Fate/You Died.   作:助兵衛

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第54話 攪拌

 駅前の雑居ビルは、灰の降下で看板の色が死んでいた。

 

 二階へ上がる外階段は濡れた灰を噛み、靴底がきゅ、と短く鳴る。

 

 簡素な事務所だった。

 白い壁紙。安い蛍光灯。折り畳み机が二台、パイプ椅子が四脚。

 角に小さな電気ポットと紙コップ。窓は半分だけブラインドが下り、外の光が細い筋になって床へ落ちている。

 

 誠は椅子に腰を下ろしても、背中を預けられなかった。

 火の粉の匂いがまだ鼻の奥に残っている。煤と、甘い焼灼──思い出しただけで喉が乾く。

 

 机の向こう側で、黒野理央が静かに座っていた。

 額の包帯は白く、そこだけが不釣り合いに清潔だった。

 腕にも巻かれた帯。だが姿勢は崩れていない。血の気の薄い唇が一度だけ閉じ、開いた。

 

「……まさか、敵陣営が駅前にあるなんて」

 

 声は低い。疲労を押し込めた音。

 

 紫村秀則は理央の隣に座っていた。

 応急処置の帯が胸元に覗き、片腕を庇うように抱えている。

 息はまだ浅いが、視線ははっきりしていた。

 

「そういえば、ずっと空きテナントになってましたなここ……何も入らないなとは思ってましたが、いやはや」

 

 そして、机のこちら側。

 マイケル・ウィルソン──アーチャーは、書類のない机に紙束を広げ、ペンを走らせていた。

 

 カリ、カリ、と音がする。

 

 誠はその音に、なぜか息が落ち着くのを感じた。

 

「……OK、改めて確認しよう」

 

 カリ、とペン先が止まる。

 

 一度だけ喉を鳴らした。

 

「……えーと、じゃ、俺から」

 

 視線が集まる。

 

 理央は無言で頷き、紫村は僅かに身を起こした。

 アーチャーはペンを紙の上に置いたまま、いつでも書き始められる角度で誠を見る。

 

「……攫われて、藍沢先輩と会った、と言うか戦った」

 

 理央の眉が、わずかに動いた。

 

「そう、やっぱり……」

 

「……で」

 

 誠は、そこで一瞬だけ目を閉じた。

 嫌な記憶を掘り起こす時の、あの感覚。

 

「アサシンは、出てきたかしら」

 

 誠は、首を横に振る。

 

「……いや。先輩曰く、バーサーカーの足止めをしてたらしい。一体一で戦った」

 

 理央の目が細くなる。

 

 秀則の視線が、わずかに揺れた。

 

「で、負けた」

 

 言い切る。

 言い訳はしない。

 

「黒野に色々教えてもらって、戦えるようになったつもりだったけど……優勢だったのは最初くらいか」

 

 短い沈黙。

 

 蛍光灯の低い唸りが、やけに耳につく。

 誠は、そこで一度息を吐いた。

 

 ここからが本題だと、自分でも分かっている。

 

「……で、目が覚めた時」

 

 指先に力が入る。

 爪が、皮膚に食い込む。

 

「……バーサーカーがいた」

 

 理央の視線が、ほんの僅かに鋭くなる。

 

 紫村が、息を潜める。

 

 アーチャーのペンが、また走り出す。

 

「いや……いた、って言い方が正しいのか分からないけど」

 

 誠は、言葉を探す。

 あの違和感を、そのまま出すしかない。

 

「……なんか、違った」

 

 抽象的な言い方。

 

 だが、それしかない。

 

「同じ見た目。同じ声。……でも、違う」

 

 理央の眉が、僅かに寄る。

 

「バーサーカーは、どう違ったの?」

 

 即座の問い。

 

 誠は、視線を落としたまま答える。

 

「……距離が、近い」

 

 短く。

 

「近い?」

 

「物理的にもそうだし……なんていうか」

 

 喉が、乾く。

 

「“寄り添ってる”感じが強すぎる。守るっていうより……導く、みたいな」

 

 言葉にしても、まだ足りない。

 

「あと……笑ってた」

 

 その一言で、空気が少し冷える。

 

「燃えてる屋敷見て。火の粉見て。……楽しそうに」

 

 アーチャーのペンが、紙を擦る音だけが響く。

 

