皿の上に残っていた油が白く固まり始める頃には、食事はすっかり終わり、こたつの上もきれいに片付けられていた。
料理から立ち上っていた湯気もとうに消え、代わりに残っているのは、満たされた腹の内側に沈む心地よい重みと、家の中を包む静けさだけだった。
外を覆っている不自然な静寂とは違う。
ここには温度があり、人が暮らしてきた痕跡がある。食事を終えたばかりの匂いや、片付けをする音の余韻が薄く残る、生活の中にある静けさだった。
「さて、と」
公子が軽く手を打ち、皆を見回した。
「今日はもう遅いし、みんな休みましょう。秀則、あんたは自分の部屋を使いなさい。男の子はそっちで寝て」
そう言いながら廊下の奥を指し、今度はこたつのある居間へ視線を向ける。
「女の子はこっちね。布団はもう出してあるから」
「ありがとうございます」
理央は素直に頷いて頭を下げた。
簡潔な礼ではあったが、張り詰め続けていた声からは、ほんの少しだけ力が抜けている。
公子はそんな変化を気に留めるでもなく、「いいのよ。こういう時は細かいことなんて言ってられないでしょ」と笑うと、そのまま台所へ戻っていった。
足音が遠ざかり、食器の触れ合う音も次第に薄れていく。家の中に満ちていた日常の気配が、一つずつ夜の静けさへ溶け込んでいった。
誠も腰を上げる。
「……じゃあ」
秀則と一緒に部屋へ向かおうとした、その時だった。
すぐ後ろで人影が動いた。
マリアが自然な仕草で立ち上がり、それに続くように621も静かに腰を上げる。
二人には迷いらしい迷いがなく、そのまま当然のように誠たちの後ろへついてきた。
あまりにも自然な動きだったため、誠は数秒ほど意味を理解できなかった。
「……え?」
振り返ると、621は無表情のまま誠のすぐ後ろに立っている。その隣では、マリアがどこか楽しそうに微笑んでいた。
「さ、ご一緒に」
まるで当然の提案でもするような柔らかい声だった。
「……寝室、でしょう?」
誠の思考が一瞬止まる。
何と答えるべきか決めかねていると、その横から低い声が飛んだ。
「……待ちなさい」
理央だった。
いつの間にか立ち上がり、マリアと621を真っ直ぐ見据えている。
「何をしているの」
言葉こそ問い掛けの形を取っていたが、その声音は明確な制止だった。
621はわずかに首を傾げる。
「私も早く寝たい。ハンドラーと寝る」
「不要よ」
理央は間髪入れずに切り捨てた。
マリアがそのやり取りを見て、くすりと笑う。
「おや。つれないですねぇ」
「一緒に寝る理由がないわ」
理央は取り合わない。
621はほんの少しだけ視線を揺らし、それでも諦めずに続けた。
「ハンドラーは貧弱だから……護衛」
「必要ない」
またしても即答だった。
「ある程度の防護措置は講じる。何かあればすぐに対応できるわ」
その口調には一切の迷いがない。621が反論するより先に、マリアが肩をすくめた。
「では、今宵は大人しく致しましょう」
拍子抜けするほどあっさり引き下がり、何の未練もない様子で踵を返す。
「また明日」
笑みだけを残して居間へ戻っていくマリアを見送り、621も一度だけ誠を振り返った。
「……了解」
短くそう告げると、理央の隣を通り過ぎていく。
足音は畳へ柔らかく吸い込まれ、やがて襖がすっと閉じられた。
誠はそこでようやく息を吐き、気持ちを切り替える。
「行くか」
秀則が頷き、二人は廊下を進んだ。
居間の明かりが少しずつ背後へ遠ざかり、間にある襖を一枚、また一枚と越えていく。
そうして案内されたのは、秀則の寝室だった。
六畳ほどの部屋には本棚と机があり、その周囲には細々とした私物が雑然と置かれている。
