「──っ、ぐ……!」
喉が締まって、息が割れた。
視界の端が暗くなる前に、紗月は魔術回路を起動する。
身体強化。
藍沢の、最小で最大の切り替え。
筋が締まり、指先に血が集まる感覚が一気に戻る。壁に押し当てられた背中の痛みが、遅れて輪郭を持った。
掴まれている首──ではない。
掴んでいる腕。
紗月は、喉元に食い込む手を避けるように顎を引き、両手で男の手首を捕まえた。掌の下で、骨と腱の形がはっきり分かる。
「手を、離せ」
手首を、捻る。
ただの力任せじゃない。関節の逃げ道を潰す角度を選び、そこに握力を乗せる。
骨が。
内側で、乾いた音を立てた気がした。
男の指が、喉から外れる。
押さえつけていた圧が、途切れる。
「──っ、ゥ、ゥゥ……!」
叫びではない。
怒りと痛みを混ぜた獣の鳴き声が、喉の奥から漏れた。
紗月は壁から身体を剥がし、そのまま男の胸を蹴った。
短く、深く。
靴底が布を押し潰し、空気が抜ける音がした。
男の身体が後ろへ飛ぶ。エレベーターホールの白い床を滑り、壁に肩をぶつけて止まる。倒れはしない。すぐに四肢が床を掴む。
紗月は一歩も追わない。
距離を取る。
息を吸う。二度、浅く。
喉の内側が焼けている。指の形が残るような圧痛がある。それでも、呼吸はできる。
紗月は視線を外さずに、半歩だけ横へ移動した。背後を壁にしない位置。退路を作る位置。人が来たときに、影に溶けられる位置。
改めて、男を見る。
入院着は乱れ、片方のスリッパがどこかへ飛んでいる。肩で息をしていない。苦しげな呼吸音はない。
右手──紗月が捻った方──が、だらりと下がっている。
指先が痙攣するように動く。
それでも、痛みを堪える“人間”の仕草がない。
赤い目が、紗月だけを見ている。
獲物を見る目だ。
熱に浮かされた患者の、焦点の合わない目ではない。
口元がわずかに開いて、犬歯が覗く。
唸りが、床を這うように響く。
──感染。
──変異。
──あるいは、術。
どれでもいい。
重要なのは。
棘が、これを“敵意”として拾ったこと。
男の脚が、床を強く蹴った。
跳躍。
踏み切りの音すらない。視線が、一直線に紗月へ向く。折れたはずの手首を庇う素振りもなく、獣の速度だけが前に出る。
──来る。
紗月が重心を落とし、迎撃のために踏み出そうとした、その瞬間だった。
空気が、切り替わった。
音が、消えたわけではない。
ただ、男の動きだけが、途中で“止められた”。
影が、男の背後から伸びる。
古びた忍び装束。
夜の底を縫い取ったような輪郭。
次の瞬間、男の首に細い腕が絡みつき、同時に脚が払われた。体重移動の途中を奪われ、前に跳ぶ力がそのまま床へ叩き落とされる。
──ドン、という音すら立たない。
男の身体が床に伏せられ、肩甲骨の上に膝が落ちる。脊椎の動きを完全に殺す位置。折れた手首を避けるように、反対側の腕が極められ、関節が限界まで引き上げられる。
「──ゥ、ゥゥ……!」
唸りが、苦鳴に変わる。
だが、噛みつこうとした首は、すでに固定されていた。顎の下に布越しの刃が添えられ、皮膚に触れない距離で止まっている。
紗月は、一瞬遅れて息を吐いた。
影は、ゆっくりと形を持つ。
軋む義手には日本刀が握られていた。
煤けたような髪は一房のみ白く染まり、非常灯の下で淡く光る。
藍沢紗月のサーヴァント。
──アサシン。
彼は男を床に縫い止めたまま、紗月の方を見た。視線は静かで、声は低い。
「……申し訳ありません」
男の抵抗に合わせて、膝の位置を微調整する。力は加えない。ただ、逃げ道を消す。
「介入が遅れてしまいました」
謝罪だった。
言い訳の余地を残さない、簡潔な言い方。
「いいよ、大丈夫。ありがとう」
男が再び唸る。
赤い目が、なおも紗月を追おうとする。
アサシンの指が、わずかに締まった。
唸りが、喉の奥で途切れる。
「マスター、この者は如何様に」
紗月は、男から視線を外さずに一歩近づいた。
