Fate/You Died.   作:助兵衛

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第49話 魔術師対……?

 冷たい土の感触が、最初に戻ってきた。

 

 背中。

 肩甲骨。

 後頭部。

 

 固く、湿っている。

 

 誠は、浅く息を吸い──思わず咳き込みそうになるのを、歯を噛みしめて堪えた。

 鼻腔に流れ込んでくるのは、土と苔と、夜露の匂い。人工的なものは、ない。

 

 ゆっくりと、瞼を開く。

 

 視界は暗い。

 だが、完全な闇ではなかった。

 

 木々の隙間から、月明かりが斑に落ちている。

 枝葉の影が、地面に複雑な模様を描いていた。

 

 身体を動かそうとして、誠は一瞬だけ身構えた。

 

 ──縛られていない。

 

 手首も、足首も自由だ。

 痛みはあるが、致命的なものではない。

 

「ここは……」

 

 記憶が、少しずつ繋がってくる。

 

 理央が術式を展開した瞬間。

 空気が弾け、アサシンが吹き飛ばされた場面。

 そして──背後。

 

 視界が暗転する直前、首筋に走った、鋭い衝撃。

 

「俺だけ、分断された……?」

 

 

 誠は、上体を起こした。

 

 枯葉が、かさりと鳴る。

 

 その音に──

 

「おはよう、灰原君」

 

 声が、静かに落ちてきた。

 

 誠の身体が、反射的に強張る。

 

 視線を向けた先。

 

 少し離れた場所、倒木の上に、ひとりの少女が腰掛けていた。

 

 整った横顔。

 月明かりを受けて、冷たくも柔らかい光を帯びた瞳。

 

 ──藍沢紗月。

 

 誠の喉が、無意識に鳴った。

 

「藍沢先輩……」

 

 誠は、言葉を継ごうとして──ふと気付く。

 

 紗月の右手。

 

 月明かりの陰影の中で、彼女の指先が、何かを転がしている。

 

 金属が、微かに光った。

 

 くるり。

 指の間で回転する、小さな刃。

 

 誠の呼吸が、一瞬で浅くなる。

 

「……それ」

 

 声が、思ったより低く出た。

 

 紗月は視線を落とし、自分の手の中を一瞥する。

 

「あ、覚えてるんだ」

 

 まるでペンでも弄ぶような軽さで、ナイフを指先に乗せる。

 月光を受けて、刃が細く、冷たく反射した。

 

 その形。

 刃渡り。

 

 ──見間違えるはずがなかった。

 

 誠の背筋を、氷水のような記憶が流れ落ちる。

 

 聖杯戦争が始まった直後。

 まだ「サーヴァント」も、「令呪」も、「殺し合い」も、頭では理解できていなかった頃。

 

 腹部に走った、鈍い痛み。

 次いで訪れた、急速な冷え。

 

 血の匂い。

 視界が傾き、地面に崩れ落ちる感覚。

 

 一度、確かに死んだ。

 

 その中心にあったのが──そのナイフだった。

 

 誠の指先が、わずかに震える。

 

「また、俺を殺すつもりなんですね」

 

 紗月は、悪びれもせず肩をすくめた。

 

 冗談めいた態度。

 だが、刃を扱う指は、異様なほど正確だった。

 

 誠の視線は、ナイフから紗月の背後へと滑る。

 

 木々。

 影。

 月明かりに沈む山中。

 

 ──気配が、ない。

 

 あの、常に背後にあったはずの存在。

 狂気と礼節が同居した、銀髪の狩人。

 

 誠は、喉を鳴らし、はっきりと口を開いた。

 

「……バーサーカー」

 

 名前を呼ぶ。

 

 反応は、ない。

 

 風が、木々を揺らすだけだ。

 

「バーサーカー!」

 

 声を強める。

 

 それでも。

 

 何も、起きない。

 

 誠の胸の奥に、嫌な沈みが広がる。

 

 沈黙を破ったのは、紗月だった。

 

「無駄だよ」

 

