扉を出ると、冷たい空気が肺に刺さった。
灰は変わらず降り続けている。
駅前の看板はどれも色を失い、昼間だというのに街全体が薄い鉛色に沈んでいた。
バーサーカーは愉しそうに辺りを見渡し、ライダーは特に反応すらせず秀則の身体を支えて立っている。
「ええと、駅からですと我が家は歩いて1時間弱といった所ですな。車は……徒歩で向かうしかありませんな」
駅前のバス停に目をやると、時刻表のガラスが割れていた。ベンチには灰が積もり、誰も座っていない。電光掲示板は沈黙したままだ。
改札口の方からは、シャッターを閉める音が聞こえた。
鉄の板が落ちる、乾いた音。
理央がその音を背で聞き、視線だけで周囲を拾う。
「電車も、動いてないみたいね」
言い切る声は平坦だった。
空に目を上げる。
太陽の位置に——炎の輪。
日食のように黒い円を縁取る、消えないリング。揺らめきはあるのに、形は崩れない。眩しいはずの昼が、その輪の下ではずっと薄暗い。
聖杯の影響なのか、誠にだけはあのリングの性質が感じ取れてしまう。
「……そうだな。歩くか」
誠が言うと、秀則が軽く頷いた。
「では早速向かいましょう。自分も、家族の安否が気になる所です」
三人は駅前を抜け、住宅街へ向かう道に入った。
商店街のシャッターはほとんど閉まっている。開いている店はない。看板の照明は点かず、ショーウィンドウのガラスには灰が貼りついて、中のマネキンが薄汚れた死人みたいに見えた。
交差点の信号が、無機質に点滅している。
警戒灯のような赤。
誠は足音を抑えるように歩いた。濡れた灰がアスファルトの上で靴底に噛み、きゅ、と短く鳴る。
その音が、やけに大きい。
周囲が静かすぎるからだ。
犬の鳴き声もしない。子どもの声も、車の走行音もない。遠くで何かが落ちるような鈍い音がしたが、それが建築物なのか、人なのか、判断する材料がない。
理央が低い声で言った。
「……パトカーも無いのね」
誠は首を振った。
「ニュース通りか。警察、もう機能してないって……」
秀則が前を見たまま、淡々と言う。
「住宅街に入れば、まだマシ……だと思いたいですな」
角を曲がる。
電柱の下に、自転車が倒れていた。前輪が捻じれ、カゴの中に買い物袋がひっくり返っている。中身が灰にまみれて、何か分からない。
誠は目を逸らした。
理央も、何も言わない。
その沈黙の中で、灰だけが落ち続ける。
住宅街の入り口には、簡易バリケードのようにゴミ箱とコーンが置かれていた。だが、誰かが管理している気配はない。紙の張り紙が雨に濡れて剥がれかけており、「立入」「危険」だけが読めた。
「えっと、住民ですし……入って構わんですよな」
三人はバリケードを越え、住宅街の奥へ足を踏み入れた。
道幅は狭くなる。
家と家の距離が近づき、空が切り取られる。
灰は変わらず降り続けているのに、その粒がどこか重く感じられた。視界の奥行きが浅い。遠くが、曖昧に滲む。
秀則が先導する。
歩幅は一定だが、僅かに速い。
急いでいる。
焦りを押し殺している足取り。
その右側で、ライダーが寄り添うように歩く。
誠はその背を見ながら歩く。
背中に、何かが張り付く感覚がある。
視線。
気配。
それが、どこから来るのか分からない。
振り返ると何もない。
振り返らなくても、何かがいる。
そんな感覚だけが、ずっと消えない。
「……妙だな」
小さく、呟いた。
理央が横目で見る。
「何か感じる?」
「いや、なんか……この辺の雰囲気、既視感っていうか……」
秀則が角に差し掛かった。
左右に細い道が伸びている十字路。
その瞬間だった。
