Fate/You Died.   作:助兵衛

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第57話 マリアと621

 廊下を進むにつれ、足音は板張りから畳へと移り、柔らかく吸い込まれていった。

 空気の温度もわずかに変わり、外の灰に覆われた世界とは別の場所へ足を踏み入れたような感覚がする。

 

「こちらです。少々散らかっておりますが」

 

 秀則が先に立って襖を引くと、すっと軽い音とともに灯りが広がった。

 

 そこは居間だった。

 

 物は少し多い。壁際の低い棚には写真立てがいくつも並び、旅行先の景色や笑顔の家族、幼い頃の秀則らしき姿が飾られている。

 テレビ台の横には雑誌が積まれ、こたつの上には畳まれた新聞と食べかけらしい菓子の袋、隅には洗濯物を入れた籠も置かれていた。

 

 決して片付いているとは言えない。それでも乱雑という印象はなく、そこには暮らしの形が自然なまま残されていた。

 

「ごめんなさいねえ、散らかってて」

 

 背後から公子の声が飛ぶ。

 いつの間にか台所へ向かっていたらしく、奥から鍋の蓋が触れ合う音が聞こえてきた。

 

「今、ご飯用意するからね。お腹空いてるでしょう」

 

 その明るい声だけは、外の灰に覆われた世界とは切り離された日常そのものだった。

 

 誠は一瞬目を伏せ、小さく息を吐く。

 

「……お邪魔します」

 

 畳へ上がってこたつに足を入れると、冷え切っていた感覚がゆっくりと戻ってきた。

 理央も向かいに腰を下ろし、少し遅れて布団の中へ足を入れる。

 

 一方、バーサーカーとライダーは向かいに座ったものの、こたつの仕組みが分からないのか、中へ足を入れようとはしなかった。

 

 しばらく静かな時間が流れる。

 その沈黙を破ったのは誠だった。

 

「……で、どうする」

 

 短い問いだったが、誰も避けては通れない話だった。

 

 理央が静かに顔を上げる。

 バーサーカーは頬杖をついたまま愉快そうに笑い、ライダーは黙ったまま成り行きを見守っていた。

 

 誠は膝の上で拳を軽く握る。

 

「このまま隠れてても意味ないだろ。日を追うごとに状況は悪くなってる気がする」

 

 灰に覆われた街。炎の輪。そして狂乱する群衆。

 脳裏に焼き付いた光景は、まだ鮮明に残っていた。

 

「異界……って言ったよな」

 

 誠はバーサーカーへ視線を向ける。

 

「元に戻す方法はあるのか」

 

 バーサーカーは目を細め、どこか楽しげに肩をすくめた。

 

「さて、“確実な方法”は分かりません」

 

 そのまま否定で終わらせることなく、指先でこたつの天板を軽く叩く。

 

「ですが、現象の構造から推測することはできます。異聞帯の断片が重なり合い、現実を侵食している状態なのだとすれば、方法は二つ。侵食そのものを排除するか、あるいは――基点を断つかです」

 

 理央が眉をひそめる。

 

「基点?」

 

「ええ。すべての原因となる一点、あるいは複数存在する核です」

 

 誠も表情を険しくした。

 

「それって……聖杯か?」

 

 バーサーカーは愉快そうに微笑んだ。

 

「ええ。貴方に埋め込まれた聖杯を抉り出して砕けば……どうにかなるかもしれませんよ、ねぇマスタァ」

 

 理央は即座に口を開く。

 

「ふざけたこと言わないで」

 

 鋭く言い放ったあと、誠へ視線を向ける。

 

「この状況が聖杯の暴走、あるいは儀式そのものの異常なら――終わらせるしかない」

 

 誠は重く息を吐いた。

 

「終わらせるって……結局、戦うしかないのか」

 

 そう口にしてから、街の光景が脳裏によみがえる。

 

「あの状態で、本当に戦えるのか?」

 

 理央はすぐには答えなかった。

 

 考え込むように黙り込んだ、その時だった。

 

「では、別の手もありますな」

 

 秀則が静かに口を開く。

 

 いつの間にか襖のそばまで歩いてきていた。

 顔色はまだ優れないものの、意識ははっきりしている。

 

「黒野本家へ直接乗り込み、直談判するのはいかがでしょう」

 

 誠と理央の視線が同時に向く。

 