「前から……変なやつだとは思ってたけど、あれは違う。正直、別人だって思う」

 

 誠は、はっきりと言った。

 

「今までは聖杯戦争とか、マスターである俺の事ですらどうでもいいって感じだったのに」

 

 静寂。

 

 秀則も遠慮がちに口を開いた。

 

「自分のライダーちゃんも、ライダーさんになったと言いますか。見ての通り、立派なレディになってしまいました、あいや、なってしまったというと失礼ですな」

 

 誠は、あの視線を思い出す。

 

 静かで、揺れない瞳。

 

「落ち着いてた……落ち着きすぎてた」

 

 言葉を選ぶ。

 

「前の危ういバランスとは違って、なんていうか、“完成してる”感じ」

 

 紫村は、同意して腹を揺らす。

 

「確かに! ですが、バーサーカー女史のような別人じみた言動かと言われればそうでもなく……あー、あの子の10年後はこんな感じなんだろうなーって、感じでしたな」

 

 誠は頷く。

 

「それで……バーサーカーと、ライダーが話してた」

 

 アーチャーのペンが、止まる。

 

 重要な部分だと、全員が理解する。

 

「“裏返った”とか、“並行世界”とか、“あり得たもしもの姿”とか」

 

 理央の目が、はっきりと細まる。

 

 紫村が、視線を落とす。

 

 アーチャーのペンが、ゆっくりと動き出す。

 今度は、少し時間をかけて書いている。

 

 誠は続けた。

 

「正直、意味分かんない。でも……あの場では、あいつらはそれで納得してた」

 

 短い沈黙。

 

 誠は、最後に言った。

 

「……全部が、おかしい」

 

 言葉が、机の上に落ちる。

 

「バーサーカーも、ライダーも……多分、アサシンも」

 

 誠は、そこで言葉を切った。

 

 口の中が乾いている。舌が上顎に貼りつくような感覚が、ふいに強まった。

 ——一体、何人の名前を口にした? 

 

 アサシン。バーサーカー。ライダー。

 そして、アーチャー。

 

 誠の視線が、机の上を彷徨う。

 足りない。

 当たり前のことが、今になってようやく脳に届いた。

 

「……セイバーは?」

 

 その一言で、部屋の空気が変わる。

 

 理央の表情が、ほんの一瞬で硬くなる。

 紫村が目を伏せ、唇を引き結ぶ。アーチャーはペン先を紙に置いたまま、動きを止めた。

 

 全員が、一様に——苦い顔をした。

 

 誠の背筋に、冷たいものが這う。

 

「……黒野?」

 

 沈黙を破ったのは、アーチャーだった。

 

 ペンを置き、指先で紙束を軽く押さえる。

 言葉を選ぶというより、結論だけを落とす声。

 

「まさに彼こそが——私が停戦を申し出た理由なのだ

 

 誠は、喉の奥で何かが引っかかるのを感じた。

 

「……セイバーが?」

 

 アーチャーは頷き、続ける前に一度だけ眉間を押さえた。

 

 理央が、先に言った。

 

 声は落ち着いている。

 押し込めたものが、行間から滲んでいた。

 

「……突然、苦しんだの」

 

 理央の指が、無意識に自分の包帯の端を撫でる。

 

「咳き込むとか、痛がるとか、そういう“人間の苦しみ”じゃない。……もっと、内側から削られるみたいな」

 

 誠は息を呑んだ。

 

 理央は続ける。

 

「膝をついたかと思ったら、次の瞬間、目が……」

 

 言葉が止まる。

 

 理央は一度、目を閉じた。

 思い出すだけで不快な映像が浮かぶのだと分かる。

 

「……敵味方関係なく、攻撃し始めた」

 

 一拍。

 

「私自身も」

 

 紫村が、喉を鳴らした。

 

「……あれは、正気ではありませんでしたな。以前戦ったキャスターの様な、恐ろしい狂気を感じました」

 

 誠は、机の縁を指で掴んだ。

 

「一通り暴れて、何処かへ消えていったわ。マスターの私も、痕跡は辿れない」

 

 指先が冷たい。

 

「……なんで」

 

 声が掠れる。

 

「セイバーが、そんな……」

 

 理央は、答えない。

 

 代わりにアーチャーが口を開く。

 

「全くもって全てが不明。さて、情報は出尽くした様だが……」

 

