——ゴォン。
腹の底を叩くような振動が、骨を揺らした。
次いで、遅れて轟音。
森の空気が押し潰され、灰と枯れ葉が一斉に跳ねる。
「……っ」
誠の喉から、掠れた息が漏れた。
瞼の裏が白い。
耳鳴りが、世界を薄くする。
それでも。
次の衝撃で、意識が浮上した。
頬に冷たい土。
衣服に絡む灰。
肺が浅く動き、胸の奥——何かが、重く据わっている感覚が残っている。
「……何、だ……」
声が出たのが、自分でも意外だった。
身体を起こそうとして、腕が震える。
指先に、妙な軽さがある。
痛みがない。代わりに、鈍い違和感だけが残っている。
誠は、ふらつく視界を持ち上げた。
——山。
いや、山だったもの。
森の向こう、夜空を切る稜線が——あり得ない形で欠けている。
山肌が、丸ごと抉り取られていた。
刃物で削いだように、面が平らだ。
岩盤が剥き出しになり、削り取られた土砂が黒い帯になって下へ流れている。
その断面に、月光が刺さっていた。
白い。
白すぎる。
火でも雷でもない光が通った痕のように、岩が焼ける前に“削られた”跡だけが残っている。
誠は、口を開けたまま動けなかった。
——何を、見ている?
理解が追いつかない。
夢の続きのように、現実が滑る。
遠くでまだ、地面が唸っている。
森が、呻くように揺れる。
その原因が、ここにいるのだと。
誠の脳は、遅れて結論に辿り着いた。
ふっと、灰が舞った。
視界の端に、銀色が落ちる。
誠がそちらを向く前に、影が膝をついた。
——近い。
銀髪。
血のように赤い瞳。
煤けた中世の狩人服。
知っているはずの姿なのに、今は別物に見える。
彼女は、妖艶に笑っていた。
口元だけではない。
瞳の奥で、愉しげに光が揺れている。
まるで、山を削いだことなど些末な戯れだと言うように。
「目が覚めましたか、マスター」
声は柔らかい。
丁寧で、親しげで——それが逆に怖い。
誠は、喉が乾くのを感じた。
「……バー、サーカー……?」
名を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。
頷き方に、余裕がある。
誠の脈を取るでもない。
胸を確かめるでもない。
ただ、膝をつき、顔を覗き込み、笑みを深くする。
「ご気分は?」
安否を尋ねる口調。
だが、問いの中身は“確認”ではない。
——出来上がった玩具が、ちゃんと動くかの確認だ。
誠の背筋に、冷たい汗が浮いた。
胸の奥が、鈍く疼く。
そこに何かがある。
何かを——据え付けられた。
呼吸をするたび、胸骨の裏側で、別の鼓動が鳴る気がした。
「……今の……」
誠は、山を指さそうとして、指が途中で止まった。
指先が震える。
「……あれ、何だよ」
バーサーカーは、喉の奥でくすりと笑った。
笑いが、甘い。
「見えましたか」
言い方が、まるで褒美だ。
「あなたが眠っている間に、少し——掃除を」
誠の視線が、もう一度山へ向かう。
抉れた稜線は、現実としてそこにある。
森の匂いが変わっている。
土と岩の匂いに混じって、白い熱の残り香がする。
誠は、ゆっくりと首を振った。
「……掃除……?」
声が裏返る。
バーサーカーは、赤い瞳を細めた。
愉悦に満ちた微笑みのまま、誠の顔のすぐ近くまで身を寄せる。
吐息が、耳朶を掠めた。
「大丈夫ですよ」
囁きが、親密すぎる距離で落ちた。
「私が、ちゃあんと、守ってあげますからね」
誠は、言葉を失ったまま、目の前の彼女を見つめていた。
——違う。
姿かたちは記憶にあるものと変わらない。
それなのに。
纏っている空気が、まるで別物だった。
以前のバーサーカーには、常にあったもの。