決して整然とはしていないが、それがかえって、この部屋で人が長く暮らしてきたことを感じさせた。
「少々手狭ですが、どうぞ」
秀則は押し入れを開け、布団を二組取り出した。
誠も手伝い、壁際と窓際へ一組ずつ敷いていく。ほどなく寝床は整った。
窓の外はひどく暗い。
本来なら街灯の明かりが届いているはずなのに、その光は頼りなく、外の景色を浮かび上がらせるほどの力もない。
灰に遮られているのか、それとも街そのものに何か異常が起きているのかは分からない。
ただ、いつもの夜よりずっと深い闇がそこにあることだけは確かだった。
布団へ横になると、身体が柔らかく沈み込む。
そこで初めて、今まで押し込めていた疲労が一気に輪郭を持って押し寄せてきた。
「……はぁ」
隣では秀則も仰向けになり、天井を見つめながら長く息を吐いた。
「まさか、自分の家でこのような状況になるとは」
困ったように笑う。
誠は横を向いた。
「……家族、無事で良かったな」
それだけ告げると、秀則はしばらく黙り込んだ。
やがて小さく頷く。
「ええ。それだけで……十分でしょうな。本来なら――」
そこで言葉が途切れた。
続きを聞く必要はなかった。
ほんの少し何かが違っていれば、公子も、この家も無事では済まなかったかもしれない。
二人とも、それを理解している。
そのまま会話は途切れた。
外は驚くほど静かだった。
虫の声も聞こえず、風が木々を揺らす音もしない。
車も走らず、人の声もない。
単なる夜の静寂とは明らかに違っている。
本来そこにあるべき何かが、ごっそりと欠け落ちている。
「……静か過ぎるよな」
誠はそう言いながら隣を向いた。
「……ぐぉ……ぐぉぉ……」
返ってきたのは盛大ないびきだった。
誠は数秒、目を瞬かせる。
「……早すぎだろ」
さっきまで普通に話していたはずなのに、秀則はもう完全に眠りへ落ちている。
腹いっぱい食べて、自宅へ戻って家族の無事を確認し、それまで張り詰めていた緊張が一気に解けたのだろう。
今日一日で蓄積した疲労も考えれば、布団へ入った途端に眠ってしまうのも無理はない。
「……いいな」
思わず本音が漏れる。
自分は、そうはいかなかった。
身体は確かに重い。瞼にも疲労はある。
それなのに、目を閉じれば閉じるほど意識は冴え、昼間に見たものが次々と脳裏へ蘇ってくる。
灰に覆われた街。
空を染めた炎の輪。
異様な群衆と、赤く染まった目。
そこへマリアの笑みや621の視線、理央の言葉まで混ざり込んでくる。
一つ一つは別々の出来事のはずなのに、頭の中ではまとまりなく巡り続け、眠気が訪れる余地を奪っていった。
しばらく耐えていたものの、やがて誠は諦めて息を吐き、ゆっくり身体を起こした。
布団がわずかに擦れる。
秀則のいびきはまったく変わらない。
「……起きないよな」
確認するように呟き、そっと布団から抜け出した。
襖へ手を掛け、音を立てないよう慎重に開く。
細い隙間が生まれた途端、そこから夜の冷たい空気が流れ込んできた。
廊下は暗い。
ただ、完全な闇ではなかった。
障子越しに差し込む月明かりが薄く床を照らし、廊下の形だけは辛うじて見える。
誠は木の軋む場所を避けながら、ゆっくり歩いていった。
居間の前を通ると、襖の向こうからかすかな気配が伝わってくる。
誰かの寝息なのか、それともまだ起きている者がいるのかは分からない。
確かめることはせず、そのまま奥へ向かった。
やがて引き戸を静かに開け、外へ出る。
そこには小さな庭が広がっていた。
砂利が敷かれ、低い植木がいくつか並んでいる。
特別なところなど何一つない、ごく普通の庭だった。
