Fate/You Died.   作:助兵衛

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第41話 獣の病棟

「──っ、ぐ……!」

 

 喉が締まって、息が割れた。

 

 視界の端が暗くなる前に、紗月は魔術回路を起動する。

 

 身体強化。

 

 藍沢の、最小で最大の切り替え。

 

 筋が締まり、指先に血が集まる感覚が一気に戻る。壁に押し当てられた背中の痛みが、遅れて輪郭を持った。

 

 掴まれている首──ではない。

 

 掴んでいる腕。

 

 紗月は、喉元に食い込む手を避けるように顎を引き、両手で男の手首を捕まえた。掌の下で、骨と腱の形がはっきり分かる。

 

「手を、離せ」

 

 手首を、捻る。

 

 ただの力任せじゃない。関節の逃げ道を潰す角度を選び、そこに握力を乗せる。

 

 骨が。

 

 内側で、乾いた音を立てた気がした。

 

 男の指が、喉から外れる。

 

 押さえつけていた圧が、途切れる。

 

「──っ、ゥ、ゥゥ……!」

 

 叫びではない。

 怒りと痛みを混ぜた獣の鳴き声が、喉の奥から漏れた。

 

 紗月は壁から身体を剥がし、そのまま男の胸を蹴った。

 

 短く、深く。

 

 靴底が布を押し潰し、空気が抜ける音がした。

 

 男の身体が後ろへ飛ぶ。エレベーターホールの白い床を滑り、壁に肩をぶつけて止まる。倒れはしない。すぐに四肢が床を掴む。

 

 紗月は一歩も追わない。

 

 距離を取る。

 

 息を吸う。二度、浅く。

 

 喉の内側が焼けている。指の形が残るような圧痛がある。それでも、呼吸はできる。

 

 紗月は視線を外さずに、半歩だけ横へ移動した。背後を壁にしない位置。退路を作る位置。人が来たときに、影に溶けられる位置。

 

 改めて、男を見る。

 

 入院着は乱れ、片方のスリッパがどこかへ飛んでいる。肩で息をしていない。苦しげな呼吸音はない。

 

 右手──紗月が捻った方──が、だらりと下がっている。

 

 指先が痙攣するように動く。

 

 それでも、痛みを堪える“人間”の仕草がない。

 

 赤い目が、紗月だけを見ている。

 

 獲物を見る目だ。

 熱に浮かされた患者の、焦点の合わない目ではない。

 

 口元がわずかに開いて、犬歯が覗く。

 唸りが、床を這うように響く。

 

 ──感染。

 ──変異。

 ──あるいは、術。

 

 どれでもいい。

 

 重要なのは。

 

 棘が、これを“敵意”として拾ったこと。

 

 男の脚が、床を強く蹴った。

 

 跳躍。

 

 踏み切りの音すらない。視線が、一直線に紗月へ向く。折れたはずの手首を庇う素振りもなく、獣の速度だけが前に出る。

 

 ──来る。

 

 紗月が重心を落とし、迎撃のために踏み出そうとした、その瞬間だった。

 

 空気が、切り替わった。

 

 音が、消えたわけではない。

 ただ、男の動きだけが、途中で“止められた”。

 

 影が、男の背後から伸びる。

 

 古びた忍び装束。

 夜の底を縫い取ったような輪郭。

 

 次の瞬間、男の首に細い腕が絡みつき、同時に脚が払われた。体重移動の途中を奪われ、前に跳ぶ力がそのまま床へ叩き落とされる。

 

 ──ドン、という音すら立たない。

 

 男の身体が床に伏せられ、肩甲骨の上に膝が落ちる。脊椎の動きを完全に殺す位置。折れた手首を避けるように、反対側の腕が極められ、関節が限界まで引き上げられる。

 

「──ゥ、ゥゥ……!」

 

 唸りが、苦鳴に変わる。

 

 だが、噛みつこうとした首は、すでに固定されていた。顎の下に布越しの刃が添えられ、皮膚に触れない距離で止まっている。

 

 紗月は、一瞬遅れて息を吐いた。

 

 影は、ゆっくりと形を持つ。

 

