灰原の駅前は、昼の顔をしていた。
チェーンの看板。自転車の列。改札から吐き出される人の波。スピーカー越しの案内が、時間を均すように繰り返される。
その雑踏の中に、ひとつだけ“薄い違和感”が混じっている──と言われても、誰も気づかない。
アサシンは、違和感にならないための装いをしていた。
現代風の黒いパーカー、細身のパンツ。スニーカー。
マスクとキャップで顔の輪郭をぼかし、髪は隠す。
そして何より、義手は見せない。
左腕は長袖の内側で固定し、肘の少し上まで布を二重に巻く。動かすたびに出る微細な金属音も、布と皮膚の摩擦に沈む。
歩幅は周囲に合わせる。
速すぎず、遅すぎず。
視線は一点を刺さない。だが、流すだけでもない。
駅前広場に差し掛かったとき、音が変わった。
雑踏のざわめきに、もう一つ、均された声が混じる。
人工的で、平板で、どこか安心させる調子。
街頭テレビだ。
駅前のビル壁面に設置された大型モニター。
昼のニュース枠。昼休みの人間を引き止めるための、少し大きめの音量。
アサシンは立ち止まらない。
ただ、歩く速度をほんの僅かに落とした。
画面には、見覚えのある建物が映っている。
灰原中央病院。
正面玄関。
黄色と黒の規制線。
警備員の背中。
遠巻きにスマートフォンを構える人々。
『──昨夜、灰原地区で発生した病院内の混乱を受け、現在、当該医療施設は一時的に封鎖されています』
女性キャスターの声は落ち着いている。
不安を煽らない訓練された抑揚。
だが、画面の下に流れるテロップは、言葉を選び切れていない。
【原因不明の症状】
【患者が一時的に錯乱】
【安全確保のため全患者を移送】
アサシンの足取りが、半拍だけ遅れる。
画面が切り替わる。
病院の裏手。
夜明け前に撮られたらしい、薄暗い映像。
ストレッチャー。
シーツに覆われた人影。
搬送用の車両。ナンバーはぼかされている。
『現在、入院患者および一部の外来患者は、関係機関が指定した別の医療施設へ移送されており──』
関係機関。
便利な言葉だ。
教会とも、黒野家とも、行政とも言わずに済む。
アサシンは、街頭テレビの前を通り過ぎながら、音だけを拾う。
映像は視界の端で十分だ。
『──なお、今回の件と関連している可能性がある体調不良について、市は引き続き注意を呼びかけています』
キャスターの背後に、グラフが表示される。
日付と共に、ゆっくりと右肩上がりの折れ線。
『現時点で詳しい原因は判明しておらず、専門家は「過度な不安を避け、正確な情報を待つように」としています』
アサシンは、駅前広場を抜けた。
人の密度が、目に見えて薄くなる。
チェーン店の看板は減り、個人経営の古い飲食店や、シャッターを半分下ろした商店が目につき始めた。
足元の舗装も、いつの間にか継ぎ目が荒くなる。
雑踏は、背後に置いてきた。
それでも音は消えない。
車の走行音。遠くの踏切。エアコンの室外機。
生活の音だ。危機感のない、日常の音。
アサシンは、一本裏の通りへ折れた。
人通りはさらに減る。
ここまで来れば、歩く速度を周囲に合わせる必要もない。
マスクの奥で、小さく息を吐いた。
病院で起きた“獣化”。
患者が凶暴化し、人の形を失い、理性を捨てる病。
──皆目、見当がつかない。
少なくとも、自分の知る毒でも呪いでもない。
戦場で見てきた薬物、禁呪……蟲憑きの秘術。
それらのどれとも微妙に食い違っている。
異常だ。
不自然ですらある。
アサシンは歩きながら、左腕に意識を向けた。
布の下に隠した義手は、静かだ。
違和感も、軋みもない。
──だが。
沙月の祖母。
咳。
慢性的な発熱。
原因不明。
医療でも魔術でも、決定打がない症状。
それには、覚えがあった。
足が、自然と緩む。
思考が、過去へ引き戻される。
──葦名。
名を思い出した瞬間、喉の奥に鉄の味が蘇った。
山に囲まれ、霧と血と死が常に漂っていた地。
剣と忍が生き、そして死んだ国。
アサシンが育ち、そして一度“終わった”場所。
そこに蔓延した病があった。
竜咳。
アサシンは、歩きながら視線を落とした。
