誠は引き戸を閉めるのももどかしく、靴下のまま廊下を駆けた。
木が鳴る。
音を立てないように、さっきは避けた軋みを、今は踏み抜く。
秀則の寝室の襖に手をかけ、一気に開けた。
暗い。
布団の山。
そして——いびき。
「秀則!」
誠が声を張る。
「……んぉ……」
山が動く。
だが、起きない。
誠はためらいなく近づき、肩を掴んで揺すった。
「起きろ! お前の母さんが——公子さんが、おかしいって!」
「は、はぁ……?」
秀則の瞼が重たそうに開く。
寝起きの鈍い目が、誠の焦りを見て少しだけ鋭くなる。
「何事ですか……」
「分かんねぇ! とにかく来い!」
誠は言い切って、秀則の腕を引く。
秀則は舌打ちのように息を吐き、布団を跳ね上げた。
足を畳に落とす。
「母上が……?」
声のトーンが一段落ちた。
寝ぼけが剥がれ、現実に戻る速度が早い。
二人は廊下へ飛び出した。
マリアも後ろからついてくる。
足音が重なる。
居間の障子の前で、誠は一瞬だけためらった。
中から——咳。
乾いた、肺の奥を掻くような音。
続いて、何かが倒れる鈍い音。
「……っ!」
誠が引き戸を開ける。
灯りは落ちていたはずなのに、薄い光がある。
月明かりだけではない。
床に白い光が散っている。
居間の真ん中。
公子は畳の上で、身体を折り曲げるようにして震えていた。
喉の奥から、湿った音が漏れる。
「……ごほっ……ぉ……」
咳とも、息ともつかない音。
呼吸が浅い。
吸っても、足りない。
胸が上下するたび、骨が軋むような気配があった。
その熱が、離れている誠の肌にまで伝わってくるような錯覚。
——異様な熱気。
「母上!」
秀則が膝をつく。
手を伸ばしかけて——止まる。
触れていいのか、判断がつかない。
公子の皮膚は赤く染まっていた。
火にあてられたように。
汗が滲み、呼吸と共に小刻みに震えている。
「……触らないで」
低い声。
621だった。
すでに公子の側に膝をついている。
いつの間にか展開されていた機器が、畳の上に無機質な光を散らしていた。
黒いケース。
開かれた内部から、細いケーブルと透明なパッドが伸び公子の胸元、首筋、指先に貼り付けられていた。
パネルに走る光の線が、呼吸に合わせて脈動する。
「……バイタル、異常上昇」
621が淡々と告げる。
声は一定。
感情はない。
だが、表示パネルの数値は——明らかに正常ではなかった。
体温。
脈拍。
呼吸数。
どれも、振り切れかけている。
「……これ、もしかしてニュースでやってた……」
ただの発熱ではない。
熱の質が、違う。
空気が歪むような、焼けつくような熱。
その時だった。
公子の身体が、びくりと跳ねた。
「——っ、あ……!」
短い声。
そのまま、顔が上がる。
誠は、息を止めた。
目が合った。
——赤い。
公子の瞳が、血のように赤く染まっている。
充血ではない。
光を帯びた赤。
内側から滲み出るような、血の如き赤。
その視線が、誰も見ていない。
焦点が合っていない。
なのに——
何かを、探している。
「……が……」
喉が鳴る。
言葉にならない。
次の瞬間。
「……ぅ、うぅ……」
低い唸りが漏れた。
人の声ではない。
獣のような、喉の奥から押し出される音。
空気が、一瞬で冷えた。
誠の背中に、ぞわりとしたものが走る。
「……っ」
秀則が息を呑む。
「母上……?」
呼びかける。
だが、その声は届いていない。
公子の視線は、どこにも定まらず、揺れている。
唇がわずかに開き、歯が見えた。
呼吸のたび、かすかに唸る。
その時だった。
廊下の向こうから、足音がひとつ、遅れて近づいてくる。
軽い。
だが、確かな足取り。
居間の障子が、静かに開いた。
「皆さんお揃いで、容態は如何ですか?」
マリアだった。
月光と機器の白光に照らされて、その輪郭が浮かぶ。
視線は、すぐに公子へ落ちた。
そして——
表情が変わる。
いつもの柔らかな笑みが、すっと引いた。