 軋む義手には日本刀が握られていた。

 煤けたような髪は一房のみ白く染まり、非常灯の下で淡く光る。

 

 藍沢紗月のサーヴァント。

 

 ──アサシン。

 

 彼は男を床に縫い止めたまま、紗月の方を見た。視線は静かで、声は低い。

 

「……申し訳ありません」

 

 男の抵抗に合わせて、膝の位置を微調整する。力は加えない。ただ、逃げ道を消す。

 

「介入が遅れてしまいました」

 

 謝罪だった。

 言い訳の余地を残さない、簡潔な言い方。

 

「いいよ、大丈夫。ありがとう」

 

 男が再び唸る。

 赤い目が、なおも紗月を追おうとする。

 

 アサシンの指が、わずかに締まった。

 

 唸りが、喉の奥で途切れる。

 

「マスター、この者は如何様に」

 

 紗月は、男から視線を外さずに一歩近づいた。

 

 赤い瞳はまだ生きている。唸りは途切れても、胸の奥で暴れる衝動が残っているのが分かる。殺意ではない。制御を失った攻撃性──噴き上がったまま、行き場を失っている。

 

「……待って」

 

 低く、はっきりと言った。

 

 アサシンの指先が止まる。刃の位置は変えないが、力だけが抜ける。

 

 紗月は男を見下ろしながら、短く息を整えた。

 

「こいつは──敵じゃない。少なくとも、最初からは」

 

 赤い目が、ぎょろりと動く。意味を理解している様子はない。ただ刺激に反応しているだけだ。

 

「一般人。多分、何かしらの方法で凶暴化してる。感染か、薬か、術か……原因は分からないけど」

 

 一拍置く。

 

「殺さないで、拘束だけでいい」

 

 アサシンは一瞬、紗月の顔を見た。

 次いで、静かに頷く。

 

「……承知しました、マスター」

 

 刃が引かれる。

 代わりに、動きが変わった。

 

 アサシンは男の背後へ回り込み、首を極める位置をずらす。意識を落とすほど締めない。暴れる力だけを削ぐ角度。義手ではない方の手で、男の顎を押さえ、噛みつく距離を完全に消す。

 

 男が暴れる。

 喉の奥から、詰まった叫びが漏れた。

 

「──ゥゥッ!!」

 

 だが、すぐに布がかぶせられた。

 

 どこから取り出したのか、古いシーツを裂いたような白布だ。アサシンの動きは早く、音がない。

 

 まず、口。

 

 歯列を押さえ込むように布を噛ませ、後頭部で固く結ぶ。唸りが、くぐもった音に変わる。

 

 次に、手首。

 

 折れた方を避け、反対側から手首を重ね、肘ごと縛る。結び目は関節の可動域を完全に殺す位置。力任せではない、慣れた拘束だ。

 

 脚も同様だった。

 

 足首を交差させ、布を回し、膝の動きを制限する。暴れるたびに布が軋むが、ほどける気配はない。

 

 数秒後。

 

 男は床の上で、芋虫のように身をよじらせるだけの存在になっていた。

 

 アサシンは男の襟を掴み、通路の端へ引きずる。エレベーターホールの死角。非常灯の光が届きにくい壁際。

 

 乱暴に見えない程度の力で、転がす。

 

 男はなおも唸るが、動けない。赤い目だけが、周囲を探すように忙しなく動いている。

 

「私は病室に戻る、アサシンは病院の周囲を──」

 

 ──そのときだった。

 

 紗月の胸の奥で、嫌な感覚が弾けた。

 

 ちくり、ではない。

 一本ではない。

 

 ざわりとした波が、同時に走る。

 

「……っ」

 

 思考より先に、顔が上がる。

 

 皮膚の内側を引っ掻かれるような感覚。

 藍沢の“棘”が──一斉に鳴っている。

 

 一本ずつではない。

 点で、線で、面で。

 

 角の内側。

 非常口。

 エレベーター前。

 ナースステーション手前。

 病室フロアへの分岐。

 

 仕込んだ場所すべてが、同時に反応している。

 

「……嘘」

 

 紗月の喉が、ひくりと鳴った。

 

