Fate/You Died.   作:助兵衛

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第40話 どこもかしこも、獣ばかり

 白い天井が、ゆっくりと視界に戻ってきた。

 

 蛍光灯の光は夜と朝の区別を持たないはずなのに、どこか湿った明るさがある。消毒液の匂いが鼻の奥に残り、喉が乾いていた。

 

 ──いつの間にか眠っていた。

 

 紗月は、自分の手がベッドの縁を掴んだまま固まっているのに気づく。指先が痛いほど冷えている。握り締めていたらしい。

 

 身体を起こそうとして、肩が軋んだ。昨夜の跳躍の反動が遅れて張り付いている。魔力の使い過ぎではない。むしろ、ずっと抑え込んでいたものが一気にほどけたせいだ。

 

 隣。

 

 簡易ベッドの上に、祖母が横になっている。

 

 薄い毛布。点滴の管。酸素マスク。

 

 胸が上下するたび、マスクの内側がかすかに曇って、また消える。昨夜より呼吸は整っている。それでも安定という言葉が、恐ろしく頼りない。

 

 祖母の額に当てられた冷却シートが、汗で端から剥がれかけていた。

 

 紗月は音を立てないように立ち上がり、そっとそれを押し戻す。祖母の皮膚は熱い。触れた指先が、すぐ熱を吸い取っていく。

 

 ──まだ、高い。

 

 脈拍を確かめようと手首に指を置く。早い。規則的ではあるが、速さが止まらない。

 

「……ばあちゃん」

 

 呼びかけは、ほとんど息だった。

 

 祖母の瞼は閉じたまま。眉間に皺が寄り、時折、喉の奥で小さく咳が鳴る。苦しげに、身体がわずかに丸まる。

 

 紗月は、反射的に毛布を整えた。

 整えたところで熱は下がらないのに、何かをしていないと手が震えそうだった。

 

 ベッド脇の簡易テーブルには、紙コップの水と、体温表らしい用紙。数字が並び、赤い線が何度も高い位置を横切っている。

 

 視線が逸れる。

 

 部屋の空気が、祖母だけのものではないことに気づいた。

 

 カーテンで区切られた向こう側。

 咳き込む音。うめき。点滴の落ちる微かなリズム。

 

 同じ病室に、何人もいる。

 

 紗月は、そっと顔を上げた。

 

 窓際のベッドには、見覚えのある顔があった。あの公営住宅の一階に住んでいるはずの、背中の丸い男性。昨日、廊下ですれ違ったことがある。今は頬が赤く、汗で髪が額に貼りついている。

 

 別のベッドでは、若い母親らしい女性が、毛布に包まれて震えていた。腕に点滴。顔色が悪い。隣の椅子には小学生くらいの子が座っていて、マスク越しに息を殺しながら母親の手を握っている。

 

 咳は、あちこちで同じように鳴る。

 熱に浮かされた呻きも、似た調子で重なる。

 

 ──同じだ。

 

 昨夜、救急入口で見た“列”。

 運ばれてきた人々の顔。

 

 ここにいる住民も、祖母と同じ症状だ。

 

 紗月の背筋に、冷たいものが走った。

 

 この病室が、ただの個室ではなく。

 地域全体の異常の、一部分でしかないと、改めて理解してしまう。

 

 カーテンの隙間から、廊下が見えた。

 早足の靴音が何度も往復し、看護師が二人、ストレッチャーを押して行く。誰かが「酸素!」と叫ぶ声が遠くで反響する。

 

 朝なのに、昨夜の続きみたいだった。

 

 紗月は、祖母の顔に戻る。

 

 熱い額。

 苦しげな呼吸。

 それでも──昨夜の、あの崩れ落ちるような咳の連続よりは、少しだけ落ち着いている。

 

 安堵が胸に浮かぶ。

 同時に、浮かんだ分だけ、不安が沈殿する。

 

 紗月は、祖母の手をそっと布団の上に戻した。

 指先が離れるのを嫌がるように、祖母の指が微かに動く。反射だ。意識がある証拠でもある。

 

「……すぐ戻るから」

 

 返事はない。

 それでも言っておく必要があった。

 

 紗月は、点滴の管や足元を確認してから、静かにカーテンを引いた。

 同室の患者たちの呼吸音が、ひとつの重たい空気を作っている。

 