代わりに現れたのは、静かな緊張。
「……なるほど」
低く呟く。
楽しげな調子はない。
観察する者の目。
マリアは躊躇なく歩み寄る。
秀則の隣に膝をつき、公子の顔を覗き込んだ。
「少し、失礼します」
確認でも許可でもない。
ただの宣言。
そのまま手を伸ばす。
額。
頬。
首筋。
順に触れる。
指先が、わずかに止まる。
熱を測るように。
脈を拾うように。
「……どうやって紛れ込んだのやら」
独り言のように言う。
次に、顎に指をかける。
軽く持ち上げ、目を覗き込む。
赤い瞳。
焦点の合わない視線。
マリアの指が、下瞼をわずかに押し下げた。
一度、息を吐く。
視線が、621の機器へ流れる。
「あなたの計測は?」
「異常値継続。原因不明」
621が即答する。
マリアは、わずかに頷いた。
「ええ、そうでしょうね」
そして、もう一度公子を見る。
赤い目。
唸り。
異様な熱。
外で見た“あれ”と、どこか似ている。
だが——完全には一致しない。
マリアの目が細くなる。
思考の色。
だが、すぐに切り替えた。
そのまま、公子の頬へ手を伸ばす。
指先が、そっと触れる。
冷たい手ではない。
だが、熱を奪うような触れ方。
掌が、ぴたりと頬に収まる。
その瞬間——
空気が、わずかに揺れた。
何かが、流れた。
音もなく。
見えもしない。
だが、確かに。
公子の呼吸が、ひとつ、大きく吐き出される。
「……っ、は……」
さっきまでの、掻きむしるような浅さが、少しだけ緩む。
胸の上下が、落ち着く。
唸りも、弱くなる。
「……ぅ……」
完全には消えない。
だが、さっきよりは明らかに穏やかだ。
マリアは、そのまま動かない。
掌を当てたまま。
目を細めて、変化を見ている。
「……ある程度進行を遅らせました。とはいえ、根本的な治療ではありません。皆さん、別に同室にいて感染する様な病ではありませんので、ご安心ください」
その時だった。
公子の身体が、かすかに揺れた。
さっきまでの激しい痙攣ではない。
もっと弱い、だが意思のある動き。
「……ぅ……」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
唸りとは違う。
言葉に近い音。
秀則が、はっと顔を上げた。
「母上……?」
次の瞬間。
公子の指が、畳を掴んだ。
ぎ、と爪が引っかかる。
震える腕に、力が入る。
上半身が、ゆっくりと持ち上がる。
「っ、無理をなさらないでください!」
秀則が慌てて手を差し出す。
支えるように、背中に腕を回す。
触れるのを躊躇っていた手が、今は迷わない。
公子の身体は熱い。
異様なほどに。
だが、確かに“自分で動いている”。
「……は、ぁ……」
荒い呼吸。
だが、さっきよりも“繋がっている”。
公子は、ゆっくりと顔を上げた。
赤い瞳。
だが——ほんのわずかに、焦点が戻り始めている。
揺れながらも、目の前の存在を捉えようとしている。
「……秀則……?」
かすれた声。
名前。
秀則の顔が、歪む。
「母上……! 大丈夫ですか!」
公子は、わずかに笑った。
弱い。
だが、いつもの笑い方だった。
「ごめんね……心配、かけちゃって……」
息を吐くたびに、言葉が途切れる。
それでも、無理やり繋げる。
母親の声。
秀則は言葉を失った。
喉が詰まる。
「……いいえ、そんな……!」
返す言葉が、揺れる。
公子は、ゆっくりと視線を下げた。
自分の手。
震えている。
それを見て、ほんの一瞬だけ目を細める。
そして——
「……秀則」
呼ぶ。
さっきより、少しだけはっきりと。
「……はい」
「薬箱……持ってきてくれる?」
静かな声。
いつもの調子に近づけようとしているのが分かる。
秀則は一瞬だけ固まった。
だが、すぐに頷く。
「……分かりました!」
立ち上がる。
ほとんど走るように、居間を出る。
足音が廊下へ消えていく。
誠は、その背中を見送った。
そして、公子へ視線を戻す。