アスファルトのひび割れが、山道の岩肌と重なる。
竜咳は、病ではなかった。
原因は、明確だった。
生き返る者がいる。
死を拒み、理を踏み越え、何度も立ち上がる存在がいた。
その代償として、周囲の人間が削られる。
命が、分け与えられるのではない。
吸い取られる。
それが、竜の理だった。
咳。
発熱。
衰弱。
やがて、静かな死。
──似ている。
アサシンの歩調が、わずかに乱れる。
紗月の祖母の症状。
獣の病とは別に、灰原で増え続ける原因不明の体調不良。
報道で伏せられた数字の裏側。
竜咳と、酷似している。
だが──。
この世界には、いないはずだ。
竜も、竜胤も──自らが手にかけた、その御子も……
アサシンは、路地裏の自販機の横で立ち止まった。
風に揺れる電線の音が、遠雷のように響く。
降り積もった灰が、風に巻かれて渦となる。
──いない、はずだ。
そう、理屈では分かっている。
この世界に、竜はいない。
竜胤も、御子も、あの理そのものも存在しない。
それでも。
アサシンの胸の奥で、嫌な一致が重なり続けていた。
竜咳が蔓延した理由。
あの病が生まれた直接の原因。
それは己、アサシン──狼と呼ばれた忍の幾度もの死、そして竜胤による蘇生。
アサシンは、ゆっくりと息を吸った。
マスクの内側で、呼吸音がわずかに反響する。
もし。
もしも、この世界に竜胤が持ち込まれたとしたら。
それは誰だ。
答えは、嫌になるほど明確だった。
──自分だ。
アサシン──狼は今聖杯戦争において、一度死んでいる。
相手はセイバー、黒野理央のサーヴァント。
灰原誠を守ろうと立ちはだかった、剣の英霊。
胸を貫かれ。
地に伏し。
意識が、完全に途切れた。
戦闘不能。
サーヴァントとしての活動限界を超えた、完全な沈黙。
それでも。
自分は、戻ってきた。
理を無視して。
死を無かったことにして。
何事もなかったかのように、いつもの様に立ち上がった。
アサシンは、左腕を押さえた。
義手の内側に、何かが脈打つ気がした。
錯覚だと分かっていても、振り払えない。
あの蘇生の瞬間。
この世界に、何が流れ込んだ?
竜咳は、竜胤による不死者の死により蔓延する。
歯が、軋んだ。
悔恨が、遅れて押し寄せる。
理解してしまったがゆえの、逃げ場のない痛みだった。
──まただ。
同じことを、繰り返している。
アサシンは、拳を握った。
指先が、布越しに掌へ食い込む。
痛みはある。だが、それは生きている証でしかない。
それが、いちばん憎い。
生前、自分は選んだ。
竜胤の御子と契約し、不死となる道を。
守るためだった。使命のためだった。
だが結果として、葦名に竜咳を蔓延させた。
人が、倒れた。
名もなき者が、静かに咳き、熱にうなされ、衰弱して死んだ。
原因は、常に自分だった。
だからこそ。
最後に、自分は剣を振るった。
御子の命により。
御子自身を、殺した。
竜胤の理を断つために。
不死という災厄を、この世から消すために。
その後、自分は仏門に降りた。
刀を置き、名を捨て、ただ静かに業を背負って朽ちるはずだった。
──それで、終わったはずだった。
なのに。
再び、この身は呼び出された。
英霊として。
しかも、竜胤を宿したまま。
誰が、決めた。
何が、許した。
アサシンは、壁にもたれかかるようにして、路地裏に立ち尽くした。
昼の光が、フードの影を深くする。
自分が生き返った。
たった一度。
その“たった一度”で、十分だった。
灰原で、咳が始まった。
発熱が広がった。
数字は伏せられ、原因はぼかされ、それでも確実に増えている。
──また、奪っている。
知らぬ人間の命を。
守るべきであった者たちの時間を。
悔しかった。
怒りではない。
恐怖でもない。
ただ、どうしようもなく、悔しかった。
自分は学ばなかったのか。
あれほどの犠牲を見て、なお。
義手の下で、心臓が強く打った。
不死の理が、まだここにあると主張するように。
「……俺は」
喉から漏れた声は、掠れていた。
誰に向けた言葉でもない。
否定でも、言い訳でもない。
それでも、止められなかった。