 病室を出ると、廊下の明るさが急に目に刺さった。

 夜勤と日勤が交錯する時間帯らしく、人の流れが途切れない。誰もが急ぎ、誰もが余裕を失っている。

 

 ──学校。

 

 今は、祖母が最優先だ。

 それでも、連絡を入れないわけにはいかない。

 

 担任の顔が一瞬浮かび、すぐ消える。

 理由は説明できる。説明しなければならない。

 

 紗月は、壁に貼られた案内板を見上げた。

 

「……通話室……」

 

 矢印に従って歩き出す。

 消毒液の匂いが、場所によって濃くなったり薄くなったりする。床に貼られたテープは、臨時動線を示しているらしい。昨夜から増設されたものだ。

 

 曲がり角をひとつ抜けたところで、ざわめきが耳に入った。

 

 人の声ではない。

 機械越しの声。

 

 待合室だった。

 

 広めの空間に、簡易椅子がぎっしり並べられている。座り切れない人が壁際に立ち、床に座り込んでいる者もいる。毛布を肩に掛けた高齢者、額を押さえる若者、ぐったりと項垂れる中年の男。

 

 その正面。

 天井近くに設置されたテレビが、音量を抑えたまま点いていた。

 

 紗月は、足を止めた。

 

『──次に、昨夜から急増している原因不明の病についてです』

 

 

 アナウンサーの声は落ち着いている。

 だが、その落ち着きが、逆に現実味を帯びさせていた。

 

 画面には、見慣れた地図が映し出される。

 市内図。色分けされた区域。

 

『この症状は、昨夜から今朝にかけて突発的に発生しました。主な症状は高熱、強い倦怠感、立ち上がれないほどの全身疲労、呼吸困難──』

 

 紗月の喉が、ひくりと鳴る。

 

 高熱。

 倦怠感。

 立ち上がれない。

 

 祖母と、同じだ。

 

『現在、患者は特定の地域に集中しており──』

 

 画面が切り替わる。

 赤く塗られた区域。

 

 灰原地区。

 

 紗月の背中が、冷たくなる。

 

『専門家によりますと、なぜこの地区にのみ患者が集中しているのかは、現時点では不明とのことです』

 

 待合室の空気が、目に見えて重くなった。

 誰かが小さく咳き込み、別の誰かが不安そうに画面を見上げる。

 

『一方で、数日前から市内各所で確認されている、原因不明の灰との関連性についても議論されています』

 

 映像が切り替わる。

 道路や屋根、車の上に薄く積もった灰色の粉末。住民がスマートフォンで撮影した映像らしい。

 

『この灰については、現在も成分分析が続けられていますが、火山灰や工業由来の粉塵とは一致しない部分があり──』

 

 音声が少し途切れ、別の専門家のコメントが流れる。

 

『感染経路は不明です。空気中か、付着物か、あるいは……』

 

 言葉が濁される。

 

 紗月は、無意識のうちに自分の手を見ていた。

 祖母を抱え、屋根を渡り、風を切ってきた手。

 

 灰に、触れていなかったとは言い切れない。

 

『市は、不要不急の外出を控えるよう呼びかけています。灰原地区の住民に対しては、特に注意を──』

 

 画面の下に、速報のテロップが流れる。

「発熱患者さらに増加」「市内医療機関ひっ迫」。

 

 紗月は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 偶然じゃない。

 少なくとも、祖母だけの問題ではない。

 

 背後で、看護師が早足に通り過ぎる。

「次、また来ます!」という声が、待合室のざわめきに溶けた。

 

 紗月は、視線をテレビから引き剥がし、案内板をもう一度見た。

 

 通話室は、この先だ。

 

 携帯を握り直す。

 画面には、学校の連絡先が表示されている。

 

 親指で画面をタップした、その瞬間だった。

 

 通知欄が、するりと下りる。

 

 見慣れた件名が、目に入った。

 

「……え」

 

 一斉送信。

 学校名。

 配信時刻は──今朝、ついさっき。

 

 紗月は足を止め、廊下の壁際に背を預けた。

 周囲のざわめきが、少し遠のく。

 

 メールを開く。

 

『【重要】本日以降の対応について』

 

 簡潔な文章だった。

 だが、一行一行が、はっきりと重い。

 