「儀式を管理しているのは黒野女史のお父上――黒野恒一郎氏なのでしょう? ならば、この異常事態を訴えるべきです。もはや聖杯戦争どころではありません。このまま続ければ街そのものが崩壊する、と」

 

 拳を握り締める。

 

「儀式を中止させるべきです」

 

 理央はしばらく黙っていた。

 

 表情は変わらない。

 しかし、こたつの上に置いた手にはいつの間にか力が入っている。

 

「……正直、取り合ってくれるとは思えない」

 

 静かな声だった。

 

「歪な聖杯で歪な儀式を行えば、こういう異常が起きる可能性なんて最初から考えられたはず。それでも本家は何一つ動こうとしなかった」

 

 一度言葉を切り、低く断じる。

 

「……あの人たちは止まらない。何が起きても、聖杯を優先する」

 

 誠は視線を落とし、静かに息を吐いた。

 

 どの選択肢も軽くはない。

 どれも成功する保証はなく、間違えれば状況はさらに悪化するだろう。

 部屋には重苦しい沈黙が落ち、こたつの中から伝わる熱だけが、不思議なくらい現実味を持って感じられた。

 

 やがて誠がゆっくりと口を開く。

 

「……根本からどうにかするのが無理なら」

 

 一度言葉を探すように視線を泳がせ、それから顔を上げた。

 

「とりあえず、今すぐ動けることから始めるしかないだろ」

 

 理央が視線を向ける。

 

「……何?」

 

「セイバーって」

 

 その一言で、部屋の空気がわずかに張り詰めた。

 

 理央の目が細くなり、バーサーカーの笑みはほんの少しだけ深くなる。

 

「行方不明なんだろ」

 

 誠は続ける。

 

「戦力としてもそうだし、情報を持ってる可能性もある。このまま放っておくわけにはいかない」

 

 理央は黙ったまま聞いていた。

 否定はしない。

 

 だから誠はさらに身を乗り出した。

 

「令呪は残ってるんだよな」

 

 理央の手の甲へ視線を落とす。

 

「それを使えば呼び戻せるんじゃないのか。まだ黒野のサーヴァントなんだろ?」

 

 理央は何も言わず、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 こたつの天板の上へ置かれたその手には、赤い紋様が刻まれている。

 だが残っているのは、一画だけだった。

 

 誠は思わず眉をひそめる。

 

「……一つしか残ってないのか」

 

「ええ」

 

 理央は短く頷いた。

 

「残り一画で呼び戻せば――」

 

「無理よ」

 

 最後まで言わせず、理央は首を横に振る。

 その口調には迷いがなかった。

 

「どうしてだ」

 

「従わないから」

 

 静かな断定だった。

 誠は思わず言葉を失う。

 理央は自分の手の甲を見つめたまま続ける。

 

「令呪は万能じゃない。命令を強制できるのは、あくまで一つの行動だけ」

 

 一度誠へ視線を向ける。

 

「『戻ってこい』と命じれば戻ってくるでしょう。でも、その後まで従わせることはできない」

 

 バーサーカーが楽しげに口元を緩めた。

 

「ええ、その通りです」

 

 くすり、と喉を鳴らす。

 

「令呪が縛れるのは行動だけ。意思まで支配するものではありません」

 

 その笑みはますます愉快そうになる。

 

「私としては構いませんけれどねぇ。バーサーカーと化したセイバーと戦うのも、それはそれで興味深い」

 

 理央は冷ややかな視線を向けた。

 バーサーカーは肩をすくめるだけで悪びれもしない。

 

「今のセイバーは……正常じゃない」

 

 理央は慎重に言葉を選ぶ。

 

「仮に命令で呼び戻せても、そのあと何をするか分からない」

 

 その視線が誠へ向いた。

 

「最悪――バーサーカーの言う通り、その場で敵になる」

 

 誠は喉が乾くのを感じた。

 あのセイバーが敵になる。

 想像したくもない未来だったが、否定する材料もない。

 

「……じゃあ、どうする」

 

 理央は少しだけ目を伏せ、考え込む。

 そして静かに答えた。

 

「探すしかない」

 

 息を一つ吐く。

 

「直接」

 

 短い言葉だった。

 しかし、その一言だけで覚悟は十分に伝わってくる。

 誠はこたつの中で拳を握った。

 温もりに包まれているはずなのに、胸の奥だけが冷えていく。

 

「……見つけて、どうする」

 

