冷たい土の感触が、最初に戻ってきた。
背中。
肩甲骨。
後頭部。
固く、湿っている。
誠は、浅く息を吸い──思わず咳き込みそうになるのを、歯を噛みしめて堪えた。
鼻腔に流れ込んでくるのは、土と苔と、夜露の匂い。人工的なものは、ない。
ゆっくりと、瞼を開く。
視界は暗い。
だが、完全な闇ではなかった。
木々の隙間から、月明かりが斑に落ちている。
枝葉の影が、地面に複雑な模様を描いていた。
身体を動かそうとして、誠は一瞬だけ身構えた。
──縛られていない。
手首も、足首も自由だ。
痛みはあるが、致命的なものではない。
「ここは……」
記憶が、少しずつ繋がってくる。
理央が術式を展開した瞬間。
空気が弾け、アサシンが吹き飛ばされた場面。
そして──背後。
視界が暗転する直前、首筋に走った、鋭い衝撃。
「俺だけ、分断された……?」
誠は、上体を起こした。
枯葉が、かさりと鳴る。
その音に──
「おはよう、灰原君」
声が、静かに落ちてきた。
誠の身体が、反射的に強張る。
視線を向けた先。
少し離れた場所、倒木の上に、ひとりの少女が腰掛けていた。
整った横顔。
月明かりを受けて、冷たくも柔らかい光を帯びた瞳。
──藍沢紗月。
誠の喉が、無意識に鳴った。
「藍沢先輩……」
誠は、言葉を継ごうとして──ふと気付く。
紗月の右手。
月明かりの陰影の中で、彼女の指先が、何かを転がしている。
金属が、微かに光った。
くるり。
指の間で回転する、小さな刃。
誠の呼吸が、一瞬で浅くなる。
「……それ」
声が、思ったより低く出た。
紗月は視線を落とし、自分の手の中を一瞥する。
「あ、覚えてるんだ」
まるでペンでも弄ぶような軽さで、ナイフを指先に乗せる。
月光を受けて、刃が細く、冷たく反射した。
その形。
刃渡り。
──見間違えるはずがなかった。
誠の背筋を、氷水のような記憶が流れ落ちる。
聖杯戦争が始まった直後。
まだ「サーヴァント」も、「令呪」も、「殺し合い」も、頭では理解できていなかった頃。
腹部に走った、鈍い痛み。
次いで訪れた、急速な冷え。
血の匂い。
視界が傾き、地面に崩れ落ちる感覚。
一度、確かに死んだ。
その中心にあったのが──そのナイフだった。
誠の指先が、わずかに震える。
「また、俺を殺すつもりなんですね」
紗月は、悪びれもせず肩をすくめた。
冗談めいた態度。
だが、刃を扱う指は、異様なほど正確だった。
誠の視線は、ナイフから紗月の背後へと滑る。
木々。
影。
月明かりに沈む山中。
──気配が、ない。
あの、常に背後にあったはずの存在。
狂気と礼節が同居した、銀髪の狩人。
誠は、喉を鳴らし、はっきりと口を開いた。
「……バーサーカー」
名前を呼ぶ。
反応は、ない。
風が、木々を揺らすだけだ。
「バーサーカー!」
声を強める。
それでも。
何も、起きない。
誠の胸の奥に、嫌な沈みが広がる。
沈黙を破ったのは、紗月だった。
「無駄だよ」
淡々とした声。
感情の起伏はなく、事実を告げるだけの調子。
誠は、息を詰めたまま紗月を見る。
「今、アサシンが君のサーヴァントを足止めしている」
その名を口にした瞬間、誠の脳裏に、忍び装束と礼儀正しい声が浮かぶ。
「結構派手にやってる。山ひとつ挟んだ向こう側でね」
紗月は、肩をすくめた。
「それに比べたら、ここは少し地味かもしれないね」
言葉とは裏腹に、彼女の足先が、静かに地面へ降りる。
倒木から立ち上がり、月光の中へ一歩踏み出す。
枯葉を踏む音すら、ほとんどしない。
右手のナイフが、今度は“遊び”をやめた。
逆手。
刃先は、自然に誠の心臓線へ向いている。
構えに、迷いがない。
「私は前に言ったよね」
紗月の視線が、誠を真っ直ぐ射抜く。
「この聖杯戦争、君を殺し切って終わらせるって」
