Fate/You Died.   作:助兵衛

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第44話 新陣営

 翌日。

 

 窓の外は、駅前の雑踏がいつも通りに流れていた。

 灰原地区──この街にしては“栄えている側”の駅前。チェーンの看板が並び、昼の光がガラスに反射し、改札の電子音が遠くで規則的に鳴る。

 

 だが、その喧噪は薄い膜を一枚挟んだ向こう側だった。

 

 簡素な事務所の空気は、妙に静かだ。

 事務机が二つ。スチールの書庫。パイプ椅子。安い観葉植物。湯呑みとインスタントの珈琲。

 “仕事”のために最低限だけ揃えました、という室内。

 

 そして、その最低限に──ひとつだけ、異物が混じっている。

 

 結界。

 

 目に見えるものではない。

 だが、紗月の霊的感覚に微かな反応が残る。

 玄関のドア枠。窓のサッシ。換気口の縁。何かが触れたときだけ、鈴を鳴らすような浅い張り。

 

 強固ではない。

 侵入を“拒む”のではなく、“報せる”だけの作り。

 まるで──訪問者の可能性を、最初から織り込んだように。

 

 紗月はパイプ椅子に座り、膝の上で指を組んだ。

 組んだはずの指先が、ほどけそうになる。

 力を入れると、今度は爪が皮膚に食い込む。

 

 向かいの椅子には、紺藤洋子が座っている。

 

 昨日と同じ、隙のない装い。

 ただし、今日はジャケットを脱いでいた。腕まくりこそしないが、袖口が整いすぎていて逆に“仕事中”だと分かる。

 机の上には、ノートPC。紙のファイル。細いペン。スマートフォンは伏せて置かれ、画面は沈黙を守っている。

 

 洋子は紗月を見ない。

 視線はファイルの文字列へ落ちたまま、淡々とページを送る。

 紙が擦れる音だけが、部屋の静けさを補強する。

 

「……お婆様は」

 

 紗月が先に口を開いた。

 声が、自分でも驚くほど乾いていた。

 

 洋子の指が止まる。

 視線だけを上げる。必要な分だけ。

 

「昨夜のうちに、教会が管理する医療施設に引き継いだわ。症状は落ち着いているけれど、油断出来ない状況」

 

「……油断できない、というのは」

 

 紗月は言葉の続きを探しながら、視線を落とした。

 机の縁。自分の指。そこに残っている、昨日の感触。

 

 毛皮。

 異様な筋肉。

 人の形をした“患者”。

 

「……昨日の人たちみたいに、なる可能性が……ある、ってことですか」

 

 問いは、ほとんど祈りだった。

 否定してほしい。断言してほしい。

 それが無理でも、せめて“可能性は低い”と言ってほしい。

 

 洋子は、すぐには答えなかった。

 ノートPCの画面を閉じ、今度こそ真正面から紗月を見る。

 

「結論から言うわ」

 

 声音は落ち着いている。

 感情を排した、判断の声。

 

「昨夜の患者たちと、あなたのお婆様の症状は“別物”よ」

 

 紗月の胸が、小さく上下した。

 

「別……?」

 

「ええ。暴走した患者たちは、共通して霊基異常を引き起こしていた。肉体が、魂から完全に変質して別の生物に変わり果てていたわ」

 

 洋子はペンを取り、何も書いていない紙の上で先端を動かす。

 図を描くでもなく、説明のための“動き”。

 

「対して、お婆様の症状は慢性的。咳と発熱を主症状とする謎の病、あるいは呪いよ」

 

「……じゃあ」

 

「昨夜のように、突然獣化して暴走する可能性は──」

 

 洋子は一瞬だけ言葉を切った。

 その間に、紗月の棘が、嫌な音を立てる。

 

「──低い、と私は見ている」

 

 断言ではない。

 だが、根拠のある予測。

 

「確定はできない。医師でも、神父でも、そこまでは言えない。でも少なくとも、同じ条件では起きない」

 

 紗月は、ゆっくりと息を吐いた。

 吐いた息が、少し震えている。

 

「……よかった……」

 

 声が、かすれた。

 膝の上で組んだ指に、ようやく力が戻る。

 

「引き続き経過を観察し、何かあればすぐに連絡するわ」

 

 洋子は、視線を少しだけ外した。

 同情ではない。配慮に近い距離感。

 

 洋子は、そこで一拍置いた。

 

