鼻歌の余韻が廊下に薄く残ったまま、場の温度だけが一段、落ちた。
紗月は祖母を抱えたまま、瞬きも忘れてその西洋人を見ていた。
この状況で、そんな歩き方ができる人間がいるはずがない。
アサシンも同じだった。
ロープを張ったまま、視線だけを相手に滑らせる。敵か味方かを測る──その“測り”が、珍しくわずかに遅れている。
その遅れを、巨大化した“患者”は見逃さなかった。
──グオッ。
喉の奥で空気が潰れる音。
次の瞬間、天井板が裂けた。
巨大な腕が振り上がり、壁を掴み、肉の塊が跳ねる。
三メートル近い体躯が、あり得ない速度で“飛び込んでくる”。
狙いは紗月ではない。
鼻歌をやめた西洋人──その胸元へ。
「っ──!」
紗月の喉が詰まった。
反射で足が動きかけたが、祖母の重みが現実に引き戻す。
アサシンが踏み込もうとした、その刹那。
西洋人は──避けた。
まるで映画のワンシーンみたいに。
大げさに肩をすくめ、両手を広げるように身体をひねり、巨大な爪が空を切る瞬間に、足元だけを滑らせた。
──ドン!!
爪が床を抉り、コンクリートが悲鳴を上げる。
粉塵が噴き上がった。
西洋人はその粉塵の縁で、軽く回転するように着地する。
無駄に格好をつけた動き。無駄に余裕のある顔。
「Whoa, whoa. Easy, big guy」
英語が、場違いなくらい軽い。
巨大な獣が、もう一度、咆哮した。
天井に頭を擦りつけ、照明の残骸が雨のように落ちる。
次の一撃が来る。
西洋人はため息まじりに、胸の前で指を鳴らした。
「Okay. Time for……」
言い終えるより早く、片手がコートの内側へ滑り込む。
──どこから出した。
紗月の思考が追いつかない。
さっきまで両手は空だった。腰にもホルスターは見えなかった。
それなのに。
西洋人の手には、いつの間にか“それ”があった。
大口径のリボルバー。
拳銃というより、小型の砲。金属の塊が、薄暗い廊下の光を鈍く反射する。
巨大な獣が腕を振り上げる。
影が落ち、風圧が押し寄せる。
アサシンが低く息を吐いた。
ロープを引き絞り、間合いを詰める準備をする。
だが西洋人は、慌てない。
片手で銃を構え、もう片方の手で帽子でも押さえるみたいに額へ触れた。
芝居がかった仕草。なのに、銃口だけは微塵も揺れない。
「……Action」
笑みのまま、引き金に指がかかる。
獣の腕が、落ちてくる。
──バンッ!!
爆ぜるような発砲音が、廊下を叩いた。
短く、重く、空気を殴りつける音。
銃口が跳ね、火花が一瞬だけ咲く。
弾丸は、迷いなく獣の前腕を貫いた。
──ブチッ。
肉が裂け、黒ずんだ血と破片が飛び散る。
太すぎる腕に風穴が穿たれ、骨が白く覗いた。
巨大な獣が、反射的に腕を引く。
──グ、ォ……!
咆哮が、途切れた。
ほんの一瞬。
確かに、たじろいだ。
床に滴る血。
撃ち抜かれた腕が、痙攣する。
紗月の棘が、鋭く鳴った。
──効いている。
だが──
「……止まらない!」
思わず、声が漏れる。
西洋人の眉が、ほんのわずかに動いた。
期待したほどの反応が、返ってこなかったことへの──失望。
獣は、吠えた。
痛覚を、怒りで押し潰すように。
破壊衝動が、傷を塗り潰す。
撃ち抜かれた腕をだらりと下げたまま、
もう一方の腕で床を蹴る。
──ドンッ!!
床が沈む。
ひびが走り、瓦礫が跳ねた。
三メートル近い肉塊が、なおも突進してくる。
速度は、落ちていない。
質量は、そのまま。
火力が──足りない。
──ガガンッ!!
