Fate/You Died.   作:助兵衛

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第61話 竜胤の御子

 誠の背中が、障子の向こうに吸い込まれていく。

 

 夜気が一瞬だけ居間に入り込み、畳の匂いに冷たさを混ぜた。

 

「ここ、頼んだ!」

 

 言い捨てるような声。

 

 返事をする間もない。

 

 足音が廊下を走り、引き戸が鳴り、外へ出る気配が遠ざかる。

 

 紫村秀則は、その一連を目で追ったまま動けなかった。

 

 頼んだ。

 

 その言葉だけが、胸の奥に残る。

 

 頼まれたのは、この場だ。

 

 母だ。

 

 そして——何も分からないまま、置いていかれた現実。

 

 秀則は唇を噛んで、視線を戻した。

 

 畳の上。

 

 公子はまだ上体を起こしている。

 

 赤い瞳。

 

 あれほどの獣じみた色が、完全には消えていない。

 

 だが、呼吸はさっきよりまともだった。

 

 喉の奥で鳴っていた唸りも、薄い。

 

 秀則は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 視線を落とす。

 

 公子の呼吸はまだ浅い。

 

 だが、さっきのような乱れ方ではない。

 

 今なら——動かせる。

 

「……さ、ここでは風邪をひいてしまいますぞ」

 

 独り言のように呟く。

 

 誰に言うでもない。

 

 だが、言葉にしないと踏み切れなかった。

 

 手を差し入れる。

 

 背中と、膝裏。

 

 持ち上げる。

 

 軽い。

 

 体温だけが異様に重い。

 

「……っ」

 

 熱が、腕にまとわりつく。

 

 皮膚の奥まで染み込むような熱。

 

 それでも、落とすわけにはいかない。

 

 秀則は歯を食いしばり、そのまま立ち上がった。

 

 視界が、わずかに揺れる。

 

 廊下へ出た、床板が鳴る。

 

 寝室の襖に肩を当てる。

 

 片手で支えながら、器用に引く。

 

 開く。

 

 暗い。

 

 畳の匂いが、少しだけ濃い。

 

 秀則はそのまま中へ入り、布団へ膝をついた。

 

 ゆっくりと、下ろす。

 

 急げば崩れる。

 

 慎重に。

 

 身体の重みを逃がすように、布団へ預ける。

 

 公子の体が、沈む。

 

 熱が、布に移る。

 

 布団の上で、呼吸がわずかに整う。

 

 秀則は、すぐには手を離さなかった。

 

 数秒。

 

 呼吸の間隔を見る。

 

 上下のリズム。

 

 途切れないか。

 

 乱れないか。

 

 やがて——

 

 少しだけ、深くなる。

 

「……よしよし、もう変な薬なんて飲むんじゃありませんぞ」

 

 秀則はようやく手を離し、布団を整えた。

 

 肩まで掛け、首元を少し開ける。

 

 熱がこもりすぎないように。

 

 秀則はゆっくりと立ち上がり、振り返った。

 

 障子の影。

 

 そこに、621がいる。

 

 音もなく。

 

 最初からそこにいたかのように。

 

「……621ちゃん」

 

 呼ぶ。

 

 反応は即座。

 

「なに、ハンドラー」

 

 短い。

 

 一定の声。

 

「母上の病、これはどの様な病なのか分かりますか?」

 

「——不明」

 

 答えは、短かった。

 

 秀則の眉が寄る。

 

「不明……?」

 

「既知の感染症データと一致なし」

 

 淡々と続く。

 

「症状は複合的。発熱、神経興奮、意識障害、身体機能の異常増幅」

 

 一拍。

 

「加えて、非生体的反応を確認」

 

 秀則の背中に、冷たいものが走る。

 

「……非生体的? とは」

 

「通常の生理現象では説明不能」

 

 機器の光が、また一度瞬く。

 

「外部要因の介入、または未知の因子による変質と推定」

 

 推定。

 

 確定ではない。

 

 それが逆に、重い。

 

「つまり……わからない」

 

 秀則は歯を噛み締めた。

 

 迷いは残っている。

 

 だが、立ち止まってはいられない。

 

「……621ちゃん」

 

 声を落とす。

 

「ここを頼めますか」

 

「うん、わかった」

 

 即答。

 

 それだけで、任せられると分かる。

 

「変化があれば、すぐに」

 

「了解」

 

 短い。

 

 それで十分だった。

 

 秀則はもう一度だけ、布団を見た。

 

