誠の背中が、障子の向こうに吸い込まれていく。
夜気が一瞬だけ居間に入り込み、畳の匂いに冷たさを混ぜた。
「ここ、頼んだ!」
言い捨てるような声。
返事をする間もない。
足音が廊下を走り、引き戸が鳴り、外へ出る気配が遠ざかる。
紫村秀則は、その一連を目で追ったまま動けなかった。
頼んだ。
その言葉だけが、胸の奥に残る。
頼まれたのは、この場だ。
母だ。
そして——何も分からないまま、置いていかれた現実。
秀則は唇を噛んで、視線を戻した。
畳の上。
公子はまだ上体を起こしている。
赤い瞳。
あれほどの獣じみた色が、完全には消えていない。
だが、呼吸はさっきよりまともだった。
喉の奥で鳴っていた唸りも、薄い。
秀則は、ゆっくりと息を吐いた。
視線を落とす。
公子の呼吸はまだ浅い。
だが、さっきのような乱れ方ではない。
今なら——動かせる。
「……さ、ここでは風邪をひいてしまいますぞ」
独り言のように呟く。
誰に言うでもない。
だが、言葉にしないと踏み切れなかった。
手を差し入れる。
背中と、膝裏。
持ち上げる。
軽い。
体温だけが異様に重い。
「……っ」
熱が、腕にまとわりつく。
皮膚の奥まで染み込むような熱。
それでも、落とすわけにはいかない。
秀則は歯を食いしばり、そのまま立ち上がった。
視界が、わずかに揺れる。
廊下へ出た、床板が鳴る。
寝室の襖に肩を当てる。
片手で支えながら、器用に引く。
開く。
暗い。
畳の匂いが、少しだけ濃い。
秀則はそのまま中へ入り、布団へ膝をついた。
ゆっくりと、下ろす。
急げば崩れる。
慎重に。
身体の重みを逃がすように、布団へ預ける。
公子の体が、沈む。
熱が、布に移る。
布団の上で、呼吸がわずかに整う。
秀則は、すぐには手を離さなかった。
数秒。
呼吸の間隔を見る。
上下のリズム。
途切れないか。
乱れないか。
やがて——
少しだけ、深くなる。
「……よしよし、もう変な薬なんて飲むんじゃありませんぞ」
秀則はようやく手を離し、布団を整えた。
肩まで掛け、首元を少し開ける。
熱がこもりすぎないように。
秀則はゆっくりと立ち上がり、振り返った。
障子の影。
そこに、621がいる。
音もなく。
最初からそこにいたかのように。
「……621ちゃん」
呼ぶ。
反応は即座。
「なに、ハンドラー」
短い。
一定の声。
「母上の病、これはどの様な病なのか分かりますか?」
「——不明」
答えは、短かった。
秀則の眉が寄る。
「不明……?」
「既知の感染症データと一致なし」
淡々と続く。
「症状は複合的。発熱、神経興奮、意識障害、身体機能の異常増幅」
一拍。
「加えて、非生体的反応を確認」
秀則の背中に、冷たいものが走る。
「……非生体的? とは」
「通常の生理現象では説明不能」
機器の光が、また一度瞬く。
「外部要因の介入、または未知の因子による変質と推定」
推定。
確定ではない。
それが逆に、重い。
「つまり……わからない」
秀則は歯を噛み締めた。
迷いは残っている。
だが、立ち止まってはいられない。
「……621ちゃん」
声を落とす。
「ここを頼めますか」
「うん、わかった」
即答。
それだけで、任せられると分かる。
「変化があれば、すぐに」
「了解」
短い。
それで十分だった。
秀則はもう一度だけ、布団を見た。
公子の顔。
汗が滲んでいる。
苦しそうではない。
だが、安らかでもない。
その中間。
曖昧な状態。
それが、逆に不安を強くする。
何も分からないまま、進行している。
そんな感覚。
秀則は視線を切った。
ここにいれば、動けなくなる。
分かっていた。
だから、離れる。
踵を返し、障子へ向かう。
音を立てないように、そっと開ける。
廊下の空気が、少し冷たい。
部屋の熱と、明確に違う。
その境界を、一歩で越える。
障子を閉める。
静かに。
完全に。
呼吸の音が、向こう側へ閉じ込められる。
——一人になる。
いや。
違う。
すぐそこに、気配があった。
廊下の奥。