赤い瞳はまだ生きている。唸りは途切れても、胸の奥で暴れる衝動が残っているのが分かる。殺意ではない。制御を失った攻撃性──噴き上がったまま、行き場を失っている。
「……待って」
低く、はっきりと言った。
アサシンの指先が止まる。刃の位置は変えないが、力だけが抜ける。
紗月は男を見下ろしながら、短く息を整えた。
「こいつは──敵じゃない。少なくとも、最初からは」
赤い目が、ぎょろりと動く。意味を理解している様子はない。ただ刺激に反応しているだけだ。
「一般人。多分、何かしらの方法で凶暴化してる。感染か、薬か、術か……原因は分からないけど」
一拍置く。
「殺さないで、拘束だけでいい」
アサシンは一瞬、紗月の顔を見た。
次いで、静かに頷く。
「……承知しました、マスター」
刃が引かれる。
代わりに、動きが変わった。
アサシンは男の背後へ回り込み、首を極める位置をずらす。意識を落とすほど締めない。暴れる力だけを削ぐ角度。義手ではない方の手で、男の顎を押さえ、噛みつく距離を完全に消す。
男が暴れる。
喉の奥から、詰まった叫びが漏れた。
「──ゥゥッ!!」
だが、すぐに布がかぶせられた。
どこから取り出したのか、古いシーツを裂いたような白布だ。アサシンの動きは早く、音がない。
まず、口。
歯列を押さえ込むように布を噛ませ、後頭部で固く結ぶ。唸りが、くぐもった音に変わる。
次に、手首。
折れた方を避け、反対側から手首を重ね、肘ごと縛る。結び目は関節の可動域を完全に殺す位置。力任せではない、慣れた拘束だ。
脚も同様だった。
足首を交差させ、布を回し、膝の動きを制限する。暴れるたびに布が軋むが、ほどける気配はない。
数秒後。
男は床の上で、芋虫のように身をよじらせるだけの存在になっていた。
アサシンは男の襟を掴み、通路の端へ引きずる。エレベーターホールの死角。非常灯の光が届きにくい壁際。
乱暴に見えない程度の力で、転がす。
男はなおも唸るが、動けない。赤い目だけが、周囲を探すように忙しなく動いている。
「私は病室に戻る、アサシンは病院の周囲を──」
──そのときだった。
紗月の胸の奥で、嫌な感覚が弾けた。
ちくり、ではない。
一本ではない。
ざわりとした波が、同時に走る。
「……っ」
思考より先に、顔が上がる。
皮膚の内側を引っ掻かれるような感覚。
藍沢の“棘”が──一斉に鳴っている。
一本ずつではない。
点で、線で、面で。
角の内側。
非常口。
エレベーター前。
ナースステーション手前。
病室フロアへの分岐。
仕込んだ場所すべてが、同時に反応している。
「……嘘」
紗月の喉が、ひくりと鳴った。
敵意の“量”が違う。
さっきの患者ひとり分じゃない。
複数。
しかも、動いている。
通路の向こう。
階段の上下。
まだ見えていない場所からも、震えが重なってくる。
棘が、悲鳴みたいに立ち上がっている。
本格的な敵襲が始まった。
そう判断するのに、理由は十分すぎるほど揃っていた。
棘の反応は減らない。
散発ではなく、波のように押し寄せている。
敵意が、意図を持って病室フロアへ向かっている。
「……アサシン」
紗月は走り出しながら、短く呼んだ。
影が、すでに彼女の背後に重なっている。
「病室に戻る。対処はさっきと同じ、一般人なら無力化だけ」
「承知」
それだけで通じた。
病室の入口が見える。
カーテンが半分だけ開き、内側の光が廊下に漏れている。
──嫌な予感が、確信に変わる。
紗月は勢いを殺さず、カーテンを一気に引いた。
中は、乱れていた。
隣のベッドが空になっている。
点滴スタンドが倒れ、管が床を引きずっている。
誰かが無理に立ち上がった痕跡。
そして──
「ばあちゃん!」
祖母のベッドは、まだそこにあった。
酸素マスク。
点滴。
高熱に浮かされたままの顔。
だが、カーテンの向こう側。
赤い目が、二つ。
立ち上がりきれない患者が、ベッドの縁に手を掛けている。