ぐい、と秀則の腕が引かれる。
「——っ」
体勢が崩れかけ、反射的に足を止める。
「……ライダーさん? 何ですかな?」
怪訝な声。
ライダーの手が、しっかりと秀則の腕を掴んでいる。
問いには答えない。
代わりに。
ゆっくりと、左手が腰へ落ちる。
次の瞬間。
金属音。
短く、乾いた音。
拳銃が抜かれた。
ただ、自然に手の中に収まる。
そして——
その銃口が、十字路の先へ向く。
視線も同じ方向へ。
動かない。瞬きすら、しない。
秀則の表情が変わる。
さっきまでの困惑が消え、僅かに引き締まる。
「……何か、いるのですか?」
ライダーは答えない。
ただ、銃口を微動だにさせず、交差点の先を見据えている。
誠は息を止めた。
視界の先。角の向こう側。
何も見えない。
だが——いる。
いるとしか言いようのない圧が、そこにある。
理央の指が、わずかに動く。
秀則は、ライダーに引かれた腕のまま、動かない。
引き戻されるように、一歩下がる。
その時。
——ざり。
灰を踏む音。
ひとつ。
次いで、もうひとつ。
それは、ばらばらではない。
重なっている。
複数。
足音が、重なっている。
誠の背筋が凍る。
角の向こう。
見えないはずの場所から、足音だけが先に溢れてくる。
そして。
ゆっくりと——
影が、現れた。
一人。
次いで、二人。
三人。
四人。
五人——
数が、増えていく。
角の向こうから、列を成すように現れる。
人影。
手に、何かを持っている。
最初に見えたのは、炎だった。
松明。
揺れている。
だが、風はない。
炎だけが、不自然に揺らめく。
その後ろから。
鉄パイプ。
包丁。
木材。
バット。
手製の武器。
統一されていない、寄せ集めの武装。
だが、全員が“何か”を握っている。
十人。
二十人。
三十——
数十人。
住宅街の角から、溢れ出るように現れた。
「……これ、もしかしてニュースで言ってた」
秀則の声が、震えた。
目を凝らすと、全員に見覚えがある。
顔。
服。
近所の人間。
見知ったはずの、日常の中の人々。
だが——
違う。
目が。
目が、違う。
赤い。
血走っている。
焦点が合っていない。
何かを見ているようで、見ていない。
口が、動いている。
全員が。
ぶつぶつと。
同じように。
低く、濁った声で。
言葉にならない言葉を、繰り返している。
意味が繋がらない。
音の断片。
だが、全員が何かを呟いている。
揃っている。
ばらばらなのに、揃っている。
気味が悪い。
誠の足が、動かない。
逃げなければならない。
そう思うのに、動けない。
ライダーの銃口は、下がらない。
だが、引き金も引かない。
ただ、見ている。
その群衆を。
群衆は、こちらを見ない。
視線が合わない。
ただ、通り過ぎる。
ゆっくりと。
一定の速度で。
横断する。
十字路を。
誠たちの前を横切る。
目の前、数メートル。
「……山田さん……?」
呟く。
見知った顔。
回覧板を持ってきた男。
向かいの家の主婦。
犬を散歩させていた老人。
子どもを連れていた母親。
全部、知っている。
だが。
誰も、反応しない。
視線すら、動かない。
ぶつぶつと。
同じ調子で。
同じ速さで。
何かを繰り返しながら。
通り過ぎていく。
炎の明かりが、灰の中で揺れる。
赤い光が、彼らの目を照らす。
血走った目。
濁った瞳。
生気が、ない。
数十人の群衆が。
そのまま。
反対側の角へと吸い込まれていく。
最後の一人が角を曲がり、足音が遠ざかる。
やがて——消える。
静寂。
元の静けさに戻る。
誠は、息を吐くことすら忘れていた。
肺が痛い。
