夜の住宅街は、音が薄かった。
街灯の光は点々と続くのに、影の方が勝っている。
灰の匂いがするわけでもないのに、空気が乾いていて、喉の奥がざらつく。
その中を、マリアは歩いていた。
走っていない。
だが、迷いがない。
曲がり角の手前で減速し、次の瞬間には角を抜けていく。
“知っている”歩き方だった。
「待てって!」
誠は息を切らしながら、路地を飛び出した。
足音がアスファルトに響く。
普段ならうるさいくらいの自分の呼吸が、今夜はやけに遠い。
数十メートル先。
白い影。
マリアの背中に追いつく。
「マリア!」
呼びかけると、マリアは足を止めた。
振り返る。
街灯の下に顔が入って、目だけが淡く光る。
「……追いかけてきましたか、マスター」
責めるでもなく、驚くでもなく。
当然の結果を確認するような声だった。
「当たり前だろ」
誠は膝に手をつきかけて、すぐに姿勢を直した。
追いついたのに、止まったら負けな気がした。
「さっきの……薬。女医。あれ、何なんだよ」
言葉が、息の合間に乱れる。
「心当たりあんのか。病気も、その女医にも」
マリアは一瞬だけ、誠を見た。
その視線は、値踏みではない。
確認。
どこまで話すべきか、の確認だった。
「あります」
短く答える。
それだけで、胸の奥が冷える。
誠は唾を飲んだ。
「……誰だよ」
マリアは、街灯の光から半歩だけ外れた。
光が輪郭を薄くし、影が目元を深くする。
「“名”は、おそらく──ヨセフカ」
音の少ない夜に、その名前だけが妙に鮮明に落ちた。
「ヨセフカ……?」
誠は、聞き返す。
知らない名だ。
「偽名でしょうがね。あるいは成り代わった後か……まぁ、瑣末な事です」
だが、マリアの口から出た瞬間に、現実と噛み合わない感じがした。
マリアは歩き出さないまま続ける。
「この世界の者ではありません」
一拍。
「私が生前にいた“異聞帯”にて、存在していた者です」
誠の眉が寄る。
「……って事は、召喚されたサーヴァントって事なのか。まだ会ったことの無い……ランサー?」
誠の言葉を、マリアは一瞬だけ黙って受け止めた。
街灯の光が、二人の間に細く落ちる。
風はない。
だが、空気がわずかに張り詰める。
「……いいえ」
マリアは、はっきりと首を振った。
「それは、違います」
断言だった。
迷いがない。
誠が眉を寄せる。
「違うって……サーヴァントじゃないのか?」
マリアは歩き出す。
だが、先程よりわずかに速度を落とす。
誠が並べる程度に。
「ええ。少なくとも、私の知る“ヨセフカ”は、英霊として座に昇る様な存在ではありません」
夜の道に、足音が重なる。
乾いた音。
それだけが、やけに響く。
「確かに彼女は、数多の人体実験を行いました」
一拍。
「あるいは、本人は“慈善事業”のつもりだったのでしょうが」
言い方に、温度はない。
評価ではない。
事実の羅列。
「ですが、それは“伝承”として残る類のものではない」
誠は口を挟む。
「でもさ、サーヴァントって別に善人じゃなくてもなるんだろ」
「ええ」
マリアは頷く。
「善悪は条件ではありません」
足を止めずに続ける。
「必要なのは、“記録”と“影響”です。人の歴史に刻まれ、名を残すこと」
視線は前。
暗闇の先。
「ヨセフカは、そこに届いていない」
短く、切る。
「裏で完結する類の存在です。人知れず行われ、記録も曖昧なまま消える」
「私は気紛れに訪れ、流れで殴殺しちゃいましたがね」
誠は、言葉を探す。
「じゃあ……なんでここにいるんだよ」
マリアは、ほんの僅かに目を細めた。
「それを確かめに行くのです」
答えになっていない。
だが、現時点ではそれが全てだ。
誠は舌打ちを飲み込む。
「……ランサーじゃないのか」
マリアは、わずかに首を傾げた。
考える素振り。
だが、すぐに否定する。
「結び付きがありません」
はっきりと言い切る。
