駅前の雑居ビルは、灰の降下で看板の色が死んでいた。二階へ上がる外階段は濡れた灰を噛み、靴底がきゅ、と短く鳴る。
簡素な事務所だった。
白い壁紙。安い蛍光灯。折り畳み机が二台、パイプ椅子が四脚。角に小さな電気ポットと紙コップ。窓は半分だけブラインドが下り、外の光が細い筋になって床へ落ちている。
誠は椅子に腰を下ろしても、背中を預けられなかった。火の粉の匂いがまだ鼻の奥に残っている。煤と、甘い焼灼──思い出しただけで喉が乾く。
机の向こう側で、黒野理央が静かに座っていた。
額の包帯は白く、そこだけが不釣り合いに清潔だった。腕にも巻かれた帯。だが姿勢は崩れていない。血の気の薄い唇が一度だけ閉じ、開いた。
「……まさか、敵陣営が駅前にあるなんて」
声は低い。疲労を押し込めた音。
紫村秀則は理央の隣に座っていた。応急処置の帯が胸元に覗き、片腕を庇うように抱えている。息はまだ浅いが、視線ははっきりしていた。
「そういえば、ずっと空きテナントになってましたなここ……何も入らないなとは思ってましたが、いやはや」
そして、机のこちら側。
マイケル・ウィルソン──アーチャーは、書類のない机に紙束を広げ、ペンを走らせていた。
カリ、カリ、と音がする。
誠はその音に、なぜか息が落ち着くのを感じた。
「……OK、改めて確認しよう」
カリ、とペン先が止まる。
一度だけ喉を鳴らした。
「……えーと、じゃ、俺から」
視線が集まる。
理央は無言で頷き、紫村は僅かに身を起こした。アーチャーはペンを紙の上に置いたまま、いつでも書き始められる角度で誠を見る。
「……攫われて、藍沢先輩と会った、と言うか戦った」
理央の眉が、わずかに動いた。
「そう、やっぱり……」
「……で」
誠は、そこで一瞬だけ目を閉じた。
嫌な記憶を掘り起こす時の、あの感覚。
「……戦った」
短い言葉。
「アサシンは、出てきたかしら」
理央の問いは正確だった。
誠は、首を横に振る。
「……いや。先輩曰く、バーサーカーの足止めをしてたらしい。一体一で戦った」
理央の目が細くなる。
秀則の視線が、わずかに揺れた。
「で、負けた」
言い切る。
言い訳はしない。
「黒野に色々教えてもらって、戦えるようになったつもりだったけど……優勢だったのは最初くらいか」
短い沈黙。
蛍光灯の低い唸りが、やけに耳につく。
誠は、そこで一度息を吐いた。
ここからが本題だと、自分でも分かっている。
「……で、目が覚めた時」
指先に力が入る。
爪が、皮膚に食い込む。
「……バーサーカーがいた」
理央の視線が、ほんの僅かに鋭くなる。
紫村が、息を潜める。
アーチャーのペンが、また走り出す。
「いや……いた、って言い方が正しいのか分からないけど」
誠は、言葉を探す。
あの違和感を、そのまま出すしかない。
「……なんか、違った」
抽象的な言い方。
だが、それしかない。
「同じ見た目。同じ声。……でも、違う」
理央の眉が、僅かに寄る。
「バーサーカーは、どう違ったの?」
即座の問い。
誠は、視線を落としたまま答える。
「……距離が、近い」
短く。
「近い?」
「物理的にもそうだし……なんていうか」
喉が、乾く。
「“寄り添ってる”感じが強すぎる。守るっていうより……導く、みたいな」
言葉にしても、まだ足りない。
誠は続ける。
「手、握られてた。強くはないけど……離れられない感じで」
理央は、無言。
「あと……笑ってた」
その一言で、空気が少し冷える。
「燃えてる屋敷見て。火の粉見て。……楽しそうに」
理央の指が、机の上で止まる。
紫村の呼吸が、わずかに深くなる。
アーチャーのペンが、紙を擦る音だけが響く。
「前から……変なやつだとは思ってたけど、あれは違う。正直、別人だって思う」