自らを縛る、ぎりぎりの理性。
指示されなければマスターを守る事すらしない慇懃無礼な態度。
徹底的な狩りへの執着。
今、それがない。
あるのは、余裕。
そして、隠す気もない愉悦。
「……バーサーカー……」
呼びかけは、弱々しく宙に落ちた。
彼女は、それに応えなかった。
すっと、膝を伸ばす。
立ち上がる所作は、静かだった。
だが、その瞬間、周囲の空気が僅かに沈む。
誠の横を通り過ぎる。
視線も寄越さず、彼女は吹き飛ばした先——戦場の跡地へと歩み出た。
灰が、足元で音もなく舞う。
抉れた地面。
焼け、削れ、ねじ曲がった木々。
岩盤には、光が走った痕跡がそのまま残っている。
その中央に——
倒れていた。
人の形をした、黒い塊。
アサシンだった。
身体は歪な角度で横倒しになり、胸元には大きく穿たれた穴。
炭化した縁から、まだ微かに煙が上がっている。
赤黒い炎も、瘴気も、今は静まり返っていた。
誠は、息を呑む。
「……死ん、で……」
言葉にならない。
その背後で、バーサーカーが小さく息を吐いた。
呆れたように。
退屈そうに。
「——下手な芝居は、お止めなさい」
淡々とした声だった。
嘲りすら、ない。
誠の心臓が、跳ねる。
次の瞬間。
ぐちり、と音がした。
死体の胸元で、何かが蠢く。
裂けていた肉が、内側から盛り上がる。
黒く焼けた断面に、赤い筋が走り、繊維が絡み合っていく。
骨が鳴る。
筋が繋がる。
皮膚が、引き延ばされるように再生する。
「……っ」
誠は、声を失った。
アサシンの指が、ぴくりと動く。
次いで、肘。
肩。
倒れていた身体が、ぎこちなく起き上がる。
胸に開いていた穴は、もうない。
残っているのは、黒く濡れた跡と、再生の余熱だけ。
アサシンは、荒い息を吐きながら、立ち上がった。
首を鳴らす。
肩を回す。
その瞳が、再び獣じみた光を宿す。
「ふむ……周囲の生命エネルギーを動力源とした黄泉返り、といった所ですか。見たところ、復活のタイミングは任意……ですが残念、私に騙し討ちは通用いたしません」
言葉が終わるより早かった。
アサシンの足が、地面を蹴る。
——跳躍。
灰が爆ぜ、空気が裂ける。
再生したばかりの身体とは思えない初速だった。
右手の太刀が横薙ぎに走る。
続けて、左の刃が死角から喉元を狙う。
二撃。
間髪入れず、獣の噛みつきのような連撃。
だが——
バーサーカーは、退かない。
半歩、ずらす。
ただそれだけで、最初の斬撃が空を切る。
続く刃に対しては、肩を沈める。
刃先が、銀髪をかすめるだけで終わった。
衣服が裂ける音すらない。
「……おや」
余裕の混じった声音。
彼女は、ひらりと身を翻しながら、振り向きざまに言った。
「今や“狂戦士”という名は——貴方の方が、よほど相応しいですね」
皮肉だった。
澄ました調子で、確信を込めて。
アサシンは、答えない。
——否。
答える気がない。
低く唸り、さらに踏み込む。
二刀が、同時に唸りを上げる。
斬る。
裂く。
抉る。
技でも型でもない。
ただ、殺すための軌道だけが洗練されている。
獣の攻勢。
誠は、息を詰めた。
——速い。
——怖い。
だが。
バーサーカーは、それを“受け流している”。
掌で払う。
前腕で逸らす。
刃の腹を、指で弾く。
まるで、刃が本気で当たる前提にすらしていない。
数合、打ち合ったところで。
バーサーカーは、小さく溜息を吐いた。
「……素手では、少々手に余りますね」
次の瞬間。
彼女の右腕が——歪んだ。
骨の輪郭が、消える。
皮膚が、柔らかく波打つ。
ぐにゃり、と。
腕が、腕であることをやめる。
誠の視界が、理解を拒む。
