Fate/You Died.   作:助兵衛

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第56話 紫村の日常

 扉を出ると、冷たい空気が肺に刺さった。

 

 灰は変わらず降り続けている。

 

 駅前の看板はどれも色を失い、昼間だというのに街全体が薄い鉛色に沈んでいた。

 

 バーサーカーは愉しそうに辺りを見渡し、ライダーは特に反応すらせず秀則の身体を支えて立っている。

 

「ええと、駅からですと我が家は歩いて1時間弱といった所ですな。車は……徒歩で向かうしかありませんな」

 

 駅前のバス停に目をやると、時刻表のガラスが割れていた。ベンチには灰が積もり、誰も座っていない。電光掲示板は沈黙したままだ。

 

 改札口の方からは、シャッターを閉める音が聞こえた。

 

 鉄の板が落ちる、乾いた音。

 

 理央がその音を背で聞き、視線だけで周囲を拾う。

 

「電車も、動いてないみたいね」

 

 言い切る声は平坦だった。

 

 空に目を上げる。

 

 太陽の位置に——炎の輪。

 

 日食のように黒い円を縁取る、消えないリング。揺らめきはあるのに、形は崩れない。眩しいはずの昼が、その輪の下ではずっと薄暗い。

 

 聖杯の影響なのか、誠にだけはあのリングの性質が感じ取れてしまう。

 

「……そうだな。歩くか」

 

 誠が言うと、秀則が軽く頷いた。

 

「では早速向かいましょう。自分も、家族の安否が気になる所です」

 

 三人は駅前を抜け、住宅街へ向かう道に入った。

 

 商店街のシャッターはほとんど閉まっている。開いている店はない。看板の照明は点かず、ショーウィンドウのガラスには灰が貼りついて、中のマネキンが薄汚れた死人みたいに見えた。

 

 交差点の信号が、無機質に点滅している。

 

 警戒灯のような赤。

 

 誠は足音を抑えるように歩いた。濡れた灰がアスファルトの上で靴底に噛み、きゅ、と短く鳴る。

 

 その音が、やけに大きい。

 

 周囲が静かすぎるからだ。

 

 犬の鳴き声もしない。子どもの声も、車の走行音もない。遠くで何かが落ちるような鈍い音がしたが、それが建築物なのか、人なのか、判断する材料がない。

 

 理央が低い声で言った。

 

「……パトカーも無いのね」

 

 誠は首を振った。

 

「ニュース通りか。警察、もう機能してないって……」

 

 秀則が前を見たまま、淡々と言う。

 

「住宅街に入れば、まだマシ……だと思いたいですな」

 

 角を曲がる。

 

 電柱の下に、自転車が倒れていた。前輪が捻じれ、カゴの中に買い物袋がひっくり返っている。中身が灰にまみれて、何か分からない。

 

 誠は目を逸らした。

 

 理央も、何も言わない。

 

 その沈黙の中で、灰だけが落ち続ける。

 

 住宅街の入り口には、簡易バリケードのようにゴミ箱とコーンが置かれていた。だが、誰かが管理している気配はない。紙の張り紙が雨に濡れて剥がれかけており、「立入」「危険」だけが読めた。

 

「えっと、住民ですし……入って構わんですよな」

 

 三人はバリケードを越え、住宅街の奥へ足を踏み入れた。

 

 道幅は狭くなる。

 

 家と家の距離が近づき、空が切り取られる。

 

 灰は変わらず降り続けているのに、その粒がどこか重く感じられた。視界の奥行きが浅い。遠くが、曖昧に滲む。

 

 秀則が先導する。

 

 歩幅は一定だが、僅かに速い。

 

 急いでいる。

 

 焦りを押し殺している足取り。

 

 その右側で、ライダーが寄り添うように歩く。

 

 誠はその背を見ながら歩く。

 

 背中に、何かが張り付く感覚がある。

 

 視線。

 

 気配。

 

 それが、どこから来るのか分からない。

 

 振り返ると何もない。

 

 振り返らなくても、何かがいる。

 

 そんな感覚だけが、ずっと消えない。

 

「……妙だな」

 

 小さく、呟いた。

 

 理央が横目で見る。

 

「何か感じる?」

 

「いや、なんか……この辺の雰囲気、既視感っていうか……」

 

 秀則が角に差し掛かった。

 

 左右に細い道が伸びている十字路。

 

 その瞬間だった。

 

 ぐい、と秀則の腕が引かれる。

 

「——っ」

 

 体勢が崩れかけ、反射的に足を止める。

 

「……ライダーさん? 何ですかな?」

 

 怪訝な声。

 