誠は、はっきりと言った。
「今までは聖杯戦争とか、マスターである俺の事ですらどうでもいいって感じだったのに」
静寂。
秀則も遠慮がちに口を開いた。
「自分のライダーちゃんも、ライダーさんになったと言いますか。見ての通り、立派なレディになってしまいました、あいや、なってしまったというと失礼ですな」
誠は、あの視線を思い出す。
静かで、揺れない瞳。
「落ち着いてた。……落ち着きすぎてた」
言葉を選ぶ。
「前の危ういバランスとは違って、なんていうか、“完成してる”感じ」
紫村は、同意して腹を揺らす。
「確かに! ですが、バーサーカー女史のような別人じみた言動かと言われればそうでもなく……あー、あの子の10年後はこんな感じなんだろうなーって、感じでしたな」
誠は頷く。
「それで……バーサーカーと、ライダーが話してた」
アーチャーのペンが、止まる。
重要な部分だと、全員が理解する。
「“裏返った”とか、“並行世界”とか、“あり得たもしもの姿”とか」
理央の目が、はっきりと細まる。
紫村が、視線を落とす。
アーチャーのペンが、ゆっくりと動き出す。
今度は、少し時間をかけて書いている。
誠は続けた。
「正直、意味分かんない。でも……あの場では、あいつらはそれで納得してた」
短い沈黙。
誠は、最後に言った。
「……全部が、おかしい」
言葉が、机の上に落ちる。
「バーサーカーも、ライダーも……多分、アサシンも」
誠は、そこで言葉を切った。
口の中が乾いている。舌が上顎に貼りつくような感覚が、ふいに強まった。
——一体、何人の名前を口にした?
アサシン。バーサーカー。ライダー。
そして、アーチャー。
誠の視線が、机の上を彷徨う。
足りない。
当然、足りない。
当たり前のことが、今になってようやく脳に届いた。
「……セイバーは?」
声が、自分でも驚くほど低かった。
その一言で、部屋の空気が変わる。
理央の表情が、ほんの一瞬で硬くなる。紫村が目を伏せ、唇を引き結ぶ。アーチャーはペン先を紙に置いたまま、動きを止めた。
全員が、一様に——苦い顔をした。
誠の背筋に、冷たいものが這う。
「……黒野?」
沈黙を破ったのは、アーチャーだった。
ペンを置き、指先で紙束を軽く押さえる。言葉を選ぶというより、結論だけを落とす声。
「まさに彼こそが——私が停戦を申し出た理由なのだ」
理央の睫毛が、わずかに揺れた。
紫村が、低く息を吐く。
誠は、喉の奥で何かが引っかかるのを感じた。
「……セイバーが?」
アーチャーは頷き、続ける前に一度だけ眉間を押さえた。難しい案件の書類に向き合う時の仕草。
理央が、先に言った。
声は落ち着いている。だが、落ち着きすぎている。押し込めたものが、行間から滲んでいた。
「……突然、苦しんだの」
理央の指が、無意識に自分の包帯の端を撫でる。
「咳き込むとか、痛がるとか、そういう“人間の苦しみ”じゃない。……もっと、内側から削られるみたいな」
誠は息を呑んだ。
理央は続ける。
「膝をついたかと思ったら、次の瞬間、目が……」
言葉が止まる。
理央は一度、目を閉じた。思い出すだけで不快な映像が浮かぶのだと分かる。
「……敵味方関係なく、攻撃し始めた」
一拍。
「私自身も」
紫村が、喉を鳴らした。
「……あれは、正気ではありませんでしたな。以前戦ったキャスターの様な、恐ろしい狂気を感じました」
誠は、机の縁を指で掴んだ。
「一通り暴れて、何処かへ消えていったわ。マスターの私も、痕跡は辿れない」
指先が冷たい。
「……なんで」
声が掠れる。
「セイバーが、そんな……」
理央は、答えない。
代わりにアーチャーが口を開く。
「全くもって全てが不明。さて、情報は出尽くした様だが……」