 視線が、机の上のファイルから外れる。

 その代わりに、結界の気配が薄く漂う室内全体を、ひとつの“場”として見渡した。

 

「……ここからは、少し話の性質が変わるわ」

 

 事務的だった声が、わずかに硬さを帯びる。

 仕事の説明ではない。立場の開示だ。

 

「あなたに、改めて伝えておく必要がある」

 

 洋子は椅子に深く腰を掛け直し、背筋を正した。

 姿勢そのものが、名刺代わりのようだった。

 

「私は聖堂教会から派遣された魔術師よ。肩書きとしては“監査”。名目上は、灰原で行われる聖杯戦争を見届ける事と、儀式の正当性の検証」

 

 紗月は、黙って聞いている。

 それがただの自己紹介ではないことを、直感が告げていた。

 

「教会は当初、黒野家の説明を受け入れていた」

 

 洋子は、淡々と続ける。

 

「──魔術の根源に至るための、限定的かつ管理された儀式。既存の聖杯戦争とは異なり、暴走の危険性は低い。参加者も、規模も、制御可能だと」

 

 ペン先が、机を軽く叩いた。

 乾いた音。

 

「だから、マスターを派遣した。監視役を置いた。最悪の事態を防ぐために」

 

 紗月の喉が、微かに鳴る。

 

「……じゃあ」

 

 言葉が、自然と出た。

 

「教会は、黒野家を……信じていたんですか」

 

「“信じる”というより、“許容した”が正しいわ」

 

 洋子は即座に訂正した。

 

「冬木の一件以前なら、それで通った」

 

 その言葉が、空気の密度を変えた。

 

 冬木。

 聖杯戦争。

 壊れた街と、隠蔽と、数え切れない死。

 

「でも、冬木を経た今、教会は変わった」

 

 洋子の声は、低く、揺れない。

 

「聖杯戦争という儀式そのものに、根本的な疑念が生まれている。魔術の根源に至る、という美名の裏で、どれだけの歪みが蓄積してきたのか──それを、もう見過ごせない」

 

 洋子はファイルを一つ、指で押さえた。

 その表紙には、簡素なラベルが貼られている。

 

 ──灰原。

 

「灰原は、特に危険視されている」

 

 紗月の背筋に、冷たいものが走る。

 

「魔力密度が、異常に高い。自然発生としては説明がつかない水準。地下霊脈の偏り、土地そのものの“性質”、そして……」

 

 洋子は、言葉を選んだ。

 

「黒野家は色々ときな臭い」

 

 沈黙が落ちる。

 

 窓の外では、電車が通過する音がした。

 この事務所だけが、時間から切り離されたように静かだ。

 

「だから私はここにいる」

 

 洋子は、紗月を真正面から見据えた。

 

「儀式が“正しい”かどうかを見るためじゃない。暴走した場合、どこまでが意図で、どこからが事故か──それを切り分けるため」

 

「……事故じゃ、ない可能性がある?」

 

 紗月の声は、掠れていた。

 

 洋子は、否定もしない。

 肯定もしない。

 

「可能性の話よ」

 

 それだけ言って、息を吐いた。

 

「昨夜の患者たちの件は、その疑念を強めた。聖杯戦争に直接参加していない一般人が、ああいう形で“霊基異常”を起こすのは、通常あり得ない」

 

 洋子の視線が、紗月の胸元──そこに宿る棘の気配へ、ほんの一瞬だけ向く。

 

「だから、あなたのお婆様の件も含めて、私は“個人的な同情”だけで動いているわけじゃない」

 

 言葉は冷たい。

 だが、誠実だった。

 

「あなたは、監視対象であり──同時に、重要な証人よ、藍沢紗月」

 

 洋子は、その言葉の余韻が消えるのを待った。

 

 急かさない。

 答えを引き出すための沈黙ではなく、選択肢を並べるための間。

 

「──そこで、提案があるわ」

 

 洋子は指を組み、机の上に置いた。

 交渉の姿勢だ。

 

「私は監査役として派遣された、所詮外部の人間よ」

 

 視線が、紗月へ向く。

 

「でも、あなたは違う。灰原の魔術師で、土地に根を下ろして生きている」

 

 淡々とした分析。

 だが、その中に評価が含まれていることを、紗月は感じ取った。

 

「だから──協力してほしい」

 

 はっきりとした言葉だった。

 