ナイフの刃が、月光を反射する。
その冷たい光が、誠の網膜に焼き付く。
「今度は殺し切る、その為の用意だってしてきた」
静かな宣告。
怒りも、憎しみも、歓喜すらない。
ただ──決意だけがあった。
誠は、ゆっくりと拳を握る。
武器はない。
サーヴァントも呼べない。
地面は不安定で、逃げ場は森だけ。
それでも。
「……俺は、死ぬつもりはありません」
声は低いが、折れていない。
紗月は、ほんの僅かに目を細めた。
「うん」
納得したように、短く頷く。
「ごめんね」
低く、内臓を叩くような脈動音。
誠の視界で、紗月の輪郭がぶれた。
筋肉の繊維が、衣服の下で盛り上がる。
足首、ふくらはぎ、太腿。
人間の可動域を無視した角度で、関節が“噛み合い直す”。
呼吸音が変わった。
浅く、速い。
獲物を前にした獣のそれ。
ナイフを持つ手が、わずかに低く構え直された。
重心が、地面すれすれまで落ちる。
誠の背筋に、明確な危機感が走る。
──速い。
魔術師として研鑽を積んだ人間。
“殺すためだけに最適化された人間”。
次の瞬間。
紗月の姿が、消えた。
正確には、見失った。
空気を裂く音。
枯葉が舞い上がり、月光が乱反射する。
誠は反射的に後ろへ跳ぼうとして──間に合わないと悟った。
──来る。
右。
低い。
思考が追いつくより先に、身体が動いた。
脳裏に浮かんだのは、黒野本家の道場。
硬い床。
冷たい朝の空気。
何度も繰り返された、理央の声。
誠は、歯を噛みしめる。
魔術回路に、魔力を通す。
胸の奥。
脊髄に沿って、熱が走る。
掌を、前へ。
──点火。
ぼうっ、と低い音を立てて、誠の手のひらに炎が宿った。
小さい。
だが、密度がある。
次の瞬間。
紗月のナイフが、炎を掠めた。
刃と熱が触れ合い、火花が散る。
同時に、獣のような身のこなしで、紗月が横へ跳ぶ。
「……っ」
初めて、紗月の口から小さな息が漏れた。
誠は、その隙を逃さない。
一歩、踏み込む。
炎を、投げない。
──押し出す。
掌から放たれた熱が、空気を歪ませ、紗月との距離を強引に引き剥がした。
熱風に押され、紗月の身体が後退する。
地面に爪先が食い込み、土が抉れる。
月明かりの中で、二人は数歩分、距離を取った。
誠の呼吸は荒い。
だが、視線は揺れていない。
「……黒野さんの仕込みかな?」
紗月が、口元を僅かに歪めた。
「その炎も、歪みなんだよ。それは本来、この世界にあっちゃいけない別世界の理だ」
ナイフを構え直す。
獣の姿勢のまま、しかし今度は慎重に。
紗月は、一歩も動かずに言った。
「でもね、魔術師を舐めちゃいけないよ」
声は静かだ。
だが、視線は鋭く、炎の揺らぎを正確に捉えている。
「立ち上げは早い、火力も申し分ない。流石は世界創世の炎」
誠の掌で、山吹色の炎がわずかに脈打った。
熱量が、一定ではない。
「でも、付け焼刃だよ。所詮は」
その言葉と同時に。
──消えた。
今度は、さっきとは違う。
音が、ない。
葉擦れも、踏み込みも、空気の破裂もない。
ただ、気配だけが──誠の背後を“通過した”。
遅れて、寒気。
「──っ!」
誠は、反射で身体を捻る。
だが、視界の端に映ったのは、すでに“横”。
死角。
紗月が、そこにいた。
低い。
地面すれすれ。
獣が腹を擦って滑り込むような姿勢。
ナイフが、最短距離で──誠の脇腹へ。
速い。
さっきより、明確に。
──速度を、上げてきた。
「っ、く……!」
誠は、歯を食いしばる。
理屈は分かっている。
このままでは、押し切られる。
なら。
──付け焼刃で、何が悪い。
誠の左手が、動いた。
右手の山吹色の炎とは、まったく違う感触。
魔術回路の“奥”、異なる部分に意図的に魔力を流し込む。
制御不能。
再現性なし。