ただ、やはり静かだった。
風すらなく、月明かりだけが地面を淡く染めている。
その白い光の中に、一つだけ人影があった。
誠の足が止まる。
庭の中央に、理央が座っていた。
正座したまま背筋を真っ直ぐ伸ばし、両手を膝へ置いている。
目は閉じられ、呼吸すら判別できないほど静かで、身体は微動だにしない。
まるで彼女の周囲だけ、時間そのものが止まっているようだった。
月明かりが理央の輪郭をゆっくりとなぞっていく。
髪の先から頬へ、そこから肩へ落ちる線を白い光が淡く浮かび上がらせ、その姿から現実感を奪っていた。
ここが、ほんの少し前まで灰と異形に覆われていた街の一角だということを忘れそうになる。
静かで、整っていて、その均衡は触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
誠はいつの間にか息を止めていた。
足音一つ立てることさえ躊躇われる。
何か音を出せば、目の前にある光景そのものを壊してしまうような気がした。
やがて理央が、ゆっくりと目を開けた。
最初から誠の気配に気付いていたのかもしれない。
静かにこちらへ視線を向ける。
「……どうしたの」
小さな声だったが、音のない庭では驚くほどはっきり聞こえた。
誠は返事を忘れ、一瞬言葉に詰まる。
「あ……いや。眠れなくて」
何とかそれだけ答えた。
理央はしばらく誠を見つめていたが、やがて何事もなかったように視線を庭へ戻す。
「……そう」
短い返事とともに、再び静寂が戻ってきた。
だが誠はその場から動けなかった。
胸の奥が妙に落ち着かない。
眠れなかった理由になっていた先ほどまでの不安とは、明らかに違う感覚だった。
今日一日、あまりにも多くのことが起きた。
生き残ることや戦うことばかりに意識を取られ、理央という少女そのものを意識して見る余裕などなかった。
だが今は違う。
月明かりの中に一人で座る姿があまりにも現実離れしていて、誠は素直に綺麗だと思ってしまった。
それも、自分自身が驚くほど明確に。
何となく気恥ずかしくなり、誠は少しだけ視線を逸らした。
「……黒野も眠れなかったのか」
そう尋ねても、理央はすぐには答えなかった。
視線を月明かりの落ちる砂利へ向けたまま、細い呼吸を繰り返している。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「今のうちに、ここを“陣地”にしておきたいの」
「陣地?」
誠が眉を寄せる。
理央は膝の上に置いた指先をわずかに動かした。
その動きに呼応するように、庭を包んでいた空気がほんの少しだけ張り詰める。
目には見えない何かが、少しずつ組み上げられているような感覚があった。
「紫村君の家を、簡易的な魔術陣地として構成している最中なの。外がどうなっているか分からない以上、いつ襲撃が来てもおかしくないから」
淡々とした説明だった。
それでも、その言葉の裏にある危機感までは隠せていない。
誠は思わず庭を見回した。
植木や石、低い塀。どれも先ほど見た時と変わらないように思えたが、よく見ると庭の隅に小さな違和感がある。
細い木製の杭が何本も地面へ刺され、それぞれに札のような紙が巻かれていた。
月明かりを受けた紙の端は、ほんの僅かに白く光っているようにも見える。
「……あれ?」
誠が指差すと、理央は頷いた。
「あれが“耳”になる」
「耳?」
「誰かが境界を越えた瞬間、私へ知らせるように仕込んでる」
あまりにも現実的な説明に、誠の背中を冷たい感覚が這う。
「知らせるだけ?」
「それだけじゃない」