 公子の顔。

 

 汗が滲んでいる。

 

 苦しそうではない。

 

 だが、安らかでもない。

 

 その中間。

 

 曖昧な状態。

 

 それが、逆に不安を強くする。

 

 何も分からないまま、進行している。

 

 そんな感覚。

 

 秀則は視線を切った。

 

 ここにいれば、動けなくなる。

 

 分かっていた。

 

 だから、離れる。

 

 踵を返し、障子へ向かう。

 

 音を立てないように、そっと開ける。

 

 廊下の空気が、少し冷たい。

 

 部屋の熱と、明確に違う。

 

 その境界を、一歩で越える。

 

 障子を閉める。

 

 静かに。

 

 完全に。

 

 呼吸の音が、向こう側へ閉じ込められる。

 

 ——一人になる。

 

 いや。

 

 違う。

 

 すぐそこに、気配があった。

 

 廊下の奥。

 

 足音はない。

 

 だが、何かが動いている。

 

 視線を向ける。

 

 影が、滑るように動いた。

 

 柱の影から、次の影へ。

 

 床。

 

 壁。

 

 障子。

 

 視線をなぞるように、丁寧に。

 

 まるで、見落としを許さない調査員のように。

 

「……黒野女史?」

 

 影が、止まる。

 

 ゆっくりと振り返る。

 

 黒野理央が、そこにいた。

 

 手を、壁に触れたまま。

 

 指先で、何かを確かめるように。

 

「……お母様は大丈夫?」

 

 静かな、心の底から安否を心配する声。

 

「ええ、今は眠っております」

 

 短く答える。

 

 理央の視線が、ほんの一瞬だけ寝室の障子へ向く。

 

 すぐに戻る。

 

 表情は変わらない。

 

 だが、僅かに力が抜けたように見えた。

 

「……そう」

 

 秀則は、理央の手元へ目を向けた。

 

 壁。

 

 柱。

 

 床。

 

 先程から、家の中を一巡している気配があった。

 

「先程から……何を?」

 

 問い。

 

 率直に。

 

 理央は、手を離した。

 

 指先を軽く振る。

 

 何も付いていないことを確かめるように。

 

「念のため、ね」

 

 簡潔に言う。

 

「魔術的な痕跡が残っていないか、確認していたの」

 

 視線が、廊下の先へ流れる。

 

 見終えた場所を、もう一度なぞるように。

 

「お母様の病が呪いの類、つまり誰かからの攻撃なら痕跡が残っているかもと思って」

 

 秀則は、わずかに息を詰めた。

 

「……ありましたか」

 

 理央は、首を横に振る。

 

「いいえ」

 

 即答。

 

「何も」

 

 一拍。

 

 その言葉が、静かに落ちる。

 

「出自がなんであれ、あれは病としての形をとっているみたいね」

 

 廊下の空気が、重くなる。

 

 何も動かない。

 

 何も起きない。

 

 それが、逆に張り詰めていく。

 

 外も、静かだ。

 

 虫の音もない。

 

 風もない。

 

 時間が、止まったみたいに。

 

 秀則は、無意識に息を浅くしていた。

 

 音を立ててはいけない気がした。

 

 何かを刺激してしまうような、そんな感覚。

 

 理央も、動かない。

 

 視線だけが、ゆっくりと巡る。

 

 壁。

 

 柱。

 

 天井。

 

 床。

 

 何もないことを、何度も確かめるように。

 

 そして。

 

 ——こつ。

 

 音がした。

 

 小さい。

 

 遠慮がちな音。

 

 秀則の肩が、わずかに跳ねる。

 

 理央の視線が、一瞬で玄関の方へ向いた。

 

 次の音。

 

 ——こつ。

 

 一定の間隔。

 

 強くもない。

 

 弱すぎもしない。

 

 呼びかけるような、叩き方。

 

 戸。

 

 玄関の引き戸が、叩かれている。

 

 秀則の喉が、ひくりと鳴った。

 

 この時間に。

 

 この状況で。

 

 訪ねてくる者。

 

 思考が、一瞬だけ止まる。

 

 だが、音は続く。

 

 ——こつ。

 

 ——こつ。

 

 律動。

 

 焦りもない。

 

 乱れもない。

 

 むしろ、妙に丁寧な間隔。

 

 まるで、作法を守っているような。

 

 理央の目が、細くなる。

 

 足音はない。

 

 だが、空気が変わる。

 

 警戒。

 

 そのものが形になったような気配。

 