 淡々とした声。

 感情の起伏はなく、事実を告げるだけの調子。

 

 誠は、息を詰めたまま紗月を見る。

 

「今、アサシンが君のサーヴァントを足止めしている」

 

 その名を口にした瞬間、誠の脳裏に、忍び装束と礼儀正しい声が浮かぶ。

 

「結構派手にやってる。山ひとつ挟んだ向こう側でね」

 

 紗月は、肩をすくめた。

 

「それに比べたら、ここは少し地味かもしれないね」

 

 言葉とは裏腹に、彼女の足先が、静かに地面へ降りる。

 倒木から立ち上がり、月光の中へ一歩踏み出す。

 

 枯葉を踏む音すら、ほとんどしない。

 

 右手のナイフが、今度は“遊び”をやめた。

 

 逆手。

 刃先は、自然に誠の心臓線へ向いている。

 

 構えに、迷いがない。

 

「私は前に言ったよね」

 

 紗月の視線が、誠を真っ直ぐ射抜く。

 

「この聖杯戦争、君を殺し切って終わらせるって」

 

 ナイフの刃が、月光を反射する。

 その冷たい光が、誠の網膜に焼き付く。

 

「今度は殺し切る、その為の用意だってしてきた」

 

 静かな宣告。

 怒りも、憎しみも、歓喜すらない。

 

 ただ──決意だけがあった。

 

 誠は、ゆっくりと拳を握る。

 

 武器はない。

 サーヴァントも呼べない。

 地面は不安定で、逃げ場は森だけ。

 

 それでも。

 

「……俺は、死ぬつもりはありません」

 

 声は低いが、折れていない。

 

 紗月は、ほんの僅かに目を細めた。

 

「うん」

 

 納得したように、短く頷く。

 

「ごめんね」

 

 低く、内臓を叩くような脈動音。

 

 誠の視界で、紗月の輪郭がぶれた。

 

 筋肉の繊維が、衣服の下で盛り上がる。

 足首、ふくらはぎ、太腿。

 人間の可動域を無視した角度で、関節が“噛み合い直す”。

 

 呼吸音が変わった。

 

 浅く、速い。

 獲物を前にした獣のそれ。

 

 ナイフを持つ手が、わずかに低く構え直された。

 重心が、地面すれすれまで落ちる。

 

 誠の背筋に、明確な危機感が走る。

 

 ──速い。

 

 魔術師として研鑽を積んだ人間。

 

 “殺すためだけに最適化された人間”。

 

 次の瞬間。

 

 紗月の姿が、消えた。

 

 正確には、見失った。

 

 空気を裂く音。

 枯葉が舞い上がり、月光が乱反射する。

 

 誠は反射的に後ろへ跳ぼうとして──間に合わないと悟った。

 

 ──来る。

 

 右。

 低い。

 

 思考が追いつくより先に、身体が動いた。

 

 脳裏に浮かんだのは、黒野本家の道場。

 

 硬い床。

 冷たい朝の空気。

 何度も繰り返された、理央の声。

 

 誠は、歯を噛みしめる。

 

 魔術回路に、魔力を通す。

 

 胸の奥。

 脊髄に沿って、熱が走る。

 

 掌を、前へ。

 

 ──点火。

 

 ぼうっ、と低い音を立てて、誠の手のひらに炎が宿った。

 

 小さい。

 だが、密度がある。

 

 次の瞬間。

 

 紗月のナイフが、炎を掠めた。

 

 刃と熱が触れ合い、火花が散る。

 同時に、獣のような身のこなしで、紗月が横へ跳ぶ。

 

「……っ」

 

 初めて、紗月の口から小さな息が漏れた。

 

 誠は、その隙を逃さない。

 

 一歩、踏み込む。

 炎を、投げない。

 

 ──押し出す。

 

 掌から放たれた熱が、空気を歪ませ、紗月との距離を強引に引き剥がした。

 

 熱風に押され、紗月の身体が後退する。

 地面に爪先が食い込み、土が抉れる。

 

