黒野家の敷地へと続く私道を、黒塗りの車がゆっくりと進んでくる。
車が近付くと、鉄製のゲートが音もなく開いた。
運転席にいるのはセイバー。
無駄のない操作。急がず、遅れず、屋敷の前でぴたりと車を止める。
後部座席のドアが開く。
最初に降りたのは、黒野理央だった。
コートの裾を軽く整え、足元を確かめるように一歩踏み出す。
長時間の移動を終えたはずだが、姿勢に崩れはない。
周囲を一瞥するその目は、帰宅の安堵よりも、確認の色が濃かった。
続いて、灰原誠。
少し遅れて、紫村秀則。
セイバーは車を降りず、運転席から周囲を監視している。
玄関先に、使用人が一人、控えていた。
黒野家に長く仕えている者の立ち居振る舞い。
だが、今日はその背筋が、いつもより硬い。
理央は、その変化を見逃さなかった。
「ただいま。留守中、変わりは?」
短い問いだった。
声に感情はない。
使用人は、一瞬だけ言葉を探すように唇を引き結ぶ。
「……口頭では、申し上げにくい状況でございます」
そう答えた。
理央の眉が、わずかに動く。
使用人は、脇に抱えていた書類の束を両手で整えた。
封筒ではない。
即席でまとめられた報告資料。
ページの端が揃っていないところに、事態の切迫が滲んでいる。
「こちらを……お目通しください」
理央は、無言で資料を受け取った。
紙の重みを、指先で確かめる。
「分かった」
理央は資料を手にしたまま、玄関を進んだ。
使用人が先導し、廊下を折れる。
足音は抑えられているが、屋敷特有の広さが、一歩ごとに距離を感じさせた。
応接室の扉が開く。
重厚だが過度ではない室内。
低いテーブル。深く沈むソファ。壁際の書棚と、外光を柔らかく取り込む大きな窓。
黒野家の「客を迎える部屋」でありながら、どこか実務的な空気が残っている。
「こちらへ」
使用人の声に従い、三人はそれぞれ席に着いた。
誠は、ソファに身を沈めた瞬間、肩の力が抜けたのが自分でも分かった。
秀則も同様で、背もたれに体を預け、短く息を吐く。
使用人は無言で動いた。
トレイに載せたティーカップを順に置いていく。
湯気。
ほのかに立ち上るベルガモットの香り。
「失礼いたします」
一礼して、使用人は静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに柔らかく響く。
誠は、カップに手を伸ばす前に、深く息を吐いた。
「……とりあえず、戻れたな」
独り言に近い声だった。
秀則も、カップを両手で包み込む。
「休養期間とは一体なんだったのか……いや、正しく修行パートでしたな」
二人の間に、わずかな安堵が流れる。
だが。
理央だけは、動かなかった。
ソファに腰掛けたまま、紅茶には一切目もくれず、資料に視線を落としている。
ページをめくる音だけが、規則的に部屋に響く。
──カサリ。
理央は、最後のページを閉じた。
それから、ゆっくりと資料の束を整え、低いテーブルの上に置く。
紙が触れ合う音が、やけに大きく聞こえた。
次の瞬間。
理央は、深く息を吐いた。
それは疲労の吐息ではない。
状況を受け入れた人間が、覚悟を整えるための呼吸だった。
誠は、その変化を即座に察した。
「……黒野?」
呼びかける声が、自然と低くなる。
理央は視線を上げ、誠と秀則の二人を順に見た。
表情は落ち着いている。だが、隠そうともしない深刻さがあった。
「街で、病が流行している」
端的な言葉だった。
秀則が眉をひそめる。
「病気……? そういえば、感染病で学校が閉鎖がどうとか──」
「病気……そうね、そういう扱いをされているわ」
理央は淡々と遮る。
「咳、発熱、倦怠感。軽症から始まり、悪化すると入院が必要になる例も出ている」
誠の手が、無意識にカップを握る。
「感染症……じゃないのか?」
「断定はされていないわ」
理央は首を振った。
「医療側の所見は揃っている。感染経路が説明できない。患者の共通条件はただ一つ、この灰原に住むものという事よ」
理央は、資料の表紙を指で叩いた。
「──魔術的な兆候がある」
その一言で、空気が変わった。