まだ、赤い目。
呼吸も不安定。
だが——さっきの“それ”とは違う。
理性が、ある。
戻ろうとしている。
数秒。
やけに長く感じる時間。
やがて、足音が戻ってくる。
障子が開く。
「母上!」
秀則が戻ってくる。
手には、小さな木箱。
使い込まれた薬箱。
畳の上に膝をつき、すぐに差し出す。
「こちらです!」
公子は、震える手でそれを受け取った。
指先が、うまく動かない。
秀則が、そっと支える。
蓋が開く。
中には、いくつかの薬瓶。
包み紙。
古びた、だが整えられた中身。
公子の手が、その中から一つを選ぶ。
小さな、ガラスの瓶。
微かに濁った液体で満たされたそれは、わずかに光を反射する。
公子はそれを見て——
ほんの少しだけ、安堵の息を吐いた。
「……これ」
瓶を持つ手は、まだ震えている。
だが、その動きには迷いがない。
「これさえ飲めば……大丈夫だから」
公子が小瓶の蓋に指をかけた、その瞬間だった。
「──お待ちなさい」
声は低く、短い。
止めるというより、奪うための声だった。
マリアの手が滑り込む。
公子の指先から小瓶を引き剥がすように取り上げ、反射で一歩引いた。
「え……?」
秀則が目を見開く。
「何を──」
公子が言いかけたが、マリアは答えない。
小瓶を、まじまじと見る。
月明かりと、621の機器の白光にかざして。
角度を変え、揺らし、液の粘りと沈殿の具合を確かめる。
ラベルの端。
印字。
封緘の癖。
キャップの溝に残った、微かな乾き。
ほんの数秒。
だが、空気が固まるには十分だった。
マリアの表情から、さっきの「安心させる」温度が抜け落ちていく。
目だけが、冷えていく。
「……これを」
マリアは小瓶を指先で回しながら、ゆっくりと言った。
「どこで手に入れましたか?」
公子は一瞬、ぽかんとした。
それから、苦しそうに息を吐いて、弱く笑う。
「そんなに怖い顔しなくても……ただの薬よ」
咳がひとつ。
胸の奥を掻くような音。
秀則が背中を支えると、公子は首を振って大丈夫だと示した。
「数日前ね……無料で配られた試供品」
マリアの眉が、わずかに動く。
「試供品……?」
「ええ。ここ数日、外がああだったでしょう? 皆、不安で……」
公子は息を整えながら続ける。
「だから、体調を崩さないようにって。『熱に効く』って言ってたわ」
マリアは、小瓶から目を離さない。
指先の力が、微かに強くなる。
「誰が配っていたのです?」
公子は少し思い出すように視線を泳がせた。
赤い目の奥で、焦点が揺れる。
それでも、言葉は出る。
「女医さんよ」
秀則が眉を寄せる。
「……女医?」
「ええ。穏やかな笑顔が印象的な人でね」
公子は、何かを安心材料にするみたいに、わざと柔らかく言う。
「わざわざ家を訪ねてきて、配ってたの。『今は病院も混乱しているから、せめてこれで』って」
マリアの視線が、すっと上がる。
公子の顔に向けられる。
だが、その目は優しくない。
確認する目。
「その女医の特徴を、もう少し」
「外国の方で、……髪は……金……いえ、貴方みたいな銀色だったかしら。声は落ち着いていて、よく通る声で」
公子の言葉が、かすれる。
呼吸が揺れる。
喉の奥で、また低い音が生まれかける。
その前に。
「──十分です」
マリアが、静かに言った。
そして。
躊躇なく、小瓶を握り込む。
「な──」
秀則が声を上げるより早く。
ぎ、と音がした。
「ないない、しましょうね」
ガラスが軋む。
割れる音は、しない。
代わりに。
マリアの掌から、光が滲んだ。
極地の光のような、眩い白。
冷たいはずなのに、熱を孕んでいる光。
それが、指の隙間から細く漏れる。
「……っ」
誠が、息を呑む。
光は一瞬、強くなった。
次の瞬間。
ぱき、と乾いた音。
小瓶が砕けた。
だが──破片は飛び散らない。
掌の中に留まったまま。
そのまま。
焼けた。
光が、内部から噛み潰すように満ちる。
液体が蒸発する音すらなく。
