Fate/You Died.   作:助兵衛

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第62話 葬送

 公子の喉が、もう一度鳴った。

 

 ——ぐるる。

 

 低く、長く。

 

 息の湿りが畳に落ちるような音。

 

 秀則の指先が、肩の熱に耐えきれず小さく震えた。

 

「母上……っ、落ち着いてくだされ。大丈夫ですぞ、ここは家です。自分です、秀則です!」

 

 返事はない。

 

 焦点の合わない目が、空を掴むように揺れたまま。

 

 次の瞬間。

 

 公子の背中が、反り返った。

 

 弓みたいにしなる。

 

 それから——跳ねる。

 

 布団が、ばさ、と持ち上がって宙を舞った。

 

 畳に落ちる音が、やけに重い。

 

「……っ!」

 

 秀則は反射で身を引きかけ、膝で踏ん張って戻した。

 

 逃げたら、終わる。

 

 何が、とは言えない。

 

 だが、逃げた瞬間に母が“母”でなくなる気がした。

 

「母上……!」

 

 呼びかける。

 

 声が掠れる。

 

 喉が痛い。

 

 公子は、聞こえていない。

 

 聞こえないふりではない。

 

 耳に届く前に、何か別のものが内側で鳴っている。

 

 そういう目だ。

 

 公子の腕が、ゆっくり持ち上がった。

 

 肩の関節が不自然に軋むような動き。

 

 指が、布団を掴む。

 

 次の瞬間、布団が投げ捨てられた。

 

 壁へ。

 

 どん、と鈍い音。

 

 枕が跳ね、障子が揺れ、紙がぱら、と震える。

 

 秀則の胸が、冷たく沈む。

 

「やめ……っ、やめ……お母さん!」

 

 必死に手を伸ばす。

 

 腕を抑える。

 

 抑えられない。

 

 熱い。

 

 熱いのに、力が冷たい。

 

 人の筋肉の出し方ではない。

 

 公子の喉が裂けそうな呻きを吐いた。

 

 ——ぐぅうう。

 

 そのまま、体が起き上がる。

 

 布団の中から、獣が立ち上がるみたいに。

 

 膝が畳を踏む。

 

 ぎ、と畳が鳴いた。

 

 畳が鳴くほどの体重ではない。

 

 圧のかかり方が、違う。

 

 公子の手が、近くの箪笥に触れた。

 

 触れただけ。

 

 なのに、箪笥が——ずる、と動いた。

 

 引きずる音。

 

 木の脚が畳を削る音。

 

 引き出しが半分飛び出し、中の衣類が溢れ落ちる。

 

「お母さんっ! それは……っ」

 

 言葉が追いつかない。

 

 止める理由を説明する余裕がない。

 

 秀則は、ただ声を重ねた。

 

 名前を。

 

 呼び名を。

 

 戻ってこい、と言う代わりに。

 

「やめてよ! お母さん! 」

 

 普段の戯けた口調が崩れて、必死な声で母を呼ぶ。

 

 応えるように、公子の目がぎらりと動いた。

 

 秀則を“見た”。

 

 見たように、見えた。

 

 その瞬間、胸が一度だけ軽くなる。

 

 よかった、と言いかけて。

 

 次の瞬間。

 

 その目に映っているのが、自分ではないと分かった。

 

 公子は秀則の向こう——壁の一点を睨んでいた。

 

 敵を見ている目。

 

 あるいは、敵そのものになった目。

 

 公子の肩が持ち上がる。

 

 吸気。

 

 息を吸う音が、獣の鼻息に近い。

 

 秀則は、咄嗟に両手を広げた。

 

 遮る。

 

 自分が壁になれば、母の視線の先を変えられるかもしれない。

 

 意味があるかは分からない。

 

 だが、やるしかない。

 

「落ち着いてよ! なあ!」

 

 声が、震えていた。

 

 情けないほどに。

 

 それでも声を止めなかった。

 

 止めたら、終わる気がした。

 

 公子が、一歩踏み出した。

 

 畳が、また鳴く。

 

 足音が重い。

 

