Fate/You Died.   作:助兵衛

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第60話 ヨセフカの診療所

 夜の住宅街は、音が薄かった。

 

 街灯の光は点々と続くのに、影の方が勝っている。

 

 灰の匂いがするわけでもないのに、空気が乾いていて、喉の奥がざらつく。

 

 その中を、マリアは歩いていた。

 

 走っていない。

 

 だが、迷いがない。

 

 曲がり角の手前で減速し、次の瞬間には角を抜けていく。

 

 “知っている”歩き方だった。

 

「待てって!」

 

 誠は息を切らしながら、路地を飛び出した。

 

 足音がアスファルトに響く。

 

 普段ならうるさいくらいの自分の呼吸が、今夜はやけに遠い。

 

 数十メートル先。

 

 白い影。

 

 マリアの背中に追いつく。

 

「マリア!」

 

 呼びかけると、マリアは足を止めた。

 

 振り返る。

 

 街灯の下に顔が入って、目だけが淡く光る。

 

「……追いかけてきましたか、マスター」

 

 責めるでもなく、驚くでもなく。

 

 当然の結果を確認するような声だった。

 

「当たり前だろ」

 

 誠は膝に手をつきかけて、すぐに姿勢を直した。

 

 追いついたのに、止まったら負けな気がした。

 

「さっきの……薬。女医。あれ、何なんだよ」

 

 言葉が、息の合間に乱れる。

 

「心当たりあんのか。病気も、その女医にも」

 

 マリアは一瞬だけ、誠を見た。

 

 その視線は、値踏みではない。

 

 確認。

 

 どこまで話すべきか、の確認だった。

 

「あります」

 

 短く答える。

 

 それだけで、胸の奥が冷える。

 

 誠は唾を飲んだ。

 

「……誰だよ」

 

 マリアは、街灯の光から半歩だけ外れた。

 

 光が輪郭を薄くし、影が目元を深くする。

 

「“名”は、おそらく──ヨセフカ」

 

 音の少ない夜に、その名前だけが妙に鮮明に落ちた。

 

「ヨセフカ……?」

 

 誠は、聞き返す。

 

 知らない名だ。

 

「偽名でしょうがね。あるいは成り代わった後か……まぁ、瑣末な事です」

 

 だが、マリアの口から出た瞬間に、現実と噛み合わない感じがした。

 

 マリアは歩き出さないまま続ける。

 

「この世界の者ではありません」

 

 一拍。

 

「私が生前にいた“異聞帯”にて、存在していた者です」

 

 誠の眉が寄る。

 

「……って事は、召喚されたサーヴァントって事なのか。まだ会ったことの無い……ランサー?」

 

 誠の言葉を、マリアは一瞬だけ黙って受け止めた。

 

 街灯の光が、二人の間に細く落ちる。

 

 風はない。

 

 だが、空気がわずかに張り詰める。

 

「……いいえ」

 

 マリアは、はっきりと首を振った。

 

「それは、違います」

 

 断言だった。

 

 迷いがない。

 

 誠が眉を寄せる。

 

「違うって……サーヴァントじゃないのか?」

 

 マリアは歩き出す。

 

 だが、先程よりわずかに速度を落とす。

 

 誠が並べる程度に。

 

「ええ。少なくとも、私の知る“ヨセフカ”は、英霊として座に昇る様な存在ではありません」

 

 夜の道に、足音が重なる。

 

 乾いた音。

 

 それだけが、やけに響く。

 

「確かに彼女は、数多の人体実験を行いました」

 

 一拍。

 

「あるいは、本人は“慈善事業”のつもりだったのでしょうが」

 

 言い方に、温度はない。

 

 評価ではない。

 

 事実の羅列。

 

「ですが、それは“伝承”として残る類のものではない」

 

 誠は口を挟む。

 

「でもさ、サーヴァントって別に善人じゃなくてもなるんだろ」

 

「ええ」

 

 マリアは頷く。

 

「善悪は条件ではありません」

 

 足を止めずに続ける。

 

「必要なのは、“記録”と“影響”です。人の歴史に刻まれ、名を残すこと」

 

 視線は前。

 

 暗闇の先。

 

「ヨセフカは、そこに届いていない」

 

 短く、切る。

 