匂いも、煙も、何も残さず。
ただ、存在だけが消えていく。
数秒。
マリアが、手を開く。
そこにはもう、何もなかった。
破片も、粉も、痕跡すら。
空白だけが、残っている。
静寂。
秀則が、言葉を失っている。
「……今のは」
かすれた声。
だが、マリアはそちらを見ない。
ただ、まっすぐ公子を見る。
「その薬は、飲んではいけません」
断定。
余地がない。
「絶対に、です」
言葉の重さが、居間の空気を押さえつける。
公子が、わずかに息を呑む。
赤い瞳が揺れる。
理性と、別の何かの境界で。
「……どういう、こと……?」
秀則の声は、震えていた。
マリアは、ようやく視線を向ける。
だが、その表情は穏やかではない。
冷静に削ぎ落とされた顔。
「“治す”ためのものではありません」
一拍。
「むしろ、その逆です」
誠の背中に、冷たいものが走る。
外で見た光景。
赤い目。
あの群衆。
すべてが、一瞬で繋がりかける。
マリアは、すぐに話を切り替えた。
「……その女医は」
声が、わずかに低くなる。
「今、どこにいますか」
公子の眉が、わずかに寄る。
苦しさとは別の、思い出す時の表情。
呼吸を整えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……近くよ」
かすれた声。
だが、はっきりとした意思がある。
「この辺りを回ってるって……言ってたわ」
マリアの視線が、わずかに細くなる。
「具体的には?」
公子は一度目を閉じる。
浮かび上がる記憶を掴むように。
「……坂を下りた先の……古い診療所……」
息を吸う。
胸が上下する。
「……今は使われてないって聞いてたけど……そこを拠点にしてるって……」
誠の背筋に、冷たいものが走る。
“拠点”。
その言葉が、あまりにしっくり来てしまう。
公子は、さらに続けた。
「住所……確か……」
指が、畳の上で弱く動く。
なぞるように。
「……三丁目の外れ……突き当たりの……古い木造の建物……」
言い終えた途端、息が乱れる。
咳が漏れそうになるのを、必死に抑える。
秀則が慌てて背中を支える。
「もういいです、母上……!」
公子は、かすかに頷いた。
その様子を、マリアは一切逃さず見ていた。
情報を、組み立てるように。
そして——
「……十分です」
短く言う。
すでに判断は終わっている。
立ち上がる。
動きに迷いがない。
視線が、障子の向こうへ向く。
夜。
静まり返った街。
そこに“何か”がいる。
「マスター」
マリアが、誠に視線を向けた。
さっきまでの緊張とは違う。
決定した者の目。
「野暮用が出来ました」
一拍。
「数時間、留守に致します」
言い終えると同時に、踵を返す。
説明はしない。
許可も求めない。
当然のように、障子へ向かう。
「ちょっ……!」
誠が反射で声を上げる。
だが、マリアは止まらない。
引き戸に手をかける。
そのまま、開ける。
夜の空気が流れ込む。
冷たい。
外の静けさが、そのまま入り込む。
「なるべく早く戻ります、良い子にしていて下さいね」
次の瞬間には、もう外へ出ていた。
足音が、遠ざかる。
早い。
迷いがない。
誠は、一瞬固まる。
頭が追いつかない。
だが。
すぐに、嫌な予感が胸を掴む。
「……待てよ」
呟きが漏れる。
そのまま、体が動く。
「おい!」
誠は立ち上がり秀則と、そして理央に向けて声を上げる。
「紫村、黒野!」
一瞬だけ目が合う。
状況を共有する暇はない。
「ここ、頼んだ!」
言い切る。
それだけで、もう走り出していた。
廊下を抜ける。
引き戸を押し開ける。
外へ。
夜気が、肺に刺さる。
冷たい。
だが、構わない。
目を凝らす。
暗闇の中。
遠くに、かすかに動く影。
マリアだ。
もう、かなり先にいる。
「……っ、待てって!」
誠は、その背を追って駆け出した。
静まり返った夜の中へ。
音のない街へ。
何かが、潜んでいる場所へ。