窓の向こうで、鈍い音がした。
土と砂利が叩きつけられる、生々しい衝突音。
植え込みが押し潰され、庭の一角が歪む。
理央は、割れなかった窓ガラス越しに、その地点を見下ろした。
夕方の光が、庭を平たく照らしている。
陰影は浅く、隠れる場所はない。
そこに──アサシンは、倒れていた。
伏せたまま。
肘もつかず、膝も立てず。
受け身を取った形跡が、どこにもない。
理央の視線が、わずかに細くなる。
おかしい。
防衛第二層の圧は、外へ“弾き出す”だけではない。
空気の流れと衝撃を読める者であれば、必ず着地動作に移る。
最低でも、転がる。
あるいは、衝撃を逃がすために体勢を変える。
だが。
庭のアサシンは、倒れたままだった。
ピクリとも動かない。
呼吸の上下すら、はっきりとは見えない。
理央は、応接室の淵に静かに立った。
踏み出す足音すら抑え、体重を均等に預ける。
姿勢は無防備に見えて、いつでも追撃に移れる位置だった。
視線は、ただ一つ。
庭に倒れる、影。
距離。
角度。
地面に沈んだ肩のライン。
風に揺れる装束の端。
理央は、情報を拾うように、細部を追った。
血は見えない。
土の跳ね方も、衝突の勢いに比して浅い。
骨が砕けた形跡も、地面に伝わる衝撃の割れ方もない。
──やはり、致命ではない。
だが、それ以上に。
“抵抗しなかった”痕跡が、あまりに明確だった。
受け身を取らない。
衝撃を逃がさない。
起き上がらない。
理央は、ほんのわずかに顎を引く。
侵入しておきながら、名乗りを上げた。
殺意を隠さず、しかし即座に動かない。
そして今──倒れたまま、沈黙を選んでいる。
矛盾している。
暗殺者は、見られることを嫌う。
名を出すのは、勝利が確定した後か、あるいは相手を完全に掌中に収めた時だけだ。
にもかかわらず、あのアサシンは最初から姿を晒し、礼を尽くし、宣言した。
──“お命を頂戴いたす”。
理央の脳裏に、その声がもう一度よぎる。
丁寧すぎる発音。
間を置いた呼吸。
儀式のような言い回し。
それは、殺しの宣告というより。
まるで何かの合図のようだった。
理央は、背後を振り返らずに言う。
「……灰原君、紫村君」
声は低く、抑えられている。
しかし、曖昧さはなかった。
「警戒を。なにかおかしいわ」
誠と秀則の緊張気味な声が返ってくる。
──はずだった。
だが。
「おっと、思ったより早く気付かれてしまったな」
その声は──違った。
低く、太く、よく響く声。
日本語ではあるが、母音の伸ばし方も、子音の切れ方も、決定的に異質。
理央の思考が、一瞬、白く弾けた。
背後。
“二人がいるはずの位置”から聞こえた声。
理央は反射的に振り返った。
──そこに、誠はいなかった。
代わりに立っていたのは、見上げるほどの大柄な男だった。
広い肩幅。
厚い胸板。
鍛えられた四肢が、服の上からでもはっきり分かる。
西洋人特有の骨格に、艶やかな金髪。
爽やかな笑みを浮かべ、視線だけが、こちらを正確に捉えていた。
「……っ!」
理央の喉が、短く鳴る。
距離は、近すぎた。
結界の内側。
応接室の中央。
誠が立っていた“その場所”に、いつの間にか、別人がいる。
秀則が、事態を理解するより先に身体を動かした。
「な、──!」
叫びになりきらない声と同時に、横へ跳ぶ。
ソファの背を蹴り、距離を取る。
一瞬遅れて、理央の視界の端で、彼が呼吸を荒く整えるのが見えた。
男は、その動きにも反応しない。
ただ、理央を見る。
興味深そうに。
値踏みするように。
「良い反応だ。撫子ガール……ミス黒野」
男は両手を軽く上げた。
敵意を示す動きではない。
むしろ、場を和ませるような仕草。
それが、なおさら不気味だった。
男は肩をすくめ、あくまで穏やかな調子で続けた。
「名乗ろう。私はサーヴァント、アーチャー。第47代大統──」
その言葉が終わる前だった。
「……そんなもの、興味ない!」