「裏で完結する類の存在です。人知れず行われ、記録も曖昧なまま消える」

 

「私は気紛れに訪れ、流れで殴殺しちゃいましたがね」

 

 誠は、言葉を探す。

 

「じゃあ……なんでここにいるんだよ」

 

 マリアは、ほんの僅かに目を細めた。

 

「それを確かめに行くのです」

 

 答えになっていない。

 

 だが、現時点ではそれが全てだ。

 

 誠は舌打ちを飲み込む。

 

「……ランサーじゃないのか」

 

 マリアは、わずかに首を傾げた。

 

 考える素振り。

 

 だが、すぐに否定する。

 

「結び付きがありません」

 

 はっきりと言い切る。

 

「槍を扱った記録も、戦場での逸話もない。戦闘における象徴性も薄い」

 

 歩きながら、淡々と分析する。

 

「“ランサー”とするには、あまりにも根拠が弱い」

 

 誠は、顔をしかめる。

 

「じゃあ……無理やり当てはめるなら?」

 

 マリアは一拍だけ考えた。

 

 そして。

 

「……キャスターでしょうか、あるいはアサシン」

 

 その言葉だけ、静かに落ちる。

 

「気持ち悪い触手出すんですよ、彼女」

 

 足音が止まる。

 

 十字路。

 

 先に、暗い通りが伸びている。

 

 だが、と続ける。

 

「なんにせよヨセフカには“格”が足りない」

 

 誠は息を呑む。

 

「じゃあ……」

 

 喉が、少し乾く。

 

「やっぱりサーヴァントじゃないって事か」

 

 マリアは、ゆっくりと頷いた。

 

「ええ」

 

 そして、視線を前へ固定する。

 

「少なくとも、“通常の聖杯戦争の枠組み”には収まらない存在です」

 

 その言葉が、重く落ちる。

 

 サーヴァントではない。

 

 だが、明らかに“何か”を成している。

 

 薬を配り、人を変質させる存在。

 

 誠の背筋に、冷たいものが走る。

 

「……それ、余計やばくないか」

 

 マリアは、わずかに笑った。

 

 今度は、ほんの僅かに楽しげな色が混じる。

 

「ええ」

 

 否定しない。

 

「だからこそ、放置出来ないのです」

 

 そのまま、一歩踏み出す。

 

 暗い通りへ。

 

 通りは、次第に細くなっていった。

 

 住宅の密度が、変わる。

 

 新しい家が減り、古い木造が増える。

 

 塀は低く、手入れの行き届いていない庭が、影の中に沈んでいる。

 

 足音だけが、やけに響く。

 

 誠は、無意識に周囲を見回した。

 

 窓。

 

 門扉。

 

 植木。

 

 どれも、静まり返っている。

 

 だが──

 

 人の気配が、ないわけではない。

 

 どこかに潜んでいるような、息を殺した空気。

 

「……ここですね」

 

 マリアが、短く言った。

 

 足が止まる。

 

 誠も、つられて立ち止まった。

 

 視線の先。

 

 通りの突き当たり。

 

 古い建物が、一軒だけ残っている。

 

 他の家と違う。

 

 構えが、違う。

 

 看板は外され、文字の跡だけが黒く残っている。

 

 引き戸の上に、色褪せた板。

 

 ——かつての診療所。

 

「……ここが……」

 

 誠の声が、自然と低くなる。

 

 朽ちかけている。

 

 壁の塗装は剥げ、木材は黒ずみ、雨の跡が縦に走っている。

 

 人が出入りしているようには見えない。

 

 ——外から見れば。

 

 だが。

 

「……灯りが」

 

 誠が呟く。

 

 奥まった部屋の一つ。

 

 わずかに、光が滲んでいる。

 

 暖色ではない。

 

 白い光。

 

 静かに、揺れている。

 

 電灯か。

 

 あるいは──

 

「さて……」

 

 こつ、と。

 

 乾いた音が、夜に落ちた。

 

 戸を、叩いた。

 

 躊躇いのない、一定の強さ。

 

 もう一度。

 

 こつ、こつ。

 

 呼び鈴のような律動。

 

 数秒。

 

 沈黙。

 

 中の気配が、わずかに動いた。

 

 擦る音。

 

 何かを引きずる音。

 

 そして。

 

 止まる。

 

