Fate/You Died.   作:助兵衛

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第42話 風変わりな男

 病院の裏動線を抜け、紗月は倉庫の扉を内側からそっと閉めた。

 

 ──ガチャン。

 

 音を殺したつもりでも、金属が噛み合う微かな響きが耳に残る。反射的に呼吸を止め、祖母を抱いたまま壁際へ身を寄せた。

 

 倉庫は暗い。

 非常灯が一つだけ、天井近くで弱々しく点いている。段ボール箱、医療消耗品の棚、折り畳まれたストレッチャー。どれも人の背より高く積まれ、視線を遮る迷路になっていた。

 

 紗月は祖母を床に降ろさない。

 そのまま、しゃがむ。

 

 紗月は、自分の胸の奥に意識を沈めた。

 

 棘。

 

 張り巡らせた感覚が、今や休む暇もなく鳴り続けている。

 

 一本、ではない。

 十本でもない。

 

 ──多すぎる。

 

 反応が、点から線に、線から面に変わっていた。

 病棟だけじゃない。外来フロア、検査室、階段、救急入口、裏の駐車場。

 病院という建物そのものが、獣の巣に変わりつつある。

 

「……何が起こってるの」

 

 声に出すと震えが混じるから、唇だけが動いた。

 

 強さも、増している。

 さっきまでの「敵意」じゃない。

 捕食欲。排除欲。群れとしての衝動。

 

 棘が、痛い。

 

 神経を直接引き裂かれるみたいに、情報が流れ込んでくる。

 廊下を走る重い足音。

 壁を引っ掻く爪。

 天井にぶつかる頭。

 人間だった頃の名残を失った、歪んだ動き。

 

 ──ほぼ全域。

 

 否定したくても、棘は嘘をつかない。

 

 この病院に、「安全な場所」はもうない。

 

 紗月は歯を食いしばり、祖母の背中を抱き寄せた。

 薄い背骨の感触が、掌に伝わる。

 

 倉庫の外。

 

 ──ドン。

 

 何かが壁にぶつかった。

 鈍く、重い音。

 

 紗月は即座に身体を固くする。

 棘が、そこを刺した。

 

 扉の向こう。

 一体。

 いや、二体。

 

 位置が、近い。

 

 擦る音。

 嗅ぎ回るような、鼻を鳴らす音。

 獣が、扉の存在を「理解」し始めている。

 

 紗月は視線を落とし、祖母の顔を見た。

 

 この場で戦えば、勝てるかもしれない。

 一体ずつなら。

 短時間なら。

 

 だが──音が出る。

 

 血が流れる。

 

 それは、さらに多くの獣を呼び寄せる。

 

 紗月はそう結論づけかけた、そのときだった。

 

 背後の闇が、静かに“立ち上がる”。

 

 気配は最初からあった。

 だが、意識しなければ見落としてしまうほど薄い存在感。

 

 祖母を抱えた紗月の肩越しに、低い声が落ちた。

 

「──ご命令とあらば」

 

 囁くようでいて、揺らぎのない声音。

 

「院内の獣を、すべて処理いたします」

 

 一瞬、時間が止まった。

 

 紗月は、ゆっくりと息を吸った。

 振り向かなくても分かる。背後に立つのが誰なのか。

 

 アサシン。

 

 煤けた忍び装束の影が、棚の隙間に溶けるように佇んでいる。

 義手は下げられ、刀も抜かれていない。

 だが、その言葉が意味するところは、あまりにも明確だった。

 

 ──処理。

 

 それは拘束でも、無力化でもない。

 任務としての、完全な排除。

 

 紗月の胸が、きしむ。

 

「……それは」

 

 声が、思ったより低く出た。

 

「殺すってことでしょ」

 

 問いではなかった。

 確認でもない。

 

 アサシンは否定しない。

 わずかに首を垂れただけだ。

 

「はい」

 

 短い返答。

 感情の起伏は、そこにない。

 

「人であった痕跡を残していようと、現状は明確な敵性存在。増殖と拡散を許せば、院外への被害は避けられませぬ」

 