理央は正座した姿勢を崩さないまま、わずかに顎を引いた。
「最低限の防護措置も行えるよう調整してる。侵入者の足を止める、視界を歪ませる、進行方向をずらす。その程度だけど」
誠は息を吐いた。
居間でマリアと621を止めた時、理央は「ある程度の防護措置は講じる」と迷いなく言い切っていた。
あれは強がりではなかったのだ。
本当に、こうして準備をしている。
「……すげぇな」
思わず漏れた言葉に、理央は横目だけを向けた。
「すごくない。最低限よ」
声は平坦だった。
「どれだけ準備したところで、相手がサーヴァントなら時間稼ぎにもならない」
そう言って、小さく息を吐く。
吐息が白く見えるほど冷えているわけではない。
それでも澄んだ夜気の中では、理央の呼吸の一つ一つが妙にはっきり感じられた。
誠は庭の隅に並ぶ小さな“耳”を眺め、それから理央へ視線を戻す。
「……じゃあさ」
少しだけ言葉を探してから尋ねた。
「黒野は、いつ寝るんだよ」
理央は膝の上で指先を重ね直した。
その動きだけで、庭を包む空気の張りがまた僅かに変わる。
「私は、調整と不寝番を兼ねて夜明けまでここにいる」
あまりにも淡々とした口調だった。
それが当然の役割であるかのように言われたせいで、誠は一瞬意味を理解できず、遅れて目を見開く。
「……夜明けまで? 寝ないで、ずっと?」
理央は軽く頷いた。
「灰原君はゆっくり休んで」
「いや、そこまでする必要ないだろ」
反射的に言い返す。
理央は月明かりの下で誠を見た。
その瞳は妙に澄んでいた。
「……必要よ」
「なんで」
誠が問い返すと、理央はほんの少しだけ口元を下げた。
笑みではない。
どこか諦めにも似た、ごく薄い表情だった。
「サーヴァントがいないから」
その一言は、静かな庭へ溶けることなく誠の胸へ真っ直ぐ刺さった。
「今の私にできるのは、このくらいしかない」
誠は言葉を失う。
無意識に視線が理央の手の甲へ向いた。
そこに残っている令呪は、たった一画。
セイバーとの繋がりはまだ切れていない。
それでも当のセイバーは姿を消し、今の理央には従っていない。
なら。
そう思った時には、身体が先に動いていた。
誠は砂利を踏まないよう庭の縁を回り、理央の斜め隣へ腰を下ろす。正座する気にはなれず、膝を立てて腕を回し、少し背中を丸めた。
夜気の冷たさが服越しに染み込んでくる。
「……何してるの」
理央がすぐに問い掛けた。
声こそ小さいが、明確に拒む響きがある。
「部屋に戻って。休んでって言ったでしょう」
「眠くないんだよ、なんか」
誠は肩をすくめる。
自分でも妙な話だと思う。
腹はいっぱいで、身体は疲れ切っている。それでも瞼だけはまるで重くならない。
「付き合うよ」
理央の眉が僅かに寄った。
「だめ。体調を崩すわ。眠れなくても、せめて横になっていた方がいい」
そう言いながら、再び庭の隅へ視線を向ける。膝の上では指先が微かに動き、それに呼応して周囲の空気が薄く張り直されていった。
誠はその様子を見ながら首を振る。
「横になっても眠れないなら同じだろ」
「同じじゃない。身体は休められる」
「……だったら黒野も横になれよ」
その言葉に、理央の指が一瞬だけ止まった。
だが次の瞬間には何事もなかったように動き始める。
「灰原君が倒れたらどうするの?」
「それなら黒野も同じだろ」
誠は庭の向こうへ視線をやった。
塀の先には墨を流し込んだような闇が広がっており、遠くの街の気配さえ完全に途絶えている。
「それに、何かあった時の対処だって一人より二人の方がいい。黒野のお陰で、俺だって結構戦えるようになったんだ」
そこで少しだけ笑う。
「まあ、先輩には負けたけどさ」
