Fate/You Died.   作:助兵衛

43 / 93
第43話 6人目のマスター

 鼻歌の余韻が廊下に薄く残ったまま、場の温度だけが一段、落ちた。

 

 紗月は祖母を抱えたまま、瞬きも忘れてその西洋人を見ていた。

 この状況で、そんな歩き方ができる人間がいるはずがない。

 

 アサシンも同じだった。

 ロープを張ったまま、視線だけを相手に滑らせる。敵か味方かを測る──その“測り”が、珍しくわずかに遅れている。

 

 その遅れを、巨大化した“患者”は見逃さなかった。

 

 ──グオッ。

 

 喉の奥で空気が潰れる音。

 次の瞬間、天井板が裂けた。

 

 巨大な腕が振り上がり、壁を掴み、肉の塊が跳ねる。

 三メートル近い体躯が、あり得ない速度で“飛び込んでくる”。

 

 狙いは紗月ではない。

 

 鼻歌をやめた西洋人──その胸元へ。

 

「っ──!」

 

 紗月の喉が詰まった。

 反射で足が動きかけたが、祖母の重みが現実に引き戻す。

 

 アサシンが踏み込もうとした、その刹那。

 

 西洋人は──避けた。

 

 まるで映画のワンシーンみたいに。

 大げさに肩をすくめ、両手を広げるように身体をひねり、巨大な爪が空を切る瞬間に、足元だけを滑らせた。

 

 ──ドン!! 

 

 爪が床を抉り、コンクリートが悲鳴を上げる。

 粉塵が噴き上がった。

 

 西洋人はその粉塵の縁で、軽く回転するように着地する。

 無駄に格好をつけた動き。無駄に余裕のある顔。

 

「Whoa, whoa. Easy, big guy」

 

 英語が、場違いなくらい軽い。

 

 巨大な獣が、もう一度、咆哮した。

 天井に頭を擦りつけ、照明の残骸が雨のように落ちる。

 

 次の一撃が来る。

 

 西洋人はため息まじりに、胸の前で指を鳴らした。

 

「Okay. Time for……」

 

 言い終えるより早く、片手がコートの内側へ滑り込む。

 

 ──どこから出した。

 

 紗月の思考が追いつかない。

 さっきまで両手は空だった。腰にもホルスターは見えなかった。

 

 それなのに。

 

 西洋人の手には、いつの間にか“それ”があった。

 

 大口径のリボルバー。

 拳銃というより、小型の砲。金属の塊が、薄暗い廊下の光を鈍く反射する。

 

 巨大な獣が腕を振り上げる。

 影が落ち、風圧が押し寄せる。

 

 アサシンが低く息を吐いた。

 ロープを引き絞り、間合いを詰める準備をする。

 

 だが西洋人は、慌てない。

 

 片手で銃を構え、もう片方の手で帽子でも押さえるみたいに額へ触れた。

 芝居がかった仕草。なのに、銃口だけは微塵も揺れない。

 

「……Action」

 

 笑みのまま、引き金に指がかかる。

 

 獣の腕が、落ちてくる。

 

 ──バンッ!! 

 

 爆ぜるような発砲音が、廊下を叩いた。

 短く、重く、空気を殴りつける音。

 

 銃口が跳ね、火花が一瞬だけ咲く。

 

 弾丸は、迷いなく獣の前腕を貫いた。

 

 ──ブチッ。

 

 肉が裂け、黒ずんだ血と破片が飛び散る。

 太すぎる腕に風穴が穿たれ、骨が白く覗いた。

 

 巨大な獣が、反射的に腕を引く。

 

 ──グ、ォ……! 

 

 咆哮が、途切れた。

 ほんの一瞬。

 確かに、たじろいだ。

 

 床に滴る血。

 撃ち抜かれた腕が、痙攣する。

 

 紗月の棘が、鋭く鳴った。

 

 ──効いている。

 だが──

 

「……止まらない!」

 

 思わず、声が漏れる。

 

 西洋人の眉が、ほんのわずかに動いた。

 期待したほどの反応が、返ってこなかったことへの──失望。

 

 獣は、吠えた。

 

 痛覚を、怒りで押し潰すように。

 破壊衝動が、傷を塗り潰す。

 

 撃ち抜かれた腕をだらりと下げたまま、

 もう一方の腕で床を蹴る。

 

 ──ドンッ!! 