 理屈は正しい。

 判断としても、合理的だ。

 

 紗月は、それが分かっているからこそ、唇を噛んだ。

 

「……駄目」

 

 今度は、即答だった。

 

 紗月は祖母を抱き寄せたまま、わずかに身体を起こす。

 声は震えていない。

 迷いも、表に出さない。

 

「ここにいるのは、患者だよ」

 

 呼吸音が、狭い倉庫に反響する。

 

「昨日まで、普通に生きてた人たち。治そうとして、ここに来てた人たち」

 

 扉の向こうで、爪がまた金属を擦った。

 

 ──ギィ。

 

 獣の唸りが、低く重なる。

 

 それでも、紗月は言葉を切らさない。

 

「理由が分からない。元に戻せるかもしれない。可能性がゼロじゃない限り……私は、殺す選択はしない」

 

 アサシンは沈黙した。

 

 その沈黙は、反論ではない。

 命令の重さを、測っている間だった。

 

「マスター」

 

 ややあって、低く言う。

 

「この判断は、貴女の命を危険に晒します」

 

「承知の上だよ」

 

 即答。

 

 紗月は視線を伏せたまま、祖母の呼吸のリズムを確かめる。規則的だ。苦しそうではあるが、今は眠っている。

 

 それを確認してから、ようやく顔を上げた。

 

「私は……無意味な殺生をしたくない」

 

 声は低く、静かだった。

 震えてはいない。覚悟だけが、そこにあった。

 

「この病院で起きてることも、外で起きてることも、全部“灰原聖杯戦争”の延長だ。誰かが始めた儀式の、後始末」

 

 棘が、また強く鳴る。

 扉の向こうで、獣が位置を変えた。

 

 それでも、紗月は続ける。

 

「だから……終わらせる」

 

 短く、言い切った。

 

「灰原君を殺す覚悟は、ある」

 

 その名を口にした瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。

 それを、表には出さない。

 

「本当は、殺したくないよ。彼だって、被害者だ。選ばれただけで、背負わされただけで……」

 

 一拍。

 

「でも、彼を生かしたままじゃ、この儀式は止まらない。なら、私がやる」

 

 紗月は、はっきりと顔を上げた。

 

「灰原誠を殺す。その責任は、私が取る」

 

 言葉が、倉庫の静寂に落ちる。

 

「……自害する。戦争を終わらせたあとで」

 

 空気が、張り詰めた。

 

 それは悲壮でも、酔った決意でもない。

 逃げ道を自分で塞いだ者の、冷静な選択だった。

 

「だから、それ以外は」

 

 紗月は、きっぱりと告げる。

 

「避けられる殺しは、全部避ける。患者も、関係ない人も、利用されただけの人たちも」

 

 祖母の背中を、もう一度強く抱き寄せる。

 

「私が殺すのは灰原君だけ。最初で最後の一人だけ」

 

 アサシンは、しばらく動かなかった。

 

 棚の影に溶けたまま、紗月を見ている。

 その視線には、咎めも、疑念もない。

 

 やがて、静かに口を開いた。

 

「御意に」

 

 低く落ちた声と、ほぼ同時だった。

 

 ──ドンッ!! 

 

 今度は、はっきりとした衝撃。

 倉庫の扉全体が内側へ撓み、金属が悲鳴を上げた。

 

 紗月の棘が、鋭く跳ねる。

 

 気付かれた。

 完全に。

 

 扉の向こうで、重い足取りが揃う。

 一体ではない。二体、三体──嗅覚で、音で、確信を得た獣たちが、ここに「餌」がいると理解している。

 

 ──ガンッ! 

