Fate/You Died.   作:助兵衛

58 / 93
第58話 月夜の団欒

 皿の上に残っていた油が、白く固まり始めていた。

 

 食事が終わり、こたつの上は片付けられ、湯気も消えている。

 

 代わりに残っているのは、腹の内側に落ち着いた重みと、家の中の静けさだった。

 

 外とは違う静けさ。

 

 温度のある、生活の残り香のある静けさ。

 

「さて、と」

 

 公子が手を打つ。

 

「今日はもう遅いし、みんな休みましょう」

 

 言いながら、手際よく動く。

 

「秀則、あんたは自分の部屋使いなさい。男の子はそっちで寝なさい」

 

 指で廊下の奥を示す。

 

「女の子はこっち。居間でいいわね」

 

 こたつのある部屋を軽く叩く。

 

「布団、もう出してあるから」

 

 理央が頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

 簡潔な礼。

 

 だが、その声には僅かに力が抜けている。

 

 公子は気にした様子もなく笑った。

 

「いいのよ。こういう時は、細かいこと言ってられないでしょ」

 

 そのまま台所へ戻っていく。

 

 足音が遠ざかる。

 

 日常の音が、ひとつずつ薄れていく。

 

 誠は立ち上がった。

 

「……じゃあ」

 

 言いかける。

 

 その時だった。

 

 すっと、影が動く。

 

 マリアが立ち上がる。

 

 続くように、621も静かに腰を上げた。

 

 迷いがない。

 

 当然のように、誠たちの後ろへ回る。

 

 その動きが、あまりにも自然で——

 

 誠は一瞬、何も言えなかった。

 

「……え」

 

 思わず振り返る。

 

 621は無表情のまま、誠のすぐ後ろに立っている。

 

 マリアは、少し楽しそうに微笑んでいる。

 

「さ、ご一緒に」

 

 マリアが言う。

 

 柔らかい声。

 

 当然の提案のように。

 

「……寝室、でしょう?」

 

 誠の思考が、一瞬止まる。

 

 その横で。

 

「……待ちなさい」

 

 低い声。

 

 理央だった。

 

 短い一言。

 

 それだけで、空気が止まる。

 

 理央は立ち上がっていた。

 

 視線が、まっすぐにマリアと621に向く。

 

「何をしているの」

 

 問いではない。

 

 確認でもない。

 

 制止だ。

 

 621がわずかに首を傾げる。

 

「私も早く寝たい。ハンドラーと寝る」

 

「不要よ」

 

 即答。

 

 間を置かない。

 

 マリアが、くすりと笑う。

 

「おや。つれないですねぇ」

 

「理由がないわ」

 

 言い切る。

 

 621の視線が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「ハンドラーは貧弱だから……護衛」

 

「必要ない」

 

 再び即答。

 

 理央は一歩も引かない。

 

「ある程度の防護措置は講じるわ。何かあれば直ぐに対応出来る」

 

 マリアは、わずかに肩をすくめた。

 

「では、今宵は大人しく致しましょう」

 

 くるりと踵を返す。

 

 何の未練もないように。

 

「また明日」

 

 笑みだけを残して、居間へ戻っていく。

 

 621も一度だけ誠を見て、それから小さく頷いた。

 

「……了解」

 

 静かな声。

 

 そのまま、理央の隣を通り過ぎる。

 

 足音が、畳に吸われて消えていく。

 

 襖が、すっと閉じられた。

 

 誠は一度息を吐いて、気持ちを切り替えた。

 

「行くか」

 

 秀則が頷く。

 

 二人は廊下を進んだ。

 

 居間の灯りが、背後に残る。

 

 襖が一枚、また一枚と閉じられていく。

 

 音が、減る。

 

 空気が、静かになる。

 

 案内されたのは、秀則の寝室だった。

 

 六畳ほどの空間。

 

 本棚、机、雑然とした私物。

 

 生活の跡が、そのまま残っている。

 

「少々手狭ですが、どうぞ」

 

 秀則が押し入れを開ける。

 

 布団を二組引き出す。

 

 ぱさり、と畳の上に広げる。

 

 誠も手伝う。

 

 言葉はない。

 

 だが、動きは揃う。

 

 布団が並ぶ。

 