 敵意の“量”が違う。

 さっきの患者ひとり分じゃない。

 

 複数。

 しかも、動いている。

 

 通路の向こう。

 階段の上下。

 まだ見えていない場所からも、震えが重なってくる。

 

 棘が、悲鳴みたいに立ち上がっている。

 

 本格的な敵襲が始まった。

 

 そう判断するのに、理由は十分すぎるほど揃っていた。

 

 棘の反応は減らない。

 散発ではなく、波のように押し寄せている。

 敵意が、意図を持って病室フロアへ向かっている。

 

「……アサシン」

 

 紗月は走り出しながら、短く呼んだ。

 

 影が、すでに彼女の背後に重なっている。

 

「病室に戻る。対処はさっきと同じ、一般人なら無力化だけ」

 

「承知」

 

 それだけで通じた。

 

 病室の入口が見える。

 カーテンが半分だけ開き、内側の光が廊下に漏れている。

 

 ──嫌な予感が、確信に変わる。

 

 紗月は勢いを殺さず、カーテンを一気に引いた。

 

 中は、乱れていた。

 

 隣のベッドが空になっている。

 点滴スタンドが倒れ、管が床を引きずっている。

 誰かが無理に立ち上がった痕跡。

 

 そして──

 

「ばあちゃん!」

 

 祖母のベッドは、まだそこにあった。

 

 酸素マスク。

 点滴。

 高熱に浮かされたままの顔。

 

 だが、カーテンの向こう側。

 

 赤い目が、二つ。

 

 立ち上がりきれない患者が、ベッドの縁に手を掛けている。

 唸り声が喉の奥で絡まり、歯が噛み合わない音を立てていた。

 

 紗月は、即座に祖母の前へ出る。

 

 背中で、完全に庇う位置。

 

「一度だけ警告する。それ以上近付くな」

 

 警告は、届かなかった。

 

 赤い目が、ぎょろりと動く。

 意味を測る前に、身体が反応する。

 

 患者はベッドの縁を蹴り、獣じみた勢いで跳びかかってきた。

 

 ──速い。

 

 だが、紗月の方が半拍早い。

 

 踏み込む。

 床が軋む前に距離を詰め、真正面から受け止めない。肩線をずらし、突進の力を斜めに流す。

 

 肘。

 

 喉ではない。鎖骨の下。

 人間の構造として“動けなくなる”位置。

 

 鈍い衝撃が伝わり、患者の身体がよろける。

 

 紗月はそのまま背後へ回り込み、首に腕を回した。

 締めない。落とさない。

 

 重心だけを奪う。

 

「──ゥ、ゥゥッ!!」

 

 暴れる。

 腕が振り回され、指が空を掻く。

 

 だが、もう遅い。

 

 紗月は患者の脚を払って床に倒し、そのまま膝で腰を押さえた。ベッド脇に垂れていたシーツを掴み、引き抜く。

 

 裂く。

 迷いなく、必要な長さだけ。

 

 まず、口。

 

 噛みつく前に、布を押し込み、後頭部で固く結ぶ。唸りが、くぐもった音に変わる。

 

 次に、手首。

 両腕を背中側で揃え、肘ごと縛る。力でなく、角度で動きを殺す結び。

 

 脚。

 足首を交差させ、膝が開かないように回す。

 

 患者は床の上で身をよじるが、起き上がれない。

 赤い目だけが、紗月を睨みつけている。

 

 紗月は、深く息を吐いた。

 

 ──一人、制圧。

 

 その瞬間。

 

 病室の外から、布が床に引きずられる音が、短く三度続いた。

 

 ごとり。

 ごとり。

 ごとり。

 

 紗月が顔を上げる。

 

 カーテンの向こう。

 廊下の非常灯の下に、縛られた人影が三つ転がされていた。

 

 いずれも入院着。

 口と手足を拘束され、呻き声だけが低く漏れている。

 

 その背後。

 

 影が、音もなく立ち上がる。

 

「……マスター、三名制圧。しかし、囲まれつつあります」

 

 紗月は一瞬、目を閉じた。

 