足音はない。
だが、何かが動いている。
視線を向ける。
影が、滑るように動いた。
柱の影から、次の影へ。
床。
壁。
障子。
視線をなぞるように、丁寧に。
まるで、見落としを許さない調査員のように。
「……黒野女史?」
影が、止まる。
ゆっくりと振り返る。
黒野理央が、そこにいた。
手を、壁に触れたまま。
指先で、何かを確かめるように。
「……お母様は大丈夫?」
静かな、心の底から安否を心配する声。
「ええ、今は眠っております」
短く答える。
理央の視線が、ほんの一瞬だけ寝室の障子へ向く。
すぐに戻る。
表情は変わらない。
だが、僅かに力が抜けたように見えた。
「……そう」
秀則は、理央の手元へ目を向けた。
壁。
柱。
床。
先程から、家の中を一巡している気配があった。
「先程から……何を?」
問い。
率直に。
理央は、手を離した。
指先を軽く振る。
何も付いていないことを確かめるように。
「念のため、ね」
簡潔に言う。
「魔術的な痕跡が残っていないか、確認していたの」
視線が、廊下の先へ流れる。
見終えた場所を、もう一度なぞるように。
「お母様の病が呪いの類、つまり誰かからの攻撃なら痕跡が残っているかもと思って」
秀則は、わずかに息を詰めた。
「……ありましたか」
理央は、首を横に振る。
「いいえ」
即答。
「何も」
一拍。
その言葉が、静かに落ちる。
「出自がなんであれ、あれは病としての形をとっているみたいね」
廊下の空気が、重くなる。
何も動かない。
何も起きない。
それが、逆に張り詰めていく。
外も、静かだ。
虫の音もない。
風もない。
時間が、止まったみたいに。
秀則は、無意識に息を浅くしていた。
音を立ててはいけない気がした。
何かを刺激してしまうような、そんな感覚。
理央も、動かない。
視線だけが、ゆっくりと巡る。
壁。
柱。
天井。
床。
何もないことを、何度も確かめるように。
そして。
——こつ。
音がした。
小さい。
遠慮がちな音。
秀則の肩が、わずかに跳ねる。
理央の視線が、一瞬で玄関の方へ向いた。
次の音。
——こつ。
一定の間隔。
強くもない。
弱すぎもしない。
呼びかけるような、叩き方。
戸。
玄関の引き戸が、叩かれている。
秀則の喉が、ひくりと鳴った。
この時間に。
この状況で。
訪ねてくる者。
思考が、一瞬だけ止まる。
だが、音は続く。
——こつ。
——こつ。
律動。
焦りもない。
乱れもない。
むしろ、妙に丁寧な間隔。
まるで、作法を守っているような。
理央の目が、細くなる。
足音はない。
だが、空気が変わる。
警戒。
そのものが形になったような気配。
秀則は、唇を引き結んだ。
玄関へ視線を向けたまま、動けない。
行くべきか。
待つべきか。
判断が、遅れる。
その間にも。
——こつ。
——こつ。
叩く音は、変わらない。
一定。
まるで、相手の反応を待っている。
逃げるでもなく。
急かすでもなく。
ただ、そこにいる。
やがて。
声が、した。
「……夜分遅くにすまぬ、何方かいないだろうか」
幼い声だった。
高い。
まだ声変わりもしていないような。
少年の声。
はっきりとした発音。
だが、どこか遠慮がちで。
家の中へ入り込もうとする強さはない。
「こちらで物音がしたので伺った。怪しい者では……いや、怪しいが……うむ、悪意ある者ではない」
一拍。
静かに続く。
言葉が、揃っている。
礼儀正しい。
だからこそ。
余計に、異質だった。
この状況で。
この時間で。
その声色。
秀則の背中に、冷たいものが這う。
理央が、わずかに手を上げた。
制止の合図。
動くな。
音を立てるな。
その意味が、言葉より先に伝わる。
秀則は、息を止めた。
玄関の向こう。
見えない位置に、“何か”がいる。
少年の声をした、何か。
——こつ。
再び、戸が叩かれる。
同じ強さ。
同じ間隔。
崩れない。
まるで、ずっと続けられるような律動。
「……気のせいであったか」
秀則は、手を伸ばす。