 月明かりの中で、二人は数歩分、距離を取った。

 

 誠の呼吸は荒い。

 だが、視線は揺れていない。

 

「……黒野さんの仕込みかな?」

 

 紗月が、口元を僅かに歪めた。

 

「その炎も、歪みなんだよ。それは本来、この世界にあっちゃいけない別世界の理だ」

 

 ナイフを構え直す。

 獣の姿勢のまま、しかし今度は慎重に。

 

 紗月は、一歩も動かずに言った。

 

「でもね、魔術師を舐めちゃいけないよ」

 

 声は静かだ。

 だが、視線は鋭く、炎の揺らぎを正確に捉えている。

 

「立ち上げは早い、火力も申し分ない。流石は世界創世の炎」

 

 誠の掌で、山吹色の炎がわずかに脈打った。

 熱量が、一定ではない。

 

「でも、付け焼刃だよ。所詮は」

 

 その言葉と同時に。

 

 ──消えた。

 

 今度は、さっきとは違う。

 音が、ない。

 

 葉擦れも、踏み込みも、空気の破裂もない。

 ただ、気配だけが──誠の背後を“通過した”。

 

 遅れて、寒気。

 

「──っ!」

 

 誠は、反射で身体を捻る。

 だが、視界の端に映ったのは、すでに“横”。

 

 死角。

 

 紗月が、そこにいた。

 

 低い。

 地面すれすれ。

 獣が腹を擦って滑り込むような姿勢。

 

 ナイフが、最短距離で──誠の脇腹へ。

 

 速い。

 さっきより、明確に。

 

 ──速度を、上げてきた。

 

「っ、く……!」

 

 誠は、歯を食いしばる。

 

 理屈は分かっている。

 このままでは、押し切られる。

 

 なら。

 

 ──付け焼刃で、何が悪い。

 

 誠の左手が、動いた。

 

 右手の山吹色の炎とは、まったく違う感触。

 魔術回路の“奥”、異なる部分に意図的に魔力を流し込む。

 

 制御不能。

 再現性なし。

 危険。

 

 それでも。

 

「……手数で、勝負だろ」

 

 呟きと同時に。

 

 左手に──火が、灯った。

 

 色が、違う。

 

 黄色。

 だが、澄んでいない。

 揺らめきは不規則で、燃え方が“壊れている”。

 

 熱というより、ざらついた感覚。

 触れれば、精神まで焼かれそうな──狂気の炎。

 

 右の山吹色が、理性の火なら。

 左のそれは、明らかに異端だった。

 

 黄色の、狂い火。

 

「……っ!」

 

 紗月の動きが、ほんの一瞬だけ鈍る。

 

 誠は、その瞬間を逃さない。

 

 両手を、前へ。

 

 右の炎を、押し出す。

 左の炎を、拡散させる。

 

 二つの性質の違う火が、空間でぶつかり合い──

 

 壁になる。

 

 熱の壁。

 歪みの壁。

 直線ではない、厚みのある障害。

 

 ナイフが、その手前で止まる。

 

 炎が、紗月の進路を遮断した。

 

 木々の影が、揺らぐ。

 月光が、炎に裂かれる。

 

 二人の間に、即席の結界のような“火の幕”。

 

 炎の壁の向こうで、紗月の呼吸が──一拍、止まった。

 

 ナイフを握る指が、ほんのわずかに強張る。

 

 彼女の視線は、誠の左手に宿る黄色い揺らめきへ吸い寄せられていく。

 

 その火は、熱の形をしていない。

 

 光っているのに、照らさない。

 燃えているのに、温度が合わない。

 

 “そこにある”という事実だけが、周囲の現実を薄く削っていく。

 

 紗月の瞳が、細くなる。

 

「……それ」

 

 声が、低く落ちた。

 

 獣のような殺意ではない。

 確認するような、──恐怖の混じった調子。

 

「……まさか」

 

 次の瞬間、紗月の顔から、余裕が消えた。

 