長くしなやかだった腕は、途中から形を失い、
無数の細い“何か”に分かれていった。
触手。
それも、一本や二本ではない。
束になり、絡まり、蠢きながら増えていく。
軟体動物の腕のように。
いや、それ以上に——意志を持って。
「——っ!?」
アサシンが、反射的に距離を取ろうとする。
だが、遅い。
触手が、弾けた。
一本が、手首を絡め取る。
二本が、肘を縛る。
三本、四本が胴に巻き付き、脚を捕らえる。
粘つく音。
締め上げる圧。
力づく。
逃げ場を潰すのではない。
“逃げるという選択肢”そのものを潰す拘束。
「……っ——!」
アサシンが叫ぶ。
太刀が、触手を斬りつける。
だが、斬っても斬っても、再生する。
切断面から、ぬるりと新たな触手が伸びる。
バーサーカーは、近づいた。
触手に引き寄せられる形で、アサシンの目前へ。
赤い瞳が、間近で細まる。
「衝動のままに刀を振るう貴方に、以前のような技の冴えはないようですね」
囁きは、優しい。
「残念です、子犬ちゃん」
アサシンの身体が、地面へ叩き伏せられる。
——ドン。
衝撃で、灰が舞い上がる。
誠は、動けなかった。
胸の奥で、あの“別の鼓動”が、重く脈打つ。
それが、今のバーサーカーと——
どこかで、同じリズムを刻んでいる気がして。
バーサーカーは、拘束したまま、誠の方を一瞬だけ振り返った。
その表情は、妖艶な微笑みのまま。
「マスター、もう暫くお待ちを。躾の、仕上げを行いますから、ねえ」
バーサーカーの触手が、地面に縫い付けたまま、アサシンを押さえ込む。
黒い太刀が暴れる。
刃が触手を裂くたび、ぬるり、と別の束が生えて埋める。
無駄だと理解してなお、アサシンは噛みつくように腕を振り続けた。
獣の執念。
呼吸の荒さだけが、まだ“生”を主張している。
バーサーカーは、それを見下ろした。
愉悦の笑みが、薄く冷める。
「……もう、いいでしょう」
言葉が落ちた瞬間、空気の温度が変わった。
バーサーカーの右手——触手ではない方の手が、すっと持ち上がる。
五指が、ゆっくりと開かれる。
指先に、白が集まり始めた。
光。
火ではない。
雷でもない。
“現実の輪郭”を削り取る類の、無機質な白。
灰が、その光に引かれるように宙を漂う。
枯れ葉が、風もないのに浮き上がる。
バーサーカーは構えも取らない。
狙いも定めない。
ただ、指先に世界の白を溜めていく。
光が、膨らむ。
静かなのに、耳が痛い。
視界の端が滲み、森の輪郭が薄くなる。
アサシンが、なお暴れた。
触手の束を裂き、身体を起こそうとする。
だが、次の瞬間。
——揺らいだ。
アサシンの輪郭が、一瞬だけ、不自然にぶれた。
まるで、そこにいる“存在の座標”が、現実から外れかけたように。
バーサーカーの指先が、閃光を放つ直前。
アサシンの身体が——
ほどける。
肉も、骨も、炎も、瘴気も。
全部が、一度に“粒”へ砕けた。
光の粒子。
夜の森に舞う灰とは違う。
白く、細かく、音もなく散っていく。
太刀は落ちない。
血も落ちない。
存在だけが、消える。
瞬き一つぶんの間に、アサシンは跡形もなく消え失せていた。
バーサーカーの指先に集まっていた白が、行き場を失ってふっと薄れる。
彼女は、舌打ちすらしない。
ただ——興ざめしたように、肩を落とした。
「……つまらない」
触手が、ほどける。
腕が、何事もなかったかのように“元の形”へ戻っていく。
銀髪の女は、消えた場所を一瞥し、誠へ振り返った。
赤い瞳が、退屈そうに細まる。
「令呪ですね」
淡々とした報告。
「藍沢紗月。離脱したマスターが、回収したのでしょう」
誠の喉が鳴った。
「……回収……?」