秀則の背筋が、わずかに伸びる。
「つまり……」
「呪いね」
理央は、はっきりと言った。
「少なくとも、通常の病じゃない。土地、あるいは人に付着する形で広がっている可能性が高いわ」
沈黙が、ひと呼吸分だけ伸びた。
誠は、思わず身を乗り出す。
「……それってさ」
言葉を選びながら、続ける。
「誰かが、意図的にやってるってことか?」
秀則も、遅れて理解に追いついたように目を見開いた。
「街全体に……? そんな規模の呪いを?」
理央は、すぐには答えなかった。
テーブルの上の資料に、もう一度視線を落とす。
数字。時系列。地点。症状のばらつき。
「わからない……」
静かに、そう言った。
「聖杯戦争に参加している、いずれかの陣営による工作かもしれない」
誠の顔が、こわばる。
「……街そのものを、人質に取るってことか」
「あるいは、別の目的の副産物かもしれない」
理央は続ける。
「霊脈を乱すため。土地に魔力を滞留させるため。あるいは、特定の誰かを炙り出すため」
秀則が、低く唸った。
「どれにしても、やり方が過激すぎる……普通、そこまでやるか?」
理央は、その言葉に小さく頷いた。
「そこなのよ」
彼女は、ようやく紅茶に視線を向けた。
だが、やはり手は伸ばさない。
「規模が大きすぎる。そして──無差別すぎる」
二人が、同時に理央を見る。
「陣営による呪詛や工作なら、通常は“効率”を考えるわ。キャスターの学校をまるごと覆う結界や住宅地での戦闘は、過剰ではあったけれど目撃者の排除も同時に行っていた」
理央は、指先でテーブルを軽く叩いた。
「でも、これは違う。発生地点が散っていて、被害者の共通点が薄い。──狙いが見えない」
誠が、ぽつりと呟く。
「……じゃあ、本当に街全体に、ばら撒かれてるだけ……?」
「その可能性もある」
理央は、少しだけ言葉を選んだ。
「だからこそ、断言できない。これは“誰かの工作”なのか。それとも、聖杯戦争そのものが引き起こしている歪みなのか」
──歪み。
その言葉が口をついた瞬間、理央の視線が、ほんの一瞬だけ誠の方へ流れた。
意図したものではない。
だが、誠はそれを見逃さなかった。
責める色ではない。
探るようでもない。
ただ、確認するような──重さを測る目だった。
誠は何も言わない。
言えなかった、と言う方が近い。
理央はすぐに視線を戻し、小さく息を整えた。
「……今は、原因を特定することに意味はないわ」
きっぱりとした声だった。
秀則が、少し意外そうに目を瞬かせる。
「追わないんですか?」
「後回しにする、というだけよ」
理央はそう言って、ようやくティーカップに手を伸ばした。
指先がカップの取っ手に触れ、わずかに熱を感じる。
「原因不明、目的も不明、被害はあまりに広範囲……正直、私たちの手には負えないと、思う」
カップを持ち上げ、香りを確かめるように一度だけ鼻先に寄せる。
理央は、そのまま紅茶を一口含んだ。
舌に広がる渋みと、遅れて来るほのかな甘み。
温度が喉を通り、胸の奥に落ちていく。
──温かい。
その感覚に、ほんの一瞬だけ、張り詰めていたものが緩んだ。
「……はあ」
意図せず、小さな吐息が零れる。
「……夕飯の相談をしましょう。流石に、頭を使いすぎた」
現実的で、あまりにも普通の言葉。
それが逆に、場の緊張をわずかに和らげた。
理央は、室内にあった呼び鈴を鳴らす。
屋敷の中なら、軽く鳴らすだけで十分なはずだった。
だが。
返事が、ない。
廊下の気配も、足音も、扉の向こうの衣擦れ一つ聞こえない。
理央は、眉をひそめた。
もう一度、今度は少しだけ強く鳴らす。
それでも、応答はなかった。
秀則が、違和感に気付いたように背筋を伸ばす。
「あれですな。ファミレスとかで、呼べてるか分からなくて気まずいやつ」
「え? ええ、そうね」
理央は短く答え、ソファ脇の内線機に手を伸ばした。
受話器を取り、慣れた動作で番号を押す。
使用人室の回線。
コール音が、応接室に響く。
──プルルル。
──プルルル。
一定の間隔。
規則正しく、しかし虚ろな音。
誰も、取らない。
誠が、低く言った。
「……出ないな」