 

 床が沈む。

 ひびが走り、瓦礫が跳ねた。

 

 三メートル近い肉塊が、なおも突進してくる。

 速度は、落ちていない。

 質量は、そのまま。

 

 火力が──足りない。

 

 ──ガガンッ!! 

 

 床が抉れ、粉塵が弾けた。

 巨大な爪が、西洋人のいた空間を薙ぐ。

 

 だが──当たらない。

 

 西洋人は、身を捩った。

 無理のない動き。なのに、人間の反射速度を逸脱した、紙一重。

 

 爪先がコートの裾を掠める。

 布が裂け、空気が切れる。

 

 次の瞬間、西洋人は跳んでいた。

 

 ──トン。

 

 軽い音。

 

 紗月のすぐ横、壁際に着地する。

 祖母を抱えた彼女から、ほんの一歩分の距離。

 

「……っ!」

 

 反射的に、紗月の肩が強張る。

 近い。近すぎる。

 

 だが、西洋人は銃口を彼女に向けない。

 視線も、敵意も、ない。

 

 代わりに、にこりと──場違いなくらい穏やかに笑った。

 

「こんばんは。怪我はないか、お嬢さん」

 

 ──日本語だった。

 

 それも、ぎこちなさの欠片もない。

 訛りも、探せないほど自然な発音。

 

 紗月は、一瞬、言葉を失った。

 

「……え?」

 

 声が、間の抜けた音になる。

 

 背後で、巨大な獣が咆哮する。

 天井板が軋み、瓦礫が落ちる。

 

 それでも西洋人は、紗月から視線を外さない。

 まるで、今この場で一番大事なのが“会話”であるかのように。

 

「ここは危険だ、私の後ろから決して離れないように」

 

 頷き、満足そうに一つ息を吐く。

 

 そして、胸元に手を当て、軽く一礼した。

 

「自己紹介がまだだったな」

 

 次の言葉は、あまりにも唐突だった。

 

「私はマイケル・ウィルソン」

 

「第47代、アメリカ合衆国大統領」

 

 ──その瞬間、紗月の思考が完全に停止した。

 

 音が、遠のく。

 獣の咆哮も、天井の軋みも、粉塵の落ちる音も、すべてが一段向こうへ押しやられる。

 

「……だい、とう……りょう?」

 

 口が勝手に動いた。

 声は、自分でも驚くほど平坦だった。

 

「如何にも。おっと……サインは後にしてくれ。今はこのパーティーから抜け出すのが優先だ」

 

 第47代。

 アメリカ合衆国。

 大統領。

 

 単語だけが、頭の中を順番に通過する。

 意味として、繋がらない。

 

 紗月の脳裏に、条件反射みたいに“映像”が浮かんだ。

 

 ニュース。

 国際会議。

 演壇の前。

 星条旗を背負った、もっと年嵩の男。

 皺の刻まれた顔。

 

 ──少なくとも。

 

 目の前の男では、ない。

 

 紗月の視線が、ゆっくりと西洋人をなぞる。

 

 三十代前半に見える。

 背が高く、肩幅が広い。

 無駄な脂肪のない体躯。

 砕けたコートの下から覗くのは、戦場向きの身体。

 そして何より──

 

 やけに整った顔立ち。

 映画俳優でも通りそうな、無駄にハンサムな笑顔。

 

 どこをどう切り取っても、

 世界最大国家の元首には見えない。

 

 思考が、ようやく現実に追いつく。

 

「…………は?」

 

 今度は、ちゃんと声が出た。

 

 呆然。

 完全なフリーズ。

 

 祖母を抱えた腕に、力が入っていることすら、今は意識の外だった。

 

 巨大な獣が、背後で唸る。

 床を踏み鳴らし、次の突進のために体勢を立て直している。

 

 だが紗月は、それを見ていなかった。

 

 見ているのは、ただ一人。

 

 自分を第47代大統領だと名乗る、30代の西洋人。

 

「お嬢さん、質問タイムは後ほど、サインと共に受け付けよう」

 

 巨大な獣が、低く唸りながら体勢を沈める。

 床に食い込んだ爪が、コンクリートを砕き、次の跳躍に向けて筋肉が波打った。

 

 ──来る。

 

 頭の中は、「第47代大統領」という単語の残響でいっぱいだった。

 状況も、獣も、血の匂いも、すべてが二の次に押しやられている。

 