「情報を共有する。私が教会側から得ている知見、観測結果、過去の類似事例。代わりに、あなたが現地で見たもの、感じた違和感、独自に掴んだ事実を教えてほしい」

 

 洋子は、条件を付け足す。

 

「無理に全部とは言わない。あなたの立場や守りたいものがあるのは理解している」

 

 紗月の指が、膝の上でわずかに動いた。

 

 そして──灰原誠。

 聖杯との関係性。

 

 それだけは、出せない。

 

 彼の結末を決めるは、自分でありたい。

 

「……私が、断ったら?」

 

 紗月は、慎重に問う。

 

 洋子は、事実だけを述べた。

 

「私たちは敵となる、聖杯戦争の流れに則りこの場で殺し合う事になるでしょうね」

 

 洋子の声は、乾いていた。

 

 叙述ではなく、報告。

 脅しではなく、規則の読み上げ。

 

 その冷たさが、紗月の背中を薄く撫でた。

 

 膝の上で組んだ指が、ほんの僅かに強張る。

 

「昨夜見た通り、アーチャーはどのような局面でも戦える。もちろん、私もね」

 

 洋子は、目を逸らさない。

 瞳の奥に、感情の温度がない。

 

 紗月は言葉を失い、ただ呼吸だけが浅くなった。

 

 そのとき。

 

 窓際から、将棋駒の乾いた音が一つ、落ちるように響いた。

 

「oh.」

 

 間の抜けた声。

 

 続けて、別の駒が「カチ」と置かれる。

 慎重で、しかし遠慮がない一手。

 

 紗月が視線を向けると、窓際の机──盤を挟んで向かい合う二人がいる。

 

 アサシンは涼しい顔で腕を組み、盤上を見ている。

 その指先はさっきから一度も迷わない。

 

 対して、マイケル・ウィルソンは。

 

「……ニンジャガイ、待っただ」

 

 真剣に盤面を睨みながら、真剣に間違えていた。

 

 玉は壁際。

 金銀は薄い。

 飛車は封じられ、角は睨まれ、逃げ道が一つずつ消えている。

 

 追い詰められている。

 盤上でも、本人も。

 

「もう十回目だ、これ以上はならぬ」

 

「……ニンジャガイ。君は、なぜそんなに冷酷なんだ」

 

 マイケルが眉を寄せると、アサシンは小さく息を吐いた。

 

「そういう趣旨の遊戯だ」

 

 言葉が、刺す。

 マイケルは一瞬、喉を鳴らし──

 

「ぐっ……正論はやめてくれたまえ」

 

 そして、ようやく顔を上げた。

 

 洋子と紗月の間に落ちた氷のような空気を、正確に嗅ぎ取る。

 彼の視線が洋子へ移ると、軽薄な笑みがほんの一瞬だけ消えた。

 

「洋子」

 

 声が低い。

 さっきまでの冗談めいた調子ではない。

 

「それは“提案”じゃない。“脅迫”だ」

 

 洋子は、眉一つ動かさない。

 

「現実を言っただけよ、アーチャー。聖杯戦争は──」

 

「知っているとも」

 

 マイケルが遮った。

 窓の外の雑踏すら、遠のく。

 

「だが美しくない」

 

 将棋盤の横で、彼は指を立てる。

 演説の癖が、出る。

 

「『協力してほしい』と言った舌で、『断れば殺し合い』と続けるのは、フェアじゃない」

 

 洋子の瞳が、ほんの僅かに細くなる。

 

「これは殺し合いの儀式よ、アーチャー。甘い事を言えば、付け入られる」

 

「一向に構わない。罠であれば、罠ごと食い破って見せよう。なぜなら、私は大統領だ」

 

 マイケルが、さらりと言った。

 

 洋子が言葉を止める。

 紗月も、呼吸を止める。

 

 その瞬間、アサシンが静かに駒を置いた。

 

 ──カチ。

 

「詰みです、アーチャー」

 

 短い宣告。

 

 マイケルは盤面を見て、しばらく固まった。

 

「……おお」

 

 そして、なぜか誇らしげに頷いた。

 

「見事だ。暗殺者が将棋で王を討つ。実に寓話的だ」

 

 負けを負けとして受け取らない厚かましさが、逆に場の空気をわずかに緩める。

 

 マイケルは、盤から視線を外して洋子へ戻した。

 今度は、笑っていない。

 

「洋子。私は決して負けない、君の任務も必ず遂行させる。故に、多少の無駄は許容してくれ」

 

