公子の喉が、もう一度鳴った。
——ぐるる。
低く、長く。
息の湿りが畳に落ちるような音。
秀則の指先が、肩の熱に耐えきれず小さく震えた。
「母上……っ、落ち着いてくだされ。大丈夫ですぞ、ここは家です。自分です、秀則です!」
返事はない。
焦点の合わない目が、空を掴むように揺れたまま。
次の瞬間。
公子の背中が、反り返った。
弓みたいにしなる。
それから——跳ねる。
布団が、ばさ、と持ち上がって宙を舞った。
畳に落ちる音が、やけに重い。
「……っ!」
秀則は反射で身を引きかけ、膝で踏ん張って戻した。
逃げたら、終わる。
何が、とは言えない。
だが、逃げた瞬間に母が“母”でなくなる気がした。
「母上……!」
呼びかける。
声が掠れる。
喉が痛い。
公子は、聞こえていない。
聞こえないふりではない。
耳に届く前に、何か別のものが内側で鳴っている。
そういう目だ。
公子の腕が、ゆっくり持ち上がった。
肩の関節が不自然に軋むような動き。
指が、布団を掴む。
次の瞬間、布団が投げ捨てられた。
壁へ。
どん、と鈍い音。
枕が跳ね、障子が揺れ、紙がぱら、と震える。
秀則の胸が、冷たく沈む。
「やめ……っ、やめ……お母さん!」
必死に手を伸ばす。
腕を抑える。
抑えられない。
熱い。
熱いのに、力が冷たい。
人の筋肉の出し方ではない。
公子の喉が裂けそうな呻きを吐いた。
——ぐぅうう。
そのまま、体が起き上がる。
布団の中から、獣が立ち上がるみたいに。
膝が畳を踏む。
ぎ、と畳が鳴いた。
畳が鳴くほどの体重ではない。
圧のかかり方が、違う。
公子の手が、近くの箪笥に触れた。
触れただけ。
なのに、箪笥が——ずる、と動いた。
引きずる音。
木の脚が畳を削る音。
引き出しが半分飛び出し、中の衣類が溢れ落ちる。
「お母さんっ! それは……っ」
言葉が追いつかない。
止める理由を説明する余裕がない。
秀則は、ただ声を重ねた。
名前を。
呼び名を。
戻ってこい、と言う代わりに。
「やめてよ! お母さん! 」
普段の戯けた口調が崩れて、必死な声で母を呼ぶ。
応えるように、公子の目がぎらりと動いた。
秀則を“見た”。
見たように、見えた。
その瞬間、胸が一度だけ軽くなる。
よかった、と言いかけて。
次の瞬間。
その目に映っているのが、自分ではないと分かった。
公子は秀則の向こう——壁の一点を睨んでいた。
敵を見ている目。
あるいは、敵そのものになった目。
公子の肩が持ち上がる。
吸気。
息を吸う音が、獣の鼻息に近い。
秀則は、咄嗟に両手を広げた。
遮る。
自分が壁になれば、母の視線の先を変えられるかもしれない。
意味があるかは分からない。
だが、やるしかない。
「落ち着いてよ! なあ!」
声が、震えていた。
情けないほどに。
それでも声を止めなかった。
止めたら、終わる気がした。
公子が、一歩踏み出した。
畳が、また鳴く。
足音が重い。
それは秀則の記憶にある母の足音ではなかった。
公子の腕が、振り上がる。
肘が引かれる。
肩の筋肉が盛り上がる。
そして——
振るわれた。
速い。
風を切る音すら遅れて届く。
「——っ!」
秀則は避けようとした。
間に合わない。
腕が、横から胸元に叩き込まれた。
衝撃が、肺の空気を一気に奪う。
痛みが遅れて来る前に、体が浮いた。
畳が遠のく。
視界が回る。
障子の枠が斜めになり、天井が落ちてきて、床が跳ねた。
——どん。
背中が何かに当たった。
柱か。
壁か。
分からない。
ただ、体がそのまま弾き飛ばされ、廊下へ転がり出た。
息が、吸えない。
