病院の裏動線を抜け、紗月は倉庫の扉を内側からそっと閉めた。
──ガチャン。
音を殺したつもりでも、金属が噛み合う微かな響きが耳に残る。反射的に呼吸を止め、祖母を抱いたまま壁際へ身を寄せた。
倉庫は暗い。
非常灯が一つだけ、天井近くで弱々しく点いている。段ボール箱、医療消耗品の棚、折り畳まれたストレッチャー。どれも人の背より高く積まれ、視線を遮る迷路になっていた。
紗月は祖母を床に降ろさない。
そのまま、しゃがむ。
紗月は、自分の胸の奥に意識を沈めた。
棘。
張り巡らせた感覚が、今や休む暇もなく鳴り続けている。
一本、ではない。
十本でもない。
──多すぎる。
反応が、点から線に、線から面に変わっていた。
病棟だけじゃない。外来フロア、検査室、階段、救急入口、裏の駐車場。
病院という建物そのものが、獣の巣に変わりつつある。
「……何が起こってるの」
声に出すと震えが混じるから、唇だけが動いた。
強さも、増している。
さっきまでの「敵意」じゃない。
捕食欲。排除欲。群れとしての衝動。
棘が、痛い。
神経を直接引き裂かれるみたいに、情報が流れ込んでくる。
廊下を走る重い足音。
壁を引っ掻く爪。
天井にぶつかる頭。
人間だった頃の名残を失った、歪んだ動き。
──ほぼ全域。
否定したくても、棘は嘘をつかない。
この病院に、「安全な場所」はもうない。
紗月は歯を食いしばり、祖母の背中を抱き寄せた。
薄い背骨の感触が、掌に伝わる。
倉庫の外。
──ドン。
何かが壁にぶつかった。
鈍く、重い音。
紗月は即座に身体を固くする。
棘が、そこを刺した。
扉の向こう。
一体。
いや、二体。
位置が、近い。
擦る音。
嗅ぎ回るような、鼻を鳴らす音。
獣が、扉の存在を「理解」し始めている。
紗月は視線を落とし、祖母の顔を見た。
この場で戦えば、勝てるかもしれない。
一体ずつなら。
短時間なら。
だが──音が出る。
血が流れる。
それは、さらに多くの獣を呼び寄せる。
紗月はそう結論づけかけた、そのときだった。
背後の闇が、静かに“立ち上がる”。
気配は最初からあった。
だが、意識しなければ見落としてしまうほど薄い存在感。
祖母を抱えた紗月の肩越しに、低い声が落ちた。
「──ご命令とあらば」
囁くようでいて、揺らぎのない声音。
「院内の獣を、すべて処理いたします」
一瞬、時間が止まった。
紗月は、ゆっくりと息を吸った。
振り向かなくても分かる。背後に立つのが誰なのか。
アサシン。
煤けた忍び装束の影が、棚の隙間に溶けるように佇んでいる。
義手は下げられ、刀も抜かれていない。
だが、その言葉が意味するところは、あまりにも明確だった。
──処理。
それは拘束でも、無力化でもない。
任務としての、完全な排除。
紗月の胸が、きしむ。
「……それは」
声が、思ったより低く出た。
「殺すってことでしょ」
問いではなかった。
確認でもない。
アサシンは否定しない。
わずかに首を垂れただけだ。
「はい」
短い返答。
感情の起伏は、そこにない。
「人であった痕跡を残していようと、現状は明確な敵性存在。増殖と拡散を許せば、院外への被害は避けられませぬ」
理屈は正しい。
判断としても、合理的だ。
紗月は、それが分かっているからこそ、唇を噛んだ。
「……駄目」
今度は、即答だった。
紗月は祖母を抱き寄せたまま、わずかに身体を起こす。
声は震えていない。
迷いも、表に出さない。
「ここにいるのは、患者だよ」
呼吸音が、狭い倉庫に反響する。
「昨日まで、普通に生きてた人たち。治そうとして、ここに来てた人たち」
扉の向こうで、爪がまた金属を擦った。
──ギィ。
獣の唸りが、低く重なる。
それでも、紗月は言葉を切らさない。
「理由が分からない。元に戻せるかもしれない。可能性がゼロじゃない限り……私は、殺す選択はしない」