引き戸に触れる。
冷たい。
外気の温度が、そのまま伝わる。
指先に、力を込める。
引く。
——す、と。
戸が、音もなく開いた。
夜気が、流れ込む。
外の空気は、やはり乾いている。
その中に人影が、あった。
玄関先。
一歩引いた位置に、静かに立っている。
「おぉ……!」
少年だった。
年は、十にも満たないか。
あるいは、それより少し上。
背は高くなく。線が細い。
だが、その立ち方に揺らぎがない。
服装は着物。
黒とも紺ともつかない、落ち着いた色。
柄はなく。
帯も、簡素。
だが、どこか古い。
今の時代のものではない布の質感。
足元は草履。
素足が、夜気に触れているのに、寒さを感じている様子がない。
髪は、肩にかかる程度。
整っている。
だが、作り込まれてはいない。
自然に落ちた形。
少年とも、少女とも取れる中性的な顔立ち。
輪郭は柔らかい。
目は大きく、秀則を見上げて更に見開かれている。
まるで、人形のように均整が取れていた。
そして——
古い。
その場に立っているだけで、空気が変わる。
時代が、ずれている。
そんな違和感。
まるで、時代劇からそのまま抜け出してきたような。
周囲の住宅街と、まったく噛み合っていない。
なのに。
そこに“在る”。
不自然なまでに自然に。
少年は、秀則を見た。
視線が、合う。
夜気の中で、その目だけがやけに澄んで見えた。
濁りがない。
子供のもののようでいて、そうではない。
底が、見えない。
少年は、ゆっくりと瞬きをした。
その仕草ひとつが、妙に整っている。
そして。
ほんの僅かに、安堵したように息を吐いた。
次いで。
す、と。
姿勢を正した。
背筋が、伸びる。
自然な動き。
そのまま、深く頭を下げた。
「夜分遅くに、失礼した」
一礼。
静かに、顔を上げる。
「私は、九郎と申す」
名が、落ちる。
簡潔に。
だが、はっきりと。
「葦名家臣、平田家に養われし身」
秀則の眉が、わずかに寄った。
理央の気配が、背後で僅かに強まる。
警戒が、深くなる。
九郎は、そのまま続けた。
「……しかしながら」
言葉を選ぶように、ほんの僅かに視線が揺れる。
初めて見せる、“迷い”の兆し。
「ここが何処か、見当もつかぬ」
率直だった。
取り繕いがない。
だが、それが逆に真実味を帯びる。
秀則は、わずかに目を細めた。
「見当が……ええとつまり、迷子ということですかな」
問い返す。
確認。
九郎は、頷いた。
「う、うむ。迷子……に相違ない」
九郎は恥ずかしそうに頷く。
「気付けば、このような場所におった」
周囲へ、ほんの少しだけ視線を流す。
住宅。
電灯。
舗装された道。
そのすべてを、確かめるように。
「見たこともない建物、灯り、道」
一拍。
「ここが、何処なのか」
言葉が、途切れる。
分からない。
その事実だけを、受け入れている声音。
恐怖はない。
混乱も、薄い。
ただ、事実として認識している。
「ゆえに」
視線が、秀則へ戻る。
まっすぐ。
逃げない。
「頼れる者を探していた」
そのまま、静かに言葉を継ぐ。
「だが、どこも人の気配が薄い」
一拍。
「この辺りは、妙に静まり返っておる」
秀則の背中に、冷たいものが走る。
同じことを、感じている。
九郎は、続ける。
「その中で」
ほんの僅かに、玄関の内側へ視線を向ける。
廊下。
奥。
気配。
「ここから、物音がしたので伺った次第」
説明は、終わった。
簡潔に。
無駄がない。
そして——
嘘を言っている様子が、ない。
秀則は、しばらく何も言わなかった。
考える。
目の前の存在を。
言葉を、状況を結びつける。
分かることは、少ない。
だが、一つだけ確かなのは。
この少年もまた——
“普通ではない”。
「九郎……君?」
声を整える。
平静に。
「事情は理解しました」
完全ではない。
だが、表に出す必要はない。
「しかしながら、今この家も安穏とは言えぬ状況にございます」
一拍。
言葉を選ぶ。
「それでもよろしければ……少しばかり、事情を伺わせていただけますかな」