 それは秀則の記憶にある母の足音ではなかった。

 

 公子の腕が、振り上がる。

 

 肘が引かれる。

 

 肩の筋肉が盛り上がる。

 

 そして——

 

 振るわれた。

 

 速い。

 

 風を切る音すら遅れて届く。

 

「——っ!」

 

 秀則は避けようとした。

 

 間に合わない。

 

 腕が、横から胸元に叩き込まれた。

 

 衝撃が、肺の空気を一気に奪う。

 

 痛みが遅れて来る前に、体が浮いた。

 

 畳が遠のく。

 

 視界が回る。

 

 障子の枠が斜めになり、天井が落ちてきて、床が跳ねた。

 

 ——どん。

 

 背中が何かに当たった。

 

 柱か。

 

 壁か。

 

 分からない。

 

 ただ、体がそのまま弾き飛ばされ、廊下へ転がり出た。

 

 息が、吸えない。

 

 喉が鳴る。

 

 ようやく吸い込んだ空気が、痛みに変わる。

 

「……っ、が……!」

 

 秀則は畳に手をつき、体を起こそうとして——

 

 寝室の中から、また音がした。

 

 物が倒れる音。

 

 引き出しが落ちる音。

 

 障子が震える音。

 

 そして、低い唸り。

 

 獣のような。

 

 母の声ではない、声。

 

 秀則の視界が滲んだ。

 

 痛みのせいではない。

 

 別のものだ。

 

 胸の奥に溜まる、言いようのないもの。

 

 廊下の空気が、裂けた。

 

 ——たん。

 

 足音。

 

 軽い。

 

 だが、速い。

 

 次の瞬間、理央が現れていた。

 

 視線が、寝室の中へ飛ぶ。

 

 一瞬。

 

 本当に、一瞬だけ。

 

 その目に、驚愕が走った。

 

 人としての反応。

 

 状況を認識するための、僅かな遅れ。

 

 だが。

 

 次の瞬間には、消えていた。

 

 消していた。

 

 理央の顔が、無機質なほどに引き締まる。

 

 感情が、引く。

 

 代わりに浮かび上がるのは、判断。

 

 計算。

 

 処理。

 

「……これは」

 

 呟きは、短い。

 

 だが、その中に結論がある。

 

 危険。

 

 制御不能。

 

 対処が必要。

 

 ——即座に。

 

 理央の手が、上がる。

 

 迷いがない。

 

 右手。

 

 指先が、空間をなぞる。

 

 何もない場所に、何かを書くように。

 

 線が、走る。

 

 目には見えない。

 

 だが、空気が変わる。

 

 張り詰める。

 

 冷える。

 

 廊下の温度が、一段落ちる。

 

 秀則の皮膚が、粟立つ。

 

「下がって」

 

 短い命令。

 

 視線は、寝室の中。

 

 公子を捉えたまま。

 

「それは、もう——」

 

 言い切らない。

 

 言う必要がない。

 

 その先の言葉は、明白だった。

 

 “危険対象”。

 

 “排除対象”。

 

 そういう声色。

 

 理央の周囲に、何かが集まる。

 

 光ではない。

 

 熱でもない。

 

 だが、確かに“圧”がある。

 

 押し潰すような、凝縮された何か。

 

 指先に、集束していく。

 

 細い腕の先に。

 

 明らかに——致命的なもの。

 

 秀則の背筋が、凍る。

 

 理解は、遅れた。

 

 だが、体が先に動いた。

 

「やめろ!」

 

 叫びと同時に、秀則の体が前へ出た。

 

 足が、もつれる。

 

 それでも、止まらない。

 

 手を伸ばす。

 

 理央の腕へ。

 

 指先に触れた瞬間、空気が軋んだ。

 

 術の“圧”が、皮膚を押し潰す。

 

 触れてはいけないもの。

 

 本能がそう告げる。

 

 だが——掴む。

 

「……やめろって、言ってんだろ!」

 

 今度は、低く。

 

 押し込むように。

 

 理央の腕を、両手で掴んだ。

 

 細い腕。

 

 だが、硬い。

 

