「……人殺し」
床に落ちた視線の先には、畳の裂け目と木片だけが残っている。
さっきまで“そこにいたもの”の影すらない。
熱も、獣臭さも、唸りも。
——母も。
「紫村……」
誠の声が、すぐ傍で揺れた。
肩に触れようとして、ためらう気配。
「大丈夫か」
大丈夫、の意味が分からない。
息はできている。
咳は止まらない。
けれど——胸の奥に空いた穴は、息では埋まらない。
秀則は、反射で顔を上げた。
誠の手が、支えようと伸びている。
その指が視界に入った瞬間。
何かが、ぶち、と切れた。
「触るな」
低い声。
自分の声ではないみたいに冷たい。
誠が目を見開く。
「え、待て、紫村……」
手が、もう一度近づく。
秀則は、その手を——払った。
ぱし、と乾いた音。
誠の手が弾かれ、宙で止まる。
誠の表情が、痛みに近い形に歪む。
「……おい、落ち着け。今は——」
「落ち着け?」
秀則は笑ったつもりもないのに、喉が変な音を立てた。
唇が震える。
呼吸が、また浅くなる。
視界の端で、理央が動けずにいる気配がした。
マリアの足音は、もう遠い。
行ってしまう。
何も言わずに。
何も残さずに。
「元はと言えば——」
言葉が勝手に走る。
止めたくても止まらない。
胸の奥に溜まっていたものが、出口を見つけたみたいに溢れていく。
「元はと言えば、お前や黒野が悪いんじゃないのか!?」
誠の肩が、わずかに揺れた。
その反応が、さらに火を煽る。
「魔術とか、サーヴァントとか、知らねーよそんなの! 厨二かよ!」
足がふらつく。
それでも立つ。
壁に手をついたまま、誠を睨む。
「俺はな……!」
胸の奥に溜まっていたものが、次々に言葉へ変わる。
順番も理屈もない。
ただ、溢れる。
「こんなの……」
拳が、壁を叩いた。
鈍い音が響く。
痛みが遅れてくる。
それでも、止まらない。
「魔術だの、聖杯だの……知らねえよそんなもん!」
息が荒い。
声が震える。
「関係ねえだろ、俺には! 普通に暮らしてただけだ! 家で! 母親と!」
言葉の最後が崩れる。
けれど、止められない。
「それがなんで……こんなことになるんだよ……!」
誠が、何か言おうとする。
だが、秀則の声がそれを押し潰す。
「お前のとこの……爺さんなんだろ! 全部の元凶は!」
空気が、固まる。
言ってはいけないものに触れたような、沈黙。
だが、止まらない。
「監督官だか何だか知らねえけどよ……黒野もそうだ! 全部、あいつらの都合だろうが!」
視線が、廊下の奥へ向く。
マリアが去っていった方向。
もう見えない。
それでも、そこに向けて吐き出す。
「あいつもだ……!」
声が低くなる。
震えが混ざる。
「人じゃねえって……切り捨てて……」
唇が歪む。
「じゃあなんだよ……あれが人じゃねえなら……お母さんは何なんだよ……!」
答えは返ってこない。
誰も答えられない。
だから、怒りだけが膨らむ。
「お前らにとっては、どうでもいいんだろ!」
「“危険だから排除しました”で終わりだろ!? “仕方ない”で片付けるんだろ!?」
誠が、一歩踏み出す。
「紫村——」
「来るな!」
即座に叩きつける。
誠の足が止まる。
止まった誠を、秀則は睨みつけたまま叫んだ。
「——出てけ」
低く、しかしはっきりと。
廊下に残る冷気よりも冷たい声。
「……え」
誠が息を詰める。
理央も、言葉を失ったまま視線を揺らす。
「出てけよ」
今度は、はっきり怒鳴った。
「俺の家だ。ここは。……出てけ!」
拳が震えている。
怒りか、疲労か、自分でも分からない。
「紫村、ひとりは——」
「うるさい!」
理央が小さく息を吸う。
何か言おうとして、飲み込む。
秀則は、二人を順番に睨んだ。
「守るとか、責任とか、もういらねえんだよ。何も守れてねえだろ!」