やっと、息を吸う。
「……何だよ、今の……」
声が、掠れる。
誰も、答えない。
秀則は、呆然と立ち尽くしている。
理央も、目を細めたまま動かない。
ライダーは、ゆっくりと銃口を下げた。
その時。
——くくっ。
小さな音。
押し殺した笑い。
誠の背後、温かい気配。
バーサーカーだ。
肩が、震えている。
笑っている。
声を堪えて。
楽しそうに。
心底、愉快そうに。
「……っ、ふ……」
息を殺して。
それでも、零れる。
抑えきれない笑い。
「……あは」
「ま、マスタァ、今のご覧になりましたか? く、くく……まるで獣狩りの群衆……あぁ、まさにそのものですねぇ」
甘く。
狂気の混じった声。
「ふふ、あぁじきに獣も溢れ返るのでしょう。全く、滑稽ですねぇ」
誠の胸の奥で、何かが強く跳ねた。
「——やめろ」
低く、押し殺した声。
自分でも驚くほど、はっきりと出た。
バーサーカーの肩が、わずかに止まる。
それでも、口元は歪んだまま。
「……マスタァ?」
「笑うな」
振り返らない。
振り返ったら、何かが崩れる気がした。
代わりに、前だけを見る。
さっき群衆が消えた角。
灰が、何事もなかったみたいに降り続けている。
一拍。
沈黙。
背中にある温もりが、ゆっくりと揺れる。
そして。
「……あら」
くすり、と。
今度は、声を抑えた笑い。
どこか、楽しそうに。
「失礼いたしました、マスタァ。つい」
反省の色は、ない。
だが、少なくとも——これ以上は続けない。
誠はそれを確認すると、視線を前に戻した。
「紫村、大丈夫か?」
秀則はまだ立ち尽くしている。
顔色が、明らかに変わっていた。
さっきまでの焦りとは違う。
もっと直接的な——恐怖。
そして、確信。
“ここも安全じゃない”という確信。
「紫村」
声をかける。
「急ごう。ここも様子が変だ」
秀則の肩が、びくりと揺れた。
意識が戻る。
「……あ、ああ……そう、ですな」
声が、少し掠れている。
だが次の瞬間、歩き出した。
さっきまでよりも明らかに速い。
足取りが重いのに、速い。
焦りが、隠れていない。
ライダーが、無言で並ぶ。
誠と理央も、続く。
住宅街の奥へ。
細い道を、曲がる。
また曲がる。
同じような家が並ぶ中で、方向感覚が曖昧になる。
だが、秀則は迷わない。
慣れた道。
帰る場所。
その一点だけを、見ている。
灰が、降り続ける。
空の炎の輪が、視界の端で揺れている。
影が濃い。
音が少ない。
ときおり、遠くで何かが壊れる音だけが響く。
それ以外は——静かすぎる。
歩く音だけが、やけに響く。
やがて。
「……ここです」
秀則が、立ち止まった。
少し息が上がっている。
目の前に、一軒家。
表札。
——紫村。
灰に薄く覆われながらも、はっきりと読める。
理央が、周囲を一度だけ見渡す。
異常はない。
少なくとも、今は。
家の中から、光が漏れている。
電気がついている。
誰かがいる。
秀則の喉が、小さく鳴った。
「……無事で、いてくれ」
呟くように言って、ポケットから鍵を取り出す。
指が、僅かに震えている。
鍵穴に差し込む。
かちゃり、と。乾いた音。
ドアノブに手をかけ──開けた。
「ただいま戻りましたぞ! 暫く留守にしてしまい──」
言い切る前に。
内側から、足音。
急ぐような音。
次の瞬間。
「秀則!?」
扉が勢いよく開いた。
出てきたのは、割烹着姿の女だった。肩幅がしっかりしていて、腰が据わっている。髪はきっちりまとめているのに、額には汗が浮いていた。目は強い。強いのに、今は真っ赤だ。
肝っ玉母ちゃん。