『現在発生している感染症拡大の状況を受け、本校は当面の間、休校とします』

 

『再開時期および今後の対応については、状況を見ながら追って連絡します』

 

『生徒の皆さんは、不要不急の外出を控え、自宅待機を徹底してください』

 

 そこまで読んで、紗月は小さく息を吐いた。

 

「……そっか」

 

 拍子抜けしたような声だった。

 

 連絡を入れなきゃ。

 理由を説明しなきゃ。

 担任に、クラスに、余計な心配をかけないように。

 

 さっきまで頭の中を占めていた義務が、

 メール一通で、あっさり消える。

 

 ──連絡、いらなかったんだ。

 

 そう思って、ほんの一瞬だけ、肩の力が抜けた。

 

 ……けれど。

 

 次の考えが、遅れて浮かぶ。

 

 黒野本家。

 

 あの屋敷で告げられた「休養期間」。

 キャスター戦の負傷を癒す事を理由に、黒野本家に拘束されるはずだった期間。

 

 もともと。

 今日、学校に行く予定はなかった。

 

「……だったら、最初から」

 

 口に出しかけて、やめる。

 

 意味がない。

 どのみち、祖母は倒れ、病院にいて、この街は異常の只中にある。

 

 結果だけが、ここにある。

 

 紗月は、携帯をそっとスリープにした。

 画面が暗くなり、そこに映っていた文字が消える。

 

 連絡の手間が省けた。

 それは事実だ。

 

 ……でも、それで安心できる状況じゃない。

 

 紗月は壁から背を離し、廊下に戻った。

 画面を伏せるように携帯を握り直す。連絡事項は消えた。代わりに、やるべきことが残ったままだ。

 

 紗月は歩調を落とし、廊下の角へ向かった。

 人の流れに逆らわない程度に、壁際を滑る。視線は忙しなく動き、耳は足音を拾う。

 

 藍沢家の術は、派手じゃない。

 身体を強くする。速くする。

 それだけで生き残ってきた家だ。

 

 だから、呪いも同じ。

 複雑な式は要らない。

 

「敵意」を見分けて。

 近づいたら、報せる。

 

 それだけでいい。

 

 角を曲がる。

 消毒液の匂いが濃くなり、手袋の擦れる音がすぐ背後を通り過ぎた。

 

 紗月は、すれ違った看護師が視界から消えるのを待ってから、指先を壁に当てた。

 ほんの一瞬。爪の先で、見えない線を引く。

 

 ──「藍沢」。

 

 言葉は声にしない。

 脳内で音にして、呼気に乗せる。

 

 魔力は薄く。

 この場所に溶ける程度。

 

 壁紙の繊維に、微かな“棘”を仕込む。

 触れない。刺さない。ただ、こちらを向く悪意だけを拾う棘。

 

 角の内側に、ひとつ。

 

 次に、非常口の扉。

 ドアノブの金属に指を滑らせるふりをして、親指で小さく印を作る。

 誰も見ない角度。誰も気にしない動作。

 

 非常口の先は、階段。

 上にも下にも繋がる。

 

 ──来るとしたら、そこだ。

 

 もうひとつ。

 

 次は、エレベーター前。

 

 紗月は、床に貼られた臨時動線テープの端を踏み直すように体重を移しながら、靴底で小さな円を描いた。

 テープの下、床材の上に、棘が残る。

 

 さらに二つ。

 ナースステーションに続く通路の入口。

 病室のフロアへ戻る分岐。

 

 紗月は一度だけ立ち止まり、視線を巡らせた。

 

 患者の家族が壁に寄りかかっている。

 老人が毛布を抱えて座り込んでいる。

 誰も、紗月の指先が壁を撫でる程度の仕草に注意を払わない。

 

 彼女は指先を引き、息を整えた。

 

 ──これで、最低限。

 

 完璧じゃない。

 病院全体を覆うような結界は張れないし、張ったら逆に目立つ。

 

 だから、点でいい。

 刺の列でいい。

 

 来るなら、引っかかる。

 

「誰が何のつもりでやってるか知らないけど──来るなら来なよ」

 

 紗月は歩き出し、病室のカーテンを探した。

 廊下のざわめきが再び近づき、点滴スタンドの車輪が乾いた音で追い抜いていく。

 

 目印の番号。

 薄いカーテン。

 同じ咳。

 