 壁際と、窓際。

 

 窓の外は暗い。

 

 街灯はあるはずなのに、光が弱い。

 

 灰に覆われているのか、それとも——

 

 理由は、分からない。

 

 ただ、暗い。

 

 布団に横になると、身体が沈む。

 

 疲れが、ようやく形を持って押し寄せてきた。

 

「……はぁ」

 

 秀則が、仰向けのまま息を吐く。

 

「まさか、自分の家でこのような状況になるとは」

 

 軽く笑う。

 

 続かない。

 

 誠は横を向いた。

 

「……家族、無事で良かったな」

 

 ぽつりと言う。

 

 秀則は少しだけ黙って、それから頷いた。

 

「ええ。それだけで……十分でしょうな」

 

 一拍。

 

「本来なら」

 

 言葉が、切れる。

 

 その続きを、言葉にする必要はない。

 

 沈黙が落ちる。

 

 外は、驚くほど静かだった。

 

 虫の声もない。

 

 風もない。

 

 車の音も、人の声も。

 

 何もない。

 

 ただの静寂ではない。

 

 “何かが欠けている”静けさ。

 

「静か過ぎるよな」

 

 言いかけて、横を見る。

 

 秀則は──

 

「……ぐぉ……ぐぉぉ……」

 

 盛大に、いびきをかいていた。

 

 一拍。

 

 誠は、瞬きをする。

 

「……早すぎだろ」

 

 呆れ半分、感心半分。

 

 さっきまで普通に会話していたはずなのに、もう完全に沈んでいる。

 

 腹いっぱい食べて、安心して、疲れも溜まっていたのだろう。

 

 布団に入った瞬間に落ちたらしい。

 

「……いいな」

 

 ぽつりと漏れる。

 

 自分は、そうはいかない。

 

 目を閉じても、意識が沈まない。

 

 むしろ、鮮明になる。

 

 昼間の光景。

 

 灰。

 

 炎の輪。

 

 あの群衆。

 

 赤い目。

 

 そして──

 

 マリアの笑み。

 

 621の視線。

 

 理央の言葉。

 

 全部が、頭の中でぐるぐると回る。

 

 眠れない。

 

 体は重いのに、神経だけが妙に冴えている。

 

 誠は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 体を起こす。

 

 布団がわずかに鳴る。

 

 秀則のいびきは、変わらない。

 

「……起きないよな」

 

 確認するように小さく呟く。

 

 そっと、布団から抜け出す。

 

 畳に足を下ろす。

 

 音を立てないように。

 

 一歩。

 もう一歩。

 

 襖に手をかけ静かに開ける。

 

 すっと、隙間が生まれ、外の空気が入り込む。

 

 冷たい夜の空気。

 

 廊下は暗い。

 

 だが、完全な闇ではない。

 

 どこからか、薄く光が差している。

 

 月明かりが障子越しに、ぼんやりと。

 

 誠は、ゆっくりと廊下を進んだ。

 

 足音を殺す。

 

 木の軋みを避けるように。

 

 居間の前を通る。

 

 襖の向こうから、かすかな気配。

 

 寝息か、あるいは──分からない。

 

 立ち止まらない。

 

 そのまま、奥へ。

 

 引き戸を開ける。

 

 外へ。

 

 小さな庭だった。

 

 砂利。

 

 低い植木。

 

 どこにでもある、普通の庭。

 

 静かだ。

 

 音が、ない。

 

 風も、ない。

 

 ただ、月の光だけが、地面を淡く染めている。

 

 その中に──

 

 人影があった。

 

 誠の足が、止まる。

 

 庭の中央。

 

 そこに、理央がいた。

 

 正座。

 

 背筋はまっすぐ。

 

 手は、膝の上。

 

 目は閉じられている。

 

 呼吸が、ほとんど分からない。

 

 微動だにしない。

 

 まるで──

 

 そこだけ、時間が止まっているみたいだった。

 

 月明かりが、理央の輪郭をなぞる。

 

 髪の先。

 

 頬。

 

 肩の線。

 

 白い光が、淡く浮かび上がらせる。

 

 現実感が、薄い。

 

 ここが、あの灰に覆われた街だということを、忘れそうになる。

 

 静かで。

 