 秀則は、唇を引き結んだ。

 

 玄関へ視線を向けたまま、動けない。

 

 行くべきか。

 

 待つべきか。

 

 判断が、遅れる。

 

 その間にも。

 

 ——こつ。

 

 ——こつ。

 

 叩く音は、変わらない。

 

 一定。

 

 まるで、相手の反応を待っている。

 

 逃げるでもなく。

 

 急かすでもなく。

 

 ただ、そこにいる。

 

 やがて。

 

 声が、した。

 

「……夜分遅くにすまぬ、何方かいないだろうか」

 

 幼い声だった。

 

 高い。

 

 まだ声変わりもしていないような。

 

 少年の声。

 

 はっきりとした発音。

 

 だが、どこか遠慮がちで。

 

 家の中へ入り込もうとする強さはない。

 

「こちらで物音がしたので伺った。怪しい者では……いや、怪しいが……うむ、悪意ある者ではない」

 

 一拍。

 

 静かに続く。

 

 言葉が、揃っている。

 

 礼儀正しい。

 

 だからこそ。

 

 余計に、異質だった。

 

 この状況で。

 

 この時間で。

 

 その声色。

 

 秀則の背中に、冷たいものが這う。

 

 理央が、わずかに手を上げた。

 

 制止の合図。

 

 動くな。

 

 音を立てるな。

 

 その意味が、言葉より先に伝わる。

 

 秀則は、息を止めた。

 

 玄関の向こう。

 

 見えない位置に、“何か”がいる。

 

 少年の声をした、何か。

 

 ——こつ。

 

 再び、戸が叩かれる。

 

 同じ強さ。

 

 同じ間隔。

 

 崩れない。

 

 まるで、ずっと続けられるような律動。

 

「……気のせいであったか」

 

 秀則は、手を伸ばす。

 

 引き戸に触れる。

 

 冷たい。

 

 外気の温度が、そのまま伝わる。

 

 指先に、力を込める。

 

 引く。

 

 ——す、と。

 

 戸が、音もなく開いた。

 

 夜気が、流れ込む。

 

 外の空気は、やはり乾いている。

 

 その中に人影が、あった。

 

 玄関先。

 

 一歩引いた位置に、静かに立っている。

 

「おぉ……!」

 

 少年だった。

 

 年は、十にも満たないか。

 

 あるいは、それより少し上。

 

 背は高くなく。線が細い。

 

 だが、その立ち方に揺らぎがない。

 

 服装は着物。

 黒とも紺ともつかない、落ち着いた色。

 

 柄はなく。

 帯も、簡素。

 

 だが、どこか古い。

 

 今の時代のものではない布の質感。

 

 足元は草履。

 

 素足が、夜気に触れているのに、寒さを感じている様子がない。

 

 髪は、肩にかかる程度。

 

 整っている。

 

 だが、作り込まれてはいない。

 

 自然に落ちた形。

 

 少年とも、少女とも取れる中性的な顔立ち。

 

 輪郭は柔らかい。

 

 目は大きく、秀則を見上げて更に見開かれている。

 

 まるで、人形のように均整が取れていた。

 

 そして——

 

 古い。

 

 その場に立っているだけで、空気が変わる。

 

 時代が、ずれている。

 

 そんな違和感。

 

 まるで、時代劇からそのまま抜け出してきたような。

 

 周囲の住宅街と、まったく噛み合っていない。

 

 なのに。

 

 そこに“在る”。

 

 不自然なまでに自然に。

 

 少年は、秀則を見た。

 

 視線が、合う。

 

 夜気の中で、その目だけがやけに澄んで見えた。

 

 濁りがない。

 

 子供のもののようでいて、そうではない。

 

 底が、見えない。

 

 少年は、ゆっくりと瞬きをした。

 

 その仕草ひとつが、妙に整っている。

 

 そして。

 

 ほんの僅かに、安堵したように息を吐いた。

 

 次いで。

 

 す、と。

 

 姿勢を正した。

 

 背筋が、伸びる。

 

 自然な動き。

 

 そのまま、深く頭を下げた。

 

「夜分遅くに、失礼した」

 

 一礼。

 

 静かに、顔を上げる。

 

「私は、九郎と申す」

 

 名が、落ちる。

 

 簡潔に。

 

 だが、はっきりと。

 

「葦名家臣、平田家に養われし身」

 

 秀則の眉が、わずかに寄った。

 

 理央の気配が、背後で僅かに強まる。

 