床が抉れ、粉塵が弾けた。
巨大な爪が、西洋人のいた空間を薙ぐ。
だが──当たらない。
西洋人は、身を捩った。
無理のない動き。なのに、人間の反射速度を逸脱した、紙一重。
爪先がコートの裾を掠める。
布が裂け、空気が切れる。
次の瞬間、西洋人は跳んでいた。
──トン。
軽い音。
紗月のすぐ横、壁際に着地する。
祖母を抱えた彼女から、ほんの一歩分の距離。
「……っ!」
反射的に、紗月の肩が強張る。
近い。近すぎる。
だが、西洋人は銃口を彼女に向けない。
視線も、敵意も、ない。
代わりに、にこりと──場違いなくらい穏やかに笑った。
「こんばんは。怪我はないか、お嬢さん」
──日本語だった。
それも、ぎこちなさの欠片もない。
訛りも、探せないほど自然な発音。
紗月は、一瞬、言葉を失った。
「……え?」
声が、間の抜けた音になる。
背後で、巨大な獣が咆哮する。
天井板が軋み、瓦礫が落ちる。
それでも西洋人は、紗月から視線を外さない。
まるで、今この場で一番大事なのが“会話”であるかのように。
「ここは危険だ、私の後ろから決して離れないように」
頷き、満足そうに一つ息を吐く。
そして、胸元に手を当て、軽く一礼した。
「自己紹介がまだだったな」
次の言葉は、あまりにも唐突だった。
「私はマイケル・ウィルソン」
「第47代、アメリカ合衆国大統領」
──その瞬間、紗月の思考が完全に停止した。
音が、遠のく。
獣の咆哮も、天井の軋みも、粉塵の落ちる音も、すべてが一段向こうへ押しやられる。
「……だい、とう……りょう?」
口が勝手に動いた。
声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「如何にも。おっと……サインは後にしてくれ。今はこのパーティーから抜け出すのが優先だ」
第47代。
アメリカ合衆国。
大統領。
単語だけが、頭の中を順番に通過する。
意味として、繋がらない。
紗月の脳裏に、条件反射みたいに“映像”が浮かんだ。
ニュース。
国際会議。
演壇の前。
星条旗を背負った、もっと年嵩の男。
皺の刻まれた顔。
──少なくとも。
目の前の男では、ない。
紗月の視線が、ゆっくりと西洋人をなぞる。
三十代前半に見える。
背が高く、肩幅が広い。
無駄な脂肪のない体躯。
砕けたコートの下から覗くのは、戦場向きの身体。
そして何より──
やけに整った顔立ち。
映画俳優でも通りそうな、無駄にハンサムな笑顔。
どこをどう切り取っても、
世界最大国家の元首には見えない。
思考が、ようやく現実に追いつく。
「…………は?」
今度は、ちゃんと声が出た。
呆然。
完全なフリーズ。
祖母を抱えた腕に、力が入っていることすら、今は意識の外だった。
巨大な獣が、背後で唸る。
床を踏み鳴らし、次の突進のために体勢を立て直している。
だが紗月は、それを見ていなかった。
見ているのは、ただ一人。
自分を第47代大統領だと名乗る、30代の西洋人。
「お嬢さん、質問タイムは後ほど、サインと共に受け付けよう」
巨大な獣が、低く唸りながら体勢を沈める。
床に食い込んだ爪が、コンクリートを砕き、次の跳躍に向けて筋肉が波打った。
──来る。
頭の中は、「第47代大統領」という単語の残響でいっぱいだった。
状況も、獣も、血の匂いも、すべてが二の次に押しやられている。
その横で。
マイケル・ウィルソンは、完全に彼女を“放置”した。
視線は獣へ。
表情から笑みが消え、代わりに浮かぶのは、冷静な観察者の目。
「……ふむ」
短く、低い声。
獣が前脚を踏み込み、床が沈む。
筋肉の収縮。重心移動。突進の初動。
マイケルはそれを、逃げもせず、構えもせず、ただ見ていた。
「分厚い毛皮、異様な筋肉量……加えてあの俊敏性。困ったワンちゃんだ」
「これは──」
肩をすくめた。
「小さすぎたな」
獣が、吠えた。
音が空気を震わせ、粉塵が舞い上がる。
次の瞬間、三メートルの肉塊が跳ぶ。
だがマイケルは、退かない。
ゆっくりと、まっすぐに立ち上がる。
背筋が伸び、重心が落ち着く。
さっきまでの軽薄さが、影も形もなく消える。
「なら──」
リボルバーを下げ、コートの内側へ戻す。
今度は、ためらいがない。
「パーティー用で、お相手しよう」
紗月の棘が、嫌な音を立てて鳴った。
今までとは質の違う、“危険”の気配。
「【METAL──】」
その単語が、形になる前に。
「待って!」
紗月の声が、廊下を裂いた。
自分でも驚くほど大きい。喉が痛む。
祖母を抱えた腕がきしむのも構わず、紗月は一歩、マイケルの横へ踏み出した。
視界の端で、巨大な獣が床を抉り、跳躍のために筋肉を絞るのが見える。
それでも、紗月はマイケルだけを見た。
「……殺さないで」
言葉が、息と一緒に震えた。
恐怖ではない。必死さだ。
「お願い。あれは……元は人間なの」
「患者だった。ここにいた人だった」
「望まない何かで、獣になって……暴力に支配されてるだけで……」
棘が痛いほど鳴る。
それでも紗月は、言い切る。
「殺さずに、なんとか……できないの?」
次の瞬間、マイケルの顔から一瞬だけ表情が抜けた。
きょとん、と。
「ううーむ、しかし……いや、レディが、そう言うのなら」
間抜けなくらい穏やかな声。
そして、彼は肩をすくめた。
「問題ない、なぜなら──」
コートの内側で進行していた“何か”が、ぴたりと止まる。
空気を焼く前兆が、嘘みたいに消えた。
マイケルは両手を空にした。
武器は、ない。
銃も、ない。
ただ、人間の手。
その瞬間──
獣が、跳んだ。
──ドンッ!!