「……九郎様」
名を、呼んでしまった。
あの、小さな背。
静かな声。
剣を受け入れた、穏やかな眼差し。
許しを請う資格など、ない。
救われる理由も、ない。
それでも。
「……なんと、不甲斐ない」
声が、震えた。
マスクの内側で、息が乱れる。
自分は、約束を破った。
終わらせたはずの災厄を、またこの世に引き戻した。
仏門に降りた意味は、どこへ行った。
あの選択は、何だった。
アサシンは、額を壁に預けた。
冷たいコンクリートが、現実を突きつける。
悔しくて。
悔しくて。
悔しくて、堪らなかった。
この街に、葦名を重ねてしまう自分が。
再び“原因”になってしまった自分が。
ならば。
せめて。
この身が不死であることが災いならば。
この身が病を生むのならば。
──今度こそ、正しく終わらせねばならない。
──正しく、終わらせる。
その言葉が、胸の奥で静かに反響した。
アサシンは、ゆっくりと壁から身を離した。
足元の影が、昼の光に引き延ばされる。
路地の向こうでは、誰かが笑い、誰かが電話をしている。
この街は、まだ“生きている”。
葦名と、決定的に違う。
葦名は、終わりの途中だった。
誰もがそれを理解していた。
戦も、病も、理も、すべてが絡まり合い、もう引き返せない段階にあった。
だからこそ、自分は剣を振るえた。
御子の願いを受け入れ、災厄を断ち切る覚悟を持てた。
──では、灰原は?
まだ、終わっていない。
まだ、日常が息をしている。
まだ、取り戻せる余地がある。
アサシンの脳裏に、マスターの顔が浮かんだ。
紗月。
静かな声。
怯えを隠すためではなく、決意を零さないために抑えた表情。
迷いがあることを、最初から否定しない眼。
彼女は、逃げていない。
慢性的な土地の霊脈異常。
増え続ける感染者。
正体不明の災厄。
それらを前にして、彼女は選んだ。
──灰原誠を、殺す。
アサシンは、目を伏せた。
似ている。
あまりにも、似ている。
守りたい存在がいる。
そのために、もっと大切なものを切らねばならない。
誰かを救うために、誰かを殺す。
正しさではない。
美しさでもない。
ただ、責任だ。
御子は、最後に言った。
──これで、よいのです。
紗月の眼にも、同じ色があった。
誰にも見せない場所で、すでに泣き終えた者の色。
アサシンは、息を吐いた。
胸の奥で、悔恨が静かに形を変えていく。
ならば。
自分は、再び剣を取る。
今度は、御子のためではない。
自分の贖罪のためでもない。
──彼女の覚悟の、隣に立つために。
もし、竜胤の不死がこの世界に災いをもたらすのなら。
もし、自分が原因であるのなら。
その業ごと、断ち切る。
灰原誠を守ろうとする者がいるなら、斬る。
誤った延命を望む理があるなら、忍殺す。
そして最後に。
もし必要とあらば──この身すら。
アサシンは、フードの奥で目を細めた。
そこに迷いはない。
あるのは、重なった二つの使命だけだ。
葦名で果たした使命。
そして、紗月が今、背負おうとしている使命。
同じ重さ。
同じ痛み。
だからこそ。
アサシンは、再び歩き出した。
路地を抜け、閑静な住宅街へ入る。
舗装は整い、街路樹が増える。
アサシンは足を止めず、自然な速度のまま曲がり角を一つ越えた。
視界が、ひらける。
塀。
高く、厚く、無駄がない。
古さと新しさが、意図的に同居している。
装飾は抑えられているが、土地と資金と権力を、隠そうともしていない。
門の脇に、表札があった。
──黒野。
短く、太い文字。
それだけで十分だと言わんばかりの、簡潔さ。
アサシンの足が、わずかに緩む。
そのとき。
門の内側で、低いエンジン音が鳴った。
黒塗りの車。
磨かれた車体が、昼の光を鈍く反射する。
運転手付き。
後部座席のカーテンが、静かに引かれている。
帰還だ。
門が開き、車がゆっくりと外へ出る。
警戒はされているが、緊張はない。
“戻ってきた”という空気が、屋敷全体に漂っている。
アサシンは、歩道の影に溶け込むように立ち位置を変えた。
存在感を、さらに一段落とす。
車が通り過ぎる。
一瞬、カーテンの隙間が揺れた。