 その横で。

 

 マイケル・ウィルソンは、完全に彼女を“放置”した。

 

 視線は獣へ。

 表情から笑みが消え、代わりに浮かぶのは、冷静な観察者の目。

 

「……ふむ」

 

 短く、低い声。

 

 獣が前脚を踏み込み、床が沈む。

 筋肉の収縮。重心移動。突進の初動。

 

 マイケルはそれを、逃げもせず、構えもせず、ただ見ていた。

 

「分厚い毛皮、異様な筋肉量……加えてあの俊敏性。困ったワンちゃんだ」

 

「これは──」

 

 肩をすくめた。

 

「小さすぎたな」

 

 獣が、吠えた。

 音が空気を震わせ、粉塵が舞い上がる。

 

 次の瞬間、三メートルの肉塊が跳ぶ。

 

 だがマイケルは、退かない。

 

 ゆっくりと、まっすぐに立ち上がる。

 

 背筋が伸び、重心が落ち着く。

 さっきまでの軽薄さが、影も形もなく消える。

 

「なら──」

 

 リボルバーを下げ、コートの内側へ戻す。

 今度は、ためらいがない。

 

「パーティー用で、お相手しよう」

 

 紗月の棘が、嫌な音を立てて鳴った。

 今までとは質の違う、“危険”の気配。

 

「【METAL──】」

 

 その単語が、形になる前に。

 

「待って!」

 

 紗月の声が、廊下を裂いた。

 自分でも驚くほど大きい。喉が痛む。

 

 祖母を抱えた腕がきしむのも構わず、紗月は一歩、マイケルの横へ踏み出した。

 視界の端で、巨大な獣が床を抉り、跳躍のために筋肉を絞るのが見える。

 それでも、紗月はマイケルだけを見た。

 

「……殺さないで」

 

 言葉が、息と一緒に震えた。

 恐怖ではない。必死さだ。

 

「お願い。あれは……元は人間なの」

 

「患者だった。ここにいた人だった」

 

「望まない何かで、獣になって……暴力に支配されてるだけで……」

 

 棘が痛いほど鳴る。

 それでも紗月は、言い切る。

 

「殺さずに、なんとか……できないの?」

 

 次の瞬間、マイケルの顔から一瞬だけ表情が抜けた。

 きょとん、と。

 

「ううーむ、しかし……いや、レディが、そう言うのなら」

 

 間抜けなくらい穏やかな声。

 そして、彼は肩をすくめた。

 

「問題ない、なぜなら──」

 

 コートの内側で進行していた“何か”が、ぴたりと止まる。

 空気を焼く前兆が、嘘みたいに消えた。

 

 マイケルは両手を空にした。

 武器は、ない。

 銃も、ない。

 ただ、人間の手。

 

 その瞬間──

 

 獣が、跳んだ。

 

 ──ドンッ!! 

 

 床が砕け、粉塵が爆ぜる。

 三メートルの肉塊が、一直線に突進してくる。

 狙いはマイケル。紗月のすぐ前。逃げ場はない。

 

「私は──」

 

 マイケルは、逃げなかった。

 

 前に出る。

 ほんの半歩。

 両足を床に沈めるように踏みしめ、両腕を上げた。

 

「アメリカ合衆国大統領だからだ!」

 

 誰に言ったのか分からない。

 紗月にか、獣にか、自分にか。

 

 次の瞬間。

 

 獣の質量が、ぶつかった。

 

 ──ガァァンッ!! 

 

 衝突音が、金属でも骨でもない鈍い響きで廊下を満たす。

 マイケルの両掌が、獣の前腕を掴み止めていた。

 

 止まっている。

 

 あり得ない。

 人間の骨と筋肉で受け止められる速度ではない。

 受け止めた瞬間に、腕が砕けるはずだ。

 

 だが砕けない。

 

 マイケルの指が、獣の毛皮と肉に沈み、

 その沈み込みが“楔”になって突進の力を受け止め、逃がしている。

 

 床に、ひびが走った。

 マイケルの靴の下で、コンクリが押し潰されていく。

 

 それでも、彼は一歩も退かない。

 

「良いタックルだっ、ホワイトハウスの番犬に任命したいくらいにね!」

 

 獣に向かって、まるで褒めるみたいに言う。

 