「槍を扱った記録も、戦場での逸話もない。戦闘における象徴性も薄い」
歩きながら、淡々と分析する。
「“ランサー”とするには、あまりにも根拠が弱い」
誠は、顔をしかめる。
「じゃあ……無理やり当てはめるなら?」
マリアは一拍だけ考えた。
そして。
「……キャスターでしょうか、あるいはアサシン」
その言葉だけ、静かに落ちる。
「気持ち悪い触手出すんですよ、彼女」
足音が止まる。
十字路。
先に、暗い通りが伸びている。
だが、と続ける。
「なんにせよヨセフカには“格”が足りない」
誠は息を呑む。
「じゃあ……」
喉が、少し乾く。
「やっぱりサーヴァントじゃないって事か」
マリアは、ゆっくりと頷いた。
「ええ」
そして、視線を前へ固定する。
「少なくとも、“通常の聖杯戦争の枠組み”には収まらない存在です」
その言葉が、重く落ちる。
サーヴァントではない。
だが、明らかに“何か”を成している。
薬を配り、人を変質させる存在。
誠の背筋に、冷たいものが走る。
「……それ、余計やばくないか」
マリアは、わずかに笑った。
今度は、ほんの僅かに楽しげな色が混じる。
「ええ」
否定しない。
「だからこそ、放置出来ないのです」
そのまま、一歩踏み出す。
暗い通りへ。
通りは、次第に細くなっていった。
住宅の密度が、変わる。
新しい家が減り、古い木造が増える。
塀は低く、手入れの行き届いていない庭が、影の中に沈んでいる。
足音だけが、やけに響く。
誠は、無意識に周囲を見回した。
窓。
門扉。
植木。
どれも、静まり返っている。
だが──
人の気配が、ないわけではない。
どこかに潜んでいるような、息を殺した空気。
「……ここですね」
マリアが、短く言った。
足が止まる。
誠も、つられて立ち止まった。
視線の先。
通りの突き当たり。
古い建物が、一軒だけ残っている。
他の家と違う。
構えが、違う。
看板は外され、文字の跡だけが黒く残っている。
引き戸の上に、色褪せた板。
——かつての診療所。
「……ここが……」
誠の声が、自然と低くなる。
朽ちかけている。
壁の塗装は剥げ、木材は黒ずみ、雨の跡が縦に走っている。
人が出入りしているようには見えない。
——外から見れば。
だが。
「……灯りが」
誠が呟く。
奥まった部屋の一つ。
わずかに、光が滲んでいる。
暖色ではない。
白い光。
静かに、揺れている。
電灯か。
あるいは──
「さて……」
こつ、と。
乾いた音が、夜に落ちた。
戸を、叩いた。
躊躇いのない、一定の強さ。
もう一度。
こつ、こつ。
呼び鈴のような律動。
数秒。
沈黙。
中の気配が、わずかに動いた。
擦る音。
何かを引きずる音。
そして。
止まる。
誠の心臓が、嫌な音を立てる。
次の瞬間。
「……はい」
声がした。
女の声。
扉越しに、柔らかく響く。
よく通る声。
静かなのに、はっきりと耳に届く。
誠の背筋が、ぞくりとした。
マリアは、微動だにしない。
ただ、聞いている。
「……どなたですか?」
声は穏やかだ。
警戒の色がない。
むしろ、歓迎するような響きすらある。
そして、少し間を置いて。
「ああ……よかった」
安堵のような息。
「こんな状況で、よくご無事でしたね」
言葉が、滑らかに続く。
「……申し訳ありません」
丁寧な声音。
「今、診療所の中がいっぱいでして」
誠の眉が、わずかに寄る。
“いっぱい”。
この状況で。
その言い方。
「受け入れが難しい状態なのです」
続く声は、変わらず穏やかだ。
だが、その均一さが、逆に不自然だった。
「また翌朝にでも、こちらから伺います」
一拍。
「お住まいを教えていただけませんか?」
静かに、問いが落ちる。
自然な流れ。
だが。
誠の背中に、冷たいものが走る。
“こちらから伺う”。
何のために。
何を、しに。
横で、マリアは動かない。
引き返す気配もない。
答える様子もない。
ただ、扉を見ている。