アサシンは沈黙した。
その沈黙は、反論ではない。
命令の重さを、測っている間だった。
「マスター」
ややあって、低く言う。
「この判断は、貴女の命を危険に晒します」
「承知の上だよ」
即答。
紗月は視線を伏せたまま、祖母の呼吸のリズムを確かめる。規則的だ。苦しそうではあるが、今は眠っている。
それを確認してから、ようやく顔を上げた。
「私は……無意味な殺生をしたくない」
声は低く、静かだった。
震えてはいない。覚悟だけが、そこにあった。
「この病院で起きてることも、外で起きてることも、全部“灰原聖杯戦争”の延長だ。誰かが始めた儀式の、後始末」
棘が、また強く鳴る。
扉の向こうで、獣が位置を変えた。
それでも、紗月は続ける。
「だから……終わらせる」
短く、言い切った。
「灰原君を殺す覚悟は、ある」
その名を口にした瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
それを、表には出さない。
「本当は、殺したくないよ。彼だって、被害者だ。選ばれただけで、背負わされただけで……」
一拍。
「でも、彼を生かしたままじゃ、この儀式は止まらない。なら、私がやる」
紗月は、はっきりと顔を上げた。
「灰原誠を殺す。その責任は、私が取る」
言葉が、倉庫の静寂に落ちる。
「……自害する。戦争を終わらせたあとで」
空気が、張り詰めた。
それは悲壮でも、酔った決意でもない。
逃げ道を自分で塞いだ者の、冷静な選択だった。
「だから、それ以外は」
紗月は、きっぱりと告げる。
「避けられる殺しは、全部避ける。患者も、関係ない人も、利用されただけの人たちも」
祖母の背中を、もう一度強く抱き寄せる。
「私が殺すのは灰原君だけ。最初で最後の一人だけ」
アサシンは、しばらく動かなかった。
棚の影に溶けたまま、紗月を見ている。
その視線には、咎めも、疑念もない。
やがて、静かに口を開いた。
「御意に」
低く落ちた声と、ほぼ同時だった。
──ドンッ!!
今度は、はっきりとした衝撃。
倉庫の扉全体が内側へ撓み、金属が悲鳴を上げた。
紗月の棘が、鋭く跳ねる。
気付かれた。
完全に。
扉の向こうで、重い足取りが揃う。
一体ではない。二体、三体──嗅覚で、音で、確信を得た獣たちが、ここに「餌」がいると理解している。
──ガンッ!
もう一度。
今度は蹴りだ。扉の蝶番側が歪み、棚の影に置かれた箱が震え落ちる。
祖母が、紗月の腕の中で微かに身じろぎした。
「……っ」
紗月は即座に抱き直し、口元を祖母の耳元へ寄せる。
「大丈夫。すぐ、動くから」
声は、驚くほど落ち着いていた。
その間に。
アサシンは、すでに動いていた。
刀には、手を伸ばさない。
代わりに、棚の一角へ滑るように近づき、積まれていた備品を無造作に引き落とす。
床に散らばるガーゼ箱、未開封の輸液パック、その奥。
太く、頑丈なロープ。
ストレッチャー固定用か、機材搬入用か。
医療倉庫らしい、無骨で実用一点張りの縄。
アサシンはそれを掴み、手首に一度だけ回した。
──キュッ。
無駄のない動作で、端を垂らす。
結びはしない。今は“結ぶ相手”が、向こうから来る。
義手ではない方の手で、間合いを測るように構える。
「マスター」
声は低く、短い。
「扉が破られます。三秒後」
返事は、必要なかった。
──ドンッ、ガンッ!!
連続する衝撃。
金属が内側に歪み、留め金が限界まで引き延ばされる。
獣の唸りが、扉越しでもはっきりと聞こえた。
興奮した呼気。爪が金属を削る音。
嗅覚で辿り着いた確信が、衝動に変わっている。
紗月は歯を食いしばり、倉庫の奥──非常灯の影が最も濃い場所へ一歩下がった。
棘が、警告を叫ぶ。
──来る。
アサシンは、扉の正面に立たない。
斜め。影の中。
破られた瞬間に、視界の外から“触れる”位置。
──バンッ!!