九郎は、すぐに答えた。
「構わぬ」
迷いがない。
その一言だけで、足りる。
そして。
わずかに、頭を下げた。
「むしろ、助かる」
秀則は、玄関の敷居の内側へ半歩退いた。
「……では。夜風は冷えます、こちらへ」
九郎は、わずかに逡巡した。
逡巡というより、礼を欠かぬための間。
それから、深く頭を下げる。
「かたじけない」
敷居を跨ぐ足が、音を立てない。
草履が畳に触れる瞬間、布の擦れる気配だけがした。
理央が、玄関脇の影から静かに一歩出る。
九郎の背後へ回るでもなく、正面に立ち塞がるでもなく。
ただ、距離を測る位置。
九郎は、その存在を見た。
視線が、ほんの一瞬だけ止まる。
だが、何も言わない。
秀則は引き戸を閉める。
外の乾いた夜気が、薄く遮断される。
家の中の匂い——畳と、木と、微かな薬臭さが戻ってくる。
「こちらです」
秀則が先を歩く。
九郎は、遅れず付いてくる。
廊下。
薄い灯り。
その一つ一つに、九郎の視線が吸い寄せられる。
天井の照明。
スイッチの位置。
壁のコンセント。
廊下の端に置かれた掃除機。
そして、居間から漏れるテレビの待機灯。
光が、一定だ。
揺れない。
火の揺らぎではない“白さ”。
九郎の歩みが、ほんの僅かに遅くなる。
目が、追う。
ただ見るだけではない。
形と仕組みを、理解しようとする目。
「……これは」
呟きが漏れた。
問いではない。
感想にも似た、確認の声。
秀則は、返さない。
返せない。
説明を一度始めれば、朝まで質問攻めとなってしまうだろう。
居間へ。
襖を開ける。
畳の部屋の中央に、卓。
急いで片付けた形跡がまだ残っている。
湯呑みが一つ、端に寄ったままだ。
「ここで……」
秀則が言いかけたとき。
九郎は、居間に入った瞬間に立ち止まった。
目が、ひとつの物に釘付けになる。
壁際の電子レンジ。
その黒い面。
反射した自分の顔が、薄く揺れる。
次に、冷蔵庫。
白い箱。
上に貼られたメモ。
磁石。
文字が読めるのに、意味が追いつかないという顔。
そして、エアコンのリモコン。
小さな器具に、機能が詰まりすぎている。
九郎は息を飲んだ。
だが、騒がない。
声を荒げない。
驚きを“内側へ押し込む”癖が身に付いている。
秀則は、畳に座るように手で示した。
「……とりあえず、こちらへ。座ってくだされ」
九郎は、示された通りに座る。
正座。
迷いがない。
所作が、あまりにも古い。
理央は、居間の入口に立ったまま動かない。
腕は組まない。
ただ、目だけが九郎を離さない。
秀則は、九郎と向かい合って腰を下ろした。
膝の上で手を組む。
自分の呼吸が、やけにうるさい。
九郎の呼吸は、静かだ。
この異物感。
その上で、ここ最近起きたことを思い返す。
蔓延した病、災厄の数々。
異界と化した生まれ故郷。
聖杯戦争。
そして——目の前の少年。
着物。
言葉遣い。
名乗り。
秀則は、ようやく口を開いた。
「九郎君」
九郎が、顔を上げる。
「あなたの言葉……そして、その風貌」
一拍。
言葉の選び方を誤れば、崩れる。
だから、慎重に。
「……自分の推測に過ぎませんが」
推測だと、先に断る。
自分に言い聞かせるために。
「あなたは、戦国の世——その頃から、ここへ来たのではありませんか」
驚いた顔はしない。
否定も、笑い飛ばしもしない。
ただ、目を伏せる。
自分の記憶を確かめるように。
畳の目を見つめるように。
「……私は」
声が、少しだけ低くなる。
子供の声のまま。
だが、言葉の重さだけが増す。
「戦国、と呼ぶのかは分からぬ」
一拍。
「されど……そなたの言う通りであろう」
九郎は、顔を上げた。
その目に、迷いはない。
不安が、形になる。
理央が、静かに言う。
「……どうやって、ここへ?」
九郎は、理央の方を見る。
視線を向けるだけで、答える相手を選ぶ。
「分からぬ」
その返答は、今夜何度目かの“不明”だった。
だが、九郎の“分からぬ”は、誤魔化しではない。
「気付けば、ここにおった」