理央の声が、鋭く室内を裂いた。
感情が露わになるのは、彼女には珍しい。
それだけ、この瞬間が許容を超えていた。
背後を取られた事実。
名乗りという“余裕”。
そして、何処かへと消えた誠。
理央の指が、袖口の内側へ滑る。
防衛装置。
第三層の起動符。
この距離なら、室内ごと制圧できる。
「舐めないで……!」
魔力が、立ち上がる。
空気が張り詰め、床下の術式が応えようとした──
だが。
次の瞬間、理央の視界が揺れた。
距離が、消えた。
アーチャーの姿が、視界の端から中心へ“跳んだ”のではない。
気付いた時には、すでにそこにいた。
「フリーズ、やめたまえ」
軽い声。
理央の手首が掴まれる。
指先が、鍵に触れる寸前で止められた。
もう一方の腕が背中に回され、体勢を崩される。
関節の角度を、正確に殺す拘束。
痛みはない。
だが、逃げ場もない。
「この……黒野女史!」
秀則が叫ぶが、踏み出せない。
距離と角度が悪すぎる。
一歩動けば、理央に被害が出る。
アーチャーは、理央を盾にするでもなく、
しかし完全に制圧したまま、静かに息を吐いた。
「この街はお転婆ガールが多いようだね」
理央の耳元で、低い声が続く。
理央は、歯を食いしばったまま身を捩った。
肩を落とし、肘を引き、拘束された関節の“遊び”を探る。
だが、アーチャーの腕は微塵も緩まない。
力ではない。位置と角度だけで、完全に封じられている。
「……ふざけないで」
低く、噛み殺した声。
理央は振り返ろうともしない。
それでも、視線だけで背後の男を睨みつける。
「灰原君を、どこへやった」
一語一語を、刃のように叩きつける。
「答えなさい。今すぐ」
空気が、張り詰める。
秀則は息を呑み、距離を保ったまま身構えた。
アーチャーは、わずかに目を細めた。
叱責された子供のように肩をすくめ、
だがその表情には、焦りも緊張もない。
「おお、怖い怖い」
冗談めかした調子で言い、軽く笑う。
「安心したまえ。殺してはいないよ」
その一言で、理央の心臓が強く脈打った。
「……なら、どこにいる」
「今頃?」
アーチャーは、天井を見上げるように視線を泳がせる。
「ニンジャガイ……アサシンが、レディのお待ちするパーティー会場へご案内しているところだ」
まるで、舞踏会のエスコートを語るような口調。
「夜会用の招待状は無かったがね。少々強引な送迎になったのは、謝っておこう」
庭に視線を送ると、倒れていたアサシンが跡形もなく消えている。
入れ替わったのか、最初から夢幻のように存在すらしていなかったのか、考えても答えは出ない。
「ミガワリ・ジツだ」
理央の喉が、短く鳴った。
「……パーティー、ですって?」
「そうとも」
アーチャーは楽しげに続ける。
「主催者は君もよく知っている人物だ。気位の高いレディでね。どうしても“彼”に直接会いたかったらしい」
理央の脳裏に、ひとつの顔が浮かぶ。
そして同時に、背筋を冷たいものが走った。
「……藍沢、紗月」
「ビンゴ」
アーチャーは、軽快に指を鳴らす。
「察しが良くて助かる。話が早い」
「……藍沢先輩も節操がないわね。私達と決別したと思ったら、すぐに新しい同盟を組んでたなんて」
理央の拘束を解く気配はない。
むしろ、わずかに力を加え、逃走の可能性を完全に潰す。
「私の役目はね」
耳元で、囁くように告げる。
「時間稼ぎさ。ミス藍沢が本懐を遂げる為の」
アーチャーは、拘束したまま肩をすくめた。
「しかし──」
どこか感心したように、軽い調子で続ける。
「この短時間でここまで状況を把握するとはね。大した胆力だ、ミス黒野」
理央の反応を楽しむように、言葉を重ねる。
「工房の防衛構造、起動の判断、そして今の観察眼。正直に言おう。君は優秀な人材だ。専門外だが、魔術師としての地力も申し分ない」
冗談めかした笑み。
「もう少し穏やかな出会い方なら、紅茶でも飲みながらスカウトしたいところだった」