バーサーカーは、答えを噛み砕く気がない。
「呼び戻し。あるいは強制退去」
彼女は、指先を軽く振る。
白い残滓が、空に溶ける。
「死なせるより、惜しいと判断したのでしょう。あの歪んだ状態でも、駒にはなる」
それから、にやりと笑った。
妖艶なまま、しかし温度がない笑み。
「……逃げたのですよ。あなたを殺す“計画”ごと」
誠の背中に、冷たいものが走る。
森は静まり返っている。
灰だけが降り続ける。
その静けさの中で、バーサーカーの声だけが妙に鮮明だった。
「さて」
彼女は、ゆっくりと誠の方へ歩み寄る。
さっきのように膝をつくのではない。
立ったまま、覗き込む。
「マスター。お立ちになれますか?」
問いは丁寧。
だが、断りを許さない調子。
誠は、差し出された手を見た。
白い指。
細く、しなやかで、血の気が薄い。
それが、先ほどまで山を削り、英霊を消し飛ばしていた“同じ手”だという事実を、頭が拒む。
「……立てる、とは思うけど……」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
次の瞬間、考えるより早く——その手が、誠の手首を取った。
強くはない。
だが、迷いがない。
引かれる。
誠の身体が、自然と前へ起き上がった。
膝に力が入らないはずなのに、倒れない。
——支えられている。
それも、必要以上に近い距離で。
「無理をなさらずに」
耳元で、囁く声。
いつの間にか、バーサーカーは誠のすぐ隣に立っていた。
肩が触れそうな距離。
いや、触れている。
腕が絡め取られるわけでもない。
抱き寄せられるわけでもない。
ただ——逃げ場がないほど、自然に寄り添っている。
誠は、一歩踏み出した。
次の一歩も、問題なく出る。
足元の灰が、静かに鳴る。
「……え?」
違和感に、声が漏れる。
以前なら。
バーサーカーは、呼ばなければ現れなかった。
命令しなければ、守ることすらしなかった。
常に距離を保ち、必要最低限の関与しかしなかったはずだ。
それが今は。
半歩も離れない。
視線を外さない。
歩調すら、完全に合わせてくる。
まるで——
護衛ではなく、エスコートだ。
森を抜ける道すがら、バーサーカーは一度も誠の手を離さなかった。
枝を避ける時も、段差を越える時も、自然に体重を支える。
そのたび、誠の胸の奥の“別の鼓動”が、こつり、と応じる。
気付かないふりをするしかなかった。
やがて、木々の向こうに——屋敷が見えた。
いや。
屋敷だったもの、だ。
「……っ」
誠の足が、止まる。
黒野の屋敷は、半壊していた。
正面の壁は崩れ落ち、梁がむき出しになっている。
屋根の一部は吹き飛び、内部が夜気に晒されていた。
残った箇所からも、火の手が上がっている。
赤い舌が、闇を舐めるように揺れていた。
焦げた木材の匂い。
魔術的な焼灼の残滓。
——戦場の跡。
「……うそ、だろ……」
呟きが、震えた。
生活の痕跡。
戻る場所。
“日常”と呼べたもの。
それらが、一つの夜で壊されている。
バーサーカーは、誠の隣で立ち止まった。
屋敷を見て、眉一つ動かさない。
後悔も、驚きも、ない。
ただ、状況を受け入れる者の目。
「……どうやら、こちらでも中々派手に戦っていたようですね」
誠は、燃え上がる屋敷を見つめたまま、答えられなかった。
その横で、バーサーカーは一歩前に出る。
まるで、瓦礫と炎から誠を庇うように。
「さあ、参りましょう」
火の粉が舞う中で、彼女は微笑んだ。
「ここはもう、安全とは言えませんから」
誠は、無言で頷くしかなかった。
その背を、彼女の影が——
ぴたりと、覆っていた。