 ライダーの手が、しっかりと秀則の腕を掴んでいる。

 

 問いには答えない。

 

 代わりに。

 

 ゆっくりと、左手が腰へ落ちる。

 

 次の瞬間。

 

 金属音。

 

 短く、乾いた音。

 

 拳銃が抜かれた。

 

 ただ、自然に手の中に収まる。

 

 そして——

 

 その銃口が、十字路の先へ向く。

 

 視線も同じ方向へ。

 

 動かない。瞬きすら、しない。

 

 秀則の表情が変わる。

 

 さっきまでの困惑が消え、僅かに引き締まる。

 

「……何か、いるのですか?」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、銃口を微動だにさせず、交差点の先を見据えている。

 

 誠は息を止めた。

 

 視界の先。角の向こう側。

 

 何も見えない。

 

 だが——いる。

 

 いるとしか言いようのない圧が、そこにある。

 

 理央の指が、わずかに動く。

 

 秀則は、ライダーに引かれた腕のまま、動かない。

 

 引き戻されるように、一歩下がる。

 

 その時。

 

 ——ざり。

 

 灰を踏む音。

 

 ひとつ。

 

 次いで、もうひとつ。

 

 それは、ばらばらではない。

 

 重なっている。

 

 複数。

 

 足音が、重なっている。

 

 誠の背筋が凍る。

 

 角の向こう。

 

 見えないはずの場所から、足音だけが先に溢れてくる。

 

 そして。

 

 ゆっくりと——

 

 影が、現れた。

 

 一人。

 

 次いで、二人。

 

 三人。

 

 四人。

 

 五人——

 

 数が、増えていく。

 

 角の向こうから、列を成すように現れる。

 

 人影。

 

 手に、何かを持っている。

 

 最初に見えたのは、炎だった。

 

 松明。

 

 揺れている。

 

 だが、風はない。

 

 炎だけが、不自然に揺らめく。

 

 その後ろから。

 

 鉄パイプ。

 包丁。

 木材。

 バット。

 

 手製の武器。

 

 統一されていない、寄せ集めの武装。

 

 だが、全員が“何か”を握っている。

 

 十人。

 

 二十人。

 

 三十——

 

 数十人。

 

 住宅街の角から、溢れ出るように現れた。

 

「……これ、もしかしてニュースで言ってた」

 

 秀則の声が、震えた。

 

 目を凝らすと、全員に見覚えがある。

 

 顔。

 

 服。

 

 近所の人間。

 

 見知ったはずの、日常の中の人々。

 

 だが——

 

 違う。

 

 目が。

 

 目が、違う。

 

 赤い。

 

 血走っている。

 

 焦点が合っていない。

 

 何かを見ているようで、見ていない。

 

 口が、動いている。

 

 全員が。

 

 ぶつぶつと。

 

 同じように。

 

 低く、濁った声で。

 

 言葉にならない言葉を、繰り返している。

 

 意味が繋がらない。

 

 音の断片。

 

 だが、全員が何かを呟いている。

 

 揃っている。

 

 ばらばらなのに、揃っている。

 

 気味が悪い。

 

 誠の足が、動かない。

 

 逃げなければならない。

 

 そう思うのに、動けない。

 

 ライダーの銃口は、下がらない。

 

 だが、引き金も引かない。

 

 ただ、見ている。

 

 その群衆を。

 

 群衆は、こちらを見ない。

 

 視線が合わない。

 

 ただ、通り過ぎる。

 

 ゆっくりと。

 

 一定の速度で。

 

 横断する。

 

 十字路を。

 

 誠たちの前を横切る。

 

 目の前、数メートル。

 

「……山田さん……?」

 

 呟く。

 

 見知った顔。

 

 回覧板を持ってきた男。

 

 向かいの家の主婦。

 

 犬を散歩させていた老人。

 

 子どもを連れていた母親。

 

 全部、知っている。

 

 だが。

 

 誰も、反応しない。

 

 視線すら、動かない。

 

 ぶつぶつと。

 

 同じ調子で。

 

 同じ速さで。

 

 何かを繰り返しながら。

 

 通り過ぎていく。

 

 炎の明かりが、灰の中で揺れる。

 

 赤い光が、彼らの目を照らす。

 

 血走った目。

 

 濁った瞳。

 

 生気が、ない。

 

 数十人の群衆が。

 

 そのまま。

 

 反対側の角へと吸い込まれていく。

 

 最後の一人が角を曲がり、足音が遠ざかる。

 

 やがて——消える。

 

 静寂。

 

 元の静けさに戻る。

 

 誠は、息を吐くことすら忘れていた。

 