 誠の心臓が、嫌な音を立てる。

 

 次の瞬間。

 

「……はい」

 

 声がした。

 

 女の声。

 

 扉越しに、柔らかく響く。

 

 よく通る声。

 

 静かなのに、はっきりと耳に届く。

 

 誠の背筋が、ぞくりとした。

 

 マリアは、微動だにしない。

 

 ただ、聞いている。

 

「……どなたですか?」

 

 声は穏やかだ。

 

 警戒の色がない。

 

 むしろ、歓迎するような響きすらある。

 

 そして、少し間を置いて。

 

「ああ……よかった」

 

 安堵のような息。

 

「こんな状況で、よくご無事でしたね」

 

 言葉が、滑らかに続く。

 

「……申し訳ありません」

 

 丁寧な声音。

 

「今、診療所の中がいっぱいでして」

 

 誠の眉が、わずかに寄る。

 

 “いっぱい”。

 

 この状況で。

 

 その言い方。

 

「受け入れが難しい状態なのです」

 

 続く声は、変わらず穏やかだ。

 

 だが、その均一さが、逆に不自然だった。

 

「また翌朝にでも、こちらから伺います」

 

 一拍。

 

「お住まいを教えていただけませんか?」

 

 静かに、問いが落ちる。

 

 自然な流れ。

 

 だが。

 

 誠の背中に、冷たいものが走る。

 

 “こちらから伺う”。

 

 何のために。

 

 何を、しに。

 

 横で、マリアは動かない。

 

 引き返す気配もない。

 

 答える様子もない。

 

 ただ、扉を見ている。

 

 そのまま。

 

 ゆっくりと、手を上げた。

 

 戸に、触れる。

 

 指先が、木の感触をなぞる。

 

 そのまま——

 

 止まる。

 

 誠が、息を呑む。

 

「……マリア?」

 

 問いは、届かない。

 

 次の瞬間。

 

 音が、消えた。

 

 一瞬だけ、空気が凪ぐ。

 

 そして。

 

 ——めき。

 

 鈍い、嫌な音。

 

 次の瞬間。

 

 ばき、と。

 

 乾いた破砕音が、夜を引き裂いた。

 

「っ!?」

 

 誠が、目を見開く。

 

 扉が砕けた。

 

 木枠ごと、抉り取られる。

 

 マリアの腕が、そのまま突き抜けている。

 

 躊躇いがない。

 

 遠慮がない。

 

 ただ、一直線に。

 

 “そこにいる”と分かっている場所へ。

 

「な——」

 

 中から、初めて声が揺れた。

 

 先程までの整った声音が、わずかに歪む。

 

 遅い。

 

 その時には、もう。

 

 マリアの手は、掴んでいた。

 

 布越しに、肉を。

 

 首元を。

 

 逃がさない位置。

 

 掴み上げる。

 

 ぐ、と。

 

 引く。

 

 抵抗は、意味をなさない。

 

 軽い。

 

 あまりにも。

 

 そのまま、無理やり引き摺り出す。

 

 扉の残骸が軋む。

 

 そして。

 

 夜の空気の中へ。

 

 女の身体が、引きずり出された。

 

「あぁ、やはり偽物の方でしたか。こんばんは、お嬢さん」

 

 女の靴が、地面を擦った。

 

 体勢を立て直す間もない。

 

 マリアの指が、首根っこからさらに深く回り込み、襟元ごと喉を固定する。

 

 次の瞬間。

 

 ——どん。

 

 鈍い衝撃。

 

 女医の背中が、診療所の外壁に叩きつけられた。

 

 朽ちた板が鳴き、埃がふわりと舞う。

 

「……っ」

 

 息が詰まる音。

 

 笑みが、途切れた。

 

 さっきまでの柔らかな声音は消え、喉の奥で空気だけが擦れる。

 

 マリアは、顔色ひとつ変えない。

 

 押し付けたまま、距離を詰める。

 

 街灯の光が、マリアの頬の影を深くする。

 

「——なぜ、ここにいるのですか」

 

 低い声。

 

 甘さがない。

 

 尋ねるというより、引きずり出す声。

 

「どうやって来た。誰が、連れてきた」

 

 言葉が、短く落ちる。

 

 誠は、数歩遅れて固まった。

 