「おかしいわね」
理央は、通話を切らずに耳を澄ます。
屋敷は広いが、完全な無音というわけではないはずだ。
しかし今、聞こえるのは──
壁時計の秒針。
遠くの外界の、風の気配。
人の動く気配が、どこにもない。
理央は、内線を切った。
受話器を元に戻す音が、やけに硬く響く。
「……誰も出ない」
その言葉に、誠と秀則の表情が、ゆっくりと引き締まっていく。
ただの行き違い。
そうであってほしい。
沈黙が、もう一段重くなった。
誠は、ソファの縁に手をつき、低く息を吐く。
「まさか、敵襲、って可能性は?」
声は抑えられていたが、言葉の端に緊張が滲んでいた。
秀則も頷く。
「それは、考えにくいわ」
二人の視線が、理央に集まる。
彼女は立ったまま、応接室をぐるりと一度見渡した。
壁。天井。床。
視線は、目に見えない“層”をなぞっている。
「この屋敷には、侵入を感知する仕掛けが幾重にも張り巡らされている」
淡々とした口調だった。
「結界、霊的感知、物理的トラップ。どれか一つでも反応すれば、即座に私のところに通知が来る。侵入者は、その場で拘束か排除よ」
誠の眉が、深く寄る。
「……じゃあ」
「今のところ、何も反応していない」
理央は、はっきりと言った。
「だから、外部からの強引な侵入ではない」
秀則が、困惑を隠さずに言う。
「でも……じゃあ、どうやって?」
理央は、わずかに言葉を切った。
「仕掛けを作動させずに侵入し、屋敷内を自由に動き、使用人全員を無力化する──」
そこで、一瞬、間が空いた。
「そんなことが出来るのは……」
理央は言いかけて、口を閉じた。
誠は、その沈黙に気付いた。
「……黒野?」
理央の視線が、床に落ちる。
そして、ゆっくりと上がった。
そこにあったのは、迷いではない。
“思い当たってしまった”者の表情だった。
「……それこそ」
小さく、しかし明確な声。
「凄腕の暗殺者でもいない限り、あり得ない」
誠の背中に、冷たいものが走る。
暗殺者。
その単語が、頭の中で反響する。
同時に、ひとつの顔が浮かんだ。
静かな決意を宿した少女。
そして、その背後に立つ、影のような存在。
「……藍沢先輩」
誠の口から零れた名に、理央は答えなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、その沈黙そのものが、答えだった。
秀則が喉を鳴らす。
「……え、え、でも……アサシン……?」
理央は小さく頷き、視線を扉へ戻した。
耳ではなく、霊的な感覚で屋敷の“空気”を測る。
妙に、静かだ。
静かすぎる。
音が消えているのではない。
音が“出るべき場所”が、空になっている。
直感が、背筋を撫でた。
これは偶然ではない。
誰かが、意図して空白を作っている。
理央は息を吸う。
胸の奥で、ひとつの結論が落ちた。
「……来たわね」
声は低い。断言に近い。
誠が反射的に立ち上がる。
「来てるのか……ここに?」
「ええ、警戒して」
理央はソファの背を離れ、二人の間に立つように位置を変える。
テーブル越しではなく、身体で壁を作る距離。
「灰原君、窓際から離れて。紫村君は扉を背にしない」
秀則が一瞬、冗談を挟む隙を探したが、理央の目を見て黙った。
今の眼差しは、いつもの冷静さよりさらに硬い。
「セイバ──―」
理央が呼びかけようとした、その瞬間だった。
──パツン。
細い糸が切れるような音。
応接室のシャンデリアが、同時に息を止めた。
壁の間接照明も、廊下の灯りも、階段のフットライトも。
屋敷の中から、光が一斉に消える。
空調の低い唸りが途切れ、遠くで何かが停止する気配がした。
冷蔵庫のモーター。給湯の循環。監視カメラの微かな駆動音。
それらが、まとめて“落ちた”。
「……停電?」
西日の名残が、ガラス越しに室内を薄く照らしている。
輪郭は見える。人影も見える。
真っ暗ではない。
視界が確保されていることが、かえって不気味だった。
「……灰原君、紫村君」
理央が低く言う。
「動かないで。教えた通りに、呼吸を乱さないで」
言い終える前に、屋敷のどこかで。
コトン、と。