 整っていて。

 

 触れれば壊れそうなほどに、均衡している。

 

 誠は、息を止めていた。

 

 音を立てるのが、怖かった。

 

 その光景を壊してしまう気がして。

 

 理央が、ゆっくりと目を開ける。

 

 気配に気付いていたのかもしれない。

 

 視線が、こちらに向く。

 

「……どうしたの」

 

 小さな声。

 

 だが、静寂の中でははっきりと届く。

 

 誠は、一瞬言葉を失った。

 

「あ……いや」

 

 間の抜けた声になる。

 

「眠れなくて」

 

 それだけ、やっと出す。

 

 理央は、しばらく誠を見ていた。

 

 感情は、読み取れない。

 

 それから、ゆっくりと視線を外す。

 

「……そう」

 

 短い返事。

 

 それだけで、また静寂が戻る。

 

 誠は、その場に立ったまま動けなかった。

 

 胸の奥が、妙に騒がしい。

 

 さっきまでの不安とは違う。

 

 別の、落ち着かない感覚。

 

 ドタバタしていたせいで。

 

 戦うことばかり考えていて。

 

 理央のことを、そういう風に見たことがなかった。

 

 今は──違う。

 

 月明かりの中で座る姿が、妙に現実離れしていて。

 

 綺麗だと、思ってしまった。

 

 自分でも驚くくらい、はっきりと。

 

 誠は、わずかに視線を逸らす。

 

「……黒野も眠れなかったのか」

 

 誠がそう訊ねると、理央はすぐに答えなかった。

 

 視線は庭の地面──月の光が淡く落ちる砂利へ。

 

 呼吸だけが、細く続く。

 

 やがて。

 

「今のうちに、ここを“陣地”にしておきたいの」

 

 誠が眉を寄せる。

 

「陣地?」

 

 理央は膝の上に置いた指先を、わずかに動かした。

 

 その動きに合わせて、庭の空気がほんの少しだけ張る。

 

 何かが“組まれて”いく感覚。

 

「紫村君の家を、簡易的な魔術陣地として構成してる最中」

 

 淡々とした説明。

 

 だが、その言葉の裏にある危機感は隠れていない。

 

「外がどうなってるか分からない。襲撃が来るかもしれない」

 

 誠は喉が鳴るのを抑え、庭を見回した。

 

 植木。

 

 石。

 

 低い塀。

 

 ──そして、庭の隅。

 

 そこに、違和感があった。

 

 地面に刺さっている、小さな杭。

 

 細い木の棒に、紙が巻かれている。

 

 お札のような紙。

 

 それが、いくつも。

 

 月明かりの下では、紙の端がわずかに白く光って見えた。

 

「……あれ」

 

 誠が指で示す。

 

 理央は頷く。

 

「あれが“耳”になる」

 

 言い方が、妙に現実的だった。

 

「侵入を報せる。境界を踏んだ瞬間に、私に知らせるように仕込んでる」

 

 誠の背中に、冷たいものが這う。

 

「知らせるだけ?」

 

「それだけじゃない」

 

 理央は、ほんの少しだけ顎を引いた。

 

 正座のまま、姿勢は崩さない。

 

「最低限の防護措置も行えるように調整してる」

 

「例えば、足を止める。視界を歪ませる。進行方向をずらす」

 

 誠は息を吐いた。

 

 理央がさっき言っていた“ある程度の防護措置”。

 

 それが、これだ。

 

 居間でマリアと621を止めた時の、揺るぎない声。

 

 あれは強がりじゃない。

 

 本当に、準備していた。

 

「……すげぇな」

 

 思わず漏れた。

 

 理央は横目だけで誠を見る。

 

「すごくない。最低限よ」

 

 言い切る声は平坦だ。

 

 だが、月の下でその言葉は、妙に強く聞こえる。

 

 理央は視線を庭の隅へ戻し、静かに続けた。

 

「どれだけ準備しても、サーヴァントが相手なら時間稼ぎにもならない」

 

 理央はそう言って、息を一つだけ吐いた。

 

 吐いた白が見えるほどの冷えではないのに、夜の空気がその呼吸を輪郭づける。

 

 庭の隅に刺さった杭──紙の巻かれたそれが、月明かりを受けて静かに白く浮いた。

 