 紗月は息を殺して中へ滑り込み、カーテンを閉めた。

 

 祖母のベッドが、そこにある。

 

 酸素マスク。

 点滴。

 額の熱。

 

 昨夜より、呼吸は整っている。

 でも熱は、まだ引かない。

 

 紗月は祖母の手の近くに腰を下ろし、指先でそっと布団の端を整えた。

 

「……戻ったよ、ばあちゃん」

 

 返事はない。

 マスクの内側で、祖母の息が浅く上下するだけだ。

 

 昼が過ぎた。

 

 病室の外は相変わらず騒がしい。

 廊下を走る靴音が絶えず、ストレッチャーの車輪が床を削る音が、ときどき近づいては遠ざかる。

 同室の患者は入れ替わり、カーテンの向こうでうめきが増えたり減ったりする。

 

 それでも。

 

 紗月の耳の奥は、静かだった。

 

 仕込んだ棘は、鳴らない。

 

 紗月は、祖母の額の冷却シートを押さえ直しながら考える。

 襲撃があるなら、夜だ。

 

 病院が薄暗くなり、人の目が減り、監視が緩む。

 騒がしさの種類が変わる。

 日勤の秩序が消えて、夜勤の“穴”が現れる。

 

 そして、夜。

 

 照明が少し落とされ、カーテンの影が濃くなる。

 祖母の呼吸は、まだ荒い。熱は高いまま。

 それでも、昨夜ほど崩れない。

 

 ──鳴らないなら、それでいい。

 

 紗月は自分に言い聞かせた。

 鳴らない夜が、最善だ。

 

 そのとき。

 

 カーテンの外側から、控えめなノックがした。

 布越しに、看護師の声が落ちる。

 

「失礼します。ご家族の方ですよね、少しよろしいですか」

 

 紗月は立ち上がり、カーテンをわずかに開けた。

 スクラブ姿の女性が立っている。目の下に疲労が濃い。

 

「……はい」

 

「申し訳ないんですけど……今夜から、面会の制限がさらに厳しくなって。患者さんのご家族も、一旦ご帰宅をお願いしています」

 

 紗月の頭が、一瞬だけ白くなった。

 

「私、ここに……」

 

「気持ちは分かります。ですが、感染の疑いもありますし、院内の動線を確保しないと……」

 

 看護師は言い訳をしない。

 謝罪と同じ速度で、現実だけを並べる。

 

「どうしても、という場合は申請が必要なんですが、今の状況で許可が下りるかは……」

 

 言葉を濁すのではない。

 希望を与えないために、正確に切る。

 

 紗月は祖母を見る。

 マスクの下で、苦しげに眉を寄せている。

 その顔を置いて帰る──という選択肢が、最初から存在しない。

 

 けれど、ここで押し問答をしても意味がない。

 目立てば、棘の外側の現実に捕まる。

 

 紗月は、ゆっくり頷いた。

 

「……分かりました。帰ります」

 

 看護師は少しだけ安堵した顔をし、簡単な手順を説明する。

 

「荷物をまとめたら、受付の方でお名前を確認して──」

 

「はい」

 

 紗月はカーテンを閉めた。

 

 カバンを肩にかける。

 上着を羽織る。

 病室の外へ出る。

 

 廊下は夜の顔をしていた。

 人は減っていない。ただ、目が合わない。

 誰もが自分の仕事に追われ、他人を見ている余裕がない。

 

 紗月は、指示された通りの方向へ歩いた。

 受付の前を通り、出口に近づく。

 その途中で、仕込んだ棘の位置を、視線だけでなぞる。

 

 ──鳴っていない。

 

 今のところは。

 

 自動扉の前。

 外気の冷たさが、ガラス越しに滲んでいる。

 紗月は一度だけ、外へ出るふりをした。

 

 扉が開きかける。

 夜の空気が頬を撫でる。

 

 その瞬間、紗月は足を止め、靴紐を直す仕草でしゃがみ込んだ。

 通り過ぎる誰かの影を待つ。

 影が消えるのを待つ。

 

 次いで、体を起こすと同時に、入口横の非常口へ滑り込んだ。

 

 階段室。

 蛍光灯が一本だけ点き、壁は冷たい灰色。

 

 紗月は、呼吸を一段落とした。

 外の世界から、病院の裏側へ切り替える。

 