喉が鳴る。
ようやく吸い込んだ空気が、痛みに変わる。
「……っ、が……!」
秀則は畳に手をつき、体を起こそうとして——
寝室の中から、また音がした。
物が倒れる音。
引き出しが落ちる音。
障子が震える音。
そして、低い唸り。
獣のような。
母の声ではない、声。
秀則の視界が滲んだ。
痛みのせいではない。
別のものだ。
胸の奥に溜まる、言いようのないもの。
廊下の空気が、裂けた。
——たん。
足音。
軽い。
だが、速い。
次の瞬間、理央が現れていた。
視線が、寝室の中へ飛ぶ。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
その目に、驚愕が走った。
人としての反応。
状況を認識するための、僅かな遅れ。
だが。
次の瞬間には、消えていた。
消していた。
理央の顔が、無機質なほどに引き締まる。
感情が、引く。
代わりに浮かび上がるのは、判断。
計算。
処理。
「……これは」
呟きは、短い。
だが、その中に結論がある。
危険。
制御不能。
対処が必要。
——即座に。
理央の手が、上がる。
迷いがない。
右手。
指先が、空間をなぞる。
何もない場所に、何かを書くように。
線が、走る。
目には見えない。
だが、空気が変わる。
張り詰める。
冷える。
廊下の温度が、一段落ちる。
秀則の皮膚が、粟立つ。
「下がって」
短い命令。
視線は、寝室の中。
公子を捉えたまま。
「それは、もう——」
言い切らない。
言う必要がない。
その先の言葉は、明白だった。
“危険対象”。
“排除対象”。
そういう声色。
理央の周囲に、何かが集まる。
光ではない。
熱でもない。
だが、確かに“圧”がある。
押し潰すような、凝縮された何か。
指先に、集束していく。
細い腕の先に。
明らかに——致命的なもの。
秀則の背筋が、凍る。
理解は、遅れた。
だが、体が先に動いた。
「やめろ!」
叫びと同時に、秀則の体が前へ出た。
足が、もつれる。
それでも、止まらない。
手を伸ばす。
理央の腕へ。
指先に触れた瞬間、空気が軋んだ。
術の“圧”が、皮膚を押し潰す。
触れてはいけないもの。
本能がそう告げる。
だが——掴む。
「……やめろって、言ってんだろ!」
今度は、低く。
押し込むように。
理央の腕を、両手で掴んだ。
細い腕。
だが、硬い。
鋼のように力が籠もっている。
指先に集束した“何か”が、震える。
今にも解き放たれる。
「な、馬鹿! 何してるの!」
腕を、押し込む。
自分の体重ごと。
痛みが、腕に走る。
それでも、止める。
理央の指先が、わずかに下がる。
集束していた“何か”が、揺らぐ。
崩れかける。
臨界が、ずれる。
秀則は、そのまま体をぶつけた。
「紫村君、離れなさい! 巻き込まれるわよ!」
ほんの一瞬だけ。
理央の指先から、力が抜ける。
張り詰めていた空気が、緩む。
「──っ、ああもう!」
圧が、消える。
術が——解けた。
廊下の温度が、戻る。
凍り付いていた空気が、ほどける。
静寂。
その一拍。
秀則の意識が、ふ、と揺れた。
力が抜ける。
視界が、広がる。
そして。
見えた。
寝室の奥。
部屋の隅。
倒れている影。
小さい、動かない。
「……621、ちゃん……?」
声が、勝手に漏れた。
血。
頭から、流れている。
畳に、広がっている。
赤が、暗く沈んでいる。
不自然に静かだ。
動かない。
呼吸も、分からない。
一瞬。
思考が、そこに引きずられた。
目が、離れない。
理解が、追いつかない。
その、ほんの僅かな隙。