 誠は、その小さな“耳”の列を見てから、理央に視線を戻す。

 

「……じゃあさ」

 

 言葉を探すみたいに、声が少し遅れる。

 

「黒野は、いつ寝るんだよ」

 

 理央は、膝の上の指先をわずかに重ね直した。

 

 整えるような動き。

 

 それだけで、空気の張りがまた微かに変わる。

 

「私は」

 

 短く区切ってから。

 

「調整と、不寝番を兼ねて——夜明けまでこうしている」

 

 淡々と。

 

 命令文みたいに。

 

 誠の目が、思わず見開く。

 

「……夜明けまで?」

 

 言葉が、喉で引っかかる。

 

「寝ないで? ずっと?」

 

 理央は頷いた。

 

 その頷きが、あまりに軽くて、逆に怖い。

 

「灰原君は、ゆっくり休んで」

 

 叱るでもなく、諭すでもなく。

 

 ただ、当然の配置を伝える声。

 

 誠は、反射で首を振った。

 

「いや、そこまでする必要ないだろ」

 

 理央は、誠を見た。

 

 月明かりの下で、瞳だけが妙に澄んでいる。

 

 そして、静かに言った。

 

「……必要よ」

 

 誠が眉を寄せる。

 

「なんで」

 

 理央は、ほんの少しだけ口角を下げた。

 

 笑みではない。

 

 諦めに近い、薄い表情。

 

「サーヴァントが居ないから」

 

 言葉が、庭の静けさに吸われず、まっすぐ誠に刺さる。

 

「今の私に出来るのは、このくらいしかない」

 

 誠は、息を呑んだ。

 

 理央の手の甲。

 

 令呪が一画だけ残っていたあの手。

 

 なら。

 

 誠は、口の中でそう呟いた。

 

 言葉にするより先に身体が動く。

 

 砂利を踏まないように、庭の縁──飛び石の端に足を置いて、理央の斜め隣へ腰を下ろす。

 

 正座ではない。

 

 膝を立て、腕を回し、背中を少し丸める。

 

 夜の冷えが布越しに伝わってくるのに、頭は妙に冴えたままだった。

 

「……何してるの」

 

 理央が、すぐに言った。

 

 声は小さい。

 

 だが、拒む輪郭がある。

 

「部屋に戻って。休んでって言ったでしょう」

 

 誠は、肩をすくめる。

 

「眠くないんだよ、なんか」

 

 自分で言いながら、半分信じられない。

 

 胃は重い。身体は疲れているはずなのに、瞼が落ちない。

 

「付き合うよ」

 

 理央の眉が、わずかに寄る。

 

 月明かりがその影をつくる。

 

「だめ」

 

 即答だった。

 

「体調を崩す。眠れなくても、せめて横になってるべき」

 

 理央は言いながら、庭の隅──杭の列へ視線を戻す。

 

 指先だけが、膝の上で微かに動いた。

 

 空気がまた、薄く張り直される。

 

 誠は、その動きに視線を置いたまま首を振る。

 

「横になっても眠れないなら一緒だろ」

 

「一緒じゃない」

 

 理央は、きっぱりと言った。

 

「身体は休められる」

 

「……だったら黒野も横になれよ」

 

 誠の言葉に、理央の指が一瞬止まる。

 

 次の瞬間には、何事もなかったようにまた動き始める。

 

「灰原君が倒れたらどうするの?」

 

 誠は、聞く耳を持たないまま、庭の闇を眺めた。

 

 塀の向こうは、墨を流したみたいに真っ黒だ。

 

 音がない。

 

 遠くの町の気配すら、途切れている。

 

「何かあった時の対処だってさ」

 

 誠は、視線を戻して言う。

 

「一人より二人の方がいい。黒野のお陰で結構戦えるようになったんだ、先輩には負けちゃったけどさ」

 

 理央は、言い返そうとして──やめた。

 

 口を開けば、また同じ押し問答になる。

 

 誠が聞かないのは分かっている。

 

 その事実に、ほんの少しだけ眉間が寄って、すぐにほどけた。

 

「……勝手にしなさい」

 

 吐き捨てるほど強くはない。

 

 けれど譲歩の音がした。

 