胸が痛む。
けれど止めない。
「出てけ。今すぐ。……二度と入ってくるな」
静まり返る廊下。
畳の裂け目。
血の跡。
その真ん中に立ったまま、秀則は動かない。
誠が、何かを言いかける。
「……せめて、落ち着くまで——」
「うるさいって!」
遮断。
それ以上の言葉を受け付けない声。
誠の喉が、閉じる。
理央が、そっと誠の袖を引いた。
目で、止める。
これ以上は、届かない。
分かってしまう。
誠は、拳を握りしめたまま、ゆっくりと下ろした。
「……分かった」
かすれた声。
それ以上、何も言わない。
理央も小さく会釈し、言葉を飲み込む。
二人は、玄関へ向かう。
足音が、やけに大きい。
戸が開く音。
夜の空気が流れ込む。
そのまま、出ていく。
閉まる音が、乾いて響いた。
家の中に残るのは、静寂だけ。
外。
門の前に、マリアが立っていた。
街灯の下、影を伸ばして。
振り返らない。
背中だけが、そこにある。
誠と理央が出てくると、マリアは一瞬だけ視線を向ける。
何も言わない。
その沈黙が、重い。
少し遅れて、足音が駆け寄ってくる。
「……もし」
気まずそうな声。
九郎だった。
息を切らし、門の手前で立ち止まる。
家の中を一度見て、それから三人を見る。
その視線を受けて、誠は初めて眉をひそめた。
──誰だ。
今さらのように、違和感が浮かぶ。
門灯の下に立つ少年。
見覚えがない。
黒野の関係者でも、誠の知り合いでもない。
今夜の惨状の中に、自然に混ざっていたが──冷静になると、顔を知らない。
誠は、わずかに身構えた。
「……君は?」
九郎は、びくりと肩を震わせた。
視線が一瞬、家の方へ向く。
閉じられた玄関。
中に残されたままの秀則。
それから、改めて誠を見る。
「すまない。改めて名乗らせていただく」
深く一礼する。
場違いなほど丁寧な所作。
「名を九郎と言う。葦名の平田家にて……いや、この肩書きはここでは不要、か」
誠は、その所作をまじまじと見た。
街灯に照らされた着物姿。
帯の締め方も、草履の履き方も、妙に板についている。
この街の夜景の中で、そこだけ時代が切り取られているみたいだった。
「……その格好」
思わず、首を傾げる。
「コスプレ、じゃないよな」
九郎は一瞬だけきょとんとし、それから困ったように眉を下げた。
「何かを意図したものではない。私にとっては、これが常の装いだ」
誠の視線が、より鋭くなる。
理央も静かに観察している。
その沈黙を破ったのは、マリアだった。
「ヨセフカのように」
淡々とした声。
「この世界に紛れ込んだ存在、と見るのが妥当でしょう」
誠の目が、わずかに見開かれる。
「……あの、公子さんに薬を配った奴と?」
空気が、ぴんと張る。
理央も、視線を細めた。
誠は、九郎を改めて見る。
異物。
世界の歪みから零れ落ちた存在。
敵か、味方か、あるいは災厄か。
自然と、肩に力が入る。
「説明してもらおうか」
低い声。
警戒を隠さない。
九郎は、その視線を真正面から受け止めた。
逃げない。
逸らさない。
そこに、敵意はない。
ただ、真っ直ぐだ。
「正直なところ、自分がなぜここにいるのかは分からない。直前の記憶も曖昧だ」
静かに言う。
「だが、そなたらと敵対する意図もない」
その声には、誇張も、虚勢もない。
視線は、揺れない。
責任を負おうとする色はあるが、害意はない。
誠は、数秒、黙ったまま見つめる。
警戒は解かない。
だが——毒気が、抜ける。
あまりにも、真っ直ぐすぎた。
策を巡らせる目ではない。
何かを隠す目でもない。
ただ、状況を受け止めようとしている目。
誠は、息を吐いた。
吐いた息は冷えて、夜気に溶ける。
門の内側に残った静寂が、背中に張り付いたまま離れない。
玄関の向こうには——秀則がいる。