——空気が、裂けた。
「——っ」
何かが、迫る。
反応が、遅れた。
視線を戻した時には、もう——
目の前。
公子が、いた。
距離が、ない。
音が、なかった。
気配も、なかった。
ただ、そこに“来ていた”。
赤い目。
ぎらりと、光る。
その手。
指先が、変わっていた。
伸びている。
爪。
鋭い。
獣のように、歪に長い。
「——おかあさ」
呼ぶ。
間に合わない。
腕が、振り抜かれる。
ではない。
掴まれた。
胸元。
掴まれた瞬間、体が浮く。
重さが、消える。
「がっ——!」
背中が、叩きつけられる。
壁。
廊下の板が、鳴る。
衝撃で、息が止まる。
喉が潰れる。
空気が、入らない。
視界が、白く弾ける。
そのまま——押し付けられる。
逃げ場が、ない。
背中と壁の間に、空間が消える。
公子の腕が、胸を押さえつけている。
細いはずの腕。
だが、びくともしない。
押し潰される。
肋骨が、軋む。
「……っ、ぐ……!」
息が、出ない。
吸えない。
目の前に、公子の顔。
近い。
近すぎる。
赤い目が、揺れる。
焦点が、合っていない。
なのに——見ている。
何かを。
秀則ではない、何かを。
喉が、鳴る。
——ぐるる。
低い。
唾液が、糸を引く。
息が、獣のそれ。
顔に、かかる。
熱い。
だが、どこか冷たい。
矛盾した温度。
秀則の手が、必死に公子の腕を掴む。
離そうとする。
動かない。
まるで、岩だ。
指が、ずる、と滑った。
汗と血と、訳の分からない熱で。
公子の腕は、掴んでも掴んでも動かない。
壁と胸の間の隙間が、さらに削られていく。
肋骨が鳴る。
息が——入らない。
喉の奥で空気が擦れて、音にならない。
視界の端が、暗く沈み始めた。
赤い目だけが、近い。
燃えるみたいに。
自分の顔を見ていないのに、殺す力だけは正確に向けられている。
理央の声が遠い。
何か叫んでいる。
聞こえない。
血が耳を塞いだみたいに、世界が鈍い。
——このまま、意識が。
そう思った瞬間。
廊下の空気が、もう一度裂けた。
今度は、風ではない。
“切っ先”のような気配。
影が、横から滑り込む。
躊躇いの欠片もない速度で。
「──あぁ、こうなりましたか」
次の瞬間。
ごつ、と。
鈍い音がした。
拳が、公子の顎の下へ叩き込まれた音。
肉の音。
骨の音。
畳でも壁でもない、“人”に当たった音。
公子の体が、横へ弾ける。
掴みが外れた瞬間、秀則の肺に空気が雪崩れ込んだ。
「っ——げほっ……!」
咳が、勝手に噴き出す。
喉が裂ける。
酸素が痛い。
床に崩れ、膝をつく。
その目の前で。
公子が、廊下に転がった。
唸りが途切れない。
獣のまま。
だが、動こうとした次の瞬間。
靴の裏が、顔の横へ落ちた。
——どん。
足が、公子の肩口を踏みつけた。
押さえつける。
容赦なく。
逃げ道を潰すように。
そこに立っていたのは、マリアだった。
外へ出ていたはずのマリアが。
いつの間に戻ったのかも分からないまま、そこにいる。
髪も乱れていない。
息も乱れていない。
ただ、淡々と“制圧”している。
「幸か不幸か、理性が先に削り切れましたか……」
冷たい声。
公子が喉を鳴らし、爪を振るう。
だが、マリアの足は動かない。
骨を固定するみたいに、体重で押し潰している。
公子の腕がばたつき、畳が鳴る。
障子が揺れる。
それでも——逃げられない。
秀則は、咳き込みながら、床を掻いた。
空気を吸うたびに胸が痛む。
喉が焼ける。
「……げほっ、……っ、マ……」
名前が出ない。
声が、形にならない。
その時。