 目の奥に、はっきりとした記憶が点る。

 

 キャスター。

 

 あの時。

 空間そのものが、溶けるように崩れていった夜。

 

 理屈ではない。

 現実が、概念の側から焼かれていく感覚。

 

「……狂い火」

 

 紗月が、言葉を吐くように言った。

 

 誠は、息を詰めたまま眉を寄せる。

 

「……知ってるんですか」

 

「知ってるよ」

 

 紗月の声が、急に鋭くなる。

 

「忘れるわけない。キャスターが使ってた──世界を溶かし尽くすやつだ」

 

 炎の壁を隔てたまま、彼女が一歩踏み出す。

 

 ナイフの切っ先が、下がった。

 

 代わりに、指が──誠を指すように伸びる。

 

「灰原君、何してるの」

 

 叱責だった。

 

 殺すための言葉ではない。

 先輩が、後輩を止めるための声。

 

「それは“炎”じゃない」

 

 紗月の喉が、乾いた音を立てる。

 

「ただ燃えるだけの火じゃない。それは──世界を壊す“概念”だよ」

 

 黄色い揺らめきが、誠の左手で不規則に跳ねた。

 

 それに合わせて、誠の目の奥が、微かに──痒くなる。

 

 ほんの一瞬、笑い声が聞こえた気がした。

 

 誰も笑っていないのに。

 

 誠が瞬きをする。

 

 紗月は、それを見逃さなかった。

 

「……今すぐ消しなさい」

 

 吐き捨てるように、しかし声の端が揺れる。

 

「黒野さんは何も言ってなかったの、それは便利だとか強いとか、そういう存在じゃないんだよ」

 

 月明かりの下で、紗月の表情が硬い。

 

「病気なんだよ。狂気の病。キャスターがどうなったか、君も見たよね」

 

 誠は、目の奥の違和感に気を取られて頻繁に瞬きし、目をこする。

 

 痒くて痛くてたまらないのに、口角が自然と上がる。

 

 それが一番、気味が悪い。

 

「黒野は知りません……でも、大丈夫です。これ、右手の炎と相殺できるんですよ、上手い事調整すれば……」

 

 言葉が、少し遅れて口から出る。

 

 紗月の眉が跳ね上がった。

 

「大丈夫なわけない!」

 

 声が、森に響いた。

 

 その一瞬、紗月は立場を忘れていた。

 

 敵でも、獲物でもない。

 

 ただ、先輩として。

 

 誠の手の中の黄色を、真っ直ぐに見て──

 

「消して。今すぐ」

 

 命令ではなく、懇願に近かった。

 

 誠は、歯を食いしばった。

 

 仮にも──敵の言葉だ。

 聞く理由は、ない。

 

 右の掌。

 山吹色の炎が、揺らぎを抑えられないまま脈打つ。

 左の掌。

 黄色の狂い火が、嬉しそうに──世界を舐める。

 

「……今更」

 

 声は、かすれていた。

 だが、両腕は下げない。

 

「俺は──」

 

 言い切る前に。

 

 紗月が、息を吐いた。

 

「……そうだね」

 

 諦めでも、怒りでもない。

 ただ、決断。

 

「口で言っても、無駄か」

 

 次の瞬間。

 

 彼女は──駆けた。

 

 正面から。

 

 迷いなく、一直線に。

 

 誠は反射で両腕を突き出す。

 

 ──来る。

 

 なら。

 

 炎の壁。

 

 右の理性の火。

 左の狂い火。

 

 二つを重ね、厚みを持たせ、空間を焼いて塞ぐ。

 

 熱が、歪みが、森を軋ませる。

 

 だが。

 

 それでも。

 

 紗月は、止まらなかった。

 

 炎が、彼女を包む。

 

 衣服が、焦げる。

 肌が、焼かれる。

 

 それでも。

 

 踏み込む。

 

 獣のように、地を蹴り。

 人としての限界を、意志で踏み潰し。

 

 ──突破。

 

「な……っ」

 