留め金が、ついに弾けた。
扉が内側へ跳ね、歪んだ隙間から黒い毛皮と赤い目が覗く。
鼻先が入り、牙が覗き、次の瞬間──
獣が、なだれ込もうとした。
その瞬間。
アサシンのロープが、空を切った。
音は、ない。
ただ、柔らかく、しかし正確に。
首ではない。
前脚でもない。
胸郭と脇の下──動きを殺す位置。
ロープが絡み、引かれ、獣の重心が一瞬だけ浮く。
床を蹴った力が、前ではなく横へ流れた。
──ドン!!
獣の身体が、棚に叩きつけられる。
続けて、二体目。
同じように、ロープが舞い、絡み、絡め取る。
噛みつく距離に入る前に、体勢を崩す。
血は、流れない。
骨も、折られない。
だが、動きは止まる。
獣たちは理解できない。
なぜ、斬られないのか。
なぜ、殺されないのか。
理解できないまま、床を転がり、互いにぶつかり合う。
「今です、マスター。このような拘束では数秒と保ちませぬ」
アサシンの声が、低く鋭く飛ぶ。
紗月は頷き、祖母を抱えたまま、倉庫から飛び出した。
足音を殺す余裕はない。速度を優先する。腕の中の重みが現実を引き戻すが、身体強化を維持したまま、重心を前へ投げる。
「右に三体。左奥に二体」
背後を走りながら、アサシンが淡々と告げる。
視線は前方。影のように位置を変え、紗月の半歩後ろを保つ。
廊下は、すでに“病院”の顔を失っていた。
天井のパネルが外れ、点滴スタンドが倒れ、血ではなく黒い体毛と爪痕が床を汚している。
遠くで、吠える声。
近くで、壁を叩く音。
──囲まれている。
棘が、連続して鳴る。
前方、側面、背後。点ではなく、塊としての反応。
紗月は歯を食いしばる。
今の数と密度では、対応が追いつかない。
それでも、ここを突破しなければ──
脳裏に、最悪の想像が走る。
夜の住宅街。逃げ惑う人影。
病院という“檻”を失った獣の群れ。
このまま脱出するだけでは、解決にならない。
だが、ここに留まれば──祖母がもたない。
選択肢が、どれも刃だった。
そのとき。
──ガンッ!!
金属を叩きつけるような、異質な音が廊下に響いた。
吠え声とは違う。
壁を殴る音とも違う。
重いものを、何度も、意図的に打ち付ける音。
棘が、そちらに強く反応する。
獣の気配が、一瞬だけ“乱れた”。
「……今の、なに?」
紗月は足を止めかけ、すぐに方向を変えた。
音のした方へ、廊下を横切る。
「マスター」
アサシンが低く制止しかける。
「うん、確認する」
短く、即答。
迷いはない。音の正体が、状況を変える可能性がある。
角を曲がった先。
処置室前の広い廊下で、再び──
──ドンッ、ガンッ!!
──ドンッ、ガンッ!!
音の正体は、すぐに視界に入った。
床に倒れた獣。
黒い体毛に覆われた巨体が、処置室前の白い床に押し伏せられている。
その上に──人影が、馬乗りになっていた。
入院着。
膝が擦り切れ、裾は裂け、白かったはずの布は赤黒く染まっている。
男だ。
中年に差しかかる年齢。
やつれた顔。頬はこけ、目の下には濃い隈。
だが、その腕だけが異様に力強い。
──ガンッ!!
男は、何かを振り下ろした。
拳ではない。
ストレッチャーの金属フレーム。
歪んだそれを両手で持ち上げ、獣の頭部へ叩きつけている。
獣が、呻いた。
牙が床を噛み、爪が引き攣る。
だが、起き上がれない。
男の膝が、獣の胸郭に深く食い込んでいた。
──ガンッ!!