 低く問い掛ける。

 理央は真っ直ぐに誠を見返した。

 

「状況次第」

 

 即答だった。

 

「正気を取り戻せるなら、それが一番いい」

 

 一拍置き、続く言葉だけが重く沈む。

 

「でも、それが無理なら――」

 

 理央は最後まで口にしなかった。

 それでも全員が理解する。

 

 誠は静かに息を吐いた。

 

「倒す、か」

 

 理央は否定も肯定もしない。

 ただ、その瞳だけが答えだった。

 

 バーサーカーが愉快そうに笑う。

 

「実に合理的ですねぇ」

 

 指先を組みながら、小さく肩を揺らす。

 

「壊れたものは修理するか、廃棄するか。そのどちらも間違いではありません」

 

 誠はその言葉を無視し、理央へ向き直る。

 

「探す当てはあるのか」

 

「今のところはない」

 

 理央は首を振った。

 

「でも、パスはまだ微かに繋がっている。その繋がりを辿れば、どこかで会えるはず」

 

 それが現状、唯一の手掛かりだった。

 方針は自然と固まっていく。

 まずはセイバーを探す。

 接触し、状況を確認する。

 可能なら保護し、正気を取り戻させる。

 

 それが叶わないなら――排除も視野に入れる。

 

 あまりにも重い結論だった。

 それでも、今の彼らには他に進む道が見当たらなかった。

 

「……しかしですな」

 

 重くなった空気を和らげるように、秀則が軽く咳払いをする。

 

「一つ、気になっていることがあります」

 

 誠が顔を上げた。

 

「気になってること?」

 

「ええ」

 

 秀則は人差し指を立てる。

 

「まず、バーサーカーと化したセイバー」

 

 続いて中指を立てた。

 

「こちらのバーサーカー女史」

 

 さらにライダーへ目を向ける。

 

「そして姿が変わったライダー殿」

 

 一度全員を見回し、小さく苦笑する。

 

「呼び名が非常にややこしいですな」

 

 誠は思わず苦い顔になった。

 

 確かにその通りだった。

 バーサーカーという言葉だけで二人を指すことになり、ライダーも以前とは姿が変わっている。

 話しているだけで混乱しそうだ。

 

 理央も小さく頷いた。

 

「……呼び名は整理した方がいいわね」

 

 秀則は安心したように笑う。

 

「では、バーサーカー女史はそのままとして、セイバー殿には別の呼称を付けるべきでしょうか。例えば、狂化セイバーですとか――」

 

 そこまで言ったところで。

 こたつの向こうから、小さな吐息が聞こえた。

 頬杖をついたバーサーカーが、どこか面白そうに笑っている。

 

「……ああ、その件ですが」

 

 穏やかな声だった。

 全員の視線が自然と集まる。

 バーサーカーはその視線を受けながら、こたつの天板を指先で軽く叩いた。

 

「私、今のクラスはバーサーカーではありません」

 

 その言葉は静かだった。

 

 誠がぽかんと口を開いた。

 

「……は?」

 

 理央の眉がぴくりと動く。

 

「じゃあ、何なの」

 

 バーサーカーは楽しそうに微笑んだまま答える。

 

「フォーリナー」

 

 誰も聞いたことのない単語だった。

 秀則が思わず聞き返す。

 

「……フォー、リナー?」

 

「ええ」

 

 軽く頷く。

 

「『外』から来た存在、とでも理解していただければ結構です」

 

 理央は警戒を隠さなかった。

 

「そんなクラス、聞いたことがない」

 

「でしょうねぇ」

 

 フォーリナーは嬉しそうに笑う。

 まるで秘密を一つ披露できたこと自体が楽しいとでも言うように。

 

 誠は額に手を当て、小さく息をついた。

 

「じゃあ……フォーリナー?」

 

 聞き返しながらも、自分の口にした言葉がひどく現実味を欠いて聞こえる。

 

「でも、またクラスが変わったらどうするんだ」

 

「さあ?」

 

 フォーリナーは肩をすくめる。

 

 悪びれる様子はまるでなく、まるで他人事のような口ぶりだった。

 

「その時は、その時ですねぇ」

 

 その隣で黙っていたライダー――いや、今はそう呼ぶべきではない人物が、ゆっくりと視線だけを動かした。

 

 ほんのわずかな動作だったが、それだけで場の空気が変わる。

 