 鋼のように力が籠もっている。

 

 指先に集束した“何か”が、震える。

 

 今にも解き放たれる。

 

「な、馬鹿! 何してるの!」

 

 腕を、押し込む。

 

 自分の体重ごと。

 

 痛みが、腕に走る。

 

 それでも、止める。

 

 理央の指先が、わずかに下がる。

 

 集束していた“何か”が、揺らぐ。

 

 崩れかける。

 

 臨界が、ずれる。

 

 秀則は、そのまま体をぶつけた。

 

「紫村君、離れなさい! 巻き込まれるわよ!」

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 理央の指先から、力が抜ける。

 

 張り詰めていた空気が、緩む。

 

「──っ、ああもう!」

 

 圧が、消える。

 

 術が——解けた。

 

 廊下の温度が、戻る。

 

 凍り付いていた空気が、ほどける。

 

 静寂。

 

 その一拍。

 

 秀則の意識が、ふ、と揺れた。

 

 力が抜ける。

 

 視界が、広がる。

 

 そして。

 

 見えた。

 

 寝室の奥。

 

 部屋の隅。

 

 倒れている影。

 

 小さい、動かない。

 

「……621、ちゃん……?」

 

 声が、勝手に漏れた。

 

 血。

 

 頭から、流れている。

 

 畳に、広がっている。

 

 赤が、暗く沈んでいる。

 

 不自然に静かだ。

 

 動かない。

 

 呼吸も、分からない。

 

 一瞬。

 

 思考が、そこに引きずられた。

 

 目が、離れない。

 

 理解が、追いつかない。

 

 その、ほんの僅かな隙。

 

 ——空気が、裂けた。

 

「——っ」

 

 何かが、迫る。

 

 反応が、遅れた。

 

 視線を戻した時には、もう——

 

 目の前。

 

 公子が、いた。

 

 距離が、ない。

 

 音が、なかった。

 

 気配も、なかった。

 

 ただ、そこに“来ていた”。

 

 赤い目。

 

 ぎらりと、光る。

 

 その手。

 

 指先が、変わっていた。

 

 伸びている。

 

 爪。

 

 鋭い。

 

 獣のように、歪に長い。

 

「——おかあさ」

 

 呼ぶ。

 

 間に合わない。

 

 腕が、振り抜かれる。

 

 ではない。

 

 掴まれた。

 

 胸元。

 

 掴まれた瞬間、体が浮く。

 

 

 重さが、消える。

 

「がっ——!」

 

 背中が、叩きつけられる。

 

 壁。

 

 廊下の板が、鳴る。

 

 衝撃で、息が止まる。

 

 喉が潰れる。

 

 空気が、入らない。

 

 視界が、白く弾ける。

 

 そのまま——押し付けられる。

 

 逃げ場が、ない。

 

 背中と壁の間に、空間が消える。

 

 公子の腕が、胸を押さえつけている。

 

 細いはずの腕。

 

 だが、びくともしない。

 

 押し潰される。

 

 肋骨が、軋む。

 

「……っ、ぐ……!」

 

 息が、出ない。

 

 吸えない。

 

 目の前に、公子の顔。

 

 近い。

 

 近すぎる。

 

 赤い目が、揺れる。

 

 焦点が、合っていない。

 

 なのに——見ている。

 

 何かを。

 

 秀則ではない、何かを。

 

 喉が、鳴る。

 

 ——ぐるる。

 

 低い。

 

 唾液が、糸を引く。

 

 息が、獣のそれ。

 

 顔に、かかる。

 

 熱い。

 

 だが、どこか冷たい。

 

 矛盾した温度。

 

 秀則の手が、必死に公子の腕を掴む。

 

 離そうとする。

 

 動かない。

 

 まるで、岩だ。

 

 指が、ずる、と滑った。

 

 汗と血と、訳の分からない熱で。

 

 公子の腕は、掴んでも掴んでも動かない。

 

 壁と胸の間の隙間が、さらに削られていく。

 

 肋骨が鳴る。

 

 息が——入らない。

 

 喉の奥で空気が擦れて、音にならない。

 