 理央は視線を庭の隅へ戻し、膝の上で指先を組み替える。

 

 指がほどけ、重なり、また離れる。

 

 それに合わせて、杭に巻かれた紙が微かに震えた気がした。

 

 風ではない。

 

 空気そのものが、位置を変える。

 

 境界線が一本、庭の外周に引かれていく感覚。

 

 理央の呼吸は一定だ。

 

 沈黙が長く続く。

 

 誠は、月の光を受ける理央の横顔を盗み見て、すぐに視線を逸らした。

 

 落ち着かない。

 

 自分がここに座ったせいで、余計に落ち着かない。

 

 だから──ずっと胸の奥に引っかかっていたことを、口にする。

 

「……なあ、黒野」

 

 理央の手が止まらないまま、目だけが誠へ向く。

 

「何」

 

 誠は、喉の奥で一度言葉を転がしてから。

 

「なんで、俺の事守ってくれるんだ」

 

 

 理央の指先が、ほんの僅かに止まった。

 

 止まって、すぐに動き直す。

 

 誠は続けた。

 

 今度は、逃げないように。

 

「聖杯戦争ってさ」

 

 言葉が、夜に落ちる。

 

 静かで、余計に輪郭が立つ。

 

「マスターとサーヴァントが殺し合って、最後に残った一組が聖杯を手にする──そういうもんだろ」

 

 理央は何も言わない。

 

 否定もしない。

 

 誠は、膝を抱え直す。

 

「一時的に共闘、ってのは分かるよ。今の街の状況もあるし」

 

 息を吸う。

 

「でも、俺みたいな……戦えなかった頃のやつを助けて、世話まで焼くのは不合理だろ」

 

 言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 ずっと気になっていた。

 

 優しさ、なのか。

 

 打算、なのか。

 

 どちらでもいい、と思えない。

 

 理央は、月明かりの中で目を伏せた。

 

 庭の隅に刺さった杭──紙の巻かれた“耳”が、白く浮いている。

 

 指先が、そこへ向けて小さく円を描く。

 

 空気が、また一段締まる。

 

「当主の……黒野恒一郎に言われたから? 俺が、聖杯の器だから」

 

 

 誠がそう言った瞬間。

 

 理央の指先が、ぴたりと止まった。

 

 止まっただけじゃない。

 

 張っていた空気が、一瞬だけ強く跳ねる。

 

 杭に巻かれた紙が、ぱら、と小さく鳴った。

 

「──違う」

 

 理央の声が、いつもより強い。

 

 低く、硬い。

 

 反射みたいに。

 

 誠が瞬きをする。

 

 理央は、息を吐くのも忘れたように続けた。

 

「違う。そんな……指示、受けてない」

 

 言い切ってから、ようやく呼吸を整える。

 

 膝の上の手が、わずかに握られている。

 

 誠は、言葉の端に引っかかったものを拾う。

 

「……指示、ないのに?」

 

 理央は視線を逸らした。

 

 庭の隅。

 

 杭の列。

 

 そこへ逃げるみたいに視線を置いてから、もう一度、誠に戻す。

 

「あなたが聖杯の器になってる可能性は……推測出来ていた」

 

 

 淡々と言うには、少しだけ遅れている。

 

 言葉の出方がいつもより慎重だ。

 

「でも」

 

 一拍。

 

「本家から、具体的に“守れ”なんて言われたわけじゃない」

 

 誠の喉が鳴る。

 

「じゃあ……なんだよ」

 

 理央は、そこで止まった。

 

 止まってしまった。

 

 口を開きかけて、閉じる。

 

 視線が揺れる。

 

 月明かりの中で、その揺れだけがやけに目立つ。

 

「……私の意思」

 

 絞り出すように言う。

 

「私が、守りたかった」

 

 誠は、思わず聞き返した。

 

「……なんで」

 

 理央の瞳が、わずかに見開く。

 

 返す言葉がない。

 

 理央の喉が、小さく動いた。

 

 何か言おうとして、何も出てこない。

 

 誠は、疑うというより確かめたくて、身を乗り出した。

 

 理央の顔を覗き込む。

 

 月明かりが、はっきりと輪郭を照らす。

 

 次の瞬間。

 