 誠の声は、間に合わない。

 

 紗月は、炎の向こう側にいた。

 

 近い。

 

 近すぎる。

 

 視界いっぱいに、彼女の瞳。

 

 そこにあったのは、殺意ではなかった。

 

 ──叱責。

 

「……あんまり先輩を舐めちゃいけないよ」

 

 低い声。

 

 次の瞬間。

 

 誠の左側で、世界が──何かが抜け落ちた。

 

 遅れて、激痛が脳天まで駆け巡る。

 

「──っ、あ……っ!」

 

 膝が、崩れた。

 

 身体が、地面に叩きつけられる。

 

 視界が、滲む。

 

 叫び声は、喉で潰れた。

 

 炎に焼かれた腕。

 焦げた匂い。

 

 それでも、彼女は顔をしかめただけだった。

 

 足元に転がる誠の左手首を、ちらりと見下ろし。

 

 容赦なく蹴り飛ばす。

 

 誠は、地面に崩れ落ちたまま動けなかった。

 

 左側から、何かが抜け落ちた感覚。

 

 呼吸をするたび、視界が白く弾ける。

 血の気が引く音が、耳鳴りに混じる。

 

「……っ、は……」

 

 呻き声が、土に吸われた。

 

 山吹色の炎は、いつの間にか消えていた。

 狂い火も、もうない。

 

 残っているのは──ただの肉体と、耐え難い欠損感だけ。

 

 誠を見下ろし、紗月がナイフを下ろした。

 

 焼け焦げた匂い。

 腕や首元の肌は赤く、所々が爛れている。

 

「……もう」

 

 独り言のように呟いてから、誠の傍に腰を下ろす。

 

「これで死なれても困るよ」

 

 ナイフを地面に置き、手早く上着を裂く。

 

「止血するよ、ほら傷を見せて」

 

 そう言って、紗月は──誠の左腕を、掴んだ。

 

 その瞬間。

 

 痛みに喘いでいたはずの誠が顔を上げた。

 

「──っ!?」

 

 紗月が声を上げるより早く。

 

 誠は、上体を跳ね起こし──彼女の首元へ噛みついた。

 

 歯が、肌に食い込む。

 

 深くはない。

 だが、確かに。

 

 微かな抵抗のあと、温かいものが流れ出る。

 

「……な、に……っ」

 

 紗月の声が、震える。

 

 誠は、考えるより先に──それを飲み込んだ。

 

 喉を、熱が滑り落ちる。

 

 次の瞬間。

 

 世界が、歪んだ。

 

 左肩から先に、激しい熱と痒み。

 骨が、筋が、皮膚が──巻き戻るように再構築される感覚。

 

「──!? なんで、それは」

 

 そこには。

 

 失われたはずの腕が、確かにあった。

 

 まだ赤く、未完成のように震えながら。

 それでも、指は──動く。

 

 紗月が、目を見開いた。

 

「……再生……? いや、リゲイン……」

 

 言葉にならない声。

 

 理解が追いつく前に、誠は動いた。

 

 今度は、迷いがない。

 

 正面から。

 

 立ち上がりざま、紗月の身体へ──組み付く。

 

「──っ!」

 

 勢いで、二人は地面に倒れ込んだ。

 

 土と枯葉が舞う。

 

 誠の左腕が、確かに紗月を拘束している。

 さっきまで無かったはずの腕で。

 

 紗月は、一瞬、完全に虚を突かれていた。

 

 焼けた肌。

 首元を押さえながら、信じられないものを見る目。

 

「……灰原、君……?」

 

 誠の呼吸は荒い。

 目の奥が、熱に濁っている。

 

 理性は、まだ残っている。

 だが、その縁が──確実に、削れている。

 

「……すみません、先輩」

 

 声は、低い。

 

 謝罪なのか、宣告なのか。

 その区別すら、曖昧だった。

 

 夜の山中で。

 

 立場は、再び──ひっくり返った。

 

「俺だって死ぬ気でやってるんですよ」

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