理央は何か言い返そうとして、結局口を閉じた。
これ以上続けても、同じ押し問答になると理解したらしい。
「……勝手にしなさい」
吐き捨てるほど強い声ではない。
明らかな不満はあるものの、そこには譲歩の響きもあった。
理央は再び庭へ向き直り、膝の上で指先を組み替える。
指がほどけ、重なり、また離れるたびに、杭へ巻き付けられた札がほんの僅かに震えた。
風ではない。
周囲の空気そのものが位置を変え、見えない境界線が庭の外周へ少しずつ引かれていく。
理央の呼吸は一定だった。
二人の間に、長い沈黙が流れる。
誠は何気なく隣を見る。
月明かりを受けた理央の横顔が目に入り、先ほどと同じ落ち着かない感覚が胸の内に蘇った。
慌てて視線を逸らす。
どうにも居心地が悪い。
自分から隣へ座っておいて、意識すればするほど落ち着かなくなってくる。
それを誤魔化すように、誠は以前から胸の内に引っ掛かっていた疑問を口にした。
「……なあ、黒野」
理央は指先の動きを止めないまま、目だけをこちらへ向ける。
「何?」
誠は一度、喉の奥で言葉を選んだ。
「なんで、俺のこと守ってくれるんだ」
理央の指先がほんの僅かに止まる。
それも一瞬だけで、すぐに何事もなかったように動き始めた。
誠は続ける。
「聖杯戦争ってさ、マスターとサーヴァントが殺し合って、最後に残った一組が聖杯を手にする――そういうもんなんだろ」
理央は否定しなかった。
「一時的に共闘するっていうのは分かるよ。今の街の状況もあるし。でも、俺みたいな……戦えなかった頃のやつを助けて、ここまで世話を焼くのは不合理だろ」
口にしてみると、胸の奥に引っ掛かっていたものが少しだけ軽くなった。
ずっと気になっていた。
あれは理央自身の優しさだったのか、それとも何か別の目的があるのか。
どちらでもいいとは思えなかった。
理央は月明かりの中で目を伏せる。
指先が小さな円を描くと、それに応じて庭を覆う空気がもう一段だけ引き締まった。
誠は少し迷い、それでも聞いた。
「当主の……黒野恒一郎に言われたからか? 俺が聖杯の器だから」
その瞬間だった。
理央の指先がぴたりと止まる。
それだけではない。
張り巡らされていた魔力が一瞬だけ乱れ、庭の隅にある札がぱらりと小さな音を立てた。
「――違う」
返ってきた声は、それまでより明らかに強かった。
低く硬く、考えるより先に出てしまったような声だった。
誠が驚いて瞬きをする。
「違う。そんな……指示、受けてない」
理央はそこまで言い切ってから、ようやく自分の声が強くなっていたことに気付いたように息を整えた。
膝の上の手がわずかに握られている。
誠はその返答に引っ掛かった。
「……指示、ないのに?」
理央は視線を逸らす。
一度、庭の隅にある杭へ目を向けてから、少し遅れて誠へ戻した。
「あなたが聖杯の器になっている可能性は……推測できていた」
いつもの理央ならもっと簡潔に言い切るはずなのに、今は言葉の一つ一つが妙に慎重だった。
「でも、本家から具体的に『守れ』なんて言われたわけじゃない」
「じゃあ……なんだよ」
誠が尋ねる。
理央はそこで完全に言葉を止めた。
口を開きかけて閉じる。
視線が僅かに揺れ、その変化が月明かりの中ではやけに目立った。
「……私の意思」
ようやく、絞り出すように答える。
「私が、守りたかった」
誠は思わず聞き返した。
「……なんで?」
理央の瞳が僅かに見開かれる。
だが、返事はなかった。
何かを言おうとしているのは分かる。
喉が小さく動き、唇も僅かに開く。それでも言葉は出てこない。
誠は疑っているというより、純粋に理由を知りたくなって身を乗り出した。