そのまま。
ゆっくりと、手を上げた。
戸に、触れる。
指先が、木の感触をなぞる。
そのまま——
止まる。
誠が、息を呑む。
「……マリア?」
問いは、届かない。
次の瞬間。
音が、消えた。
一瞬だけ、空気が凪ぐ。
そして。
——めき。
鈍い、嫌な音。
次の瞬間。
ばき、と。
乾いた破砕音が、夜を引き裂いた。
「っ!?」
誠が、目を見開く。
扉が砕けた。
木枠ごと、抉り取られる。
マリアの腕が、そのまま突き抜けている。
躊躇いがない。
遠慮がない。
ただ、一直線に。
“そこにいる”と分かっている場所へ。
「な——」
中から、初めて声が揺れた。
先程までの整った声音が、わずかに歪む。
遅い。
その時には、もう。
マリアの手は、掴んでいた。
布越しに、肉を。
首元を。
逃がさない位置。
掴み上げる。
ぐ、と。
引く。
抵抗は、意味をなさない。
軽い。
あまりにも。
そのまま、無理やり引き摺り出す。
扉の残骸が軋む。
そして。
夜の空気の中へ。
女の身体が、引きずり出された。
「あぁ、やはり偽物の方でしたか。こんばんは、お嬢さん」
女の靴が、地面を擦った。
体勢を立て直す間もない。
マリアの指が、首根っこからさらに深く回り込み、襟元ごと喉を固定する。
次の瞬間。
——どん。
鈍い衝撃。
女医の背中が、診療所の外壁に叩きつけられた。
朽ちた板が鳴き、埃がふわりと舞う。
「……っ」
息が詰まる音。
笑みが、途切れた。
さっきまでの柔らかな声音は消え、喉の奥で空気だけが擦れる。
マリアは、顔色ひとつ変えない。
押し付けたまま、距離を詰める。
街灯の光が、マリアの頬の影を深くする。
「——なぜ、ここにいるのですか」
低い声。
甘さがない。
尋ねるというより、引きずり出す声。
「どうやって来た。誰が、連れてきた」
言葉が、短く落ちる。
誠は、数歩遅れて固まった。
咄嗟に止める言葉が見つからない。
手を出す距離でもない。
マリアの力が、あまりにも“当然”に見える。
壁に押さえつけられた女——ヨセフカは、ようやくマリアの顔を真正面から捉えた。
その瞬間。
目の色が変わった。
血の気が引く。
口角が痙攣し、作り笑いが崩れる。
「……っ、——」
声にならない息。
喉が締められ、言葉が出ない。
女は反射で身を捩った。
腕を振り、体をよじり、足を踏ん張って逃げようとする。
だが。
マリアの腕は、びくともしない。
押さえるというより、固定している。
逃げ道ごと、潰している。
「やめなさい」
マリアの声が、さらに低くなる。
怒鳴らない。
しかし、退路がない。
「逃げる前に、答えなさい」
指が、わずかに締まる。
ヨセフカの喉から、短い喘ぎが漏れた。
目が泳ぐ。
唇が震える。
それでも、逃げる。
生き物としての反射で。
だが、マリアは一切譲らない。
「……“ここ”は、あなたの世界ではない」
一拍。
「それでも現れた理由を言え」
誠の喉が鳴った。
「マリア……!」
呼びかけた声は、頼りない。
マリアは視線だけをほんの一瞬、誠に流す。
止めろ、という目ではない。
下がれ、という目でもない。
“見ていろ”という目だった。
そして、すぐにヨセフカへ戻す。
「——答えなさい。ヨセフカ」
名前が、刃物みたいに落ちた。
ヨセフカの肩が、びく、と跳ねる。
逃げようとする動きが、ほんの一瞬止まる。
その隙を、マリアは逃さない。
壁へ、さらに押し込む。
木が軋む。
「それとも、また殺されたいですかぁ?」
その言葉が落ちた瞬間。
ヨセフカの瞳の奥で、何かが決壊した。
恐怖ではない。
理性の箍が外れる音。
「……っ、やめ——」
声にならない。
喉が締まっているのに、彼女は笑おうとした。
歯が鳴る。
そのまま、右手が跳ねるように動いた。
掌を、マリアの胸元へ向ける。
指の間が、不自然に開く。
皮膚が裂けたわけではない。
だが、そこに“隙間”が出来る。
暗い、湿った穴。