床が砕け、粉塵が爆ぜる。
三メートルの肉塊が、一直線に突進してくる。
狙いはマイケル。紗月のすぐ前。逃げ場はない。
「私は──」
マイケルは、逃げなかった。
前に出る。
ほんの半歩。
両足を床に沈めるように踏みしめ、両腕を上げた。
「アメリカ合衆国大統領だからだ!」
誰に言ったのか分からない。
紗月にか、獣にか、自分にか。
次の瞬間。
獣の質量が、ぶつかった。
──ガァァンッ!!
衝突音が、金属でも骨でもない鈍い響きで廊下を満たす。
マイケルの両掌が、獣の前腕を掴み止めていた。
止まっている。
あり得ない。
人間の骨と筋肉で受け止められる速度ではない。
受け止めた瞬間に、腕が砕けるはずだ。
だが砕けない。
マイケルの指が、獣の毛皮と肉に沈み、
その沈み込みが“楔”になって突進の力を受け止め、逃がしている。
床に、ひびが走った。
マイケルの靴の下で、コンクリが押し潰されていく。
それでも、彼は一歩も退かない。
「良いタックルだっ、ホワイトハウスの番犬に任命したいくらいにね!」
獣に向かって、まるで褒めるみたいに言う。
獣が、唸る。
押し潰そうとする。
腕をねじり、爪を立て、噛みつこうと頭を振る。
だが、マイケルの手は離れない。
咆哮が天井を揺らし、粉塵が降る。
紗月は、息を呑んだまま動けない。
大統領かどうかなんて、もうどうでもいい。
目の前で起きている現象が、常識を全部置き去りにしていく。
──だが。
紗月の胸の奥で、棘が叫んだ。
このまま見ているだけでは、終わらない。
マイケルが受け止めている“今”こそ、唯一の隙だ。
「……今なら……!」
紗月は祖母を抱えた腕に一瞬だけ力を込め、壁際へ押しつけるように預けた。
床に降ろさない。体をずらして、祖母の背が崩れない位置へ。
指先が震える。だが止まらない。
身体強化。
血が熱くなる。視界の端が研ぎ澄まされ、音が薄くなる。
紗月は駆けだした。
マイケルと獣の間合いへ──獣の視界の外側へ回り込む。
無力化。
殺さずに止める。
関節、腱、呼吸──どこを落とせばいい。
棘の情報が、痛みと一緒に流れ込む。
その“最初の一手”を放つより早く。
マイケルが、動いた。
受け止めたままの両腕が、ひと息で押し返す。
ただ押すのではない。体重と床の反力を直結させ、獣の質量を“後ろ”へ投げる。
──ゴンッ!!
巨体が壁に叩きつけられた。
病院の壁が悲鳴を上げ、石膏と粉塵が弾ける。
天井板が揺れ、照明の残骸がぱらぱら落ちた。
「……っ!」
紗月の足が止まる。
予定していた攻撃が、宙に溶けた。
獣が呻き、頭を振る。
目が焦点を探し、唸りが怒りへ変わる──その瞬間。
マイケルは、悠然と一歩踏み込んだ。
そして、拳を握ったまま──自分の拳骨に、軽く口づけを落とす。
場違いな仕草。
「私の拳にキスしてくれたまえ」
小さく言って、マイケルは──
殴った。
──ドゴッ!!
鈍い音が、骨の奥まで届くように廊下を震わせる。
獣の顔面が横へ跳ね、壁がもう一度鳴った。
続けて、間髪入れず。
──ガッ、ゴッ、ドンッ!!