 視界の端が、暗く沈み始めた。

 

 赤い目だけが、近い。

 

 燃えるみたいに。

 

 自分の顔を見ていないのに、殺す力だけは正確に向けられている。

 

 理央の声が遠い。

 

 何か叫んでいる。

 

 聞こえない。

 

 血が耳を塞いだみたいに、世界が鈍い。

 

 ——このまま、意識が。

 

 そう思った瞬間。

 

 廊下の空気が、もう一度裂けた。

 

 今度は、風ではない。

 

 “切っ先”のような気配。

 

 影が、横から滑り込む。

 

 躊躇いの欠片もない速度で。

 

「──あぁ、こうなりましたか」

 

 次の瞬間。

 

 ごつ、と。

 

 鈍い音がした。

 

 拳が、公子の顎の下へ叩き込まれた音。

 

 肉の音。

 

 骨の音。

 

 畳でも壁でもない、“人”に当たった音。

 

 公子の体が、横へ弾ける。

 

 掴みが外れた瞬間、秀則の肺に空気が雪崩れ込んだ。

 

「っ——げほっ……!」

 

 咳が、勝手に噴き出す。

 

 喉が裂ける。

 

 酸素が痛い。

 

 床に崩れ、膝をつく。

 

 その目の前で。

 

 公子が、廊下に転がった。

 

 唸りが途切れない。

 

 獣のまま。

 

 だが、動こうとした次の瞬間。

 

 靴の裏が、顔の横へ落ちた。

 

 ——どん。

 

 足が、公子の肩口を踏みつけた。

 

 押さえつける。

 

 容赦なく。

 

 逃げ道を潰すように。

 

 そこに立っていたのは、マリアだった。

 

 外へ出ていたはずのマリアが。

 

 いつの間に戻ったのかも分からないまま、そこにいる。

 

 髪も乱れていない。

 

 息も乱れていない。

 

 ただ、淡々と“制圧”している。

 

「幸か不幸か、理性が先に削り切れましたか……」

 

 冷たい声。

 

 公子が喉を鳴らし、爪を振るう。

 

 だが、マリアの足は動かない。

 

 骨を固定するみたいに、体重で押し潰している。

 

 公子の腕がばたつき、畳が鳴る。

 

 障子が揺れる。

 

 それでも——逃げられない。

 

 秀則は、咳き込みながら、床を掻いた。

 

 空気を吸うたびに胸が痛む。

 

 喉が焼ける。

 

「……げほっ、……っ、マ……」

 

 名前が出ない。

 

 声が、形にならない。

 

 その時。

 

 玄関の方から、乱れた足音が突っ込んできた。

 

 廊下を走る音。

 

 誰かが転びかけて、踏み直す音。

 

「紫村!」

 

 誠だった。

 

 息が切れている。

 

 戻ってきたばかりの顔。

 

 目が、寝室の惨状を一瞬で飲み込んで——真っ青になる。

 

 だが、すぐに秀則へ駆け寄った。

 

 肩を掴む。

 

 顔を覗き込む。

 

「大丈夫か!? 息、できてるか!」

 

 秀則は、咳で答えられない。

 

 ただ、頷こうとして首が痛み、額を僅かに動かすだけになる。

 

 誠の手が背中を叩く。

 

 咳を吐かせるように。

 

「くそ……!」

 

 誠の視線が、マリアの足元へ飛ぶ。

 

 踏みつけられた公子。

 

 赤い目。

 

 獣の唸り。

 

 異常な爪。

 

 そして、マリアの無表情。

 

 誠の顔が歪む。

 

 怒りと恐怖と、判断が絡み合う顔。

 

「……マリア、それ……紫村の母さん、だろ……?」

 

 マリアは視線を誠に向けない。

 

 足元だけを見たまま、短く答えた。

 

「いいえ」

 

 マリアの声は、切り落とすように平坦だった。

 

 踏みつけた足が、わずかに沈む。

 

 公子の肩が畳に押し込まれ、喉の奥から濁った唸りが溢れる。

 

 ——ぐるるる。

 

 爪が空を掻く。

 