 最悪の想定が、現実になりつつある。

 

「ありがとう。助かった」

 

 そう言ってから、すぐに指示を続ける。

 

「この病室を最優先で守る。ここから先は、一人も通さない」

 

「承知」

 

 アサシンは影の位置を変え、入口と廊下を同時に監視できる場所へ移る。

 

 紗月は祖母のベッドに手を添え、もう一度、周囲を見渡した。

 

 縛られた患者。

 倒れた点滴スタンド。

 鳴り続ける、棘の感覚。

 

 本格的な敵襲は、もう始まっている。

 

 祖母のベッド脇にあるナースコールを一瞥した。

 白いコード、赤いボタン。

 

 棘は鳴っている。

 廊下の向こうで、敵意が動いている。

 ここで人を呼べば、状況が改善するとは限らない。

 

 それでも。

 

「……」

 

 紗月は悩みつつもナースコールを押した。

 

 ──ピッ。

 

 小さな電子音。

 

 待つ。

 

 一拍。

 二拍。

 

 何も起きない。

 

 廊下の足音も増えない。

 無線の声も聞こえない。

 カーテンの外の空気は、変わらない。

 

「……やっぱり駄目か」

 

 呼び出し音も、応答もない。

 ランプは点いたまま、誰も来ない。

 

 病院全体が既に暴れる患者によって限界を迎えていた。

 ナースコールが機能していない可能性は、十分にある。

 

 棘の震えが、また一段強くなる。

 

 考えている時間はない。

 

 紗月は、祖母のベッドから半歩下がり、ポケットから携帯を取り出した。

 

 ──110。

 

 発信音。

 

 数秒後、通話が繋がった。

 

『はい、110番です。事件ですか、事故ですか』

 

 事務的な声。

 疲労はあるが、まだ“平常”の調子。

 

「事件です。病院で……人が暴れています」

 

 一息で言う。

 余計な装飾は入れない。

 

「患者が、複数。突然凶暴化して、噛みつこうとしてきます。目が……赤くて」

 

 一瞬、間が空いた。

 

『……病院名と場所を教えてください』

 

 紗月は即座に答える。

 病院名。

 階。

 病室番号。

 

『怪我人はいますか』

 

「分かりません」

 

 嘘ではなかった。

 この病院のどこで、誰が倒れているのか──把握できる状況じゃない。

 

『……ええと、いまのところ、あなたご自身は怪我を?』

 

「私は大丈夫です。でも、このままだと──」

 

 言いかけて、歯を食いしばる。

 

 “このままだと”の先が、通じない。

 通じたとしても、信じてもらえない。

 

 だから言い方を変える。

 

「とにかく、人を送ってください。今すぐ。お願いします」

 

 ──その言葉を口にしようとした瞬間。

 

 床を転がしていた、縛り上げた患者のひとりが。

 

 ぴくり、と跳ねた。

 

 最初は痙攣だと思った。

 縛られて、酸欠で、興奮して──そういう反応に見えた。

 

 でも違う。

 

 次の瞬間、身体が大きく反り返る。

 

「──ゥゥゥッ、ぐ、が……!」

 

 口を塞いでいた布の隙間から、潰れた声が漏れた。

 呻きじゃない。

 内側から押し上げるような、苦鳴。

 

 紗月の背筋が凍る。

 

 皮膚の下で、何かが動いている。

 

 筋肉が盛り上がる。

 肩が、背中が、胸郭が──風船みたいに膨らんでいく。

 

「……なに、これ」

 

 縛っていたシーツが、ぱつん、と音を立てた。

 

 伸びる。

 耐える。

 それでも追いつかない。

 

 患者の指が、痙攣するように開く。

 

 爪が。

 

 伸びた。

 

 薄い爪が割れ、黒く硬い爪がその下から押し出される。獣の鉤爪みたいに、湾曲して光る。

 

 同時に、口元。

 

 布の奥で歯がぶつかる音がした。

 噛み合わせが変わる。

 顎が、きしむ。

 

 犬歯が──いや、牙が、布を内側から突き上げた。

 

「……っ!」

 

 アサシンが一歩前に出る。

 

 だが、遅い。

 