 警戒が、深くなる。

 

 九郎は、そのまま続けた。

 

「……しかしながら」

 

 言葉を選ぶように、ほんの僅かに視線が揺れる。

 

 初めて見せる、“迷い”の兆し。

 

「ここが何処か、見当もつかぬ」

 

 率直だった。

 

 取り繕いがない。

 

 だが、それが逆に真実味を帯びる。

 

 秀則は、わずかに目を細めた。

 

「見当が……ええとつまり、迷子ということですかな」

 

 問い返す。

 

 確認。

 

 九郎は、頷いた。

 

「う、うむ。迷子……に相違ない」

 

 九郎は恥ずかしそうに頷く。

 

「気付けば、このような場所におった」

 

 周囲へ、ほんの少しだけ視線を流す。

 

 住宅。

 

 電灯。

 

 舗装された道。

 

 そのすべてを、確かめるように。

 

「見たこともない建物、灯り、道」

 

 一拍。

 

「ここが、何処なのか」

 

 言葉が、途切れる。

 

 分からない。

 

 その事実だけを、受け入れている声音。

 

 恐怖はない。

 

 混乱も、薄い。

 

 ただ、事実として認識している。

 

「ゆえに」

 

 視線が、秀則へ戻る。

 

 まっすぐ。

 

 逃げない。

 

「頼れる者を探していた」

 

 そのまま、静かに言葉を継ぐ。

 

「だが、どこも人の気配が薄い」

 

 一拍。

 

「この辺りは、妙に静まり返っておる」

 

 秀則の背中に、冷たいものが走る。

 

 同じことを、感じている。

 

 九郎は、続ける。

 

「その中で」

 

 ほんの僅かに、玄関の内側へ視線を向ける。

 

 廊下。

 

 奥。

 

 気配。

 

「ここから、物音がしたので伺った次第」

 

 説明は、終わった。

 

 簡潔に。

 

 無駄がない。

 

 そして——

 

 嘘を言っている様子が、ない。

 

 秀則は、しばらく何も言わなかった。

 

 考える。

 

 目の前の存在を。

 

 言葉を、状況を結びつける。

 

 分かることは、少ない。

 

 だが、一つだけ確かなのは。

 

 この少年もまた——

 

 “普通ではない”。

 

「九郎……君?」

 

 声を整える。

 

 平静に。

 

「事情は理解しました」

 

 完全ではない。

 

 だが、表に出す必要はない。

 

「しかしながら、今この家も安穏とは言えぬ状況にございます」

 

 一拍。

 

 言葉を選ぶ。

 

「それでもよろしければ……少しばかり、事情を伺わせていただけますかな」

 

 九郎は、すぐに答えた。

 

「構わぬ」

 

 迷いがない。

 

 その一言だけで、足りる。

 

 そして。

 

 わずかに、頭を下げた。

 

「むしろ、助かる」

 

 秀則は、玄関の敷居の内側へ半歩退いた。

 

「……では。夜風は冷えます、こちらへ」

 

 九郎は、わずかに逡巡した。

 

 逡巡というより、礼を欠かぬための間。

 

 それから、深く頭を下げる。

 

「かたじけない」

 

 敷居を跨ぐ足が、音を立てない。

 

 草履が畳に触れる瞬間、布の擦れる気配だけがした。

 

 理央が、玄関脇の影から静かに一歩出る。

 

 九郎の背後へ回るでもなく、正面に立ち塞がるでもなく。

 

 ただ、距離を測る位置。

 

 九郎は、その存在を見た。

 

 視線が、ほんの一瞬だけ止まる。

 

 だが、何も言わない。

 

 秀則は引き戸を閉める。

 

 外の乾いた夜気が、薄く遮断される。

 

 家の中の匂い——畳と、木と、微かな薬臭さが戻ってくる。

 

「こちらです」

 

 秀則が先を歩く。

 

 九郎は、遅れず付いてくる。

 

 廊下。

 

 薄い灯り。

 

 その一つ一つに、九郎の視線が吸い寄せられる。

 

 天井の照明。

 

 スイッチの位置。

 

 壁のコンセント。

 

 廊下の端に置かれた掃除機。

 

 そして、居間から漏れるテレビの待機灯。

 

 光が、一定だ。

 

 揺れない。

 

 火の揺らぎではない“白さ”。

 

 九郎の歩みが、ほんの僅かに遅くなる。

 

 目が、追う。

 

 ただ見るだけではない。

 

 形と仕組みを、理解しようとする目。

 