玄関の方から、乱れた足音が突っ込んできた。
廊下を走る音。
誰かが転びかけて、踏み直す音。
「紫村!」
誠だった。
息が切れている。
戻ってきたばかりの顔。
目が、寝室の惨状を一瞬で飲み込んで——真っ青になる。
だが、すぐに秀則へ駆け寄った。
肩を掴む。
顔を覗き込む。
「大丈夫か!? 息、できてるか!」
秀則は、咳で答えられない。
ただ、頷こうとして首が痛み、額を僅かに動かすだけになる。
誠の手が背中を叩く。
咳を吐かせるように。
「くそ……!」
誠の視線が、マリアの足元へ飛ぶ。
踏みつけられた公子。
赤い目。
獣の唸り。
異常な爪。
そして、マリアの無表情。
誠の顔が歪む。
怒りと恐怖と、判断が絡み合う顔。
「……マリア、それ……紫村の母さん、だろ……?」
マリアは視線を誠に向けない。
足元だけを見たまま、短く答えた。
「いいえ」
マリアの声は、切り落とすように平坦だった。
踏みつけた足が、わずかに沈む。
公子の肩が畳に押し込まれ、喉の奥から濁った唸りが溢れる。
——ぐるるる。
爪が空を掻く。
畳が裂け、木片が跳ねた。
それでも、マリアは動じない。
「人ではありません」
断言。
迷いの余地を与えない言葉。
「今ここにいるのは、獣です」
誠の顔が凍る。
理央が息を呑む気配がする。
秀則は、咳の合間に頭を振った。
違う、と言いたい。
だが、声が出ない。
喉が焼けている。
胸が痛い。
それでも、耳だけは言葉を拾ってしまう。
マリアの踵がずれ、踏みつける位置が変わる。
公子の動きが一瞬止まり、次の瞬間、また暴れた。
血のような目が、廊下の灯りを噛む。
爪が伸びた腕が、マリアの足を掴もうとする。
マリアは、足で押さえつけたまま、片手を持ち上げた。
掌。
指を軽く開く。
そこに——光が集まり始める。
火の色ではない。
電灯の白でもない。
極地の夜明けみたいな、冷たい煌めき。
極光。
ゆらり、と揺れる光が掌の上で層を重ね、濃度を増す。
空気が冷える。
皮膚の産毛が立つ。
痛いほどの清冽さが、廊下の隅々まで満ちていく。
「な、なにを」
問いが形になる前に。
秀則の脳が、理解してしまった。
あれは——母を“害す”ものだ。
理央の指先に集まっていた“圧”と、同じ種類の結末。
ただ、もっと綺麗で。
もっと冷たくて。
だからこそ、確実に殺す。
秀則は、体が勝手に動いていた。
膝で床を蹴る。
胸が裂ける。
肺が叫ぶ。
それでも、前へ。
「やめ——っ!」
声は掠れ、音にならない。
だが、勢いだけは止まらない。
マリアに飛びかかる。
掌の光を叩き落とすつもりで。
指先に触れた瞬間、冷たさが骨に刺さった。
氷水ではない。
“光”そのものが刃になって皮膚を切る感覚。
秀則は歯を食いしばり、さらに腕を伸ばす。
次の瞬間。
どん。
視界が揺れた。
胸元に、硬い何かが当たった。
マリアのもう片方の手だった。
空いていた手。
いつの間にか伸びていた手。
掌が、秀則の胸骨の中心を正確に捉えている。
ただの人間の力では、どれだけ暴れたとしてもピクリとも動けない万力の様な圧力。
「……やめろ……!」
秀則の声は、咳に削られながらも鋭かった。
胸骨の中心を押さえる掌が、びくりとも緩まない。
息を吸うたび、そこに指が食い込む。
肺が膨らむ余地を奪われ、声だけが喉の奥で擦れる。
それでも叫んだ。
「やめろって——言ってるだろ!」
極光が、掌の上で静かに揺らめいた。
冷たい光の層が重なり、刃物のような輪郭を持ち始める。
公子の唸りがその下でくぐもり、畳が軋む。
マリアは、視線を落としたまま動かない。
