、呻きでもない。
唸りだ。
紗月は反射的に、男の口元を見る。
唇が震え、歯が見えた。
犬歯が。
鋭い。
不自然に長い。尖っている。人間の口の中にあるには、明らかに異物の形だ。
紗月の鼓動が、一拍遅れて跳ね上がる。
棘は誤作動なんて起こしていなかった。
「──っ!」
紗月が戦闘態勢を取るよりも早く、男が動いた。
倒れていたはずの身体が、床を蹴る音すら立てずに跳ね起きる。入院着の布が擦れる微かな音だけが遅れて届いた。関節のきしみも、呼吸の乱れもない。熱で重かったはずの肉体が、別の重さに置き換わったみたいに軽い。
赤い瞳が、一直線に紗月を射抜く。
唸りが、喉の奥で途切れた。
次の瞬間。
紗月の視界が、横に流れる。
首。
──掴まれた。
指の感触が皮膚を押し潰す。熱い掌。爪が食い込み、気道の横を圧迫する。力の方向が正確すぎて、呼吸の逃げ道が一瞬で塞がれた。
「……っ」
声が出ない。
足が床を探す。だが、足裏が滑る。身体強化を入れる暇がない。入れても間に合ったかどうか分からない速度だ。
背中が、壁にぶつかった。
鈍い衝撃。
肩甲骨のあたりが冷たい壁に叩きつけられ、肺の空気が押し出される。頭がわずかに揺れて、非常灯の光が滲む。
男の腕は伸びきっていない。
伸びきる前で止めている。
──押し当てるために。
紗月の喉仏の横が、さらに締まった。血管が脈打つ感覚が、指の圧の下で歪む。耳の奥がじわりと鳴り、視界の縁が暗くなる。
男の顔が近い。
血の赤い瞳。
濡れた唇。
覗く鋭い犬歯。
獣の匂いがした。汗と消毒液と、鉄みたいな生臭さが混ざる。
男は笑わない。
言葉もない。
ただ、唸りだけが──喉の奥で微かに震えていた。