「……これは」

 

 呟きが漏れた。

 

 問いではない。

 

 感想にも似た、確認の声。

 

 秀則は、返さない。

 

 返せない。

 

 説明を一度始めれば、朝まで質問攻めとなってしまうだろう。

 

 

 居間へ。

 

 襖を開ける。

 

 畳の部屋の中央に、卓。

 

 急いで片付けた形跡がまだ残っている。

 

 湯呑みが一つ、端に寄ったままだ。

 

「ここで……」

 

 秀則が言いかけたとき。

 

 九郎は、居間に入った瞬間に立ち止まった。

 

 目が、ひとつの物に釘付けになる。

 

 壁際の電子レンジ。

 

 その黒い面。

 

 反射した自分の顔が、薄く揺れる。

 

 次に、冷蔵庫。

 

 白い箱。

 

 上に貼られたメモ。

 

 磁石。

 

 文字が読めるのに、意味が追いつかないという顔。

 

 そして、エアコンのリモコン。

 

 小さな器具に、機能が詰まりすぎている。

 

 九郎は息を飲んだ。

 

 だが、騒がない。

 

 声を荒げない。

 

 驚きを“内側へ押し込む”癖が身に付いている。

 

 秀則は、畳に座るように手で示した。

 

「……とりあえず、こちらへ。座ってくだされ」

 

 九郎は、示された通りに座る。

 

 正座。

 

 迷いがない。

 

 所作が、あまりにも古い。

 

 理央は、居間の入口に立ったまま動かない。

 

 腕は組まない。

 

 ただ、目だけが九郎を離さない。

 

 秀則は、九郎と向かい合って腰を下ろした。

 

 膝の上で手を組む。

 

 自分の呼吸が、やけにうるさい。

 

 九郎の呼吸は、静かだ。

 

 この異物感。

 

 その上で、ここ最近起きたことを思い返す。

 

 蔓延した病、災厄の数々。

 

 異界と化した生まれ故郷。

 

 聖杯戦争。

 

 そして——目の前の少年。

 

 着物。

 

 言葉遣い。

 

 名乗り。

 

 秀則は、ようやく口を開いた。

 

「九郎君」

 

 九郎が、顔を上げる。

 

「あなたの言葉……そして、その風貌」

 

 一拍。

 

 言葉の選び方を誤れば、崩れる。

 

 だから、慎重に。

 

「……自分の推測に過ぎませんが」

 

 推測だと、先に断る。

 

 自分に言い聞かせるために。

 

「あなたは、戦国の世——その頃から、ここへ来たのではありませんか」

 

 驚いた顔はしない。

 

 否定も、笑い飛ばしもしない。

 

 ただ、目を伏せる。

 

 自分の記憶を確かめるように。

 

 畳の目を見つめるように。

 

「……私は」

 

 声が、少しだけ低くなる。

 

 子供の声のまま。

 

 だが、言葉の重さだけが増す。

 

「戦国、と呼ぶのかは分からぬ」

 

 一拍。

 

「されど……そなたの言う通りであろう」

 

 九郎は、顔を上げた。

 

 その目に、迷いはない。

 

 不安が、形になる。

 

 理央が、静かに言う。

 

「……どうやって、ここへ?」

 

 九郎は、理央の方を見る。

 

 視線を向けるだけで、答える相手を選ぶ。

 

「分からぬ」

 

 その返答は、今夜何度目かの“不明”だった。

 

 だが、九郎の“分からぬ”は、誤魔化しではない。

 

「気付けば、ここにおった」

 

 秀則は、息を吐く。

 

 吐いた息が、畳に吸われる。

 

「……そうですか」

 

 言うしかない。

 

 理解するしかない。

 

 その上で——守らねばならないものがある。

 

 秀則は、寝室の方角を一瞬だけ見た。

 

 障子の向こう。

 

 眠っている母。

 

 九郎は、その視線を追わない。

 

 秀則は、声を落とした。

 

「この家にも……病人がいます」

 

 九郎の目が、わずかに細くなる。

 

 初めて見せる、明確な反応。

 

「病」

 

 言葉を、噛む。

 

「……この世の病か」

 

 秀則は、答えられない。

 

 だから、答えない。

 

 代わりに、事実だけを言う。

 

「分かりません」

 

 一拍。

 

「分からないことが、増え続けています」

 

 九郎は、黙った。

 

 黙って、居間の灯りを見た。

 

 揺れない光。

 