 患者の皮膚に、黒い点が走る。

 毛穴から、針みたいな体毛が一斉に生え始める。腕、首、頬、胸元。黒い毛が濡れたように光り、数秒で“毛皮”に近い密度へ変わった。

 

 膨張は止まらない。

 

 肋が押し広げられる。

 服が裂ける。

 入院着が、紙みたいに破れる。

 

 ──バリッ。

 

 シーツが、引きちぎられた。

 

 結び目が解けたのではない。

 布そのものが、力で裂けた。

 

『もしもし? 聞こえますか?』

 

 携帯の向こうで、警察官の声が響く。

 

 紗月は、返そうとした。

 

「いま──」

 

 言葉が途切れた。

 

 患者が、跳ね起きる。

 

 縛られていたはずの身体が、床を蹴って跳ぶ。

 影が膨らんで、紗月にかぶさる。

 

 早い。

 さっきより、さらに。

 

「──っ、マスター!」

 

 アサシンの声が、刃のように短い。

 

 だが、患者の腕が先だった。

 

 黒い体毛に覆われた腕が、横薙ぎに振られる。

 狙いは首じゃない。

 

 手の中の──携帯。

 

 叩き落とされる。

 

 ──ガンッ。

 

 硬い音。

 携帯が床に跳ね、滑り、ベッドの脚にぶつかって止まる。

 

『……もしもし? 応答してください。もしもし?』

 

 スピーカーから、まだ声は出ている。

 だが紗月の手は空だ。

 

 通話は、次の衝撃で完全に切れた。

 

 患者の踵が携帯を踏み、画面がひび割れる。

 

 ぷつり。

 

 音が消えた。

 

 紗月は、歯を食いしばる。

 

 通信が途切れたことより。

 

 目の前の“それ”が──もう、一般人の形を保っていないことが、致命的だった。

 

 黒い毛。

 牙。

 爪。

 膨張した筋肉。

 

 赤い目が、獲物を見る目で紗月を捉える。

 

 唸りが、布越しではなく、むき出しの喉から低く漏れた。

 

 唸りが、床を這って、祖母のベッドの脚を震わせた。

 

 紗月は半歩だけ下がる。

 背中は祖母に向けない。視線も切らない。

 

 呼吸を整えようとして、舌の裏が乾いているのに気づいた。

 

 ──一体だけじゃない。

 

 それは、音で分かった。

 

 カーテンの外。

 廊下側から、布が擦れる音がした。

 

 アサシンが縛り上げ、転がしておいた三人。

 

 そのうちの一人が、低く呻いた。

 

「……ゥ、ゥゥ……」

 

 くぐもった声じゃない。

 口を塞いでいたはずなのに、声が抜けている。

 

 紗月の皮膚の内側が、また嫌にざわついた。

 棘の反応とは違う。もっと生理的な、警戒の本能。

 

 カーテン越しに、何かが膨らむ影が見えた。

 

 ──ぼこり。

 

 肩の位置が上がる。

 首が太くなる。

 人間の輪郭が、別の形に押し出されていく。

 

 次に、もう一つ。

 

 ──ぼこり、ぼこり。

 

 床に転がしていたはずの人影が、硬く跳ねる。

 縛り目が食い込み、布が伸び、皮膚の下で筋が暴れる。

 

 そして。

 

 裂ける音が、続いた。

 

 バリッ。

 バリバリッ。

 

 結び目が解けたんじゃない。

 布の方が負けている。

 

 くぐもった咆哮が、カーテンを震わせた。

 

 紗月の喉が、微かに鳴る。

 

 ──同じ現象。

 

 しかも、複数。

 同期している。合図でもあるみたいに。

 

 目の前の一体が、赤い目を細めた。

 祖母ではなく、紗月を見ている。

 

 紗月は、冷静に数を数えた。

 

 病室内に一体。

 廊下に三体──いや、更に多くの気配が混じっている。棘の反応が、分岐の先でも跳ねた。

 

 汗が、背中にじわりと浮いた。

 

 身体強化の熱とは別の汗だ。

 冷たい。

 

 ──戦力差。

 