その言葉が、そのまま形になったみたいな人だった。
「この子は……!」
声が震える。
次の瞬間、迷いなく手が上がった。
ぱしっ。
軽い音。
秀則の頭が、ほんの少しだけ横に揺れた。
「痛っ——母上!?」
「痛っ、じゃない!」
母は鼻を鳴らす。
怒鳴っているのに、息の奥に安堵が混ざっている。
「何日よ! 連絡も無しに! 電話は繋がらない! 外は変なってるし! あんたが戻らないで、私がどんな気持ちで——」
言葉が途中で詰まる。
泣きそうな顔を、ぐっと堪えるみたいに口を結ぶ。
そして、もう一度。
ぱしっ。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
母は一歩踏み込み、秀則の胸元を掴む。
怪我がないか確かめるみたいに服を引っ張り、腕を見て、顔を覗き込んで——それからようやく、後ろにいる誠たちに気づいた。
「あっ」
目を見開く。
今までの剣幕が、急に慌てたものに変わる。
「ご、ごめんなさいね、見苦しいところを……ええと……」
慌てて割烹着の裾を払う仕草をして、姿勢を正す。
「紫村秀則の母、……紫村公子です。えっと……よろしくお願いします」
誠は一瞬、言葉に詰まった。
理央も、目を細めたまま様子を見ている。
背中の方で、バーサーカーが笑いを噛み殺している気配がした。今は無視する。
「……灰原誠です」
「黒野理央です」
誠は頭を下げた。
「急にすみません。俺たち、行くところが……」
言いかけて、言葉が途切れる。
“家がない”という事実が、口に出すと急に重い。
秀則が代わりに言った。
「お母さ……母上、灰原氏と黒野女史には事情がありましてな。家が、焼けてしまったのです」
「そう、テレビで色々言ってたけど……そんなご家庭まであったなんてねぇ」
深くは聞かない。
「大変だったでしょう」
公子は一瞬だけ目を伏せた。
次の瞬間には、声がいつもの強さに戻る。
「とにかく、上がりなさい。冷えるでしょう」
玄関の灯りが、灰色の外界を切り離すみたいに温かい。
公子は靴箱の上を手で払って場所を作りながら、続けた。
「ご飯、用意するから。秀則の部屋でゆっくりしておきなさい。話はそれから」
「……ありがとうございます」
誠は深く頭を下げた。
理央も、遅れて同じように頭を下げる。
「お世話になります」
礼は丁寧だった。声も姿勢も、育ちの良さが隠せない。
そのまま視線が、後ろへ滑る。
誠の背後。
影みたいに立つ二人。
長身で無言のライダー。
そして、妙に楽しげな気配を纏うバーサーカー。
どちらも整い過ぎた容姿と、風変わりな格好。
公子の眉が、ほんのわずかに寄った。
「……あの」
一瞬、言葉を探す。
視線が二人の服装と空気感を測る。
常識の引き出しが、合う札を見つけられない顔。
「こちらの……」
秀則が、間髪入れずに咳払いした。
「母上。こちらは……ええと、友人でしてな」
「ハンドラーにはお世話になっています」
ライダーの空気を読まない発言に、公子の眉が更に寄る。
「いつもやってるゲームの……友達です」
「あー……そう」
納得したようで、していない。
だが、それ以上は踏み込まない。
「とりあえず皆さんお上りなさいな」
ライダーとバーサーカーは共に礼を言い、戸口をくぐる。
2人とも靴を脱ぐ習慣には慣れておらず、玄関で多少戸惑っている様だった。
「はい、秀則。案内して。私は台所でご飯作るから」
「承知!」
秀則がうなずき、奥へ向かう。
廊下の先は畳の匂いがした。
家の匂い。
生きている家の匂い。
誠は、靴下で畳に上がる瞬間だけ、背中の寒さが抜けていくのを感じた。