 咄嗟に止める言葉が見つからない。

 

 手を出す距離でもない。

 

 マリアの力が、あまりにも“当然”に見える。

 

 壁に押さえつけられた女——ヨセフカは、ようやくマリアの顔を真正面から捉えた。

 

 その瞬間。

 

 目の色が変わった。

 

 血の気が引く。

 

 口角が痙攣し、作り笑いが崩れる。

 

「……っ、——」

 

 声にならない息。

 

 喉が締められ、言葉が出ない。

 

 女は反射で身を捩った。

 

 腕を振り、体をよじり、足を踏ん張って逃げようとする。

 

 だが。

 

 マリアの腕は、びくともしない。

 

 押さえるというより、固定している。

 

 逃げ道ごと、潰している。

 

「やめなさい」

 

 マリアの声が、さらに低くなる。

 

 怒鳴らない。

 

 しかし、退路がない。

 

「逃げる前に、答えなさい」

 

 指が、わずかに締まる。

 

 ヨセフカの喉から、短い喘ぎが漏れた。

 

 目が泳ぐ。

 

 唇が震える。

 

 それでも、逃げる。

 

 生き物としての反射で。

 

 だが、マリアは一切譲らない。

 

「……“ここ”は、あなたの世界ではない」

 

 一拍。

 

「それでも現れた理由を言え」

 

 誠の喉が鳴った。

 

「マリア……!」

 

 呼びかけた声は、頼りない。

 

 マリアは視線だけをほんの一瞬、誠に流す。

 

 止めろ、という目ではない。

 

 下がれ、という目でもない。

 

 “見ていろ”という目だった。

 

 そして、すぐにヨセフカへ戻す。

 

「——答えなさい。ヨセフカ」

 

 名前が、刃物みたいに落ちた。

 

 ヨセフカの肩が、びく、と跳ねる。

 

 逃げようとする動きが、ほんの一瞬止まる。

 

 その隙を、マリアは逃さない。

 

 壁へ、さらに押し込む。

 

 木が軋む。

 

「それとも、また殺されたいですかぁ?」

 

 その言葉が落ちた瞬間。

 

 ヨセフカの瞳の奥で、何かが決壊した。

 

 恐怖ではない。

 

 理性の箍が外れる音。

 

「……っ、やめ——」

 

 声にならない。

 

 喉が締まっているのに、彼女は笑おうとした。

 

 歯が鳴る。

 

 そのまま、右手が跳ねるように動いた。

 

 掌を、マリアの胸元へ向ける。

 

 指の間が、不自然に開く。

 

 皮膚が裂けたわけではない。

 

 だが、そこに“隙間”が出来る。

 

 暗い、湿った穴。

 

 次の瞬間。

 

 ぬるり、と。

 

 掌の内側から、黒いものが覗いた。

 

 触手。

 

 軟体生物の腕のようなものが一本、二本、三本。

 

 節がないのに、関節のように曲がる。

 

 先端は指先ほど細く、途中から太く膨らみ、粘り気のある光をまとっている。

 

 夜気の中で、生臭い湿度だけが際立った。

 

「——っ!」

 

 誠が一歩、反射で引いた。

 

 喉の奥が、ぞわりとする。

 

 触手は増える。

 

 掌からだけじゃない。

 

 袖口。

 

 白衣の内側。

 

 まるで布の下から“生えてくる”ように、ぬめりを伴って這い出る。

 

 そして、同時に跳ねた。

 

 狙いはマリア。

 

 喉。

 

 顔。

 

 目。

 

 人間なら、反射で避ける距離。

 

 だが——

 

 マリアは、見ない。

 

 触手に視線を向けることすらしない。

 

 ただ、ヨセフカの首根っこを掴んだまま、壁に押し付けている。

 

 問いの姿勢を崩さない。

 

 まるで、虫が飛んできた程度の扱い。

 

 触手が、マリアの肩に触れた。

 

 次の瞬間だった。

 

 ——しゅ、と。

 

 音がしたのは、誠の錯覚に近い。

 

 触手が“萎れた”。

 

 勢いが消えるのではない。

 

 存在そのものが、支えを失ったみたいに。

 

 ぬめりが乾き、光が剥がれ、黒い皮膜がしぼむ。

 

 触れた部分から、急速に枯れていく。

 