 肺が痛い。

 

 やっと、息を吸う。

 

「……何だよ、今の……」

 

 声が、掠れる。

 

 誰も、答えない。

 

 秀則は、呆然と立ち尽くしている。

 

 理央も、目を細めたまま動かない。

 

 ライダーは、ゆっくりと銃口を下げた。

 

 その時。

 

 ——くくっ。

 

 小さな音。

 

 押し殺した笑い。

 

 誠の背後、温かい気配。

 

 バーサーカーだ。

 

 肩が、震えている。

 

 笑っている。

 

 声を堪えて。

 

 楽しそうに。

 

 心底、愉快そうに。

 

「……っ、ふ……」

 

 息を殺して。

 

 それでも、零れる。

 

 抑えきれない笑い。

 

「……あは」

 

「ま、マスタァ、今のご覧になりましたか? く、くく……まるで獣狩りの群衆……あぁ、まさにそのものですねぇ」

 

 甘く。

 

 狂気の混じった声。

 

「ふふ、あぁじきに獣も溢れ返るのでしょう。全く、滑稽ですねぇ」

 

 誠の胸の奥で、何かが強く跳ねた。

 

「——やめろ」

 

 低く、押し殺した声。

 

 自分でも驚くほど、はっきりと出た。

 

 バーサーカーの肩が、わずかに止まる。

 

 それでも、口元は歪んだまま。

 

「……マスタァ?」

 

「笑うな」

 

 振り返らない。

 

 振り返ったら、何かが崩れる気がした。

 

 代わりに、前だけを見る。

 

 さっき群衆が消えた角。

 

 灰が、何事もなかったみたいに降り続けている。

 

 一拍。

 

 沈黙。

 

 背中にある温もりが、ゆっくりと揺れる。

 

 そして。

 

「……あら」

 

 くすり、と。

 

 今度は、声を抑えた笑い。

 

 どこか、楽しそうに。

 

「失礼いたしました、マスタァ。つい」

 

 反省の色は、ない。

 

 だが、少なくとも——これ以上は続けない。

 

 誠はそれを確認すると、視線を前に戻した。

 

「紫村、大丈夫か?」

 

 秀則はまだ立ち尽くしている。

 

 顔色が、明らかに変わっていた。

 

 さっきまでの焦りとは違う。

 

 もっと直接的な——恐怖。

 

 そして、確信。

 

 “ここも安全じゃない”という確信。

 

「紫村」

 

 声をかける。

 

「急ごう。ここも様子が変だ」

 

 

 秀則の肩が、びくりと揺れた。

 

 意識が戻る。

 

「……あ、ああ……そう、ですな」

 

 声が、少し掠れている。

 

 だが次の瞬間、歩き出した。

 

 さっきまでよりも明らかに速い。

 

 足取りが重いのに、速い。

 

 焦りが、隠れていない。

 

 ライダーが、無言で並ぶ。

 

 誠と理央も、続く。

 

 住宅街の奥へ。

 

 細い道を、曲がる。

 

 また曲がる。

 

 同じような家が並ぶ中で、方向感覚が曖昧になる。

 

 だが、秀則は迷わない。

 

 慣れた道。

 

 帰る場所。

 

 その一点だけを、見ている。

 

 灰が、降り続ける。

 

 空の炎の輪が、視界の端で揺れている。

 

 影が濃い。

 

 音が少ない。

 

 ときおり、遠くで何かが壊れる音だけが響く。

 

 それ以外は——静かすぎる。

 

 歩く音だけが、やけに響く。

 

 やがて。

 

「……ここです」

 

 秀則が、立ち止まった。

 

 少し息が上がっている。

 

 目の前に、一軒家。

 

 表札。

 

 ——紫村。

 

 灰に薄く覆われながらも、はっきりと読める。

 

 

 理央が、周囲を一度だけ見渡す。

 

 異常はない。

 

 少なくとも、今は。

 

 家の中から、光が漏れている。

 

 電気がついている。

 

 誰かがいる。

 

 秀則の喉が、小さく鳴った。

 

「……無事で、いてくれ」

 

 呟くように言って、ポケットから鍵を取り出す。

 

 指が、僅かに震えている。

 

 鍵穴に差し込む。

 

 かちゃり、と。乾いた音。

 

 ドアノブに手をかけ──開けた。

 

「ただいま戻りましたぞ! 暫く留守にしてしまい──」

 

 言い切る前に。

 

 内側から、足音。

 

 急ぐような音。

 

 次の瞬間。

 

「秀則!?」

 

 

 扉が勢いよく開いた。

 