秀則が歯噛みする。
「……ふざけるな」
「いやいや、本心さ。私は優秀な人材には敬意を払う主義でね」
アーチャーは、なおも喋り続けようとした。
「それに、君のサーヴァントも──」
その瞬間だった。
理央の身体が、拘束されたまま、ほんの僅かに沈んだ。
膝を緩め、重心を落とす。
逃れようとする動きではない。
防衛装置を起動する素振りでもない。
──祈る姿勢。
アーチャーの眉が、わずかに動いた。
「……?」
違和感。
今の動きは、戦術的合理性がない。
次の瞬間。
空気が、裂けた。
霊子の圧が一点に収束し、応接室の床に“影”が落ちる。
火の気配。
霊体化が解除される音もなく、
完全武装のセイバーが、そこに“立っていた”。
銀の全身鎧。
夕光を弾く刃文。
握られた剣は、すでに振り下ろしの軌道にある。
「我が主に、軽々しく触れないでもらおう」
低く、冷たい声。
次の瞬間、剣閃が走った。
音が遅れるほどの速さ。
空気が悲鳴を上げ、床が割れる。
「Oops!」
アーチャーは咄嗟に理央を離し、後方へ跳ねた。
拘束が解ける。
剣は、アーチャーのいた“その位置”を正確に断ち裂き、
床に深々と亀裂を刻んだ。
理央は、その場に片膝をつきながら顔を上げる。
「ごめんなさい、セイバー。もう少し引き付けるべきだったわね、反応が予想より早い」
「問題ありません。戦力評価を修正します」
セイバーは一歩前へ。
剣先を下げず、アーチャーを真っ直ぐに見据える。
アーチャーは、数歩離れた位置で立ち直り、肩を回しながら苦笑した。
「なるほど……」
愉快そうに、しかし今度は油断なく。
「それが“合図”か。いやはや──」
視線を、セイバーへ向ける。
「セイバー、最優の名に偽りなしのようだ」
セイバーは理央の前へ半歩出た。
鎧が軋む音すら抑え、剣先だけを僅かに落とす。
攻めないのではない。
いつでも踏み込める、最短の姿勢を取っている。
理央は片膝をついたまま息を整え、視線を上げた。
自分の背に、剣と鎧の“壁”があることを確認する。
アーチャーは、数歩離れた位置で立ち止まった。
両手は空。
だが、空手のままでも脅威だと分かる距離感。
彼は軽く笑ってみせるが、瞳だけは笑っていない。
「君は幾つもの剣を操り、使い分けると書いている。その直剣にはどのような特殊な力があるのかな?」
セイバーが答えない。
代わりに、剣先が微かに鳴る。
室内に、張り詰めた沈黙が落ちた。
停電した屋敷の中。
西日の薄い光が、床の亀裂と舞った埃を白く浮かび上がらせる。
理央は立ち上がりながら、低く言う。
「灰原君が攫われた。背後から追わせるには危険な相手よ、殺しなさい」
「了解」
アーチャーは、肩を回しながら距離を測る。
セイバーの足運び。
剣筋。
そして理央の位置。
──間合い。
踏み込めば斬られる。
下がれば追われる。
その均衡の中で、彼は敢えて一歩も詰めない。
「時間稼ぎの役は、思ったより面倒だな」
冗談めかした口調。
しかし、次の瞬間。
アーチャーの表情が、ほんの僅かに変わった。
耳が、風に混じる微細な振動を拾ったのだ。
──ゥゥゥゥ……。
遠い。
だが、確実に近づいてくる低周波。
建物の外側。
庭木の上。
屋敷を囲う森の向こう。
ローターの回転音。
アーチャーは視線を上げず、しかし確信を持って小さく息を吐く。
「……ヘリか」
——ゥゥゥゥゥ……。
低周波が、屋敷の空気そのものを震わせ始めた。
最初は、遠雷に似た響きだった。
風に紛れ、建物の軋みと区別がつかない程度の振動。
アーチャーは、軽く首を傾げる。
「ふむ……」
視線を外に向けぬまま、音だけを測る。
回転数。周期。接近速度。
「移動用か、それとも迎撃用か……」
彼の口調は、まだ余裕を保っていた。
——問題は、音が止まらないことだった。
近づいてくる。
明確に、こちらへ。
——ゥゥゥゥゥゥゥゥ……!