 そして、秀則を見た。

 

「……頼れる者を探していたが」

 

「そなたもまた、頼れる者を探しておるのだな」

 

 その時。

 

 ——ぎ、……し。

 

 居間の空気を裂くように、どこかで床が軋んだ。

 

 最初は、ただの家鳴りに聞こえた。

 

 古い家なら、夜はよく鳴く。

 

 だが。

 

 次の音が、違った。

 

 ——ぐ、……う。

 

 喉の奥を擦るような、湿った呻き。

 

 言葉ではない。

 

 人の声の形をしていない。

 

 秀則の背中が、総毛立つ。

 

 理央が、入口で微かに姿勢を変えた。

 

 九郎の目が、静かに揺れる。

 

「……今のは」

 

 九郎が言いかけたところで—

 

 ——がたん。

 

 寝室の方から、布団が跳ねるような音がした。

 

 続けて、獣のような唸り。

 

 低く、長く。

 

 喉が裂ける寸前で押し留めたような音。

 

 秀則は、考える前に立ち上がっていた。

 

「母上……!」

 

 畳を蹴る音が、自分でも分かった。

 

 廊下へ出る。

 

 冷たい。

 

 さっきより冷たい。

 

 それが、余計に焦りを煽る。

 

 寝室の障子。

 

 閉じたはずの境界。

 

 そこから、熱が漏れている気がした。

 

 熱だけじゃない。

 

 獣臭い何か。

 

 血の気の混じった息。

 

「621ちゃん!」

 

 呼ぶ声が、喉で割れた。

 

 返事は、すぐに来ない。

 

 その不在が、心臓を握る。

 

 秀則は、障子に手をかけた。

 

 ためらいは一瞬。

 

 開ける。

 

 ——す、と。

 

 音もなく開いたはずなのに、空気が跳ねた。

 

 室内の熱が、廊下へ流れ込む。

 

 布団の上。

 

 公子が、起き上がりかけていた。

 

 さっきは肩まで掛けて整えた布団が、乱れている。

 

 髪が頬に張り付き、額に汗が滲む。

 

 そして。

 

 目。

 

 爛々と。

 

 血のように、赤く輝いていた。

 

 光っているのではない。

 

 燃えている。

 

 瞳の奥で、何かが燃えている。

 

「……っ、……ぐうう……」

 

 呻きが、唸りへ変わる。

 

 喉の奥で鳴る音が、獣のそれに近い。

 

 公子の肩が震える。

 

 呼吸が荒い。

 

 息を吸うたびに胸が跳ね、吐くたびに牙を見せるような音が漏れる。

 

 秀則は、足が止まりかけた。

 

 恐怖ではない。

 

 躊躇い。

 

 触れていいのか。

 

 触れた瞬間、何かが移るのではないか。

 

 だが、止まれない。

 

「母上……! 自分です! 秀則ですぞ!」

 

 呼びかけても、公子の目は合わない。

 

 焦点が、こちらに乗らない。

 

 視線が宙を泳ぎ、天井の一点を睨み続けている。

 

 そこに敵がいるように。

 

 あるいは——敵そのものを“見ている”ように。

 

 公子の喉が、もう一度鳴った。

 

 ——ぐるる。

 

 低い。

 

 腹の底から出る音。

 

 人が出す音域ではない。

 

 秀則は、布団の脇へ膝をついた。

 

 距離を詰めるだけで、熱が肌を刺す。

 

 触れる前から、皮膚が痛い。

 

「落ち着いて……落ち着いてくだされ」

 

 言いながら、自分の声が震えているのが分かる。

 

 公子の指が、布団を掴んだ。

 

 爪が立つ。

 

 畳に擦れる音が、不自然に鋭い。

 

 次の瞬間。

 

 公子の上体が、がくりと前へ倒れかけ——

 

 また跳ねる。

 

 痙攣に近い。

 

 苦しみが体を引き裂いている。

 

 呻きが、途切れず続く。

 

 息が、獣の息になる。

 

 秀則は、思わず手を伸ばした。

 

 肩に触れる。

 

 熱い。

 

 熱いのに、どこか冷たい。

 

 矛盾した体温。

 

 触れた指先が、痺れる。

 

「……っ」

 

 公子の目が、ぎらりと動いた。

 

 秀則の方を——見た、ように見えた。

 

 だが次の瞬間、瞳孔が揺れて、また別の何かを追う。

 

 人がいるのに、人を見ない目。

 

 秀則の胸が、沈む。

 

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