危険。
それでも。
「……手数で、勝負だろ」
呟きと同時に。
左手に──火が、灯った。
色が、違う。
黄色。
だが、澄んでいない。
揺らめきは不規則で、燃え方が“壊れている”。
熱というより、ざらついた感覚。
触れれば、精神まで焼かれそうな──狂気の炎。
右の山吹色が、理性の火なら。
左のそれは、明らかに異端だった。
黄色の、狂い火。
「……っ!」
紗月の動きが、ほんの一瞬だけ鈍る。
誠は、その瞬間を逃さない。
両手を、前へ。
右の炎を、押し出す。
左の炎を、拡散させる。
二つの性質の違う火が、空間でぶつかり合い──
壁になる。
熱の壁。
歪みの壁。
直線ではない、厚みのある障害。
ナイフが、その手前で止まる。
炎が、紗月の進路を遮断した。
木々の影が、揺らぐ。
月光が、炎に裂かれる。
二人の間に、即席の結界のような“火の幕”。
炎の壁の向こうで、紗月の呼吸が──一拍、止まった。
ナイフを握る指が、ほんのわずかに強張る。
彼女の視線は、誠の左手に宿る黄色い揺らめきへ吸い寄せられていく。
その火は、熱の形をしていない。
光っているのに、照らさない。
燃えているのに、温度が合わない。
“そこにある”という事実だけが、周囲の現実を薄く削っていく。
紗月の瞳が、細くなる。
「……それ」
声が、低く落ちた。
獣のような殺意ではない。
確認するような、──恐怖の混じった調子。
「……まさか」
次の瞬間、紗月の顔から、余裕が消えた。
目の奥に、はっきりとした記憶が点る。
キャスター。
あの時。
空間そのものが、溶けるように崩れていった夜。
理屈ではない。
現実が、概念の側から焼かれていく感覚。
「……狂い火」
紗月が、言葉を吐くように言った。
誠は、息を詰めたまま眉を寄せる。
「……知ってるんですか」
「知ってるよ」
紗月の声が、急に鋭くなる。
「忘れるわけない。キャスターが使ってた──世界を溶かし尽くすやつだ」
炎の壁を隔てたまま、彼女が一歩踏み出す。
ナイフの切っ先が、下がった。
代わりに、指が──誠を指すように伸びる。
「灰原君、何してるの」
叱責だった。
殺すための言葉ではない。
先輩が、後輩を止めるための声。
「それは“炎”じゃない」
紗月の喉が、乾いた音を立てる。
「ただ燃えるだけの火じゃない。それは──世界を壊す“概念”だよ」
黄色い揺らめきが、誠の左手で不規則に跳ねた。
それに合わせて、誠の目の奥が、微かに──痒くなる。
ほんの一瞬、笑い声が聞こえた気がした。
誰も笑っていないのに。
誠が瞬きをする。
紗月は、それを見逃さなかった。
「……今すぐ消しなさい」
吐き捨てるように、しかし声の端が揺れる。
「黒野さんは何も言ってなかったの、それは便利だとか強いとか、そういう存在じゃないんだよ」
月明かりの下で、紗月の表情が硬い。
「病気なんだよ。狂気の病。キャスターがどうなったか、君も見たよね」
誠は、目の奥の違和感に気を取られて頻繁に瞬きし、目をこする。
痒くて痛くてたまらないのに、口角が自然と上がる。
それが一番、気味が悪い。
「黒野は知りません……でも、大丈夫です。これ、右手の炎と相殺できるんですよ、上手い事調整すれば……」
言葉が、少し遅れて口から出る。
紗月の眉が跳ね上がった。
「大丈夫なわけない!」
声が、森に響いた。
その一瞬、紗月は立場を忘れていた。
敵でも、獲物でもない。
ただ、先輩として。
誠の手の中の黄色を、真っ直ぐに見て──
「消して。今すぐ」
命令ではなく、懇願に近かった。
誠は、歯を食いしばった。
仮にも──敵の言葉だ。
聞く理由は、ない。
右の掌。
山吹色の炎が、揺らぎを抑えられないまま脈打つ。
左の掌。
黄色の狂い火が、嬉しそうに──世界を舐める。
「……今更」