そして、もう、いないものがある。
その事実だけが、喉の奥を乾かした。
誠は九郎の目を見た。
真っ直ぐだ。
こちらを測る光がない。
敵意の形がない。
あるのは、困惑と——どこか、責任を負おうとする表情だけ。
誠は、迷いを言葉にする前に飲み込んだ。
「……疑ってごめん。最近……色々あって」
短く言って、顎を引く。
「行こうか」
九郎の目が、僅かに見開かれる。
次に、深く頭が下がった。
「恩に着る。……誓って、害はなさぬ」
誠は手を上げて制した。
「いやいや、そういうのは辞めよう。もう、辞めよう。とにかく、危ないから一緒に行動だ」
それだけ言って、視線を横へ流す。
理央。
理央は一瞬だけ誠を見返し、次に小さく頷いた。
異論はない。
誠は唇を噛んだ。
胸の奥で、何かが擦れる。
虚しさ。
罪悪感。
「……セイバーを探す」
声が少しだけ掠れた。
自分の声を確かめるみたいに、もう一度言う。
「予定通りだ。行方不明のセイバー。……先に、そっちを確保する」
「本当は他にやらなくちゃいけない事、沢山あると思う……けど、とにかく予定通り進めよう」
誠の言葉は、自分に言い聞かせるようだった。
頭が重い。
考えが、どこか鈍い。
怒鳴られた余韻も、消えない光景も、全部が脳の奥で絡まり合っている。
それでも、止まれば沈むと分かっている。
だから、動く。
「……黒野」
短く呼ぶ。
理央はすでに目を閉じていた。
呼吸を整え、意識を内側へ落とす。
マスターとサーヴァントを繋ぐ、見えない経路。
契約の痕跡。
切れかけた糸。
指先が、空気をなぞる。
「ええ。微かに残ってる。辿れるわ」
理央の足が、住宅街の細い路地へ向く。
「こっちよ、暗いから気を付けて」
先導する。
夜の住宅街は、異様に静かだった。
街灯の白が、アスファルトに淡く落ちている。
誠は、その背中を追う。
九郎が一歩遅れて並ぶ。
マリアは無言のまま周囲を警戒し、最後尾を取った。
理央は、時折立ち止まり、目を伏せる。
見えない糸を指先で辿るように。
「移動してる、かなり早いわ。全く、暴走しておいて魔力だけはしっかり私から供給してもらおうなんて、調子の良いサーヴァントね」
住宅街の灯りが、少しずつ疎らになる。
戸建てが減り、代わりに空き地が増える。
シャッターの閉まった倉庫。
古びた自動販売機。
舗装のひび割れ。
やがて、完全に住宅街を抜けた。
街灯の数が、急に減る。
金属の匂い。
油の残り香。
遠くに、巨大なクレーンの影が黒く浮かぶ。
「……工業地帯か、この辺はあんまり来た事なかったな」
誠が呟く。
昼間でも人気が薄い場所。
夜なら尚更、異界とかした灰原では更に、だ。
理央は足を止めず、先へ進む。
だが、数十メートル進んだところで——
不意に、歩みが止まった。
「……これは」
低い声。
誠も視線を上げる。
工業地帯の入り口。
道路を横切るように、何かが立ち込めている。
霧、に見えた。
だが違う。
白ではない。
灰とも黒ともつかない、重たい色。
雲のように揺れているのに、風に流れない。
空間そのものが、濁っているような。
奥が、見えない。
工場の輪郭も、フェンスの先も、すべてその向こうで溶けている。
九郎が、無意識に一歩下がった。
「……ただの霧ではないな、面妖な」
声が、低くなる。
理央は、ゆっくりと手を上げた。
指先が、その“霧”の手前数十センチで止まる。
触れていないのに、空気が重い。
圧がある。
息が、わずかに吸いづらい。
「……パスは、この中に続いてる」
誠は、喉を鳴らした。
戻る道は、ない。
「……行くぞ」
自分に言い聞かせる声。
理央が小さく頷く。
マリアは無言のまま一歩前へ出た。
九郎は、袖を握り直す。
誠は、ゆっくりと足を踏み出した。
霧の縁に触れた瞬間。