 畳が裂け、木片が跳ねた。

 

 それでも、マリアは動じない。

 

「人ではありません」

 

 断言。

 

 迷いの余地を与えない言葉。

 

「今ここにいるのは、獣です」

 

 誠の顔が凍る。

 

 理央が息を呑む気配がする。

 

 秀則は、咳の合間に頭を振った。

 

 違う、と言いたい。

 

 だが、声が出ない。

 

 喉が焼けている。

 

 胸が痛い。

 

 それでも、耳だけは言葉を拾ってしまう。

 

 マリアの踵がずれ、踏みつける位置が変わる。

 

 公子の動きが一瞬止まり、次の瞬間、また暴れた。

 

 血のような目が、廊下の灯りを噛む。

 

 爪が伸びた腕が、マリアの足を掴もうとする。

 

 マリアは、足で押さえつけたまま、片手を持ち上げた。

 

 掌。

 

 指を軽く開く。

 

 そこに——光が集まり始める。

 

 火の色ではない。

 

 電灯の白でもない。

 

 極地の夜明けみたいな、冷たい煌めき。

 

 極光。

 

 ゆらり、と揺れる光が掌の上で層を重ね、濃度を増す。

 

 空気が冷える。

 

 皮膚の産毛が立つ。

 

 痛いほどの清冽さが、廊下の隅々まで満ちていく。

 

「な、なにを」

 

 問いが形になる前に。

 

 秀則の脳が、理解してしまった。

 

 あれは——母を“害す”ものだ。

 

 理央の指先に集まっていた“圧”と、同じ種類の結末。

 

 ただ、もっと綺麗で。

 

 もっと冷たくて。

 

 だからこそ、確実に殺す。

 

 秀則は、体が勝手に動いていた。

 

 膝で床を蹴る。

 

 胸が裂ける。

 

 肺が叫ぶ。

 

 それでも、前へ。

 

「やめ——っ!」

 

 声は掠れ、音にならない。

 

 だが、勢いだけは止まらない。

 

 マリアに飛びかかる。

 

 掌の光を叩き落とすつもりで。

 

 指先に触れた瞬間、冷たさが骨に刺さった。

 

 氷水ではない。

 

 “光”そのものが刃になって皮膚を切る感覚。

 

 秀則は歯を食いしばり、さらに腕を伸ばす。

 

 次の瞬間。

 

 どん。

 

 視界が揺れた。

 

 胸元に、硬い何かが当たった。

 

 マリアのもう片方の手だった。

 

 空いていた手。

 

 いつの間にか伸びていた手。

 

 掌が、秀則の胸骨の中心を正確に捉えている。

 

 ただの人間の力では、どれだけ暴れたとしてもピクリとも動けない万力の様な圧力。

 

「……やめろ……!」

 

 秀則の声は、咳に削られながらも鋭かった。

 

 胸骨の中心を押さえる掌が、びくりとも緩まない。

 

 息を吸うたび、そこに指が食い込む。

 

 肺が膨らむ余地を奪われ、声だけが喉の奥で擦れる。

 

 それでも叫んだ。

 

「やめろって——言ってるだろ!」

 

 極光が、掌の上で静かに揺らめいた。

 

 冷たい光の層が重なり、刃物のような輪郭を持ち始める。

 

 公子の唸りがその下でくぐもり、畳が軋む。

 

 マリアは、視線を落としたまま動かない。

 

 公子を踏みつける足。

 

 秀則を押さえつける手。

 

 どちらも、必要な動作として並列に置かれている。

 

 だが。

 

 秀則の叫びが、空気の膜を突き破った瞬間。

 

 マリアの顔が、ほんの僅かに上がった。

 

 ——目が、合う。

 

 紅い。

 

 さっきまで無表情だったはずの瞳が、深い紅に染まっている。

 

 光の反射ではない。

 

 怒りで赤くなったのでもない。

 

 それは、内側から滲む色だった。

 

 憎悪。

 

 懺悔。

 

 悲しみ。

 

 そのどれか一つではなく、混ざり合って沈殿した色。

 