もう一度。
鈍い音。
骨が砕けたのか、肉が潰れたのか、判別できない湿った衝撃。
血が跳ねる。
獣のものだ。
黒い体毛と混じり、床にまだらな赤を描く。
男の顔にも、首にも、腕にも、その血が飛び散っている。
返り血で、真っ赤だ。
獣の動きが、次第に鈍る。
呻き声が、喉の奥で潰れた音に変わる。
抵抗が、衝動から反射に落ちていく。
それでも男は、止めない。
──ガンッ。
──ガンッ。
──ガンッ。
完全に、嬲っている。
殺すためではない。
確実に、終わらせるために。
その光景に、紗月の足が止まった。
棘が、ざわつく。
やがて。
獣の身体が、ぴくりとも動かなくなった。
男は、数秒だけその上に跨ったまま、荒い呼吸を続ける。
肩が上下し、喉から掠れた音が漏れる。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
金属フレームが、床に落ちる。
──カラン、と乾いた音。
男は振り返った。
返り血で濡れた顔。
興奮に血走った目。
鋭い視線が、紗月を射抜いた。
祖母を抱えた少女。
その背後の、忍び装束の影。
一瞬の沈黙。
男の口が、ゆっくりと開いた。
「……この病院はもう、獣だらけだ」
「君も、じきにそうなるんだろう」
男は一歩、こちらへ踏み出した。
金属フレームを引きずる音が、床を削って伸びる。
──ギィ……。
返り血が滴り、白い床に点を打つ。
赤と黒が混じったそれは、獣のものだ。
紗月は、反射的に一歩前に出そうとして、踏みとどまった。
祖母を抱えた腕に、無意識の力が入る。
棘が、強く鳴る。
敵意。
明確な、人間の殺意。
「待って!」
紗月は声を張った。
叫びではない。押し通すための声だ。
「私たちは敵じゃない。落ち着いて」
男が、短く笑った。
乾いた、音のない笑いだ。
「違いはなんだ? 俺と、君と、この獣らの違いはなんだ」
一歩、また一歩。
距離が、詰まる。
男は距離を詰めながら、金属フレームを握り直した。
指の関節が白くなる。血と汗で滑るはずの金属を、力で押さえ込んでいる。
紗月は答えようとした。
だが、その言葉は最後まで形にならなかった。
男の足が、床を蹴る。
「証明してみろよ!」
咆哮と同時に、男が踏み込んだ。
金属フレームが頭上へ振り上げられる。
獣を潰したのと同じ軌道。ためらいのない、殺すための角度。
──速い。
一般人の動きじゃない。
恐怖と興奮で限界を越えた、人間の速度。
避けきれない。
祖母を抱えたままでは──
「っ──!」
衝撃が来る、そう思った瞬間。
影が、男の視界を横切った。
──ドンッ!!
鈍い衝突音。
男の身体が、横から吹き飛ぶ。
金属フレームが空を切り、壁に激突して跳ね返る。
アサシンだった。
蹴りだ。
膝ではない。足の甲でもない。
重心線を正確に捉えた、体軸を折る一撃。
男は体勢を崩し、前のめりに倒れかける。
その瞬間を、逃さない。
アサシンは一歩踏み込み、腰を落とした。
──ゴッ。
短く、乾いた音。
鳩尾。
拳ではない。掌底に近い、衝撃を内側へ送り込む打ち方。
骨を折らず、内臓を揺らし、呼吸を奪う。
「……っ、が……」
男の口から、空気が抜けた。
目が見開かれ、膝が崩れる。
アサシンは追撃しない。
支えるように一瞬だけ体を寄せ、そのまま床へ倒した。
──ドサリ。
男は、動かなくなった。
失神だ。
呼吸はある。脈もある。
完全な、非殺。
紗月は、その場で息を吐いた。
喉の奥に詰まっていた空気が、一気に抜ける。
「……もう、こんなのばっかりね」
震えを抑えた声で、そう言った。
アサシンはすぐに周囲を見渡す。
棘の反応と、自身の聴覚で、次の脅威を測っている。
アサシンは、床に落ちたロープを拾い上げた。
無駄のない所作で輪を作り、失神した男へと歩み寄る。
──その瞬間だった。
「っ、下がっ──」
紗月の声が届く前に。
男の身体が、跳ね起きた。
あり得ない速さ。
完全に意識を失っていたはずの男が、獣じみた反射で動く。
──ドンッ!!