 

 もう一度。

 今度は蹴りだ。扉の蝶番側が歪み、棚の影に置かれた箱が震え落ちる。

 

 祖母が、紗月の腕の中で微かに身じろぎした。

 

「……っ」

 

 紗月は即座に抱き直し、口元を祖母の耳元へ寄せる。

 

「大丈夫。すぐ、動くから」

 

 声は、驚くほど落ち着いていた。

 

 その間に。

 

 アサシンは、すでに動いていた。

 

 刀には、手を伸ばさない。

 

 代わりに、棚の一角へ滑るように近づき、積まれていた備品を無造作に引き落とす。

 床に散らばるガーゼ箱、未開封の輸液パック、その奥。

 

 太く、頑丈なロープ。

 

 ストレッチャー固定用か、機材搬入用か。

 医療倉庫らしい、無骨で実用一点張りの縄。

 

 アサシンはそれを掴み、手首に一度だけ回した。

 

 ──キュッ。

 

 無駄のない動作で、端を垂らす。

 結びはしない。今は“結ぶ相手”が、向こうから来る。

 

 義手ではない方の手で、間合いを測るように構える。

 

「マスター」

 

 声は低く、短い。

 

「扉が破られます。三秒後」

 

 返事は、必要なかった。

 

 ──ドンッ、ガンッ!! 

 

 連続する衝撃。

 金属が内側に歪み、留め金が限界まで引き延ばされる。

 

 獣の唸りが、扉越しでもはっきりと聞こえた。

 興奮した呼気。爪が金属を削る音。

 嗅覚で辿り着いた確信が、衝動に変わっている。

 

 紗月は歯を食いしばり、倉庫の奥──非常灯の影が最も濃い場所へ一歩下がった。

 

 棘が、警告を叫ぶ。

 

 ──来る。

 

 アサシンは、扉の正面に立たない。

 斜め。影の中。

 破られた瞬間に、視界の外から“触れる”位置。

 

 ──バンッ!! 

 

 留め金が、ついに弾けた。

 

 扉が内側へ跳ね、歪んだ隙間から黒い毛皮と赤い目が覗く。

 鼻先が入り、牙が覗き、次の瞬間──

 

 獣が、なだれ込もうとした。

 

 その瞬間。

 

 アサシンのロープが、空を切った。

 

 音は、ない。

 ただ、柔らかく、しかし正確に。

 

 首ではない。

 前脚でもない。

 

 胸郭と脇の下──動きを殺す位置。

 

 ロープが絡み、引かれ、獣の重心が一瞬だけ浮く。

 

 床を蹴った力が、前ではなく横へ流れた。

 

 ──ドン!! 

 

 獣の身体が、棚に叩きつけられる。

 

 続けて、二体目。

 

 同じように、ロープが舞い、絡み、絡め取る。

 噛みつく距離に入る前に、体勢を崩す。

 

 血は、流れない。

 骨も、折られない。

 

 だが、動きは止まる。

 

 獣たちは理解できない。

 なぜ、斬られないのか。

 なぜ、殺されないのか。

 

 理解できないまま、床を転がり、互いにぶつかり合う。

 

「今です、マスター。このような拘束では数秒と保ちませぬ」

 

 アサシンの声が、低く鋭く飛ぶ。

 

 紗月は頷き、祖母を抱えたまま、倉庫から飛び出した。

 

 足音を殺す余裕はない。速度を優先する。腕の中の重みが現実を引き戻すが、身体強化を維持したまま、重心を前へ投げる。

 

「右に三体。左奥に二体」

 

 背後を走りながら、アサシンが淡々と告げる。

 視線は前方。影のように位置を変え、紗月の半歩後ろを保つ。

 

 廊下は、すでに“病院”の顔を失っていた。

 天井のパネルが外れ、点滴スタンドが倒れ、血ではなく黒い体毛と爪痕が床を汚している。

 

 遠くで、吠える声。

 近くで、壁を叩く音。

 

 ──囲まれている。

 

 棘が、連続して鳴る。

 前方、側面、背後。点ではなく、塊としての反応。

 

 紗月は歯を食いしばる。

 今の数と密度では、対応が追いつかない。

 それでも、ここを突破しなければ──

 

 脳裏に、最悪の想像が走る。

 夜の住宅街。逃げ惑う人影。

 病院という“檻”を失った獣の群れ。

 

 このまま脱出するだけでは、解決にならない。

 だが、ここに留まれば──祖母がもたない。

 

 選択肢が、どれも刃だった。

 

 そのとき。

 

 ──ガンッ!! 