ペンを取り直し、紙の端に短く書き込む。
カリ。
カリ、カリ。
書きながら、難しそうに唸った。
「……hmm」
低く、喉の奥で鳴る音。
「彼は最優の騎士の名に相応しい、規律の象徴だった。自己制御の塊だ。にもかかわらず、無差別に切り始めた」
ペン先で、同じ箇所を二度叩く。
「これは単なる精神汚染では説明がつかない。契約に干渉が入ったのか、それとも──」
アーチャーは言葉を切り、紙の上に視線を落としたまま眉間を寄せた。
「……あの狂いっぷりは、まるでバーサーカーだ」
静かな断定だった。
誠は、背筋が薄く粟立つのを感じた。バーサーカー、という単語がこの場の空気を硬くする。バーサーカー本人がいないにもかかわらず。
アーチャーは続ける。
「推論だが——セイバーは、何らかの理由で“セイバークラスではなくなった”可能性がある」
理央のまつ毛が、一度だけ揺れた。
秀則は口を結び、息を止めるようにして聞いている。
誠は何も言えない。言葉があるなら、問いしかない。
アーチャーは、紙に視線を落としたまま、慎重に言葉を選ぶ。
「英雄は、単一の像ではない。生前の“側面”は複数ある。——騎士であり、王であり、処刑人であり、狂信者であり……」
ペン先が紙の上で一瞬止まり、次の行を押し付けるように書き足す。
カリ。
——「生前別側面の表面化」。
「つまり」
アーチャーは顔を上げない。
「“最優の騎士”としてのセイバーが反転し、彼の別側面が表面化した。殺戮者としての彼が」
理央が、薄く息を吐く。
それは肯定ではなく、受け入れざるを得ない現実への呼吸だった。
秀則が、微かに首を振る。
「……だとしても著しい変化でしたな。まるで、生きとし生けるもの全てを殺さんとする勢いでしたぞ」
事務所の中に、張り詰めた沈黙が落ちる。
蛍光灯の唸りが、急に大きく感じられる。
紙の上で、アーチャーのペンが小さく震え、止まったままになる。
——その時だ。
ドン、と。
乱暴な音が、薄い扉を叩き開いた。
風が流れ込む。冷たい灰の匂い。外のざらつき。
全員の視線が、反射的に入口へ向く。
扉枠の向こうに立っていたのは、女だった。
スーツ。タイトなジャケットと膝丈のスカート。髪はきっちりまとめられ、耳元に細いピアスが光る。ヒールは低めだが、歩き方が速い。駅前を走り回っても崩れない、キャリアウーマンの体幹。
そして、その目。
感情が薄い。だが、怒りだけは鮮明に刻まれている。
「——アーチャー」
アーチャーが、ゆっくり顔を上げた。
「おかえり洋子。諸君、紹介しよう、我がマスター紺藤洋子だ」
「おかえりじゃない!」
女は机までの距離を三歩で詰めた。紙コップが軽く揺れる。
「連絡もなく、勝手に各陣営をここに招き入れるなんてどういうつもり!? 」
声は通る。怒鳴っているのに、言葉が濁らない。日常で部下を叱る人間の叱り方だ。
理央の視線が女を測る。紫村は小さく息を漏らし、状況を飲み込もうとしている。
アーチャーは、椅子から立ち上がらない。だが表情だけが微かに硬くなった。
「状況が緊急だった。救護と——」
「緊急だからこそ、手順を踏むの!」
女は机の端に手を置き、身を乗り出す。爪は短く整えられている。だが圧は刃物のようだ。
「停戦交渉? 情報交換? これは政治じゃないのよ、大統領さん。戦争なの、聖杯戦争、殺し合いなのよ」
誠の胃が、ひやりと沈む。
言われてみれば、その通りだった。
この場は薄い壁で区切られただけの小さな箱だ。守りも逃げ道も少ない。ここに敵陣営が入り乱れたら——。
アーチャーが、ゆっくりと息を吐いた。
「……君の指摘は正しい」
珍しく、素直な肯定。
女は眉を寄せたまま、言葉を続ける。