 ──帰ったことになっている。

 

 それでいい。

 

 残るのは、隠れる場所。

 そして、祖母の近くに戻る経路。

 

 紗月は階段を一段だけ上がり、踊り場で立ち止まった。

 上にも下にも繋がる。

 音が響く。

 人が来ればすぐ分かる。

 

 紗月は膝を折り、背中を壁に預けた。

 

 ──待つ。

 

 携帯を点ける気にはならなかった。

 時間を見たところで、熱は下がらない。

 ニュースを見たところで、祖母は起きない。

 

 耳だけが働く。

 

 廊下を誰かが通るたび、靴底の音が床を叩く。

 カーテンの擦れる音。

 機械の警告音。

 遠くで鳴るサイレン──外の救急車が、まだ止んでいない。

 

 それでも、棘は沈黙したままだ。

 

 仕込んだ棘は、ただの警報じゃない。

 藍沢に向けられた“敵意”を拾う。

 通り過ぎるだけの恐怖も、不安も、疲労も──拾わない。

 敵意だけ。

 

 だから鳴らないなら、今夜は誰もこちらを狙っていない。

 

 ──そう思いたかった。

 

 時間が、粘るように過ぎていく。

 

 足の感覚が消え、戻って、また消える。

 肩に掛けたバッグの重さだけが変わらない。

 呼吸を浅くしているはずなのに、喉は渇く。

 

 病院は眠らない。

 けれど、病院の“隙”は、深夜にだけ現れる。

 

 紗月は、耳の奥で数えた。

 

 看護師の足音が途切れる間。

 エレベーターの到着音が間延びする間。

 誰も廊下を走らず、誰も怒鳴らない、短い空白。

 

 その空白が増える頃。

 日付が変わる。

 

 ──あと少し。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 胸の奥が、ちくりと刺された。

 

 痛みではない。

 感覚だ。

 

 皮膚の内側から、極細の針で合図を送られたような──藍沢の“棘”が立った時の、独特の震え。

 

 紗月の呼吸が止まる。

 

 どの棘だ。

 

 彼女はすぐに目を閉じた。

 棘の配置を頭の中で並べる。

 角の内側。非常口。エレベーター前。ナースステーション手前。分岐。

 

 反応は、一本。

 

 距離感。

 震えの強さ。

 方向──

 

 エレベーター前。

 

 ──来た。

 

 思考より先に、身体が動いた。

 

 紗月は踊り場の壁から背を剥がし、非常口の扉へ滑った。金属のバーに掌を添える。押し込む力は最小。蝶番の鳴き声を、指先で押さえ殺す。

 

 扉の隙間から漏れる廊下の光が、刃みたいに細い。

 

 棘の震えが、まだ続いている。

 

 “敵意”──。

 

 紗月は息を吸わずに、扉を開けた。

 

 次の瞬間、走った。

 

 身体強化。

 藍沢の、最短距離。

 

 筋肉が締まり、骨の遊びが消える。床が柔らかく感じるほど、足裏の感覚が研ぎ澄まされる。蹴り出しは短く、着地は浅く──それでも速い。

 

 角。

 

 廊下の端に置かれた点滴スタンドの影が、伸びている。

 誰もいない。誰も気づかない。気づかれてはならない。

 

 紗月は壁際を切り、エレベーター前の通路へ飛び込んだ。

 

 そこで、棘の震えが──最高潮に達した。

 

 そして、急に、途切れた。

 

「……?」

 

 反応が消えた。

 ということは、敵意が離れたか、消えたか、あるいは──棘の“判定”が終わったか。

 

 紗月は、足を止めた。

 

 エレベーターホールは、妙に静かだった。

 ボタンのランプは消え、扉は閉じている。天井の非常灯が白い床を薄く照らし、影がくっきり落ちている。

 

 その影の中に──人がいた。

 

 入院着の男が、倒れている。

 

 横向きに崩れ、片腕が床に伸び、もう片方が腹のあたりで固く曲がっている。スリッパが片方だけ脱げ、足先が変に捩れている。

 

 紗月の喉が、乾いた。

 

 近づく。

 一歩ごとに、周囲の気配を探る。

 

 ──いない。

 

 紗月は男の傍まで膝を落とした。床に触れる前に、指先で空気をなぞる。魔力の残滓。術式の臭い。殺意の余韻。

 