 マイケルの言葉が落ちると同時に、部屋の空気がもう一度だけ張り直された。

 

 洋子は返さない。

 返す必要がない、という顔でもない。

 ただ、計算が動いている目。

 

 マイケル・ウィルソンは、ゆっくりと立ち上がった。

 

 椅子が床を擦る音は小さい。

 けれど、立ち上がるという動作そのものが、場に「演壇」を作る。

 

 窓の外の雑踏は変わらない。

 改札の電子音も、車輪の走行音も、いつも通り。

 だがこの事務所の内部だけが、別の手続きに入る。

 

 マイケルはコートの襟を整えた。

 たったそれだけで、さっきまで将棋盤の前で負け犬のように唸っていた男が、

 別の生き物になる。

 

 視線が、紗月へ向いた。

 

 正面から。

 逃げ道を塞がない距離で。

 しかし、逃げられない角度で。

 

「ミス藍沢」

 

 名を呼ぶ声が、妙に丁寧だった。

 敬語ではない。呼称の選び方が、政治家のそれだ。

 

「まず、ひとつ確認したい。君は──君の家族を守りたい。正しいか?」

 

 質問の形をしているが、否定を許さない前提。

 紗月の喉が小さく鳴る。

 

「……当たり前です」

 

 絞り出すような返答。

 紗月の指が膝の上で固く組まれたまま、ほどけない。

 

 マイケルは頷いた。

 

「よろしい。次に」

 

 言葉が滑らかに繋がる。

 間を置かない。反論が生まれる前に、枠組みを作る。

 

「君は、この街──灰原で起きていることを止めたい。少なくとも、昨夜のようなものを“増やしたくない”。違うか?」

 

 紗月は一瞬だけ視線を落とした。

 獣の毛皮、血の匂い、天井板の裂ける音。

 祖母の咳。

 

 否定できない。

 

「……増やしたくない」

 

 短い言葉。

 それで十分だ、とマイケルは頷いた。

 

「ならば我々の利害は一致している」

 

 洋子が僅かに目を細めた。

 言葉の運びが、あまりに政治的だからだ。

 

 マイケルは洋子を見ない。

 紗月だけを見る。

 

「私は“協力してくれ”と言う。だが、君が恐れているのはこうだろう」

 

 彼は指で、机上に見えない箇条書きを置いていく。

 

「情報を渡せば、弱みになる」

 

「協力すれば、首輪になる」

 

 言い切ってから、マイケルは指を戻した。

 結論を急がない。空気に浮かせたまま、紗月の反応を待つ。

 

 紗月は、その“待ち方”にぞくりとした。

 

 観察されている。

 

「……分かってるなら」

 

 声が喉の奥で擦れた。

 言葉の続きを探す間に、胸の奥で何かが鈍く跳ねる。

 

 マイケルは静かに頷き、今度は、ひとつだけ別の紙片を置くように言った。

 

「そして、最後の一点」

 

 声音が、僅かに低くなる。

 

「君には──本当の目的がある」

 

 紗月の心臓が、一拍、遅れた。

 

 空気が薄くなる。

 窓の外の改札音が遠のき、事務所の中の匂いだけが濃く残る。

 

 洋子の視線が、初めて紗月へ刺さった。

 “今のは何? ”と問う刃。

 

 マイケルは続ける。淡々と。断定を恐れない調子で。

 

「聖杯戦争を止めたい。一般人を守りたい。家族を守りたい。──それらは本心だ」

 

 一つずつ、肯定していく。

 逃げ道を用意する話し方。

 否定させないための優しさではなく、潰さないための手順。

 

「だが、それだけではない」

 

 紗月の指先が冷えた。

 膝の上で組んだ指が、気づかぬうちに白くなっている。

 

 マイケルは、ほんの僅かに首を傾げた。

 

「君の“終わらせ方”は、もっと具体的だ」

 

 その言葉だけで、紗月の脳裏に名前が浮かんだ。

 

 灰原誠。

 

 口にしていない。

 胸の奥に沈めて、彼らには触らせなかったはずの──

 

「……っ」

 

 息が詰まる。

 

 マイケルは、その動揺を見逃さない。

 だが、笑わない。

 踏み込む足も、詰めない。

 

 代わりに、言葉だけが真っ直ぐに来る。

 

「君は“誰か一人”を切れば、災厄が終わると考えている」

 