陶器が、床に置かれるような音がした。
応接室の外。
廊下の、すぐ向こう。
誰かが、そこにいる。
その音が落ちた瞬間、三人の身体から余計な動きが消えた。
誠は息を止めかけ、すぐに理央の言葉を思い出して呼吸を浅く整える。
秀則はカップを置いたまま、指先だけをわずかに浮かせる。いつでも立てる、だが立たない。
理央は一歩も動かず、視線だけで扉を射抜いた。
応接室の扉。
分厚い木。
真鍮のノブ。
その向こうにあるはずの廊下の闇。
全員が、一斉にそこを見る。
意識も、耳も、殺気も──すべてが扉へ集まる。
今この瞬間、開くならここだ、と身体が決めている。
だが。
扉は、動かない。
ノブも回らず、軋みも立たない。
ただ、夕方の薄い光が窓から差し込むだけで、室内の輪郭だけが静かに残る。
違和感が、遅れて来た。
音は廊下からした。
なら、来るのは扉の向こう。
なのに、気配が──“そこ”にない。
理央の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
背筋の奥で、何かが反転する。
「……っ」
言葉にならない短い息。
理央が「窓」と言い切る前に。
窓際。
誰も注視していなかった方角から、声が響いた。
低く、掠れている。
しかし明瞭で、やけに礼儀正しい。
「……失礼いたす」
誠が、反射で首を回す。
大きな窓。
薄いカーテンの揺れ。
夕陽の縁取りの中に、黒い影が立っていた。
時代錯誤な忍装束。
異様に静かな立ち姿。
そこにいるだけで、空気の密度が変わる。
声が、もう一度、淡々と続いた。
「黒野殿。灰原殿。紫村殿」
名を呼ばれた瞬間、誠の喉が鳴る。
その声は、距離感を壊していない。近いのに、遠い。
影は窓枠に触れていない。
だが、窓の外なのか内なのか──判断がつかない。
理央が、ゆっくりと誠の前へ半歩出た。
視線は外さない。声だけを落とす。
「……アサシン」
影が小さく首を傾げた気配だけを返す。
「左様」
それだけで十分だった。
名乗りは要らない。どちらも、すでに理解している。
アサシンは一歩──ではない。
床を鳴らさず、空気の層を滑るように距離を詰める。
暗殺者らしからぬ、丁寧な所作だった。
フードの縁に触れ、ほんのわずかに頭を下げる。
武器を抜かない。殺気を誇示しない。
ただ、礼を尽くすように、言葉を整える。
「灰原殿」
誠の名が呼ばれた瞬間、背中に冷えたものが走る。
理央がさらに半歩、完全に盾になる位置に入った。
アサシンは、それを咎めない。
むしろ、当然の振る舞いとして受け入れている。
「改めて──」
声は低く、しかし聞き逃しようのない明瞭さで。
「お命を、頂戴いたす」
まるで、儀礼の宣誓だった。
殺すことを、汚さずに言う。
その端正さが、かえって不気味だった。
理央の指が、わずかに動いた。
袖口の内側。
そこに仕込まれた“鍵”を、爪で弾く。
──カチリ。
音は小さい。
だが、それは屋敷の深部へ伝わる合図だった。
アサシンが言い切るか否か。
その、言葉の最後の息が消える前。
応接室の床が、震えた。
壁の内側で何かが走る。
目に見えない線が、部屋の輪郭をなぞる。
古い木材の匂いの奥から、鉄と石の冷たさが立ち上がった。
「——防衛、第二層」
理央が、息と同じ速度で告げる。
次の瞬間。
窓ガラスが、割れないまま白く軋んだ。
空気が圧縮され、弾け、応接室そのものが“押し出される”。
轟音は遅れて来る。
——ドンッ。
壁が揺れ、ソファが跳ね、ティーカップが宙で踊った。
誠は理央に引かれ、秀則は反射で身を伏せる。
そして。
アサシンの影が、窓際から引き剥がされるように飛んだ。
人の形のまま、しかし重さを失ったように。
部屋を貫く圧に乗って、窓の外へ──庭へ。
夕方の光が、一瞬だけ眩しくなる。
西日の向こうで、影が庭木の上を越えていく。
次いで、外で土と砂利が弾ける音。
植え込みが潰れる鈍い衝撃。
応接室は、息を止めたように静まった。
理央の肩は揺れていない。
ただ、瞳だけが冷たく焦点を結ぶ。
「魔術師の工房で、礼儀正しく挨拶だなんて舐められたものね」