 ペンを取り直し、紙の端に短く書き込む。

 

 カリ。

 

 カリ、カリ。

 

 書きながら、難しそうに唸った。

 

「……hmm」

 

 低く、喉の奥で鳴る音。

 

「彼は最優の騎士の名に相応しい、規律の象徴だった。自己制御の塊だ。にもかかわらず、無差別に切り始めた」

 

 ペン先で、同じ箇所を二度叩く。

 

「これは単なる精神汚染では説明がつかない。契約に干渉が入ったのか、それとも──」

 

 アーチャーは言葉を切り、紙の上に視線を落としたまま眉間を寄せた。

 

「……あの狂いっぷりは、まるでバーサーカーだ」

 

 静かな断定だった。

 

 誠は、背筋が薄く粟立つのを感じた。

 バーサーカー、という単語がこの場の空気を硬くする。バーサーカー本人がいないにもかかわらず。

 

 アーチャーは続ける。

 

「推論だが——セイバーは、何らかの理由で“セイバークラスではなくなった”可能性がある」

 

 理央のまつ毛が、一度だけ揺れた。

 

 アーチャーは、紙に視線を落としたまま、慎重に言葉を選ぶ。

 

「英雄は、単一の像ではない。生前の“側面”は複数ある。——騎士であり、王であり、処刑人であり、狂信者であり……」

 

 ペン先が紙の上で一瞬止まり、次の行を押し付けるように書き足す。

 

 カリ。

 

 ——「生前別側面の表面化」。

 

「つまり」

 

 アーチャーは顔を上げない。

 

「“最優の騎士”としてのセイバーが反転し、彼の別側面が表面化した。殺戮者としての彼が」

 

 理央が、薄く息を吐く。

 それは肯定ではなく、受け入れざるを得ない現実への呼吸だった。

 

 秀則が、微かに首を振る。

 

「……だとしても著しい変化でしたな。まるで、生きとし生けるもの全てを殺さんとする勢いでしたぞ」

 

 事務所の中に、張り詰めた沈黙が落ちる。

 蛍光灯の唸りが、急に大きく感じられる。

 

 紙の上で、アーチャーのペンが小さく震え、止まったままになる。

 

 ——その時だ。

 

 ドン、と。

 

 乱暴な音が、薄い扉を叩き開いた。

 風が流れ込む。冷たい灰の匂い。外のざらつき。

 全員の視線が、反射的に入口へ向く。

 扉枠の向こうに立っていたのは、女だった。

 

 スーツ。タイトなジャケットと膝丈のスカート。

 髪はきっちりまとめられ、耳元に細いピアスが光る。ヒールは低めだが、歩き方が速い。駅前を走り回っても崩れない、キャリアウーマン。

 

 そして、その目。

 

 感情が薄い。だが、怒りだけは鮮明に刻まれている。

 

「——アーチャー」

 

 アーチャーが、ゆっくり顔を上げた。

 

「おかえり洋子。諸君、紹介しよう、我がマスター紺藤洋子だ」

 

「おかえりじゃない!」

 

 女は机までの距離を三歩で詰めた。紙コップが軽く揺れる。

 

「連絡もなく、勝手に各陣営をここに招き入れるなんてどういうつもり!? 」

 

 声は通る。

 怒鳴っているのに、言葉が濁らない。

 日常で部下を叱りなれた声だった。

 

 アーチャーは、椅子から立ち上がらない。だが表情だけが微かに硬くなった。

 

「状況が緊急だった。救護と——」

 

「緊急だからこそ、手順を踏むの!」

 

 女は机の端に手を置き、身を乗り出す。

 爪は短く整えられている。だが圧は刃物のようだ。

 

「停戦交渉? 情報交換? これは政治じゃないのよ、大統領さん。戦争なの、聖杯戦争、殺し合いなのよ」

 

 誠の胃が、ひやりと沈む。

 

 言われてみれば、その通りだった。

 この場は薄い壁で区切られただけの小さな箱だ。

 守りも逃げ道も少ない。ここに敵陣営が入り乱れたら——。

 

 アーチャーが、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……君の指摘は正しい」

 

 珍しく、素直な肯定。

 

 女は眉を寄せたまま、言葉を続ける。

 女──洋子の眉間の皺は、消える気配がなかった。

 机の端に置かれた指先が、苛立ちを抑えるように軽く叩く。

 