公子を踏みつける足。
秀則を押さえつける手。
どちらも、必要な動作として並列に置かれている。
だが。
秀則の叫びが、空気の膜を突き破った瞬間。
マリアの顔が、ほんの僅かに上がった。
——目が、合う。
紅い。
さっきまで無表情だったはずの瞳が、深い紅に染まっている。
光の反射ではない。
怒りで赤くなったのでもない。
それは、内側から滲む色だった。
憎悪。
懺悔。
悲しみ。
そのどれか一つではなく、混ざり合って沈殿した色。
そして、もっと厄介なもの——
それらを押し殺しきれず、なお押し殺そうとしている目。
秀則は、息が詰まった。
胸を押さえる圧より、目の方が重い。
マリアは、秀則を見ていた。
助けようとする人間を見る目ではない。
止めようとする相手を見る目でもない。
まして、敵を見る目ではない。
痛ましいものを見る目だった。
誰かの最期に手を伸ばす人間を、止める側が向ける視線。
処刑人の視線。
言葉はない。
けれど、瞳だけで足りてしまう。
秀則の喉が鳴る。
咳でも呻きでもない。
言い訳のような音。
「お母さんなんだよ……!」
絞り出す。
胸の奥が焼ける。
声が震える。
誠が、背後で息を吸った音がした。
理央が一歩動きかけて、止めた気配がした。
それでも、マリアは目を逸らさない。
紅い瞳の底に、確かな憎悪がある。
それは公子へ向けられているのか。
この状況へ向けられているのか。
自分自身へ向けられているのか。
秀則には分からない。
分かるのは、そこに懺悔があることだ。
そして、悲しみ。
救えないと知っている者の悲しみ。
救わせたくない者の悲しみ。
マリアの押さえつける手が、ほんの一瞬だけ強くなる。
秀則の肺が、きしむ。
視界が白く滲む。
マリアは、微かに瞼を伏せた。
祈るみたいに。
赦しを請うみたいに。
そして、もう一度開く。
紅い瞳が、秀則を貫いたまま。
掌の極光だけが、冷たく脈を打つ。
次の瞬間。
マリアの掌が、静かに前へ向いた。
狙いは迷わない。
踏みつけた獣へ。
秀則の喉が、何かを吐こうとして——吐けない。
息も、言葉も出ない。願いが形になる前に——
光が、放たれた。
ただ、白に近い極光が一瞬だけ空間を満たし、影を消した。
廊下の端から端まで、現実が磨かれたみたいに透き通る。
公子が悲鳴を上げる間は、存在しなかった。
喉の奥の唸りが——途中で、切れる。
爪が畳を掻いた動きが——途中で、止まる。
そして。
“そこにあったもの”が、なくなった。
転がっていた体も。
血のような目も。
伸びた爪も。
唾液の糸も。
熱も。
獣臭さも。
灰すら残らない。
畳に落ちた木片だけが、遅れて静かに転がった。
マリアの足が、空を踏む形になる。
踏みつける対象が消えたのに、足だけがそこに残り、次いで——ゆっくりと降ろされた。
秀則の胸を押さえていた掌も、離れる。
圧が抜けた瞬間、肺が反射で空気を吸い込んだ。
「っ——げほっ……! げほっ!」
咳が、痛みを伴って噴き出す。
喉が裂ける。
酸素が、刃みたいに胸の中へ刺さる。
秀則は床に手をつき、肩を震わせた。
そして。
廊下の真ん中に残ったのは、静寂だけだった。
マリアは、掌を閉じた。
極光は、消える。
余韻すら残さず、夜の暗さが戻る。
彼女は視線を落としたまま、ほんの僅かに顎を引いた。
黙祷。
言葉も、祈りも、口にしない。
ただ、一呼吸ぶんだけ、時間を止める。
それが彼女の弔いだった。
終わると、マリアは踵を返した。
廊下の先——玄関の方へ。
この場を、後にする動き。
迷いのない歩き出し。
「……人殺し」