 紗月の背筋を、冷たいものが撫でた。

 

 口が勝手に動きそうになるのを、棘が必死で止める。

 違う、と言え。

 知らない、と言え。

 

 なのに──

 

 マイケルの目が、妙に優しい。

 裁く目ではない。罰する目でもない。

 ただ、理解している目。

 

「……知ったような口を」

 

 やっと絞り出した言葉は、質問の形を借りた抵抗だった。

 

 マイケルは一瞬だけ間を置いてから、答えを口にした。

 

「灰原誠」

 

 世界が、きしんだ。

 

 椅子の脚が床に食い込み、背もたれが軋んだ気がした。

 紗月の身体が、小さく揺れたのを自分で感じた。

 

 洋子の眉が、初めて動く。

 ほんの僅かに。だが確かに。

 

「……あなた」

 

 洋子の声が低くなる。

 問うというより、確認に近い。

 

 マイケルは洋子へ視線を向けない。

 紗月だけを見つめている。

 

「簡単な推理だよ。秘匿されていない情報からでも、いくつか仮説は立てられる」

 

 さらりと言う。

 誇らない。勝ち誇らない。

 まるで“計算が合った”程度の調子で。

 

「君の反応が、答えだ」

 

 紗月の喉が鳴った。

 否定が遅れている。

 

 危険だ。

 これは弱みだ。

 ここで口を滑らせたら、取り返しがつかない──

 

 それでも。

 

 祖母の咳が、耳の奥でよみがえった。

 昨日の獣の眼が、瞼の裏で開いた。

 灰原の空気が、じわじわと変質していく感覚。

 

 そして、誠の背中。

 

 災厄の中心にいる、いてしまっている、彼。

 

「……どうして、分かるんですか」

 

 声が震えた。

 怒りではない。恐怖でもない。

 縋りたい震えだ。

 

 マイケルは、その震えを“弱み”として扱わなかった。

 そこが決定的に、洋子と違う。

 

「私は大統領だ」

 

 軽い冗談に見える言い方。

 だが、その奥に真剣がある。

 

「人は、隠したいことほど、守り方に癖が出る。君は、情報を隠すのが上手い」

 

 それは評価だった。

 同時に、救いでもあった。

 

「だが、守りたいものが大きすぎる。しかも、殺したい灰原誠すら、その対象ならばね」

 

「明らかな矛盾だ、大人の政治家でもそんな矛盾は抱えきれない。君の様に若い女性ならば尚更だ」

 

 言葉が残酷なのに、声は残酷じゃない。

 だから余計に、紗月は崩れそうになる。

 

 マイケルは、そこで一歩、ようやく机に近づいた。

 距離を詰めるためではない。

 “交渉の席”に戻るためだ。

 

「ミス藍沢」

 

「ならば、我々はその目的を達成する手助けを行う」

 

 宣言。

 迷いがない。

 しかし、条件をぶつけてこない。

 

 洋子が口を挟もうとする気配がする。

 だがマイケルは、それすら織り込んだように続けた。

 

「付け込まない。脅さない」

 

 そして、ほんの少しだけ笑った。

 

「助ける。なぜなら──それがこの街の被害を最小化する最短ルートだからだ」

 

 政治家の言葉だ。

 正義ではなく、結果で語る。

 

 紗月の喉の奥が熱くなる。

 目の奥が痛い。

 

 言ってはいけない。

 誠のことは、自分だけのものだ。

 自分が決めるべき結末だ。

 

 それなのに。

 

「助ける」と言われた瞬間、胸の中の何かがほどけた。

 助けが必要だと認めてしまった。

 

 マイケルは、そこで“さらっと”踏み込む。

 

「改めて聞かせてくれ」

 

 声は柔らかい。

 聞き取りやすい、演説の音。

 

「君の本当の目的は何だい、君の口から聞きたい」

 

 紗月の唇が開いた。

 

 疲れ切っている。

 

 紗月は、椅子の縁を掴んだ。

 指先に力を込めないと、崩れる。

 

「……灰原君を」

 

 声が、掠れた。

 

「……殺せば」

 

 言葉が続くたびに、自分の中の何かが削れる。

 

「終わる、って……思ってる」

 

「なぜだい? それは、灰原誠に儀式の核心が絡んでいるからかな? 例えば、聖杯とか」

 

 その一言で、紗月の背中が反射的に固まった。

 

 “聖杯”。

 