次の瞬間。
ぬるり、と。
掌の内側から、黒いものが覗いた。
触手。
軟体生物の腕のようなものが一本、二本、三本。
節がないのに、関節のように曲がる。
先端は指先ほど細く、途中から太く膨らみ、粘り気のある光をまとっている。
夜気の中で、生臭い湿度だけが際立った。
「——っ!」
誠が一歩、反射で引いた。
喉の奥が、ぞわりとする。
触手は増える。
掌からだけじゃない。
袖口。
白衣の内側。
まるで布の下から“生えてくる”ように、ぬめりを伴って這い出る。
そして、同時に跳ねた。
狙いはマリア。
喉。
顔。
目。
人間なら、反射で避ける距離。
だが——
マリアは、見ない。
触手に視線を向けることすらしない。
ただ、ヨセフカの首根っこを掴んだまま、壁に押し付けている。
問いの姿勢を崩さない。
まるで、虫が飛んできた程度の扱い。
触手が、マリアの肩に触れた。
次の瞬間だった。
——しゅ、と。
音がしたのは、誠の錯覚に近い。
触手が“萎れた”。
勢いが消えるのではない。
存在そのものが、支えを失ったみたいに。
ぬめりが乾き、光が剥がれ、黒い皮膜がしぼむ。
触れた部分から、急速に枯れていく。
もう一本が、マリアの頬へ伸びる。
触れる。
同じ。
瞬きの間に、先端が灰のように崩れ、形を保てず落ちた。
残った部分も、追いかけるように萎れ、消える。
消える、というより。
“拒絶されて消される”。
触手は、何度も伸びた。
必死に。
餓えたように。
だが、マリアの肌に触れた瞬間、すべてが同じ結末を迎える。
萎れて。
しぼんで。
跡形もなく、消える。
ヨセフカの顔色が、完全に変わった。
蒼白。
目の白目が大きく見える。
「な……っ」
「あれから色々とありましてね。私には、彼らを由来とした攻撃は通りません」
喉が、ひくついた。
声にならない息が漏れる。
逃げ場がない。
触れても消える。
力も通らない。
その現実が、ようやく理解に追いついた。
「……っ、あ……」
ヨセフカの肩から、力が抜けた。
先程までの抵抗が、嘘のように止まる。
腕がだらりと落ちる。
指先から、もう触手は現れない。
出しても無駄だと、理解した。
視線だけが揺れる。
マリアを見て、逸らして、また戻る。
逃げ道を探す。
だが、ない。
完全に詰んでいる。
「……言いなさい」
マリアの声が、落ちる。
同じ高さ。
同じ温度。
だが、さっきよりも深い。
逃げ場を塞いだ後の声。
「なぜ、ここにいるのですか」
ヨセフカの唇が、震えた。
笑おうとして、出来ない。
喉が締まっている。
それでも、無理やり空気を通す。
「……わ、かりません」
掠れた声。
誠が、思わず眉を寄せる。
「……は?」
マリアの指が、わずかに強くなる。
嘘を許さない圧。
「誤魔化しは不要です」
「ち、違……う……」
ヨセフカの首が、ぎこちなく振られる。
必死に否定する。
恐怖が、そのまま滲む。
「本当、に……わからないの……」
呼吸が乱れる。
胸が上下する。
目が、揺れている。
「気付いたら……ここに、いたのよ……」
一拍。
誠の背中に、冷たいものが走る。
「……気付いたら?」
問い返す。
だが、ヨセフカは頷くしかない。
「そう……」
言葉を探すように、息を吸う。
「意識が、繋がって……目を開けたら……この町で……」
視線が泳ぐ。
自分でも整理しきれていない。
「時間も……繋がってない……前の“私”から、どう来たのか……」
言葉が、途切れる。
嘘の調子ではない。
混乱した者の語り方。
マリアの目が、わずかに細くなる。
「……自覚はない、と」
「ええ……」
ヨセフカは、小さく頷いた。
喉を押さえられたまま。
「呼ばれた覚えも……召喚された記憶も、ない……」
呼吸が、荒い。
「ただ……ここに、いたの」
夜の静けさが、重くなる。
誠は、息を呑んだまま動けない。
マリアは、続けた。
「では」
声は変わらない。
「薬は?」