 

 金属を叩きつけるような、異質な音が廊下に響いた。

 

 吠え声とは違う。

 壁を殴る音とも違う。

 

 重いものを、何度も、意図的に打ち付ける音。

 

 棘が、そちらに強く反応する。

 獣の気配が、一瞬だけ“乱れた”。

 

「……今の、なに?」

 

 紗月は足を止めかけ、すぐに方向を変えた。

 音のした方へ、廊下を横切る。

 

「マスター」

 

 アサシンが低く制止しかける。

 

「うん、確認する」

 

 短く、即答。

 迷いはない。音の正体が、状況を変える可能性がある。

 

 角を曲がった先。

 

 処置室前の広い廊下で、再び──

 

 ──ドンッ、ガンッ!! 

 

 ──ドンッ、ガンッ!! 

 

 音の正体は、すぐに視界に入った。

 

 床に倒れた獣。

 黒い体毛に覆われた巨体が、処置室前の白い床に押し伏せられている。

 

 その上に──人影が、馬乗りになっていた。

 

 入院着。

 膝が擦り切れ、裾は裂け、白かったはずの布は赤黒く染まっている。

 

 男だ。

 

 中年に差しかかる年齢。

 やつれた顔。頬はこけ、目の下には濃い隈。

 だが、その腕だけが異様に力強い。

 

 ──ガンッ!! 

 

 男は、何かを振り下ろした。

 

 拳ではない。

 ストレッチャーの金属フレーム。

 歪んだそれを両手で持ち上げ、獣の頭部へ叩きつけている。

 

 獣が、呻いた。

 

 牙が床を噛み、爪が引き攣る。

 だが、起き上がれない。

 

 男の膝が、獣の胸郭に深く食い込んでいた。

 

 ──ガンッ!! 

 

 もう一度。

 

 鈍い音。

 骨が砕けたのか、肉が潰れたのか、判別できない湿った衝撃。

 

 血が跳ねる。

 

 獣のものだ。

 黒い体毛と混じり、床にまだらな赤を描く。

 

 男の顔にも、首にも、腕にも、その血が飛び散っている。

 返り血で、真っ赤だ。

 

 獣の動きが、次第に鈍る。

 

 呻き声が、喉の奥で潰れた音に変わる。

 抵抗が、衝動から反射に落ちていく。

 

 それでも男は、止めない。

 

 ──ガンッ。

 

 ──ガンッ。

 

 ──ガンッ。

 

 完全に、嬲っている。

 

 殺すためではない。

 確実に、終わらせるために。

 

 その光景に、紗月の足が止まった。

 

 棘が、ざわつく。

 

 やがて。

 

 獣の身体が、ぴくりとも動かなくなった。

 

 男は、数秒だけその上に跨ったまま、荒い呼吸を続ける。

 肩が上下し、喉から掠れた音が漏れる。

 

 そして、ゆっくりと立ち上がった。

 

 金属フレームが、床に落ちる。

 

 ──カラン、と乾いた音。

 

 男は振り返った。

 

 返り血で濡れた顔。

 興奮に血走った目。

 

 鋭い視線が、紗月を射抜いた。

 

 祖母を抱えた少女。

 その背後の、忍び装束の影。

 

 一瞬の沈黙。

 

 男の口が、ゆっくりと開いた。

 

「……この病院はもう、獣だらけだ」

 

「君も、じきにそうなるんだろう」

 

 男は一歩、こちらへ踏み出した。

 

 金属フレームを引きずる音が、床を削って伸びる。

 ──ギィ……。

 

 返り血が滴り、白い床に点を打つ。

 赤と黒が混じったそれは、獣のものだ。

 

 紗月は、反射的に一歩前に出そうとして、踏みとどまった。

 祖母を抱えた腕に、無意識の力が入る。

 

 棘が、強く鳴る。

 

 敵意。

 明確な、人間の殺意。

 

「待って!」

 

 紗月は声を張った。

 叫びではない。押し通すための声だ。

 