「黒野?」
その顔を覗き込んだ瞬間、誠は言葉を失った。
理央の頬が赤くなっている。
冷気に当たった程度の色ではなかった。
普段なら決して表へ出さない感情が、冷静な表情の下から滲み出したように頬を染め、耳の先まで僅かに赤くなっている。
「く、黒野?」
思わず名前を呼ぶ。
そこでようやく、理央も自分の顔を近くから覗き込まれていることに気付いた。
視線がぶつかる。
「っ――」
理央の肩がびくりと跳ね、息を呑む音が漏れた。
次の瞬間には勢いよく顔を逸らす。
「……な、何して――」
いつもなら淀みなく出てくるはずの言葉が崩れた。
そして、そのまま突然立ち上がる。
膝の下で砂利が小さく鳴り、服の裾が月明かりの中で揺れた。
「……裏手も見てくる!」
必要以上に大きな声だった。
静かな庭の中では、その張り上げた声だけが不自然に浮いて聞こえる。
誠が呆気に取られているうちに、理央は踵を返した。
歩く速度が速い。
つい先ほどまで続けていた魔術の調整も、整った呼吸も、全部置き去りにしたような勢いだった。
理央の背中は塀際の闇へ消え、足音もすぐに聞こえなくなる。
後に残されたのは、月明かりと、庭の隅に並ぶ杭、そして誠だけだった。
しばらく何もできず、その場に座り込んだまま理央が消えた方向を見つめる。
胸の奥が妙に熱かった。
さっきまで冷たいと感じていた夜気すら、今はほとんど意識に入ってこない。
「……なんだよ、それ」
小さな呟きが、誰にも拾われず庭へ落ちる。
赤くなっていた理央の顔。
慌てて立ち上がった姿。
そして「裏手も見てくる」という、どう考えても不自然な言い訳。
一つ一つを思い返すたびに、胸の内が余計に落ち着かなくなっていく。
誠は庭の杭へ目を向けた。
巻き付けられた札が微かに揺れている。
風ではない。
魔術によって作られた境界が、今も生きている証拠だ。
理央は慌てて立ち去ったくせに、自分が組み上げた仕事だけはきちんと残している。
……いや。
仕事を放り出したのではなく、単純に自分から逃げたのではないか。
そう考えた途端、さらに居心地が悪くなった。
その時、縁側の方から畳を踏む音が近付いてきた。
軽く静かな足取りなのに、不思議と耳に残る。
誠が顔を上げると、家の中から伸びた影が月明かりの庭へ落ちた。
現れたのはマリアだった。
夜の空気に溶け込むような足取りで縁側へ姿を見せ、庭の端で静かに立ち止まる。
「……あら」
小さく首を傾げた。
視線は誠ではなく、理央が消えていった塀の向こうへ向けられている。
「今、黒野理央とすれ違いましたが」
いつも通りさらりとした口調だったが、眉の端がほんの少しだけ上がっていた。
「……何かありましたか? マスター」
誠は一瞬、喉の奥で言葉を詰まらせる。
「別に……」
答えた直後、自分でも随分雑な返事だと思った。
マリアはそんな誠を数秒だけ観察したものの、それ以上追及しようとはしなかった。
ただ、次の瞬間。
笑みはそのままなのに、纏う空気の温度だけが変わった。
「あぁ、それどころではないのです」
声も少し低くなる。
その変化だけで、誠の背筋を嫌な感覚が走った。
「……何?」
マリアは庭ではなく、家の奥へ視線を向ける。
障子の向こうは暗く、つい先ほどまで満ちていた生活の気配も、今はすっかり夜の静けさへ沈んでいる。
「紫村公子の様子がおかしいのです」
誠は息を止めた。
「おかしいって……どういう――」
「説明している暇がありません」
マリアは珍しく言葉を遮った。
いつもの楽しげな調子もない。
真っ直ぐに誠の目を見る。
「紫村秀則を起こしてください」