拳が、アサシンの側頭部を捉えた。
鈍く、骨を震わせる音。
衝撃が空気を裂き、アサシンの身体が廊下を横切って吹き飛んだ。
壁に叩きつけられ、床を転がる。
「アサシン!」
紗月の喉が、ひくりと鳴った。
「……ぐ、ぁ……」
呻き声が、男の喉から絞り出される。
男は膝を突き、床に手をついた。
その手が、震えている。
──ミシ、ミシッ。
骨が、鳴る。
筋肉が、内側から膨れ上がる。
入院着が、裂けた。
肩幅が広がり、背骨が持ち上がる。
腕が太くなる。太腿が床にめり込み、皮膚の下で筋繊維がうねる。
「……ぁ、ああ……!」
叫びは、人の声だった。
だが、次の瞬間、それは獣の咆哮に変わる。
首が、伸びた。
頭部が天井に触れ、照明器具が砕け散る。
白い天井板が剥がれ、粉塵が降り注ぐ。
男だったものは、もはや“患者”ではない。
身長は三メートル近く。
人の形を残したまま、異様に肥大化した肉体。
爪が、伸びる。
歯が、噛み合わないほど増える。
──グオオオオオッ!!
咆哮が、廊下を震わせた。
音だけで、遠くの獣たちが呼応するのが分かる。
棘が、狂ったように鳴り続ける。
紗月の腕の中で、祖母が小さく身じろぎした。
その感触が、現実を突きつける。
瓦礫を押しのけて、影が動いた。
アサシンが、立ち上がる。
額から血が流れているが、視線は澄んでいる。
呼吸も、乱れていない。
巨大化した“患者”を見上げ、短く息を吐いた。
「……獅子猿の如き俊敏性、閉所では手間取る手合いか」
巨大化した“患者”は、肩を上下させながら低く唸った。
天井に頭を擦りつけ、砕けた照明の破片が雨のように落ちる。
アサシンは足を半歩引き、ロープを張る。
張力を殺し、いつでも締められる長さだけを残す。
紗月は祖母を抱え直し、背中を壁に付けた。
間合い。
踏み込めば届く距離。だが踏み込めば、返しの一撃が来る距離。
息をする音さえ重い。
棘が痛いほど鳴るのに、場の空気は奇妙な沈黙で凍りついていた。
獣が先に動けば、こちらも動く。
こちらが先に動けば、獣も動く。
互いの“最初の一手”だけが、時間を縛っている。
──そこで。
ふ、と。
あり得ない音が混ざった。
鼻歌。
軽く、気楽で、場違いな旋律。
紗月は一瞬、理解できなかった。
そして次の拍で、それが何の曲かを悟ってしまう。
アメリカ国歌。
あの、式典で流れる、厳粛なはずの旋律を──鼻で、悠然となぞっている。
「……え?」
呆気に取られて、紗月は反射的に振り返った。
音の来た方向。廊下の奥。粉塵の向こう。
足音がする。
瓦礫を踏む、重い靴の音。迷いのない歩幅。
現れたのは、大柄な西洋人だった。
肩幅が広く、背も高い。
血の匂いも、薬品の匂いも、彼の体温で薄められていくように感じる。
男は──まだ鼻歌を続けている。
この状況を、まるで散歩の途中みたいに。
巨大な患者が咆哮しかけ、喉を鳴らした。
だが男は視線をそちらに向けただけで、歩みを止めない。
悠然と、近付いてくる。
紗月の喉が乾いた。
「……は……?」
問いは声になりきらず、唇の内側で震えた。
男は鼻歌を止めないまま、壊れた照明の下に立った。
粉塵が肩に積もり、光が輪郭だけを縁取る。
そして、ようやく口元の息を整えるように、鼻歌が途切れる。
静寂が一瞬戻る。
巨大な患者が、天井に頭を擦りつけながら、こちらへ一歩。
床が沈む。
その“次の一手”が来る──まさに、その直前。
西洋人は、穏やかな顔で、片手を軽く上げた。
挨拶のように。止めに入るように。
状況に対して、あまりにも不釣り合いな落ち着き。
「Let's……」
英語の一音が、病院の廊下に落ちた。
紗月は、息を吸い込む。
棘が、彼をどう捉えるかを必死に探ったが──反応が曖昧だ。敵意でも味方でもない“何か”。
巨大な獣が、腕を持ち上げる。
天井板が砕け、粉塵が舞う。
男は、それを見上げて──
まるで、次に何が起きるかを知っているみたいに、肩をすくめた。
「party!」