「私たちは敵じゃない。落ち着いて」

 

 男が、短く笑った。

 乾いた、音のない笑いだ。

 

「違いはなんだ? 俺と、君と、この獣らの違いはなんだ」

 

 一歩、また一歩。

 距離が、詰まる。

 

 男は距離を詰めながら、金属フレームを握り直した。

 指の関節が白くなる。血と汗で滑るはずの金属を、力で押さえ込んでいる。

 

 紗月は答えようとした。

 だが、その言葉は最後まで形にならなかった。

 

 男の足が、床を蹴る。

 

「証明してみろよ!」

 

 咆哮と同時に、男が踏み込んだ。

 金属フレームが頭上へ振り上げられる。

 獣を潰したのと同じ軌道。ためらいのない、殺すための角度。

 

 ──速い。

 

 一般人の動きじゃない。

 恐怖と興奮で限界を越えた、人間の速度。

 

 避けきれない。

 祖母を抱えたままでは──

 

「っ──!」

 

 衝撃が来る、そう思った瞬間。

 

 影が、男の視界を横切った。

 

 ──ドンッ!! 

 

 鈍い衝突音。

 

 男の身体が、横から吹き飛ぶ。

 金属フレームが空を切り、壁に激突して跳ね返る。

 

 アサシンだった。

 

 蹴りだ。

 膝ではない。足の甲でもない。

 重心線を正確に捉えた、体軸を折る一撃。

 

 男は体勢を崩し、前のめりに倒れかける。

 

 その瞬間を、逃さない。

 

 アサシンは一歩踏み込み、腰を落とした。

 

 ──ゴッ。

 

 短く、乾いた音。

 

 鳩尾。

 

 拳ではない。掌底に近い、衝撃を内側へ送り込む打ち方。

 骨を折らず、内臓を揺らし、呼吸を奪う。

 

「……っ、が……」

 

 男の口から、空気が抜けた。

 目が見開かれ、膝が崩れる。

 

 アサシンは追撃しない。

 支えるように一瞬だけ体を寄せ、そのまま床へ倒した。

 

 ──ドサリ。

 

 男は、動かなくなった。

 

 失神だ。

 呼吸はある。脈もある。

 

 完全な、非殺。

 

 紗月は、その場で息を吐いた。

 喉の奥に詰まっていた空気が、一気に抜ける。

 

「……もう、こんなのばっかりね」

 

 震えを抑えた声で、そう言った。

 

 アサシンはすぐに周囲を見渡す。

 棘の反応と、自身の聴覚で、次の脅威を測っている。

 

 アサシンは、床に落ちたロープを拾い上げた。

 無駄のない所作で輪を作り、失神した男へと歩み寄る。

 

 ──その瞬間だった。

 

「っ、下がっ──」

 

 紗月の声が届く前に。

 

 男の身体が、跳ね起きた。

 

 あり得ない速さ。

 完全に意識を失っていたはずの男が、獣じみた反射で動く。

 

 ──ドンッ!! 

 

 拳が、アサシンの側頭部を捉えた。

 

 鈍く、骨を震わせる音。

 衝撃が空気を裂き、アサシンの身体が廊下を横切って吹き飛んだ。

 

 壁に叩きつけられ、床を転がる。

 

「アサシン!」

 

 紗月の喉が、ひくりと鳴った。

 

「……ぐ、ぁ……」

 

 呻き声が、男の喉から絞り出される。

 男は膝を突き、床に手をついた。

 

 その手が、震えている。

 

 ──ミシ、ミシッ。

 

 骨が、鳴る。

 筋肉が、内側から膨れ上がる。

 

 入院着が、裂けた。

 

 肩幅が広がり、背骨が持ち上がる。

 腕が太くなる。太腿が床にめり込み、皮膚の下で筋繊維がうねる。

 

「……ぁ、ああ……!」

 

 叫びは、人の声だった。

 だが、次の瞬間、それは獣の咆哮に変わる。

 

 首が、伸びた。

 

 頭部が天井に触れ、照明器具が砕け散る。

 白い天井板が剥がれ、粉塵が降り注ぐ。

 

 男だったものは、もはや“患者”ではない。

 

 身長は三メートル近く。

 人の形を残したまま、異様に肥大化した肉体。

 

 爪が、伸びる。

 歯が、噛み合わないほど増える。

 

 ──グオオオオオッ!! 