唸り声が喉の奥で絡まり、歯が噛み合わない音を立てていた。
紗月は、即座に祖母の前へ出る。
背中で、完全に庇う位置。
「一度だけ警告する。それ以上近付くな」
警告は、届かなかった。
赤い目が、ぎょろりと動く。
意味を測る前に、身体が反応する。
患者はベッドの縁を蹴り、獣じみた勢いで跳びかかってきた。
──速い。
だが、紗月の方が半拍早い。
踏み込む。
床が軋む前に距離を詰め、真正面から受け止めない。肩線をずらし、突進の力を斜めに流す。
肘。
喉ではない。鎖骨の下。
人間の構造として“動けなくなる”位置。
鈍い衝撃が伝わり、患者の身体がよろける。
紗月はそのまま背後へ回り込み、首に腕を回した。
締めない。落とさない。
重心だけを奪う。
「──ゥ、ゥゥッ!!」
暴れる。
腕が振り回され、指が空を掻く。
だが、もう遅い。
紗月は患者の脚を払って床に倒し、そのまま膝で腰を押さえた。ベッド脇に垂れていたシーツを掴み、引き抜く。
裂く。
迷いなく、必要な長さだけ。
まず、口。
噛みつく前に、布を押し込み、後頭部で固く結ぶ。唸りが、くぐもった音に変わる。
次に、手首。
両腕を背中側で揃え、肘ごと縛る。力でなく、角度で動きを殺す結び。
脚。
足首を交差させ、膝が開かないように回す。
患者は床の上で身をよじるが、起き上がれない。
赤い目だけが、紗月を睨みつけている。
紗月は、深く息を吐いた。
──一人、制圧。
その瞬間。
病室の外から、布が床に引きずられる音が、短く三度続いた。
ごとり。
ごとり。
ごとり。
紗月が顔を上げる。
カーテンの向こう。
廊下の非常灯の下に、縛られた人影が三つ転がされていた。
いずれも入院着。
口と手足を拘束され、呻き声だけが低く漏れている。
その背後。
影が、音もなく立ち上がる。
「……マスター、三名制圧。しかし、囲まれつつあります」
紗月は一瞬、目を閉じた。
最悪の想定が、現実になりつつある。
「ありがとう。助かった」
そう言ってから、すぐに指示を続ける。
「この病室を最優先で守る。ここから先は、一人も通さない」
「承知」
アサシンは影の位置を変え、入口と廊下を同時に監視できる場所へ移る。
紗月は祖母のベッドに手を添え、もう一度、周囲を見渡した。
縛られた患者。
倒れた点滴スタンド。
鳴り続ける、棘の感覚。
本格的な敵襲は、もう始まっている。
祖母のベッド脇にあるナースコールを一瞥した。
白いコード、赤いボタン。
棘は鳴っている。
廊下の向こうで、敵意が動いている。
ここで人を呼べば、状況が改善するとは限らない。
それでも。
「……」
紗月は悩みつつもナースコールを押した。
──ピッ。
小さな電子音。
待つ。
一拍。
二拍。
何も起きない。
廊下の足音も増えない。
無線の声も聞こえない。
カーテンの外の空気は、変わらない。
「……やっぱり駄目か」
呼び出し音も、応答もない。
ランプは点いたまま、誰も来ない。
病院全体が既に暴れる患者によって限界を迎えていた。
ナースコールが機能していない可能性は、十分にある。
棘の震えが、また一段強くなる。
考えている時間はない。
紗月は、祖母のベッドから半歩下がり、ポケットから携帯を取り出した。
──110。
発信音。
数秒後、通話が繋がった。
『はい、110番です。事件ですか、事故ですか』
事務的な声。
疲労はあるが、まだ“平常”の調子。
「事件です。病院で……人が暴れています」
一息で言う。
余計な装飾は入れない。
「患者が、複数。突然凶暴化して、噛みつこうとしてきます。目が……赤くて」
一瞬、間が空いた。
『……病院名と場所を教えてください』
紗月は即座に答える。
病院名。
階。
病室番号。
『怪我人はいますか』
「分かりません」
嘘ではなかった。
この病院のどこで、誰が倒れているのか──把握できる状況じゃない。