「……私も」

 

 短く告げる。

 

「今のクラスは、ライダーではない」

 

 秀則が目を丸くした。

 

「も~。では、何ですか?」

 

「キャスター」

 

 返答は簡潔だった。

 

「魔術師」

 

 余計な説明はない。

 

 理央は思わず眉をひそめる。

 

「……キャスターが拳銃?」

 

「他にも色々できる」

 

 彼女は淡々と答えた。

 

「少なくとも、ライダーだった頃にできたことは一通り可能」

 

 誠は頭の奥がじり、と熱くなるのを感じた。

 呼び名を整理しようとしただけなのに、かえって話は複雑になっていく。

 

「……なあ」

 

 こたつの天板へ手を置き、軽く指先を握る。

 

「もうさ」

 

 その場の全員を見る。。

 

「本名、教えてくれないか」

 

 部屋が静まり返る。

 遠くで鍋がふつふつと煮える音だけが、やけに大きく耳へ届いた。

 

 誠は目を逸らさない。

 

「これから一緒に動くんだ。誰が誰なのか分からないままじゃ困る」

 

 理央も静かに頷いた。

 

「……そうね」

 

 秀則も苦笑しながら同意する。

 

「確かに、呼称の整理以前の問題でしたな」

 

 フォーリナーは相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。

 だが、答える気配はない。

 代わりに、こたつの端へ静かに座っていたキャスターが背筋をわずかに伸ばした。

 

 俯き加減のまま、小さく口を開く。

 

「……呼称」

 

 一拍置く。

 

「C4-621」

 

 数字と記号だけの名。

 名前というより識別番号に近い響きだった。

 

 誠は思わず瞬きを忘れる。

 

 理央もわずかに目を見開き、秀則だけが困惑したように首を傾げた。

 

「しー……しーよん、ろくにーいち?」

 

 恐る恐る復唱する。

 

 それでもすぐに表情を整え、軽く頷いた。

 

「承知しました。では、621さん――」

 

「違う」

 

 低い声が重なる。

 秀則が言葉を止めた。

 C4-621はこたつの縁に置いた手をぎゅっと握り、小さく唇を結ぶ。

 

 表情そのものはほとんど変わらない。

 それでも、僅かに拗ねたような空気だけは誰の目にも分かった。

 

「前みたいに」

 

 言いにくそうに視線を逸らす。

 

「……621ちゃん」

 

 その一言だけ告げると、ほんの少し頬を背けた。

 

「そう呼んで」

 

 秀則は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑う。

 

「承知しました。では、621ちゃん」

 

 その呼び方を聞いた途端、621の肩からふっと力が抜けた。

 小さく頷き、ぼそりと呟く。

 

「……うん。ハンドラー」

 

 その様子を見ていたフォーリナーが、とうとう吹き出した。

 

「ふふっ……」

 

 肩を震わせながら笑う。

 

「可愛らしいですねぇ」

 

 誠は頭を抱えたくなる。

 名乗りは確かに前進した。

 しかし、それ以上に新しい情報が増えている気がしてならなかった。

 

「じゃあ、621はキャスターなんだな」

 

 確認すると、621は小さく頷く。

 

「キャスター。今は」

 

 短い返事だった。

 

 理央はそのままフォーリナーへ向き直る。

 

「……次はあなた」

 

 声音は冷たい。

 

「もう誤魔化さないで」

 

 フォーリナーは笑みを崩さなかった。

 けれど、すぐには答えない。

 

 こたつの天板へ置いた指先が、ゆっくりと木目をなぞる。

 考えている。

 そんな仕草を見せるのは珍しかった。

 

「……名、ですか」

 

 穏やかな声だった。

 だが、どこか遠くを見ているようでもある。

 誰も急かさない。

 

 部屋には静かな時間だけが流れた。

 

 やがて彼女はわずかに顎を上げる。

 

「私には」

 

 一呼吸。

 

「名乗るべき名前がありません」

 

 さらりと言い切った。

 その言葉には自嘲も悲哀もなく、ただ事実を述べただけの響きがある。

 秀則は困ったように眉を寄せた。

 

「しかし、名前がないというのも不便でしょう」

 

 理央も静かに頷く。

 

「戦う時も、呼び掛ける時も困るわ」

 

 フォーリナーは小さく笑った。

 その笑みだけは変わらない。

 しかし瞳の奥には、ほんの一瞬だけ迷いのようなものが揺れる。

 