 誠は、言葉を失った。

 

 理央の頬が──赤い。

 

 火照りではない。

 

 冷静さの仮面の下から、ありえない色が滲み出ている。

 

 耳の先まで、ほんのりと。

 

 いつもなら感情の揺れを押し殺すはずの理央が、隠しきれていない。

 

「く、黒野?」

 

 誠が思わず名前を呼ぶ。

 

 理央は、その時になって、自分が覗き込まれていることに気づいた。

 

 視線が誠とぶつかる。

 

 ぶつかった瞬間、理央の肩がびく、と跳ねる。

 

「っ──」

 

 息を呑む音。

 

 そして、慌てて視線を切る。

 

 誠から顔を背ける動きが、露骨だった。

 

「……な、何して」

 

 言いかけて、言葉が崩れる。

 

 理央は、勢いよく立ち上がった。

 

 膝をついていた砂利が、微かに鳴る。

 

 裾が揺れて、月の光が追いかける。

 

「……裏手も見てくる!」

 

 言い放つ。

 

 必要以上に大きい声。

 

 張り過ぎた声が、庭の静けさに浮いた。

 

 誠が目を瞬かせる間もなく、理央は踵を返す。

 

 早足。

 

 いや、ほとんど逃げるみたいに。

 

 調整中だったはずの指先の動きも、呼吸も、全部置き去りにして。

 

 理央の背中が、塀際の闇に吸い込まれる。

 

 足音はすぐに消えた。

 

 残ったのは、月明かりと、庭の隅に刺さった杭と、誠ひとり。

 

 誠はしばらく、動けなかった。

 

 口を開けたまま、息の仕方を忘れたみたいに。

 

 胸の奥が、妙に熱い。

 

 さっきまで冷たかった夜気が、皮膚の上で意味を失っている。

 

「……なんだよ、それ」

 

 呟きは、砂利に落ちて消えた。

 

 理央が赤くなった顔。

 

 慌てて立ち上がった動き。

 

 裏手も見てくる、という言い訳。

 

 全部が、噛み合わないまま頭の中で回る。

 

 誠は、杭に巻かれた紙を見た。

 

 紙が、微かに揺れている。

 

 風ではない。

 

 境界がまだ“生きている”という証拠。

 

 理央は、逃げても仕事だけは残していった。

 

 ……いや。

 

 置いていった、というより。

 

 誠から逃げたんだろう、と考えてしまって、余計に落ち着かない。

 

 その時。

 

 畳を踏む音が、縁側の方から近づいた。

 

 静かな足取り。

 

 軽いのに、なぜか耳に残る。

 

 誠が顔を上げると、月の影が一つ、庭に落ちる。

 

 マリアだった。

 

 夜の空気に溶けるように、ふらりと現れる。

 

 白い肌が月光を受けて、輪郭だけがやけに際立つ。

 

「……あら」

 

 マリアは、庭の端で立ち止まり、首を傾げた。

 

 視線は誠ではなく、塀の向こう──理央が消えた方向。

 

「今、黒野理央とすれ違いましたが」

 

 さらりと言う。

 

 なのに、眉の端だけが少しだけ上がっている。

 

 訝しげな気配。

 

「……何かありましたか? マスター」

 

 誠は喉の奥で何かが詰まって、うまく返せない。

 

「別に……」

 

 口に出した瞬間、自分でも雑だと思った。

 

 マリアは誠の反応を一瞬だけ観察して、すぐに興味を切り替えた。

 

 笑みが消えるわけではない。

 

 でも、温度が変わる。

 

「あぁ、それどころではないのです」

 

 声が、少しだけ低くなる。

 

 誠の背筋に、嫌なものが走る。

 

「……何」

 

 マリアは、庭の奥──家の方へ視線を向けた。

 

 障子の向こうは暗い。

 

 生活の匂いが薄れた、夜の家。

 

「紫村公子の様子がおかしいのです」

 

 誠が息を止める。

 

「おかしいって……どういう」

 

 マリアは、わずかに肩をすくめた。

 

 いつもの“楽しげ”とは違う仕草。

 

「説明している暇がありません」

 

 言い切る。

 

 そして、誠の目をまっすぐ見た。

 

「紫村秀則を起こしてください」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。