音圧が増す。
窓ガラスが、割れずに微細な共鳴音を立て始めた。
カーテンが、風もないのに揺れる。
アーチャーの眉が、初めて大きく動いた。
「……いや、待て」
重すぎる。
回転翼の数が、音から合わない。
一枚や二枚ではない。
重なり合い、干渉し、位相がずれている。
——二軸。
交差反転。
「は……?」
アーチャーは、反射的に窓へ視線を走らせた。
次の瞬間。
夕暮れの空が、影に覆われた。
——巨大。
それは“飛来”というより、“出現”だった。
窓の外、庭の上空に滞空するそれは、常識的なヘリコプターのスケールを遥かに逸脱していた。
胴体上部には、交差反転式の二基の巨大ローター。
互いに逆回転しながら、膨大な揚力を生み出している。
さらに。
胴体下部。
機首下。
腹部全体に渡って配置された、異様なまでの火器群。
——“搭載できる限り、全部載せた”と言わんばかりの武装量。
屋敷の庭が、真昼のように照らされる。
機体下面のセンサーと照準灯が、赤と白の光で地上を舐める。
ローターの風圧が、庭木を押し伏せ、砂利を舞い上げる。
アーチャーは、完全に言葉を失った。
——カチリ。
機体下面のセンサーが、応接室を正確に捉えた。
アーチャーの視線が、ゆっくりと上へ向く。
装甲ガラス越し。
コックピット。
そこに──少女がいた。
ヘルメットのバイザーを上げ、前傾姿勢で操縦桿を握っている。
小柄な体躯、白髪、真紅の瞳。
だが、背筋は伸び、視線は一点に固定されている。
迷いのない目。
その瞳が、アーチャーを捉えた。
ほんの一瞬。
距離も、言語も、立場も越えて。
視線が、噛み合った。
アーチャーの口元が、わずかに歪む。
「……これは聞いていないな」
呟きは、感心に近かった。
秀則のサーヴァント。
ライダー。
この無茶な兵装。
この即断即決の戦場展開。
そして、躊躇なく照準を合わせる胆力。
その瞬間。
「掴まれ」
セイバーの声が、鋼のように短く落ちた。
理央が反応するより早く、
秀則が何かを言うより早く。
セイバーの腕が、二人を同時に抱え上げる。
鎧越しでも分かる、圧倒的な筋力。
理央の体が、宙に浮いた。
「——っ!?」
次の瞬間。
——轟音。
セイバーは、壁へ踏み込んだ。
剣ではない。
肩でもない。
全身で叩き割る。
石と木と補強材が、内側から弾け飛ぶ。
応接室の隣室へと続く壁が、爆ぜるように崩壊した。
粉塵。
破片。
視界が白くなる。
秀則が、運ばれながら声を張り上げた。
「ライダーちゃん! ファイアー!」
その“瞬間”を、待っていたかのように。
「了解、ハンドラー」
——ギュィィィィィィィィン!!
空が、唸った。
回転音とは別の、甲高い金属音。
加速する回転体の咆哮。
ガトリングガン。
発射。
——ドドドドドドドドドドッ!!
応接室の外壁が、消し飛んだ。
木材が、石材が、装飾が、同時に砕け散る。
銃弾が、雨ではなく“壁”のように叩きつけられる。
床が抉れ、
天井が裂け、
家具が粉砕される。
応接室という空間そのものが、
数秒で“存在を否定”されていく。
アーチャーのいた位置。
その周囲一帯が、完全に制圧火力に飲み込まれた。
——逃げ場は、ない。
隣室に転がり込んだ理央は、耳鳴りの中で耳を抑えて歯を噛みしめた。
「耳が、馬鹿になりそう……!」
セイバーは即座に理央と秀則を下ろし、前に立つ。
崩れた壁の向こう。
銃弾が貫通してくる角度を、身体で塞ぐ位置取り。
秀則は、呆然としながらも、自らのサーヴァントの破壊力に戦慄する。
ガリガリと削れていく魔力に気を配りつつ、秀則も耳を抑えた。
応接室の向こうでは、なおも銃撃が続いている。
破壊音が、断続的に響く。
だが。
理央は、息を詰めた。
「……まだ、終わってない」
あの男が。
あのアーチャーが。
——これで、終わるはずがない。