 獣が、唸る。

 押し潰そうとする。

 腕をねじり、爪を立て、噛みつこうと頭を振る。

 

 だが、マイケルの手は離れない。

 

 咆哮が天井を揺らし、粉塵が降る。

 

 紗月は、息を呑んだまま動けない。

 

 大統領かどうかなんて、もうどうでもいい。

 目の前で起きている現象が、常識を全部置き去りにしていく。

 

 ──だが。

 

 紗月の胸の奥で、棘が叫んだ。

 このまま見ているだけでは、終わらない。

 マイケルが受け止めている“今”こそ、唯一の隙だ。

 

「……今なら……!」

 

 紗月は祖母を抱えた腕に一瞬だけ力を込め、壁際へ押しつけるように預けた。

 床に降ろさない。体をずらして、祖母の背が崩れない位置へ。

 指先が震える。だが止まらない。

 

 身体強化。

 血が熱くなる。視界の端が研ぎ澄まされ、音が薄くなる。

 

 紗月は駆けだした。

 マイケルと獣の間合いへ──獣の視界の外側へ回り込む。

 

 無力化。

 殺さずに止める。

 関節、腱、呼吸──どこを落とせばいい。

 棘の情報が、痛みと一緒に流れ込む。

 

 その“最初の一手”を放つより早く。

 

 マイケルが、動いた。

 

 受け止めたままの両腕が、ひと息で押し返す。

 ただ押すのではない。体重と床の反力を直結させ、獣の質量を“後ろ”へ投げる。

 

 ──ゴンッ!! 

 

 巨体が壁に叩きつけられた。

 病院の壁が悲鳴を上げ、石膏と粉塵が弾ける。

 天井板が揺れ、照明の残骸がぱらぱら落ちた。

 

「……っ!」

 

 紗月の足が止まる。

 予定していた攻撃が、宙に溶けた。

 

 獣が呻き、頭を振る。

 目が焦点を探し、唸りが怒りへ変わる──その瞬間。

 

 マイケルは、悠然と一歩踏み込んだ。

 

 そして、拳を握ったまま──自分の拳骨に、軽く口づけを落とす。

 

 場違いな仕草。

 

「私の拳にキスしてくれたまえ」

 

 小さく言って、マイケルは──

 

 殴った。

 

 ──ドゴッ!! 

 

 鈍い音が、骨の奥まで届くように廊下を震わせる。

 獣の顔面が横へ跳ね、壁がもう一度鳴った。

 

 続けて、間髪入れず。

 

 ──ガッ、ゴッ、ドンッ!! 

 

 拳が、嵐みたいに降り注ぐ。

 狙いは一貫して顔面──視界と平衡と意識を奪う場所。

 殺すためではない。止めるための暴力。だが容赦はない。

 

 獣の唸りが、だんだん掠れていく。

 咆哮が、声にならない空気漏れに変わる。

 

 それでも獣は、なおも腕を振り上げようとした。

 牙を剥き、爪を立て、怒りで動こうとする。

 

 マイケルは一歩も退かない。

 殴って、殴って、殴り続ける。

 

 紗月は、その場で凍りついたまま、拳の軌道を見ていた。

 速い。重い。正確だ。

 棘が告げる“殺意”ではない。

 代わりに、圧倒的な制圧──相手の選択肢を削り落とす暴力。

 

 アサシンが、低く息を吐いた。

 

 獣の膝が、わずかに崩れる。

 頭が揺れ、視線が泳ぐ。

 

 マイケルの拳が、最後に一発──顎の下へ入った。

 

 ──ゴッ。

 

 獣の巨体が、壁にもたれるように沈む。

 床が鳴り、粉塵が落ちる。

 

 マイケルは肩で息をし、拳を軽く振った。

 傷一つない指。

 

 そして、振り返りざまに紗月へ向けて、さらりと言った。

 

「オーダー通りだ、お嬢さん。大統領に不可能はない」

 

 言い終えると同時に、マイケルは獣へ視線を戻した。

 呼吸を荒くし、壁にもたれて沈んだ巨体。

 骨格はまだ“人”の形を保っているのに、毛皮と筋肉がそれを否定している。

 

 獣は生きている。

 だが、今は──意識が薄い。

 

「……さて。そのままという訳にはいかないな」

 

 軽い口調。

 なのに手は素早い。

 