 何かを思い出そうとしているのか。

 あるいは、思い出したくないのか。

 誰にも分からない。

 

 やがて彼女は、こたつの天板を指先で軽く叩いた。

 とん、と小さな音が部屋に響く。

 

「……そうですねぇ」

 

 小さく息を吐く。

 

「名がないと、不便」

 

 その言葉を自分自身へ言い聞かせるように繰り返し、ゆっくりと顔を上げた。

 

 笑みはいつも通りだった。

 それでも、どこかだけが違う。

 普段の余裕を少しだけ脇へ置いたような、慎重さが滲んでいた。

 

「では」

 

 一拍置く。

 

「マリア、と呼んでください」

 

 誠は思わず聞き返した。

 

「……マリア?」

 

「ええ」

 

 彼女は穏やかに微笑む。

 

「そう呼ばれることにしましょう」

 

 少しだけ目を細める。

 

「お人形を慈しむように、優しく呼んでくだされば十分です」

 

 部屋に小さな静寂が落ちた。

 

 621。

 

 マリア。

 

 そして、狂化したセイバー。

 

 ようやく呼び名だけは整理できたことに、誠は小さく安堵の息を漏らす。

 

「……よし」

 

 思った以上に頼りない声だった。

 理央は短く頷き、秀則も「これで話がしやすくなりますな」と苦笑する。

 621は相変わらずこたつの布団の外へ足を揃えて座り、マリアは満足そうに目を細めていた。

 

 その時だった。

 襖の向こうから、迷いのない足音が近付いてくる。

 畳を踏みしめる規則正しい音には、この家で積み重ねられてきた日常そのものが滲んでいた。

 

 異界も聖杯も、そんなものとは無縁だと言わんばかりの力強い足取りだった。

 

「はいはい、お待たせ!」

 

 公子の明るい声が響く。

 襖が開くと同時に、湯気とともに温かな香りが部屋いっぱいへ広がった。

 

 醤油。

 生姜。

 揚げたての油。

 その匂いだけで、空腹だったことを身体が思い出す。

 

 公子は両手に大きなお盆を抱えていた。

 その上に載っていたのは、まず目を疑うほど山盛りになった白飯だった。

 

 茶碗ではない、どんぶりだ。

 一人前とは到底思えない高さまで白米が盛り上がっている。

 隣には大皿いっぱいの唐揚げ。

 

 揚げたての衣が、まだぱちぱちと小さく音を立て、立ち上る湯気とともに食欲を容赦なく刺激していた。

 

「さ、お上がり!」

 

 公子は屈託なく笑い、大きなお盆をこたつの上へどん、と置いた。

 見た目以上の重さだったのだろう。天板がわずかに沈み、湯気がふわりと揺れる。

 

 誠は思わず目を見開いた。

 

「……え、これ全部?」

 

「全部に決まってるでしょう」

 

 公子は即答する。叱るみたいな勢いで、けれど声は明るい。

 

「若い子が集まってるんだから。食べられるわよね」

 

 秀則が苦笑いしながらも、どこか誇らしげに言う。

 

「いやぁ、母上の唐揚げは絶品ですぞ」

 

「あんたは食べ過ぎて肥えちゃったけどね!」

 

 公子は言い返しつつ、次の皿も運んでくる気配で襖の方へ向き直る。

 理央が、律儀に頭を下げた。

 

「ありがとうございます、紫村さん。助かります」

 

 公子は手をひらひら振る。

 

「いいのいいの。こういう時は、腹を満たさないとね」

 

 そして、ふと視線が621とマリアに向く。

 一瞬だけ眉が寄る。怪訝そうな顔。けれど次の瞬間には、もう結論が出ている。

 

「そっちの──ええと……お友達2人も食べなさいよ! 遠慮しない!」

 

 621が小さく瞬きし、マリアは微笑みを深めた。

 

「ふふ。肝が据わっていらっしゃる」

 

「据わってないとやってられないのよ」

 

 公子は言い切って、台所へ戻っていく。

 襖が閉まると、残るのは湯気と匂いと──目の前の現実的すぎる量の白米と唐揚げ。

 

 誠は、まだ少し呆けたまま呟いた。

 

「……すげぇ」

 

 外がどうなっていようと。

 この家の中だけは、“飯”が優先されるらしい。

 

 

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