 口に出した瞬間、部屋の空気がひとつ沈む。

 洋子のまつ毛が、ほんのわずかに揺れた。

 

 紗月は息を吸い込む。

 否定しなければならない。笑って誤魔化さなければならない。

 ここで頷いたら──灰原誠だけじゃなく、自分の“最後の権利”まで奪われる。

 

 なのに。

 

 マイケルの目が、待っている。

 追い詰める目ではない。

 “答えを持っている人間”を、ただ静かに見守る目。

 

「……ちが」

 

 声が喉で折れた。

 

 否定の言葉が、続かない。

 棘が鳴く。止めろ、と。

 けれど棘の音は、いつもより遠い。昨日からずっと、鳴き疲れている。

 

 紗月は唇を噛み、視線を落とした。

 机の木目が滲む。

 

「……はい」

 

 短い肯定。

 その瞬間、口の中が乾き切った。

 

 洋子の顔色が変わる。

 変わったのに、表情は変えない。

 動揺を、仕事の皮で押し潰している。

 

「……待って」

 

 洋子の声が、いつもより一段低い。

 机上のペンが、指先で止まる。

 

「聖杯が……“人間に絡んでいる”という意味?」 

 

 問いの形を取っているが、否定を許さない鋭さだった。

 監査役としての冷徹さが、いま初めて乱れる。

 

 紗月は反射で首を振りかけ──止めた。

 もう、遅い。

 一度「はい」と言った時点で、半分は崩れている。

 

 唇が震えた。

 

「絡んでる、じゃない……」

 

 声が掠れる。

 

「……同一化、してる」

 

 洋子が息を止める。

 まぶたが僅かに開き、瞳孔が一瞬だけ揺れた。

 

「……同一化?」

 

 言葉を反芻するように、音だけを繰り返す。

 

 紗月は、指先が冷たくなるのを感じた。

 言えば言うほど、取り返しがつかなくなる。

 なのに、止められない。縋りたい。

 

「彼は、灰原一之進によって造られた聖杯の、器となっている」

 

 沈黙。

 

 窓の外の雑踏が、薄い膜の向こうで流れ続ける。

 この部屋だけが、時間を失っている。

 

 洋子は、言葉を探していた。

 仕事の言葉。公式の言葉。整理の言葉。

 だが、出てこない。

 

「そんな……」

 

 口から落ちたのは、否定ではなく、驚愕だった。

 

 監査役の頭が、現実に追いつこうとしている。

 その計算の音が、空気を硬くする。

 

 その中で。

 

 マイケル・ウィルソンだけが、変わらなかった。

 

 怒らない。責めない。勝ち誇らない。

 ただ、ゆっくり頷いた。

 

「理解した」

 

 短い言葉が、重く落ちる。

 

 紗月は思わず顔を上げた。

 そこにあるのは、同情でも正義でもない。

 “決めた人間”の目だ。

 

「藍沢さん」

 

 マイケルの声が、少しだけ柔らかくなる。

 

「君が灰原君の結末を決めたい理由も、分かった」

 

 紗月の胸の奥が、ひりついた。

 言い当てられたのに、奪われない。

 その不思議さが、怖い。

 

 マイケルは、両手を軽く広げた。

 降伏のポーズではない。

 武器を持たないことの証明。政治家の仕草。

 

「ならば、我々は君の目的を達成する手助けをしよう」

 

 宣言が、部屋の中心に据えられる。

 

「君が灰原君の結末を決められるように取り計らう」

 

 洋子が、遅れて反応した。

 

「アーチャー……それは──」

 

 マイケルは洋子へ目を向けない。

 紗月だけに、言葉を渡す。

 

「ミス藍沢は秘密を明かした、我々は彼女の覚悟に報いる義務がある。これは譲れない」

 

 そして、淡々と続けた。

 

「我々は障害を取り除く。情報の遮断、敵対者、誤解、監視──必要なら、それらの“政治的な処理”も含めてだ」

 

 紗月は、喉の奥が熱くなった。

 そんな約束は信用できない、と言うべきだ。

 でも、言えない。

 

 だって。

 

 今この瞬間、初めて“味方”という言葉に形ができた。

 

「……どうして」

 

 紗月の声が掠れる。

 

「そんなこと、言えるんですか。あなたは……」

 

 マイケルは、微笑まないまま答えた。

 

「私は大統領だ、君の意思と決定を尊重しよう」

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