『……ええと、いまのところ、あなたご自身は怪我を?』
「私は大丈夫です。でも、このままだと──」
言いかけて、歯を食いしばる。
“このままだと”の先が、通じない。
通じたとしても、信じてもらえない。
だから言い方を変える。
「とにかく、人を送ってください。今すぐ。お願いします」
──その言葉を口にしようとした瞬間。
床を転がしていた、縛り上げた患者のひとりが。
ぴくり、と跳ねた。
最初は痙攣だと思った。
縛られて、酸欠で、興奮して──そういう反応に見えた。
でも違う。
次の瞬間、身体が大きく反り返る。
「──ゥゥゥッ、ぐ、が……!」
口を塞いでいた布の隙間から、潰れた声が漏れた。
呻きじゃない。
内側から押し上げるような、苦鳴。
紗月の背筋が凍る。
皮膚の下で、何かが動いている。
筋肉が盛り上がる。
肩が、背中が、胸郭が──風船みたいに膨らんでいく。
「……なに、これ」
縛っていたシーツが、ぱつん、と音を立てた。
伸びる。
耐える。
それでも追いつかない。
患者の指が、痙攣するように開く。
爪が。
伸びた。
薄い爪が割れ、黒く硬い爪がその下から押し出される。獣の鉤爪みたいに、湾曲して光る。
同時に、口元。
布の奥で歯がぶつかる音がした。
噛み合わせが変わる。
顎が、きしむ。
犬歯が──いや、牙が、布を内側から突き上げた。
「……っ!」
アサシンが一歩前に出る。
だが、遅い。
患者の皮膚に、黒い点が走る。
毛穴から、針みたいな体毛が一斉に生え始める。腕、首、頬、胸元。黒い毛が濡れたように光り、数秒で“毛皮”に近い密度へ変わった。
膨張は止まらない。
肋が押し広げられる。
服が裂ける。
入院着が、紙みたいに破れる。
──バリッ。
シーツが、引きちぎられた。
結び目が解けたのではない。
布そのものが、力で裂けた。
『もしもし? 聞こえますか?』
携帯の向こうで、警察官の声が響く。
紗月は、返そうとした。
「いま──」
言葉が途切れた。
患者が、跳ね起きる。
縛られていたはずの身体が、床を蹴って跳ぶ。
影が膨らんで、紗月にかぶさる。
早い。
さっきより、さらに。
「──っ、マスター!」
アサシンの声が、刃のように短い。
だが、患者の腕が先だった。
黒い体毛に覆われた腕が、横薙ぎに振られる。
狙いは首じゃない。
手の中の──携帯。
叩き落とされる。
──ガンッ。
硬い音。
携帯が床に跳ね、滑り、ベッドの脚にぶつかって止まる。
『……もしもし? 応答してください。もしもし?』
スピーカーから、まだ声は出ている。
だが紗月の手は空だ。
通話は、次の衝撃で完全に切れた。
患者の踵が携帯を踏み、画面がひび割れる。
ぷつり。
音が消えた。
紗月は、歯を食いしばる。
通信が途切れたことより。
目の前の“それ”が──もう、一般人の形を保っていないことが、致命的だった。
黒い毛。
牙。
爪。
膨張した筋肉。
赤い目が、獲物を見る目で紗月を捉える。
唸りが、布越しではなく、むき出しの喉から低く漏れた。
唸りが、床を這って、祖母のベッドの脚を震わせた。
紗月は半歩だけ下がる。
背中は祖母に向けない。視線も切らない。
呼吸を整えようとして、舌の裏が乾いているのに気づいた。
──一体だけじゃない。
それは、音で分かった。
カーテンの外。
廊下側から、布が擦れる音がした。
アサシンが縛り上げ、転がしておいた三人。
そのうちの一人が、低く呻いた。
「……ゥ、ゥゥ……」
くぐもった声じゃない。
口を塞いでいたはずなのに、声が抜けている。
紗月の皮膚の内側が、また嫌にざわついた。
棘の反応とは違う。もっと生理的な、警戒の本能。
カーテン越しに、何かが膨らむ影が見えた。
──ぼこり。
肩の位置が上がる。
首が太くなる。
人間の輪郭が、別の形に押し出されていく。
次に、もう一つ。
──ぼこり、ぼこり。
床に転がしていたはずの人影が、硬く跳ねる。
縛り目が食い込み、布が伸び、皮膚の下で筋が暴れる。