一拍。
「なぜ、配っていたのですか」
ヨセフカの目が、揺れる。
一瞬、迷う。
だが、逃げ場がないことは分かっている。
観念したように、息を吐いた。
「……別に……誰かに言われたわけじゃない」
ぽつりと落ちる。
「指示も……命令も……何もない」
誠が、眉をひそめる。
「じゃあ、なんで——」
「……やりたかったから」
被せるように、ヨセフカが言った。
声が、ほんのわずかに変わる。
さっきまでの恐怖とは違う。
別の色。
「……続きが、したかったの」
目が、少しだけ定まる。
焦点が合う。
「途中だったから」
一拍。
「“あの時”の、実験が」
その言葉に、空気が歪む。
誠の喉が鳴る。
マリアの視線が、わずかに冷える。
ヨセフカの声音が、ふっと整った。
さっきまでの掠れも、震えも薄れる。
恐怖が消えたのではない。
“切り替えた”。
そういう冷たさがあった。
「……でも、勘違いしないでください」
喉を押さえられたまま、言葉だけが滑らかに出る。
「病が広まっていたのは、私が来る前から」
誠の眉が寄る。
「……前から?」
ヨセフカは、薄く笑った。
壁に押し付けられているのに、表情だけが“診察室の顔”に戻っていく。
「私はそれを——利用しただけです」
誠の背中に、冷たいものが走る。
目が、マリアを見上げる。
逃げない。
逃げられないと知っている目。
「薬を配ったのも、誰に言われたわけではありません」
一拍。
「その方が、動きやすいと思ったから」
淡々とした声。
そこに罪悪感はない。
「人が混乱すれば、観察できる。分布が広がる。反応が取れる」
呼吸が、ゆっくりになる。
観念ではない。
“研究者”の呼吸だった。
「だから配った。引っ掻き回して、動きを作った」
マリアは、瞬きひとつしない。
ヨセフカの言葉を、すべて受け取る。
記録するように。
確かめるように。
その沈黙が、答えより重い。
誠は、口を開きかけて——閉じた。
何を言っても遅い気がした。
マリアの目が、ほんのわずかに細くなる。
糸を断つような変化。
「……なるほど」
短い。
それで終わりだった。
ヨセフカの眉が、わずかに動く。
「……もう、質問は?」
強がりにも聞こえない。
単なる確認。
マリアは、答えない。
代わりに。
ヨセフカの襟を掴む手が、静かに離れた。
誠の心臓が跳ねる。
「……マリア?」
次の瞬間。
マリアの掌が、ヨセフカの胸元——心臓のあたりへ、そっと当たった。
押すでもない。
叩くでもない。
ただ、触れる。
それだけで、空気が変わった。
——白い光。
掌の中心から、極光が滲んだ。
眩いのに、熱を感じない。
冷たいのに、皮膚が痛む。
矛盾した光。
夜の住宅街の影を、無音で削り取っていく。
「……っ、ふふ……2度も殺されるとは」
ヨセフカの顔色が愉快そうに歪む。
「…… 私も、貴方も、獣の病も! 導管を通り紛れ込んだ、異物に過ぎない!」
布が、まず意味を失った。
白衣の輪郭が薄れ、縫い目がほどける前に消える。
「真なる邪悪は、紛れた我らではなく……導管そのものではないか!?」
次いで、皮膚。
燃えるのではない。
灰も出ない。
熱の匂いも、煙もない。
「貴女なら分かっているはずでしょう!? 導管は……この……」
ただ、存在が“削除”されていく。
声が途切れた。
喉が、言葉を作る前に消えた。
目が、最後に大きく見開かれる。
その瞳の奥にあったもの——観察者の光も、同じように薄れていく。
数秒。
極光が、ふっと収まった。
マリアが、掌を引く。
そこには、誰もいなかった。
壁には焦げもない。
地面にも、灰はない。
夜気だけが、もとの温度で流れている。
誠の喉が鳴る。
声が出ない。
足が、勝手に一歩下がる。
「……終わりです」
マリアが言った。
いつもの声。
いつもの調子。
ただ、断ち切った後の静けさが、言葉の裏に残っていた。
「この診療所も燃やしてしまいましょうか」