秀則は、息を吐く。
吐いた息が、畳に吸われる。
「……そうですか」
言うしかない。
理解するしかない。
その上で——守らねばならないものがある。
秀則は、寝室の方角を一瞬だけ見た。
障子の向こう。
眠っている母。
九郎は、その視線を追わない。
秀則は、声を落とした。
「この家にも……病人がいます」
九郎の目が、わずかに細くなる。
初めて見せる、明確な反応。
「病」
言葉を、噛む。
「……この世の病か」
秀則は、答えられない。
だから、答えない。
代わりに、事実だけを言う。
「分かりません」
一拍。
「分からないことが、増え続けています」
九郎は、黙った。
黙って、居間の灯りを見た。
揺れない光。
そして、秀則を見た。
「……頼れる者を探していたが」
「そなたもまた、頼れる者を探しておるのだな」
その時。
——ぎ、……し。
居間の空気を裂くように、どこかで床が軋んだ。
最初は、ただの家鳴りに聞こえた。
古い家なら、夜はよく鳴く。
だが。
次の音が、違った。
——ぐ、……う。
喉の奥を擦るような、湿った呻き。
言葉ではない。
人の声の形をしていない。
秀則の背中が、総毛立つ。
理央が、入口で微かに姿勢を変えた。
九郎の目が、静かに揺れる。
「……今のは」
九郎が言いかけたところで—
——がたん。
寝室の方から、布団が跳ねるような音がした。
続けて、獣のような唸り。
低く、長く。
喉が裂ける寸前で押し留めたような音。
秀則は、考える前に立ち上がっていた。
「母上……!」
畳を蹴る音が、自分でも分かった。
廊下へ出る。
冷たい。
さっきより冷たい。
それが、余計に焦りを煽る。
寝室の障子。
閉じたはずの境界。
そこから、熱が漏れている気がした。
熱だけじゃない。
獣臭い何か。
血の気の混じった息。
「621ちゃん!」
呼ぶ声が、喉で割れた。
返事は、すぐに来ない。
その不在が、心臓を握る。
秀則は、障子に手をかけた。
ためらいは一瞬。
開ける。
——す、と。
音もなく開いたはずなのに、空気が跳ねた。
室内の熱が、廊下へ流れ込む。
布団の上。
公子が、起き上がりかけていた。
さっきは肩まで掛けて整えた布団が、乱れている。
髪が頬に張り付き、額に汗が滲む。
そして。
目。
爛々と。
血のように、赤く輝いていた。
光っているのではない。
燃えている。
瞳の奥で、何かが燃えている。
「……っ、……ぐうう……」
呻きが、唸りへ変わる。
喉の奥で鳴る音が、獣のそれに近い。
公子の肩が震える。
呼吸が荒い。
息を吸うたびに胸が跳ね、吐くたびに牙を見せるような音が漏れる。
秀則は、足が止まりかけた。
恐怖ではない。
躊躇い。
触れていいのか。
触れた瞬間、何かが移るのではないか。
だが、止まれない。
「母上……! 自分です! 秀則ですぞ!」
呼びかけても、公子の目は合わない。
焦点が、こちらに乗らない。
視線が宙を泳ぎ、天井の一点を睨み続けている。
そこに敵がいるように。
あるいは——敵そのものを“見ている”ように。
公子の喉が、もう一度鳴った。
——ぐるる。
低い。
腹の底から出る音。
人が出す音域ではない。
秀則は、布団の脇へ膝をついた。
距離を詰めるだけで、熱が肌を刺す。
触れる前から、皮膚が痛い。
「落ち着いて……落ち着いてくだされ」
言いながら、自分の声が震えているのが分かる。
公子の指が、布団を掴んだ。
爪が立つ。
畳に擦れる音が、不自然に鋭い。
次の瞬間。
公子の上体が、がくりと前へ倒れかけ——
また跳ねる。
痙攣に近い。
苦しみが体を引き裂いている。
呻きが、途切れず続く。
息が、獣の息になる。
秀則は、思わず手を伸ばした。
肩に触れる。
熱い。
熱いのに、どこか冷たい。
矛盾した体温。
触れた指先が、痺れる。
「……っ」
公子の目が、ぎらりと動いた。
秀則の方を——見た、ように見えた。
だが次の瞬間、瞳孔が揺れて、また別の何かを追う。
人がいるのに、人を見ない目。
秀則の胸が、沈む。