そして。
裂ける音が、続いた。
バリッ。
バリバリッ。
結び目が解けたんじゃない。
布の方が負けている。
くぐもった咆哮が、カーテンを震わせた。
紗月の喉が、微かに鳴る。
──同じ現象。
しかも、複数。
同期している。合図でもあるみたいに。
目の前の一体が、赤い目を細めた。
祖母ではなく、紗月を見ている。
紗月は、冷静に数を数えた。
病室内に一体。
廊下に三体──いや、更に多くの気配が混じっている。棘の反応が、分岐の先でも跳ねた。
汗が、背中にじわりと浮いた。
身体強化の熱とは別の汗だ。
冷たい。
──戦力差。
さっきまでの“凶暴化した一般人”なら、拘束で済んだ。
骨格も筋量も、人間の範囲だった。
でも、今の膨張と速度。
爪と牙。
動きの精度。
紗月は自分の内側で、藍沢の強化がどこまで押し上げているかを測る。
骨の遊びを消し、筋肉の収縮を最短にして、反応を鋭くする。
──その域に。
この獣は、届いている。
魔術で強化した自分に匹敵する。
一体ずつなら、勝てる。
けれど、同時に来れば──守りながらは、危ない。
「マスター、これはもはや非殺とはいきませぬ」
アサシンの右手が背中へ伸びた。
背負った刀に指が触れる。
抜けば終わる。
それが“手段”として最も確実だと、彼は判断した。
紗月の胸がひやりとした。
「──駄目!」
声が、思ったより大きく出た。
獣の唸りに負けないように、ではない。
自分の中の焦りを押し殺すために、強く言うしかなかった。
アサシンの手が、柄に触れる寸前で止まる。
振り向かない。
それでも、止まった。
紗月は祖母のベッドの縁を指先で掴み、震えを隠した。
酸素マスクの規則的な音が、ここだけ別世界みたいに続いている。
紗月は息を吸い、短く命令に変えた。
「撤退。いったんこの場を離れる」
アサシンの動きが止まったまま、空気が張り付く。
彼の視線が、廊下の奥へ向く。
獣の気配が増えている。裂ける音が重なっている。
拘束に使った布が、次々と“意味を失って”いく。
無傷の捕縛は、もう成立しない。
それを、アサシンも理解している。
「承知。マスター、祖母君を」
「ばあちゃんは私が抱える。アサシン、注意を引き付けて」
言い終える前に、獣が動いた。
床を蹴る音は遅れて聞こえた。
影だけが先に跳び、黒い毛皮が非常灯の光を裂く。
紗月は祖母を抱えたまま、重心を落とす。
避ける角度を選ぶ暇はない。背中を見せれば終わる。
その瞬間。
アサシンが、義手を確かめるように握り込んだ。
軋む金属の中で──乾いた“噛み合い”が鳴る。
義手の甲が、わずかに開いた。
指の付け根でも、掌でもない。機構そのものが、内側で切り替わる音。
次いで。
アサシンは、義手を大きく振った。
放たれたのは刃ではない。
小さな塊が、無数に散った。
床へ、壁へ、天井の角へ。まるで豆を撒くみたいに、周囲へばら撒かれる。
同時にアサシンが紗月の肩を引き、顔を伏せさせた。
病室の空気が、息を吸ったみたいに静まって。
次の瞬間。
けたたましい爆裂音が、同時に弾けた。
耳の奥を直接叩くような、裂ける音の連打。
白い閃光が、点ではなく面になって走る。
視界が一瞬、真っ白に潰れた。
煙が噴く。
焦げた匂いと火薬の刺激が、喉の粘膜を刺す。
獣が、止まった。
耳を塞ぐ仕草ができない代わりに、頭を振る。
視覚を失い、嗅覚を焼かれ、平衡感覚が崩れる。
赤い目が、焦点を失ったまま宙を泳いだ。
牙が空を噛む。
爪が床を引っ掻き、位置を確かめようとするが、光と音と煙がそれを許さない。
廊下の方でも、同じ反応が返ってきた。
吠え声が、悲鳴に近いものへ変わる。
壁に体当たりする鈍い衝撃。
互いを獲物と誤認したのか、黒い影同士がぶつかり合う音。
アサシンの声が、煙の向こうから落ちた。
「今のうちに、何度も通用するものではありません」
紗月は祖母を抱え直し、息を殺して廊下へ踏み出した。