 さっきまでの“凶暴化した一般人”なら、拘束で済んだ。

 骨格も筋量も、人間の範囲だった。

 

 でも、今の膨張と速度。

 爪と牙。

 動きの精度。

 

 紗月は自分の内側で、藍沢の強化がどこまで押し上げているかを測る。

 骨の遊びを消し、筋肉の収縮を最短にして、反応を鋭くする。

 

 ──その域に。

 

 この獣は、届いている。

 

 魔術で強化した自分に匹敵する。

 一体ずつなら、勝てる。

 けれど、同時に来れば──守りながらは、危ない。

 

「マスター、これはもはや非殺とはいきませぬ」

 

 アサシンの右手が背中へ伸びた。

 背負った刀に指が触れる。

 

 抜けば終わる。

 それが“手段”として最も確実だと、彼は判断した。

 

 紗月の胸がひやりとした。

 

「──駄目!」

 

 声が、思ったより大きく出た。

 

 獣の唸りに負けないように、ではない。

 自分の中の焦りを押し殺すために、強く言うしかなかった。

 

 アサシンの手が、柄に触れる寸前で止まる。

 

 振り向かない。

 それでも、止まった。

 

 紗月は祖母のベッドの縁を指先で掴み、震えを隠した。

 酸素マスクの規則的な音が、ここだけ別世界みたいに続いている。

 

 紗月は息を吸い、短く命令に変えた。

 

「撤退。いったんこの場を離れる」

 

 アサシンの動きが止まったまま、空気が張り付く。

 

 彼の視線が、廊下の奥へ向く。

 獣の気配が増えている。裂ける音が重なっている。

 拘束に使った布が、次々と“意味を失って”いく。

 

 無傷の捕縛は、もう成立しない。

 

 それを、アサシンも理解している。

 

「承知。マスター、祖母君を」

 

「ばあちゃんは私が抱える。アサシン、注意を引き付けて」

 

 言い終える前に、獣が動いた。

 

 床を蹴る音は遅れて聞こえた。

 影だけが先に跳び、黒い毛皮が非常灯の光を裂く。

 

 紗月は祖母を抱えたまま、重心を落とす。

 避ける角度を選ぶ暇はない。背中を見せれば終わる。

 

 その瞬間。

 

 アサシンが、義手を確かめるように握り込んだ。

 

 軋む金属の中で──乾いた“噛み合い”が鳴る。

 

 義手の甲が、わずかに開いた。

 指の付け根でも、掌でもない。機構そのものが、内側で切り替わる音。

 

 次いで。

 

 アサシンは、義手を大きく振った。

 

 放たれたのは刃ではない。

 

 小さな塊が、無数に散った。

 床へ、壁へ、天井の角へ。まるで豆を撒くみたいに、周囲へばら撒かれる。

 同時にアサシンが紗月の肩を引き、顔を伏せさせた。

 

 病室の空気が、息を吸ったみたいに静まって。

 

 次の瞬間。

 

 けたたましい爆裂音が、同時に弾けた。

 

 耳の奥を直接叩くような、裂ける音の連打。

 

 白い閃光が、点ではなく面になって走る。

 視界が一瞬、真っ白に潰れた。

 

 煙が噴く。

 焦げた匂いと火薬の刺激が、喉の粘膜を刺す。

 

 獣が、止まった。

 

 耳を塞ぐ仕草ができない代わりに、頭を振る。

 視覚を失い、嗅覚を焼かれ、平衡感覚が崩れる。

 

 赤い目が、焦点を失ったまま宙を泳いだ。

 牙が空を噛む。

 爪が床を引っ掻き、位置を確かめようとするが、光と音と煙がそれを許さない。

 

 廊下の方でも、同じ反応が返ってきた。

 

 吠え声が、悲鳴に近いものへ変わる。

 壁に体当たりする鈍い衝撃。

 互いを獲物と誤認したのか、黒い影同士がぶつかり合う音。

 

 アサシンの声が、煙の向こうから落ちた。

 

「今のうちに、何度も通用するものではありません」

 

 紗月は祖母を抱え直し、息を殺して廊下へ踏み出した。

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