声は、かすれていた。
だが、両腕は下げない。
「俺は──」
言い切る前に。
紗月が、息を吐いた。
「……そうだね」
諦めでも、怒りでもない。
ただ、決断。
「口で言っても、無駄か」
次の瞬間。
彼女は──駆けた。
正面から。
迷いなく、一直線に。
誠は反射で両腕を突き出す。
──来る。
なら。
炎の壁。
右の理性の火。
左の狂い火。
二つを重ね、厚みを持たせ、空間を焼いて塞ぐ。
熱が、歪みが、森を軋ませる。
だが。
それでも。
紗月は、止まらなかった。
炎が、彼女を包む。
衣服が、焦げる。
肌が、焼かれる。
それでも。
踏み込む。
獣のように、地を蹴り。
人としての限界を、意志で踏み潰し。
──突破。
「な……っ」
誠の声は、間に合わない。
紗月は、炎の向こう側にいた。
近い。
近すぎる。
視界いっぱいに、彼女の瞳。
そこにあったのは、殺意ではなかった。
──叱責。
「……あんまり先輩を舐めちゃいけないよ」
低い声。
次の瞬間。
誠の左側で、世界が──何かが抜け落ちた。
遅れて、激痛が脳天まで駆け巡る。
「──っ、あ……っ!」
膝が、崩れた。
身体が、地面に叩きつけられる。
視界が、滲む。
叫び声は、喉で潰れた。
炎に焼かれた腕。
焦げた匂い。
それでも、彼女は顔をしかめただけだった。
足元に転がる誠の左手首を、ちらりと見下ろし。
容赦なく蹴り飛ばす。
誠は、地面に崩れ落ちたまま動けなかった。
左側から、何かが抜け落ちた感覚。
呼吸をするたび、視界が白く弾ける。
血の気が引く音が、耳鳴りに混じる。
「……っ、は……」
呻き声が、土に吸われた。
山吹色の炎は、いつの間にか消えていた。
狂い火も、もうない。
残っているのは──ただの肉体と、耐え難い欠損感だけ。
誠を見下ろし、紗月がナイフを下ろした。
焼け焦げた匂い。
腕や首元の肌は赤く、所々が爛れている。
「……もう」
独り言のように呟いてから、誠の傍に腰を下ろす。
「これで死なれても困るよ」
ナイフを地面に置き、手早く上着を裂く。
「止血するよ、ほら傷を見せて」
そう言って、紗月は──誠の左腕を、掴んだ。
その瞬間。
痛みに喘いでいたはずの誠が顔を上げた。
「──っ!?」
紗月が声を上げるより早く。
誠は、上体を跳ね起こし──彼女の首元へ噛みついた。
歯が、肌に食い込む。
深くはない。
だが、確かに。
微かな抵抗のあと、温かいものが流れ出る。
「……な、に……っ」
紗月の声が、震える。
誠は、考えるより先に──それを飲み込んだ。
喉を、熱が滑り落ちる。
次の瞬間。
世界が、歪んだ。
左肩から先に、激しい熱と痒み。
骨が、筋が、皮膚が──巻き戻るように再構築される感覚。
「──!? なんで、それは」
そこには。
失われたはずの腕が、確かにあった。
まだ赤く、未完成のように震えながら。
それでも、指は──動く。
紗月が、目を見開いた。
「……再生……? いや、リゲイン……」
言葉にならない声。
理解が追いつく前に、誠は動いた。
今度は、迷いがない。
正面から。
立ち上がりざま、紗月の身体へ──組み付く。
「──っ!」
勢いで、二人は地面に倒れ込んだ。
土と枯葉が舞う。
誠の左腕が、確かに紗月を拘束している。
さっきまで無かったはずの腕で。
紗月は、一瞬、完全に虚を突かれていた。
焼けた肌。
首元を押さえながら、信じられないものを見る目。
「……灰原、君……?」
誠の呼吸は荒い。
目の奥が、熱に濁っている。
理性は、まだ残っている。
だが、その縁が──確実に、削れている。
「……すみません、先輩」
声は、低い。
謝罪なのか、宣告なのか。
その区別すら、曖昧だった。
夜の山中で。
立場は、再び──ひっくり返った。
「俺だって死ぬ気でやってるんですよ」