冷たい、というより——重い。
水ではない。
空気でもない。
何か粘性のあるものを掻き分ける感覚。
視界が、一瞬だけ暗転する。
次の瞬間。
霧の中へ、身体が沈んだ。
……だが。
「……?」
誠は目を瞬いた。
思っていたより、見える。
外から見た時の、先の見通せない濁りはない。
視界は曇っているが、十数メートル先までは十分に見通せる。
倉庫の輪郭も、クレーンの影も、歪みながらも存在している。
「内側の方が、視界は開けている……」
理央が小さく呟く。
「つくづく奇妙な霧ね、魔術かどうかは分からないけれど」
霧は、外界とここを隔てる“蓋”のようだった。
内側は、異様に静まり返っている。
音が吸われている。
風も、遠い。
誠は腕を振ってみる。
霧が、ゆらりと揺れ、すぐに戻る。
振り払うように、前へ進む。
足元のアスファルトが、かすかに湿っている。
古い鉄の匂いが濃い。
九郎が周囲を見回しつぶやいた。
「戦の匂いがする」
その時。
——キィン。
かすかな金属音。
一行は、同時に足を止めた。
耳を澄ます。
……ガン。
……ギィン。
今度は、はっきり。
金属がぶつかり合う音。
硬質な衝突。
何かが砕ける。
鉄骨がねじれるような音。
次いで、地面を抉るような衝撃。
遠くない。
倉庫群の奥。
理央の瞳が鋭く光る。
「戦闘してる……!」
誠の心臓が跳ねる。
セイバー。
間違いない。
だが、相手は?
再び、激しい音。
——ドォン。
何か巨大なものが崩れる気配。
鉄板が引き裂かれるような軋み。
霧が、その方向へ微かに流れている。
まるで、中心へ吸い寄せられているみたいに。
マリアが、低く言う。
「急ぎましょう。これは、長引けば周囲に被害が出る」
誠は頷き、走り出した。
鈍った頭の奥で、ただ一つの思考だけが明確になる。
——間に合え。
霧を掻き分け、鉄と破壊の音が響く方へ。
一行は、激しい戦闘の中心へと駆け出した。
霧の中を走ると、音は距離感を狂わせた。
近いはずなのに遠い。
遠いはずなのに、次の瞬間には鼓膜を叩く。
——ガァン。
鉄板が歪む。
——キン。
刃と刃が噛み合う。
誠は息を切らしながら、倉庫の角を曲がった。
そこで——視界が開けた。
廃れた資材置き場。
錆びたコンテナが積まれ、倒れたパレットが影を作っている。
地面には砕けたコンクリ片。
フェンスは一部がねじ曲がり、柵の向こうの闇が露出していた。
その中心で。
ひとつの影が、跳ねた。
人の跳躍ではない。
獣が、壁を蹴るような、躊躇のない飛び方。
——ガンッ。
着地の衝撃で、薄い鉄板が鳴る。
次の瞬間、影は反転し、半歩で距離を殺した。
片手に、西洋剣。
刃が、霧の薄光を切り裂く。
「……セイバー!」
理央の声が、掠れた。
誠も、声が出ないまま喉を開いた。
そこにいたのは。
確かに、セイバーの装備だった。
中世の鎧。
肩当て。
胸甲。
刃こぼれした剣。
以前見た、あの戦い方の“型”そのもの。
だが。
顔が——違う。
兜の下。
露出した皮膚は、黒い。
焦げた黒ではなく、枯れた黒。
水分を失い、縮み、影が張り付いたような。
頬も、唇も、削げている。
目の周りは深く落ち込み、眼球だけが異様に光っていた。
まるで——亡者。
生きているはずの“誰か”の顔ではない。
誠の背筋に、冷えが走る。
「……なんだよ、あれ……」
九郎が息を呑んだ。
声が、震える。
マリアは言葉を出さない。
ただ、視線だけで状況を測っている。
その亡者のセイバーは、叫ばない。
名も呼ばない。
息の音すら、どこか薄い。
代わりに、動きだけがある。
飛び、斬り、避け、踏み込む。
獣の敏捷。
人の剣技。
両方が、歪に噛み合っている。
そして——相手がいた。
霧の向こう、コンテナの影から影へ滑る何か。
その者は、槍を携えていた。