拳が、嵐みたいに降り注ぐ。
狙いは一貫して顔面──視界と平衡と意識を奪う場所。
殺すためではない。止めるための暴力。だが容赦はない。
獣の唸りが、だんだん掠れていく。
咆哮が、声にならない空気漏れに変わる。
それでも獣は、なおも腕を振り上げようとした。
牙を剥き、爪を立て、怒りで動こうとする。
マイケルは一歩も退かない。
殴って、殴って、殴り続ける。
紗月は、その場で凍りついたまま、拳の軌道を見ていた。
速い。重い。正確だ。
棘が告げる“殺意”ではない。
代わりに、圧倒的な制圧──相手の選択肢を削り落とす暴力。
アサシンが、低く息を吐いた。
獣の膝が、わずかに崩れる。
頭が揺れ、視線が泳ぐ。
マイケルの拳が、最後に一発──顎の下へ入った。
──ゴッ。
獣の巨体が、壁にもたれるように沈む。
床が鳴り、粉塵が落ちる。
マイケルは肩で息をし、拳を軽く振った。
傷一つない指。
そして、振り返りざまに紗月へ向けて、さらりと言った。
「オーダー通りだ、お嬢さん。大統領に不可能はない」
言い終えると同時に、マイケルは獣へ視線を戻した。
呼吸を荒くし、壁にもたれて沈んだ巨体。
骨格はまだ“人”の形を保っているのに、毛皮と筋肉がそれを否定している。
獣は生きている。
だが、今は──意識が薄い。
「……さて。そのままという訳にはいかないな」
軽い口調。
なのに手は素早い。
マイケルは足元に転がっていたものへ目を落とした。
破れたシーツ。
獣に引き裂かれ、床を引きずられ、粉塵と血で汚れた布。
その向こうに、アサシンが落としたロープの端が見える。
マイケルはシーツを拾い上げた。
片手で軽く振る。重さと長さを確かめるみたいに。
「即席だが……まあ、拘束なら十分だ」
壁から剥がす。
床へ落とす。
頭が横に向く。顎が床へ当たって鈍い音がした。
獣が呻いたが、起き上がれない。
そこへ、シーツが掛けられる。
腕から胸、胸から胴。
ぐるぐると巻きつけるのではない。巻き“込む”。
布の端を引き、体重で締め、次の周回へ移る。
マイケルはロープを獣の肘に回し、肩に回し、胸郭を横切らせた。
結び目は簡素。だが、締める位置が的確だった。
動かせば動かすほど自分の体を縛る──そんな拘束。
最後に、獣の足首へ。
足と足を寄せ、ロープで一息に縛る。
──ギュッ。
たったそれだけの音が、やけに大きく聞こえた。
獣は、もう暴れない。
暴れられない。
マイケルは満足そうに頷き、拘束した塊を足先で軽く押した。
巨体が床を擦り、鈍い音を立てて転がる。
「これでOKだ。この毛むくじゃらのハムは暫くは動けないだろう」
紗月は、喉の奥に残った息を吐けなかった。
殺していない。
確かに、殺していない。
それなのに──何かが置いていかれた感覚だけが残る。
その瞬間。
──ウゥゥゥゥ……。
遠くから、音が滲んできた。
一定のリズムで近づく、長いサイレン。
病院の外。
壁の向こう。
現実の世界が、ここへ追いついてくる音。
「……サイレン? 今更……」
紗月がやっと声にした。
棘の中に、また別の緊張が混ざる。獣ではない。人の気配。複数。
マイケルはサイレンの方向へ耳を傾け、肩をすくめた。
「ふむ、グッドタイミングだ」
廊下の奥──粉塵の向こうから、靴音が一つ。
ヒールだ。硬い床を叩く、迷いのない歩幅。
現れたのは、女だった。
黒に近いグレーのジャケット。タイトなスラックス。
髪はきっちりまとめられ、化粧は薄いのに隙がない。
肩にかけたバッグすら“仕事”の匂いがする。
場違い。
だが、場違いを押し通す圧があった。
女は廊下の惨状を一瞥しただけで、眉一つ動かさない。
視線が獣の拘束へ、床の血へ、天井の破片へ──流れるように走り、最後にマイケルへ止まる。
「……お疲れさま、アーチャー」
硬質で、切れ味のある声。
紗月の背筋が冷えた。
この女は、状況を理解している。初見の目ではない。
マイケルは、ぱっと表情を明るくする。
まるで、レッドカーペットで知り合いに会ったみたいに。
「洋子! まったく、私の事は大統領と呼べと言ったはずだぞ」
女──洋子は、まぶた一つ動かさずに返した。
「私こそ何度も言ったわね。私の事はマスターと呼びなさい」
声は低い。乾いている。
“叱る”というより、業務上の修正だ。
紗月は祖母を抱えたまま、女を凝視した。
ヒールで瓦礫を踏んでも歩幅が乱れない。
血の匂いの中で、眉ひとつ動かさない。
そして何より──さっき、確かにこう言った。
アーチャーと、マスターと……
「藍沢さん。落ち着いて聞いて」
名を呼ばれた瞬間、顔が引き攣る。
どうして──この女が自分の名を知っている。
「お婆様には治療が必要ね。段取りはこちらに任せて」
「……あなた、一体」
「紺藤洋子」
姓も名も、徹底的に事務的な声で述べられた。
「監査報告役として教会から派遣された、マスターの1人」
「よろしくね藍沢さん。私達はきっと、良い関係を築けると思うの」