女──洋子の眉間の皺は、消える気配がなかった。
机の端に置かれた指先が、苛立ちを抑えるように軽く叩く。
その乾いた音に対して、アーチャーはゆっくりと両手を上げた。
降参の仕草に見える。だが態度は降参ではない。
「事後報告になった。私の落ち度だ」
声は落ち着いている。謝罪の言葉だけが先に落ちる。
「勝手をした。君の許可を取るべきだった。そこは詫びよう」
洋子は目を細める。
「……珍しく素直ね」
理央と紫村が、言葉を挟まずに見ている。
誠も、息を殺している。
アーチャーは、机に置いた紙束を指で整えた。まるで、議会の壇上で演説の資料を揃えるように。
そして、続けた。
「だが」
謝罪の次に来たのは、宣言だった。
「問題ない」
洋子の眼差しが、さらに鋭くなる。
「……は?」
アーチャーは肩をすくめた。
大袈裟でもなく、挑発でもない。事実を述べるような動き。
「私はリスクとリターンを計算した上で動いた」
ペンを取り、紙の端に短く線を引く。
カリ、と音がした。
「この場に各陣営を集めるリスクは理解している。だが、情報の断絶が続けば混沌は取り返しがつかなくなり、戦争は加速する」
理央が、わずかに息を吐いた。納得ではない。理解だ。
アーチャーは続ける。
「同時に、ここは駅前だ。人通りがある。警戒が薄いようで、逆に“派手に殺し合えない”環境でもある」
洋子が言い返す。
「覚悟の問題よ。彼らは幼くとも魔術師、そしてそのサーヴァント。立派な脅威よ」
アーチャーは頷いた。
洋子の指摘を否定しない。否定しないまま、別の方向へ押し切る。
「だからこそ、私がここにいる」
言い切った。
「例え何かが起きても、私ならば完璧に対処してみせる。何故ならば私は──」
「あぁ、はいはい。大統領だものね」
肩が落ちる。
怒鳴る勢いが、すっと抜けた。
「その滅茶苦茶な論理、分かってる。あなたはいつもそう」
洋子は額を押さえ、指の間からアーチャーを睨む。
「“自分なら何とかできる”って前提で動く。それで本当に何とかしちゃうから、さらに厄介なのよ」
アーチャーは、微かに口元を緩めた。
勝った笑みではない。状況が収まったことへの、短い安堵。
洋子は深く息を吐き、机の脇に置かれた空いた椅子を顎で示す。
「……座るわ。議事録、見せて」
アーチャーは紙束を差し出しながら言う。
「もちろんだ。君の監督が入るなら、なお良い」
洋子は紙を受け取り、視線を走らせる。眉間の皺が、また少しだけ深くなる。
紙を捲る音が、やけに大きく聞こえた。
ぱらり、ぱらり、と指先が乾いた紙面を滑っていく。洋子の視線は速い。行を追うというより、必要な単語だけを抜き取っている。
アーチャーは机の端に肘を置き、落ち着いた声で尋ねた。
「……何か収穫はあったか、洋子」
洋子は答えず、もう一枚捲る。
紙束の角が揃っていくたびに、彼女の眉間の皺が深くなる。
「収穫、ね」
吐き捨てるように言って、また資料を捲った。
誠は無意識に背筋を伸ばす。理央も紫村も黙っている。蛍光灯の白い光が、洋子の頬骨の影を硬く切り取っていた。
洋子は、目を紙面から外さないまま言う。
「……町は酷い有様よ」
声は平坦だった。感情がないわけではない。感情を入れる余地がない、という音。
理央が、間を置かずに返す。
「酷い、とは?」
洋子の指が、一枚の紙の端で止まる。
そこに書かれた何かを確かめるように、視線が一度だけ下へ沈む。
そして、顔を上げた。
冷徹な顔だった。
怒りも、焦りも、悲しみも——表に出すのをやめた顔。
「……世界の終わりが、幾つも重なって起こったみたい」
その言葉が、事務所の空気を一段冷やした。
洋子が続ける。
「黒野家は見事にやらかしてくれたわね。全部、貴方達のせいよ」