見えたのは、横顔。
灰原誠。
若い。
まだ、終わりを背負う顔ではない。
だが、何かを抱え込んだまま、逃げ切れなくなっている顔だ。
その隣に、黒野理央。
背筋を伸ばし、外界を睨むような視線。
守る者の眼だ。
アサシンの胸に、感情は湧かなかった。
憎しみも、怒りもない。
哀れみすら、ない。
あるのは、理解だけだ。
──あのときの、自分と同じ。
アサシンは、フードの影で静かに息を整えた。
心拍が、一定に落ち着く。
忍として、もっとも澄んだ状態。
刀には触れない。
殺気も、向けない。
ただ、決める。
黒塗りの車が角を曲がり、視界から消える。
その背を見送りながら、アサシンは、ほとんど音にならない声で呟いた。
「……改めて」
風に紛れるほどの小ささで。
「……お命を、頂戴いたす」
「今一度、不死断ちをなさん」
真名:狼(御子の忍/不死断ち)
クラス:アサシン
性別:男性
身長・体重:172cm・62kg
属性:秩序・悪
筋力:B 耐久:A 敏捷:A+
魔力:D 幸運:C 宝具:A
概略
葦名の地にて、竜胤の理により不死となった忍。
数度の死と蘇生が「竜咳」を生み、災厄の中心となった竜胤の御子を――御子の願いに従い、自らの手で終わらせた。
不死断ちを成し遂げた後、仏門に降った“終わらせる者”。その霊基は暗殺者の枠に収まるが、剣聖葦名一心を始めとした数々の強敵との死闘の末、直接戦闘能力はセイバーにも匹敵する。
クラススキル
気配遮断:A+
気配を断ち、視覚・聴覚・霊的感知のいずれからも“そこにいない”ように振る舞う。静止・潜伏状態で最大。戦闘開始の瞬間まで殺気を残さない。忍び義手に備わった無数の機構を使いこなす事により、忍として最高峰のランクを保持するに至った。
単独行動:B
一定期間、マスターの魔力供給が希薄でも現界を維持できる。忍としての生存術と、戦場孤児として生きた経験がこれを可能とする。
陣地作成:D
工房ではなく“待ち伏せの地”を作る。罠・導線・遮蔽物の配置によって局地的優位を構築するが、長期固定の魔術的拠点は築けない。
保有スキル
忍びの技量:B
潜入、攀じ登り、隠密、偽装、暗器、毒、罠、近接格闘までを一連の“作法”として完成させた総合技能。
都市環境でも適応し、監視網の死角を読んで行動できる。
養父であり師、大忍び梟から叩き込まれた忍びの極意。主は命を賭して守り、奪われたら必ず取り戻せ。
忍殺:EX
「隙」「体勢崩し」「油断」を条件に、対象の霊核へ直接“死”を通す。
防御・装甲・再生能力を迂回し、仕留めるための一点に収束する暗殺技法。不死断ち【拝涙】と組み合わせる事で不死者すら殺す一撃を放つ、しかし、別世界の不死性に対しては完全な死を与える事は出来ず、不死と不死断ちの拮抗により対象は仮死状態となる。
見切り:A
相手の初動・重心・魔力の偏りを読み、致命を回避する戦闘直感。剣士や槍兵の間合いにも対応可能だが、完全な未来視ではない。
仏門の誓い:B+
感情による判断ブレ、恐怖、精神干渉への高い耐性。
“終わらせる”と決めた理に対して、躊躇を許さない自己規律。
回生:EX
本来は断たれたはずの竜胤の残滓が霊基に滲む。
霊核を破壊されて完全に霊基が消失した後であっても、任意のタイミングで復活可能、即座に行動に移る事が出来る。
死ぬ度に周囲の生命力を吸い取り、竜咳と呼ばれる病を齎す災厄である。
宝具
不死断ち【拝涙(はいるい)】
ランク:A 種別:対不死宝具
レンジ:1〜3 最大捕捉:1人
葦名に伝わる二振りの不死斬り、そのうちの一振り。
死なない者を死なせるためだけに鍛えられた、極めて限定的かつ純粋な殺しの刃。
その一太刀は“不死”という現象を斬るのではなく、不死を成立させている因果・契約・理そのものを終わらせる。
狼が成し遂げた不死断ちとは、単に御子を殺したことではない。
御子の命に従い、「人が死なずに在り続けるという歪んだ循環」を、この世界から消し去る選択であった。
その終着点で用いられたこの刃は、涙と共に振るわれ、以後、再び抜かれることはない……はずだった。