 

 咆哮が、廊下を震わせた。

 音だけで、遠くの獣たちが呼応するのが分かる。

 

 棘が、狂ったように鳴り続ける。

 

 紗月の腕の中で、祖母が小さく身じろぎした。

 その感触が、現実を突きつける。

 

 瓦礫を押しのけて、影が動いた。

 

 アサシンが、立ち上がる。

 

 額から血が流れているが、視線は澄んでいる。

 呼吸も、乱れていない。

 

 巨大化した“患者”を見上げ、短く息を吐いた。

 

「……獅子猿の如き俊敏性、閉所では手間取る手合いか」

 

 巨大化した“患者”は、肩を上下させながら低く唸った。

 天井に頭を擦りつけ、砕けた照明の破片が雨のように落ちる。

 

 アサシンは足を半歩引き、ロープを張る。

 張力を殺し、いつでも締められる長さだけを残す。

 

 紗月は祖母を抱え直し、背中を壁に付けた。

 間合い。

 踏み込めば届く距離。だが踏み込めば、返しの一撃が来る距離。

 

 息をする音さえ重い。

 

 棘が痛いほど鳴るのに、場の空気は奇妙な沈黙で凍りついていた。

 獣が先に動けば、こちらも動く。

 こちらが先に動けば、獣も動く。

 

 互いの“最初の一手”だけが、時間を縛っている。

 

 ──そこで。

 

 ふ、と。

 

 あり得ない音が混ざった。

 

 鼻歌。

 軽く、気楽で、場違いな旋律。

 

 紗月は一瞬、理解できなかった。

 そして次の拍で、それが何の曲かを悟ってしまう。

 

 アメリカ国歌。

 あの、式典で流れる、厳粛なはずの旋律を──鼻で、悠然となぞっている。

 

「……え?」

 

 呆気に取られて、紗月は反射的に振り返った。

 音の来た方向。廊下の奥。粉塵の向こう。

 

 足音がする。

 瓦礫を踏む、重い靴の音。迷いのない歩幅。

 

 現れたのは、大柄な西洋人だった。

 

 肩幅が広く、背も高い。

 血の匂いも、薬品の匂いも、彼の体温で薄められていくように感じる。

 

 男は──まだ鼻歌を続けている。

 この状況を、まるで散歩の途中みたいに。

 

 巨大な患者が咆哮しかけ、喉を鳴らした。

 だが男は視線をそちらに向けただけで、歩みを止めない。

 

 悠然と、近付いてくる。

 

 紗月の喉が乾いた。

 

「……は……?」

 

 問いは声になりきらず、唇の内側で震えた。

 

 男は鼻歌を止めないまま、壊れた照明の下に立った。

 粉塵が肩に積もり、光が輪郭だけを縁取る。

 

 そして、ようやく口元の息を整えるように、鼻歌が途切れる。

 

 静寂が一瞬戻る。

 

 巨大な患者が、天井に頭を擦りつけながら、こちらへ一歩。

 床が沈む。

 

 その“次の一手”が来る──まさに、その直前。

 

 西洋人は、穏やかな顔で、片手を軽く上げた。

 挨拶のように。止めに入るように。

 

 状況に対して、あまりにも不釣り合いな落ち着き。

 

「Let's……」

 

 英語の一音が、病院の廊下に落ちた。

 

 紗月は、息を吸い込む。

 棘が、彼をどう捉えるかを必死に探ったが──反応が曖昧だ。敵意でも味方でもない“何か”。

 

 巨大な獣が、腕を持ち上げる。

 天井板が砕け、粉塵が舞う。

 

 男は、それを見上げて──

 

 まるで、次に何が起きるかを知っているみたいに、肩をすくめた。

 

「party!」

 

 

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