 もう一本が、マリアの頬へ伸びる。

 

 触れる。

 

 同じ。

 

 瞬きの間に、先端が灰のように崩れ、形を保てず落ちた。

 

 残った部分も、追いかけるように萎れ、消える。

 

 消える、というより。

 

 “拒絶されて消される”。

 

 触手は、何度も伸びた。

 

 必死に。

 

 餓えたように。

 

 だが、マリアの肌に触れた瞬間、すべてが同じ結末を迎える。

 

 萎れて。

 

 しぼんで。

 

 跡形もなく、消える。

 

 ヨセフカの顔色が、完全に変わった。

 

 蒼白。

 

 目の白目が大きく見える。

 

「な……っ」

 

「あれから色々とありましてね。私には、彼らを由来とした攻撃は通りません」

 

 喉が、ひくついた。

 

 声にならない息が漏れる。

 

 逃げ場がない。

 

 触れても消える。

 

 力も通らない。

 

 その現実が、ようやく理解に追いついた。

 

「……っ、あ……」

 

 ヨセフカの肩から、力が抜けた。

 

 先程までの抵抗が、嘘のように止まる。

 

 腕がだらりと落ちる。

 

 指先から、もう触手は現れない。

 

 出しても無駄だと、理解した。

 

 視線だけが揺れる。

 

 マリアを見て、逸らして、また戻る。

 

 逃げ道を探す。

 

 だが、ない。

 

 完全に詰んでいる。

 

「……言いなさい」

 

 マリアの声が、落ちる。

 

 同じ高さ。

 

 同じ温度。

 

 だが、さっきよりも深い。

 

 逃げ場を塞いだ後の声。

 

「なぜ、ここにいるのですか」

 

 ヨセフカの唇が、震えた。

 

 笑おうとして、出来ない。

 

 喉が締まっている。

 

 それでも、無理やり空気を通す。

 

「……わ、かりません」

 

 掠れた声。

 

 誠が、思わず眉を寄せる。

 

「……は?」

 

 マリアの指が、わずかに強くなる。

 

 嘘を許さない圧。

 

「誤魔化しは不要です」

 

「ち、違……う……」

 

 ヨセフカの首が、ぎこちなく振られる。

 

 必死に否定する。

 

 恐怖が、そのまま滲む。

 

「本当、に……わからないの……」

 

 呼吸が乱れる。

 

 胸が上下する。

 

 目が、揺れている。

 

「気付いたら……ここに、いたのよ……」

 

 一拍。

 

 誠の背中に、冷たいものが走る。

 

「……気付いたら?」

 

 問い返す。

 

 だが、ヨセフカは頷くしかない。

 

「そう……」

 

 言葉を探すように、息を吸う。

 

「意識が、繋がって……目を開けたら……この町で……」

 

 視線が泳ぐ。

 

 自分でも整理しきれていない。

 

「時間も……繋がってない……前の“私”から、どう来たのか……」

 

 言葉が、途切れる。

 

 嘘の調子ではない。

 

 混乱した者の語り方。

 

 マリアの目が、わずかに細くなる。

 

「……自覚はない、と」

 

「ええ……」

 

 ヨセフカは、小さく頷いた。

 

 喉を押さえられたまま。

 

「呼ばれた覚えも……召喚された記憶も、ない……」

 

 呼吸が、荒い。

 

「ただ……ここに、いたの」

 

 夜の静けさが、重くなる。

 

 誠は、息を呑んだまま動けない。

 

 マリアは、続けた。

 

「では」

 

 声は変わらない。

 

「薬は?」

 

 一拍。

 

「なぜ、配っていたのですか」

 

 ヨセフカの目が、揺れる。

 

 一瞬、迷う。

 

 だが、逃げ場がないことは分かっている。

 

 観念したように、息を吐いた。

 

「……別に……誰かに言われたわけじゃない」

 

 ぽつりと落ちる。

 

「指示も……命令も……何もない」

 

 誠が、眉をひそめる。

 

「じゃあ、なんで——」

 

「……やりたかったから」

 

 被せるように、ヨセフカが言った。

 

 声が、ほんのわずかに変わる。

 

 さっきまでの恐怖とは違う。

 

 別の色。

 

「……続きが、したかったの」

 

 目が、少しだけ定まる。

 