 出てきたのは、割烹着姿の女だった。肩幅がしっかりしていて、腰が据わっている。髪はきっちりまとめているのに、額には汗が浮いていた。目は強い。強いのに、今は真っ赤だ。

 

 肝っ玉母ちゃん。

 

 その言葉が、そのまま形になったみたいな人だった。

 

「この子は……!」

 

 声が震える。

 

 次の瞬間、迷いなく手が上がった。

 

 ぱしっ。

 

 軽い音。

 

 秀則の頭が、ほんの少しだけ横に揺れた。

 

「痛っ——母上!?」

 

「痛っ、じゃない!」

 

 母は鼻を鳴らす。

 

 怒鳴っているのに、息の奥に安堵が混ざっている。

 

「何日よ! 連絡も無しに! 電話は繋がらない! 外は変なってるし! あんたが戻らないで、私がどんな気持ちで——」

 

 

 言葉が途中で詰まる。

 

 泣きそうな顔を、ぐっと堪えるみたいに口を結ぶ。

 

 そして、もう一度。

 

 ぱしっ。

 

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 

 母は一歩踏み込み、秀則の胸元を掴む。

 

 怪我がないか確かめるみたいに服を引っ張り、腕を見て、顔を覗き込んで——それからようやく、後ろにいる誠たちに気づいた。

 

「あっ」

 

 目を見開く。

 

 今までの剣幕が、急に慌てたものに変わる。

 

「ご、ごめんなさいね、見苦しいところを……ええと……」

 

 慌てて割烹着の裾を払う仕草をして、姿勢を正す。

 

 

「紫村秀則の母、……紫村公子です。えっと……よろしくお願いします」

 

 誠は一瞬、言葉に詰まった。

 

 理央も、目を細めたまま様子を見ている。

 

 背中の方で、バーサーカーが笑いを噛み殺している気配がした。今は無視する。

 

「……灰原誠です」

 

「黒野理央です」

 

 誠は頭を下げた。

 

「急にすみません。俺たち、行くところが……」

 

 言いかけて、言葉が途切れる。

 

 “家がない”という事実が、口に出すと急に重い。

 

 秀則が代わりに言った。

 

「お母さ……母上、灰原氏と黒野女史には事情がありましてな。家が、焼けてしまったのです」

 

「そう、テレビで色々言ってたけど……そんなご家庭まであったなんてねぇ」

 

 深くは聞かない。

 

「大変だったでしょう」

 

 公子は一瞬だけ目を伏せた。

 

 次の瞬間には、声がいつもの強さに戻る。

 

「とにかく、上がりなさい。冷えるでしょう」

 

 玄関の灯りが、灰色の外界を切り離すみたいに温かい。

 

 公子は靴箱の上を手で払って場所を作りながら、続けた。

 

「ご飯、用意するから。秀則の部屋でゆっくりしておきなさい。話はそれから」

 

「……ありがとうございます」

 

 誠は深く頭を下げた。

 

 理央も、遅れて同じように頭を下げる。

 

「お世話になります」

 

 礼は丁寧だった。声も姿勢も、育ちの良さが隠せない。

 

 そのまま視線が、後ろへ滑る。

 

 誠の背後。

 

 影みたいに立つ二人。

 

 長身で無言のライダー。

 そして、妙に楽しげな気配を纏うバーサーカー。

 

 どちらも整い過ぎた容姿と、風変わりな格好。

 

 公子の眉が、ほんのわずかに寄った。

 

「……あの」

 

 一瞬、言葉を探す。

 

 視線が二人の服装と空気感を測る。

 

 常識の引き出しが、合う札を見つけられない顔。

 

「こちらの……」

 

 秀則が、間髪入れずに咳払いした。

 

「母上。こちらは……ええと、友人でしてな」

 

「ハンドラーにはお世話になっています」

 

 ライダーの空気を読まない発言に、公子の眉が更に寄る。

 

「いつもやってるゲームの……友達です」

 

「あー……そう」

 

 納得したようで、していない。

 

 だが、それ以上は踏み込まない。

 

「とりあえず皆さんお上りなさいな」

 

 ライダーとバーサーカーは共に礼を言い、戸口をくぐる。

 2人とも靴を脱ぐ習慣には慣れておらず、玄関で多少戸惑っている様だった。

 

「はい、秀則。案内して。私は台所でご飯作るから」

 

「承知!」

 

 秀則がうなずき、奥へ向かう。

 

 廊下の先は畳の匂いがした。

 

 家の匂い。

 

 生きている家の匂い。

 

 誠は、靴下で畳に上がる瞬間だけ、背中の寒さが抜けていくのを感じた。

 

 

 

 

 

 

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