 そして、もっと厄介なもの——

 

 それらを押し殺しきれず、なお押し殺そうとしている目。

 

 秀則は、息が詰まった。

 

 胸を押さえる圧より、目の方が重い。

 

 マリアは、秀則を見ていた。

 

 助けようとする人間を見る目ではない。

 

 止めようとする相手を見る目でもない。

 

 まして、敵を見る目ではない。

 

 痛ましいものを見る目だった。

 

 誰かの最期に手を伸ばす人間を、止める側が向ける視線。

 

 処刑人の視線。

 

 言葉はない。

 

 けれど、瞳だけで足りてしまう。

 

 秀則の喉が鳴る。

 

 咳でも呻きでもない。

 

 言い訳のような音。

 

「お母さんなんだよ……!」

 

 

 絞り出す。

 

 胸の奥が焼ける。

 

 声が震える。

 

 誠が、背後で息を吸った音がした。

 

 理央が一歩動きかけて、止めた気配がした。

 

 それでも、マリアは目を逸らさない。

 

 紅い瞳の底に、確かな憎悪がある。

 

 それは公子へ向けられているのか。

 

 この状況へ向けられているのか。

 

 自分自身へ向けられているのか。

 

 秀則には分からない。

 

 分かるのは、そこに懺悔があることだ。

 

 

 そして、悲しみ。

 

 救えないと知っている者の悲しみ。

 

 救わせたくない者の悲しみ。

 

 マリアの押さえつける手が、ほんの一瞬だけ強くなる。

 

 秀則の肺が、きしむ。

 

 視界が白く滲む。

 

 マリアは、微かに瞼を伏せた。

 

 祈るみたいに。

 

 赦しを請うみたいに。

 

 そして、もう一度開く。

 

 紅い瞳が、秀則を貫いたまま。

 

 掌の極光だけが、冷たく脈を打つ。

 

 次の瞬間。

 

 マリアの掌が、静かに前へ向いた。

 

 狙いは迷わない。

 

 踏みつけた獣へ。

 

 秀則の喉が、何かを吐こうとして——吐けない。

 

 息も、言葉も出ない。願いが形になる前に——

 

 光が、放たれた。

 

 ただ、白に近い極光が一瞬だけ空間を満たし、影を消した。

 

 廊下の端から端まで、現実が磨かれたみたいに透き通る。

 

 公子が悲鳴を上げる間は、存在しなかった。

 

 喉の奥の唸りが——途中で、切れる。

 

 爪が畳を掻いた動きが——途中で、止まる。

 

 そして。

 

 “そこにあったもの”が、なくなった。

 

 転がっていた体も。

 

 血のような目も。

 

 伸びた爪も。

 

 唾液の糸も。

 

 熱も。

 

 獣臭さも。

 

 灰すら残らない。

 

 畳に落ちた木片だけが、遅れて静かに転がった。

 

 マリアの足が、空を踏む形になる。

 

 踏みつける対象が消えたのに、足だけがそこに残り、次いで——ゆっくりと降ろされた。

 

 秀則の胸を押さえていた掌も、離れる。

 

 圧が抜けた瞬間、肺が反射で空気を吸い込んだ。

 

「っ——げほっ……! げほっ!」

 

 咳が、痛みを伴って噴き出す。

 

 喉が裂ける。

 

 酸素が、刃みたいに胸の中へ刺さる。

 

 秀則は床に手をつき、肩を震わせた。

 

 そして。

 

 廊下の真ん中に残ったのは、静寂だけだった。

 

 マリアは、掌を閉じた。

 

 極光は、消える。

 

 余韻すら残さず、夜の暗さが戻る。

 

 彼女は視線を落としたまま、ほんの僅かに顎を引いた。

 

 黙祷。

 

 言葉も、祈りも、口にしない。

 

 ただ、一呼吸ぶんだけ、時間を止める。

 

 それが彼女の弔いだった。

 

 終わると、マリアは踵を返した。

 

 廊下の先——玄関の方へ。

 

 この場を、後にする動き。

 

 迷いのない歩き出し。

 

「……人殺し」

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