 その乾いた音に対して、アーチャーはゆっくりと両手を上げた。

 降参の仕草に見える。だが態度は降参ではない。

 

「事後報告になった。私の落ち度だ」

 

 声は落ち着いている。謝罪の言葉だけが先に落ちる。

 

「勝手をした。君の許可を取るべきだった。そこは詫びよう」

 

 洋子は目を細める。

 

「……珍しく素直ね」

 

 理央と紫村が、言葉を挟まずに見ている。

 

 アーチャーは、机に置いた紙束を指で整えた。

 まるで、議会の壇上で演説の資料を揃えるように。

 

 そして、続けた。

 

「だが」

 

 謝罪の次に来たのは、宣言だった。

 

「問題ない」

 

 洋子の眼差しが、さらに鋭くなる。

 

「……は?」

 

 アーチャーは肩をすくめた。

 

 大袈裟でもなく、挑発でもない。事実を述べるような動き。

 

「私はリスクとリターンを計算した上で動いた」

 

 ペンを取り、紙の端に短く線を引く。

 

 カリ、と音がした。

 

「この場に各陣営を集めるリスクは理解している。だが、情報の断絶が続けば混沌は取り返しがつかなくなり、戦争は加速する」

 

 アーチャーは続ける。

 

「同時に、ここは駅前だ。人通りがある。警戒が薄いようで、逆に“派手に殺し合えない”環境でもある」

 

 洋子が言い返す。

 

「覚悟の問題よ。彼らは幼くとも魔術師、そしてそのサーヴァント。立派な脅威よ」

 

 アーチャーは頷いた。

 

 洋子の指摘を否定しない。

 否定しないまま、別の方向へ押し切る。

 

「だからこそ、私がここにいる」

 

 言い切った。

 

「例え何かが起きても、私ならば完璧に対処してみせる。何故ならば私は──」

 

「あぁ、はいはい。大統領だものね」

 

 肩が落ちる。

 

 怒鳴る勢いが、すっと抜けた。

 

「その滅茶苦茶な論理、分かってる。あなたはいつもそう」

 

 洋子は額を押さえ、指の間からアーチャーを睨む。

 

「“自分なら何とかできる”って前提で動く。それで本当に何とかしちゃうから、さらに厄介なのよ」

 

 アーチャーは、微かに口元を緩めた。

 勝った笑みではない。状況が収まったことへの、短い安堵。

 

 洋子は深く息を吐き、机の脇に置かれた空いた椅子を顎で示す。

 

「……座るわ。議事録、見せて」

 

 アーチャーは紙束を差し出しながら言う。

 

「もちろんだ。君の監督が入るなら、なお良い」

 

 洋子は紙を受け取り、視線を走らせる。

 眉間の皺が、また少しだけ深くなる。

 

 紙を捲る音が、やけに大きく聞こえた。

 

 ぱらり、ぱらり、と指先が乾いた紙面を滑っていく。

 洋子の視線は速い。行を追うというより、必要な単語だけを抜き取っている。

 

 アーチャーは机の端に肘を置き、落ち着いた声で尋ねた。

 

「……何か収穫はあったか、洋子」

 

 洋子は答えず、もう一枚捲る。

 

 紙束の角が揃っていくたびに、彼女の眉間の皺が深くなる。

 

「収穫、ね」

 

 吐き捨てるように言って、また資料を捲った。

 

 誠は無意識に背筋を伸ばす。

 理央も紫村も黙っている。

 

 蛍光灯の白い光が、洋子の頬骨の影を硬く切り取っていた。

 

 洋子は、目を紙面から外さないまま言う。

 

「……町は酷い有様よ」

 

 声は平坦だった。感情がないわけではない。

 感情を入れる余地がない、という音。

 

 理央が、間を置かずに返す。

 

「酷い、とは?」

 

 洋子の指が、一枚の紙の端で止まる。

 

 そこに書かれた何かを確かめるように、視線が一度だけ下へ沈む。

 そして、顔を上げた。

 冷徹な顔だった。

 怒りも、焦りも、悲しみも——表に出すのをやめた顔。

 

「……世界の終わりが、幾つも重なって起こったみたい」

 

 その言葉が、事務所の空気を一段冷やした。

 

 洋子が続ける。

 

「黒野家は見事にやらかしてくれたわね。全部、貴方達のせいよ」

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