 焦点が合う。

 

「途中だったから」

 

 一拍。

 

「“あの時”の、実験が」

 

 その言葉に、空気が歪む。

 

 誠の喉が鳴る。

 

 マリアの視線が、わずかに冷える。

 

 ヨセフカの声音が、ふっと整った。

 

 さっきまでの掠れも、震えも薄れる。

 

 恐怖が消えたのではない。

 

 “切り替えた”。

 

 そういう冷たさがあった。

 

「……でも、勘違いしないでください」

 

 喉を押さえられたまま、言葉だけが滑らかに出る。

 

「病が広まっていたのは、私が来る前から」

 

 誠の眉が寄る。

 

「……前から?」

 

 ヨセフカは、薄く笑った。

 

 壁に押し付けられているのに、表情だけが“診察室の顔”に戻っていく。

 

「私はそれを——利用しただけです」

 

 誠の背中に、冷たいものが走る。

 

 目が、マリアを見上げる。

 

 逃げない。

 

 逃げられないと知っている目。

 

「薬を配ったのも、誰に言われたわけではありません」

 

 一拍。

 

「その方が、動きやすいと思ったから」

 

 淡々とした声。

 

 そこに罪悪感はない。

 

「人が混乱すれば、観察できる。分布が広がる。反応が取れる」

 

 呼吸が、ゆっくりになる。

 

 観念ではない。

 

 “研究者”の呼吸だった。

 

「だから配った。引っ掻き回して、動きを作った」

 

 マリアは、瞬きひとつしない。

 

 ヨセフカの言葉を、すべて受け取る。

 

 記録するように。

 

 確かめるように。

 

 その沈黙が、答えより重い。

 

 誠は、口を開きかけて——閉じた。

 

 何を言っても遅い気がした。

 

 マリアの目が、ほんのわずかに細くなる。

 

 糸を断つような変化。

 

「……なるほど」

 

 短い。

 

 それで終わりだった。

 

 ヨセフカの眉が、わずかに動く。

 

「……もう、質問は?」

 

 強がりにも聞こえない。

 

 単なる確認。

 

 マリアは、答えない。

 

 代わりに。

 

 ヨセフカの襟を掴む手が、静かに離れた。

 

 誠の心臓が跳ねる。

 

「……マリア?」

 

 次の瞬間。

 

 マリアの掌が、ヨセフカの胸元——心臓のあたりへ、そっと当たった。

 

 押すでもない。

 

 叩くでもない。

 

 ただ、触れる。

 

 それだけで、空気が変わった。

 

 ——白い光。

 

 掌の中心から、極光が滲んだ。

 

 眩いのに、熱を感じない。

 

 冷たいのに、皮膚が痛む。

 

 矛盾した光。

 

 夜の住宅街の影を、無音で削り取っていく。

 

「……っ、ふふ……2度も殺されるとは」

 

 ヨセフカの顔色が愉快そうに歪む。

 

「…… 私も、貴方も、獣の病も! 導管を通り紛れ込んだ、異物に過ぎない!」

 

 布が、まず意味を失った。

 

 白衣の輪郭が薄れ、縫い目がほどける前に消える。

 

「真なる邪悪は、紛れた我らではなく……導管そのものではないか!?」

 

 次いで、皮膚。

 

 燃えるのではない。

 

 灰も出ない。

 

 熱の匂いも、煙もない。

 

「貴女なら分かっているはずでしょう!? 導管は……この……」

 

 ただ、存在が“削除”されていく。

 

 声が途切れた。

 

 喉が、言葉を作る前に消えた。

 

 目が、最後に大きく見開かれる。

 

 その瞳の奥にあったもの——観察者の光も、同じように薄れていく。

 

 数秒。

 

 極光が、ふっと収まった。

 

 マリアが、掌を引く。

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 壁には焦げもない。

 

 地面にも、灰はない。

 

 夜気だけが、もとの温度で流れている。

 

 誠の喉が鳴る。

 

 声が出ない。

 

 足が、勝手に一歩下がる。

 

「……終わりです」

 

 マリアが言った。

 

 いつもの声。

 

 いつもの調子。

 

 ただ、断ち切った後の静けさが、言葉の裏に残っていた。

 

「この診療所も燃やしてしまいましょうか」

 

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