 マイケルは足元に転がっていたものへ目を落とした。

 破れたシーツ。

 獣に引き裂かれ、床を引きずられ、粉塵と血で汚れた布。

 その向こうに、アサシンが落としたロープの端が見える。

 

 マイケルはシーツを拾い上げた。

 片手で軽く振る。重さと長さを確かめるみたいに。

 

「即席だが……まあ、拘束なら十分だ」

 

 壁から剥がす。

 床へ落とす。

 頭が横に向く。顎が床へ当たって鈍い音がした。

 

 獣が呻いたが、起き上がれない。

 

 そこへ、シーツが掛けられる。

 腕から胸、胸から胴。

 ぐるぐると巻きつけるのではない。巻き“込む”。

 布の端を引き、体重で締め、次の周回へ移る。

 

 マイケルはロープを獣の肘に回し、肩に回し、胸郭を横切らせた。

 結び目は簡素。だが、締める位置が的確だった。

 動かせば動かすほど自分の体を縛る──そんな拘束。

 

 最後に、獣の足首へ。

 足と足を寄せ、ロープで一息に縛る。

 

 ──ギュッ。

 

 たったそれだけの音が、やけに大きく聞こえた。

 

 獣は、もう暴れない。

 暴れられない。

 

 マイケルは満足そうに頷き、拘束した塊を足先で軽く押した。

 巨体が床を擦り、鈍い音を立てて転がる。

 

「これでOKだ。この毛むくじゃらのハムは暫くは動けないだろう」

 

 紗月は、喉の奥に残った息を吐けなかった。

 殺していない。

 確かに、殺していない。

 それなのに──何かが置いていかれた感覚だけが残る。

 

 その瞬間。

 

 ──ウゥゥゥゥ……。

 

 遠くから、音が滲んできた。

 一定のリズムで近づく、長いサイレン。

 

 病院の外。

 壁の向こう。

 現実の世界が、ここへ追いついてくる音。

 

「……サイレン? 今更……」

 

 紗月がやっと声にした。

 棘の中に、また別の緊張が混ざる。獣ではない。人の気配。複数。

 

 マイケルはサイレンの方向へ耳を傾け、肩をすくめた。

 

「ふむ、グッドタイミングだ」

 

 廊下の奥──粉塵の向こうから、靴音が一つ。

 ヒールだ。硬い床を叩く、迷いのない歩幅。

 

 現れたのは、女だった。

 

 黒に近いグレーのジャケット。タイトなスラックス。

 髪はきっちりまとめられ、化粧は薄いのに隙がない。

 肩にかけたバッグすら“仕事”の匂いがする。

 

 場違い。

 だが、場違いを押し通す圧があった。

 

 女は廊下の惨状を一瞥しただけで、眉一つ動かさない。

 視線が獣の拘束へ、床の血へ、天井の破片へ──流れるように走り、最後にマイケルへ止まる。

 

「……お疲れさま、アーチャー」

 

 硬質で、切れ味のある声。

 

 紗月の背筋が冷えた。

 この女は、状況を理解している。初見の目ではない。

 

 マイケルは、ぱっと表情を明るくする。

 まるで、レッドカーペットで知り合いに会ったみたいに。

 

「洋子! まったく、私の事は大統領と呼べと言ったはずだぞ」

 

 女──洋子は、まぶた一つ動かさずに返した。

 

「私こそ何度も言ったわね。私の事はマスターと呼びなさい」

 

 声は低い。乾いている。

 “叱る”というより、業務上の修正だ。

 

 紗月は祖母を抱えたまま、女を凝視した。

 ヒールで瓦礫を踏んでも歩幅が乱れない。

 血の匂いの中で、眉ひとつ動かさない。

 

 そして何より──さっき、確かにこう言った。

 

 アーチャーと、マスターと……

 

「藍沢さん。落ち着いて聞いて」

 

 名を呼ばれた瞬間、顔が引き攣る。

 どうして──この女が自分の名を知っている。

 

「お婆様には治療が必要ね。段取りはこちらに任せて」

 

「……あなた、一体」

 

「紺藤洋子」

 

 姓も名も、徹底的に事務的な声で述べられた。

 

「監査報告役として教会から派遣された、マスターの1人」

 

「よろしくね藍沢さん。私達はきっと、良い関係を築けると思うの」

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。