 ……何もない。

 

 代わりに、男の額の熱だけが、距離越しに分かる。

 汗が浮き、頬が赤い。口元が震え、かすかな呼吸が漏れている。

 

「……患者?」

 

 声は出さない。

 口の中で形だけ作る。

 

 ……棘が、誤作動した。

 

 紗月はそう結論づけた。

 

 病院の中は、恐怖と焦燥と痛みで満ちている。敵意と見分けがつかない“濃さ”が、空気に沈んでいる。いくら藍沢の棘が「敵意だけ」を拾うよう作ってあっても、今夜は条件が悪すぎる。

 

 倒れているのは、ただの患者だ。

 高熱と倦怠感で立てず、夜中にトイレでも探して──力尽きた。

 

 そういうことだ。

 

 紗月は男の肩に手を伸ばし、力を込めないように揺すった。

 

「……大丈夫ですか。聞こえますか」

 

 声は、息に近い。

 廊下に響かせないための、薄い音。

 

 男の身体は熱を持っていた。入院着の布越しでも分かる。汗で湿って、冷えた床に貼りついている。

 

 紗月は男の脇に腕を入れ、上体を起こす補助をする。

 

 重い。

 熱に浮かされた身体は、妙にだるく、素直に動かない。

 

「今、看護師の方を呼んでくるので──」

 

 言いかけたところで。

 

 男の顔が、非常灯の光を拾った。

 

 瞼が、薄く開く。

 

 その瞬間、紗月の背中を冷たいものが走った。

 

 目が。

 

 血のように赤い。

 

 ただ充血しているとか、熱で潤んでいるとか、そういう赤ではない。

 白目が染まっているのでもない。

 瞳孔の奥から、赤が“発光”しているみたいに──均一で、濃く、濡れている。

 

 紗月の指が、止まる。

 

 男の喉が、かすかに鳴った。

 

「……ゥ……」

 

 息の漏れ方が違う。

 咳でも、呻きでもない。

 

 唸りだ。

 

 紗月は反射的に、男の口元を見る。

 

 唇が震え、歯が見えた。

 

 犬歯が。

 

 鋭い。

 

 不自然に長い。尖っている。人間の口の中にあるには、明らかに異物の形だ。

 

 紗月の鼓動が、一拍遅れて跳ね上がる。

 

 棘は誤作動なんて起こしていなかった。

 

「──っ!」

 

 紗月が戦闘態勢を取るよりも早く、男が動いた。

 

 倒れていたはずの身体が、床を蹴る音すら立てずに跳ね起きる。入院着の布が擦れる微かな音だけが遅れて届いた。関節のきしみも、呼吸の乱れもない。熱で重かったはずの肉体が、別の重さに置き換わったみたいに軽い。

 

 赤い瞳が、一直線に紗月を射抜く。

 

 唸りが、喉の奥で途切れた。

 

 次の瞬間。

 

 紗月の視界が、横に流れる。

 

 首。

 

 ──掴まれた。

 

 指の感触が皮膚を押し潰す。熱い掌。爪が食い込み、気道の横を圧迫する。力の方向が正確すぎて、呼吸の逃げ道が一瞬で塞がれた。

 

「……っ」

 

 声が出ない。

 

 足が床を探す。だが、足裏が滑る。身体強化を入れる暇がない。入れても間に合ったかどうか分からない速度だ。

 

 背中が、壁にぶつかった。

 

 鈍い衝撃。

 

 肩甲骨のあたりが冷たい壁に叩きつけられ、肺の空気が押し出される。頭がわずかに揺れて、非常灯の光が滲む。

 

 男の腕は伸びきっていない。

 伸びきる前で止めている。

 

 ──押し当てるために。

 

 紗月の喉仏の横が、さらに締まった。血管が脈打つ感覚が、指の圧の下で歪む。耳の奥がじわりと鳴り、視界の縁が暗くなる。

 

 男の顔が近い。

 

 血の赤い瞳。

 濡れた唇。

 覗く鋭い犬歯。

 

 獣の匂いがした。汗と消毒液と、鉄みたいな生臭さが混ざる。

 

 男は笑わない。

 言葉もない。

 

 ただ、唸りだけが──喉の奥で微かに震えていた。

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