霧の奥から槍が走った。
鋭い一閃が空間を縫い、セイバーの剣と激突する。
剣はそれを弾いたというより、真正面から噛み砕くように受け止めた。
金属同士が擦れ合う甲高い音へ、どこか骨の軋みに似た鈍さが混じる。
次の瞬間、セイバーが跳んだ。
獣が壁を蹴るようにコンテナの側面へ足を掛け、その反動で身体を反転させる。
鎧が軋む音だけが、一拍遅れて霧の中を追いかけた。
鉄板へ着地した瞬間、足元が大きく撓む。
だが、そこに槍兵はいなかった。
つい先ほどまで立っていた場所から姿が消え、別の影が横へ滑っている。
人間が走ったようには見えない。
霧の濃淡へ身体を溶かし、輪郭そのものを別の場所へ擦り替えたような移動だった。
セイバーは躊躇しない。
すぐさま追い、剣を横薙ぎに振るう。
しかし刃が裂いたのは霧だけだった。
次いで背後から槍の柄が鎧へ叩き込まれる。
鈍い衝撃音が響く。
それでもセイバーは崩れなかった。
むしろ攻撃を受けた反動のまま肘を引き、槍を腕の内側へ抱え込むようにして絡め取る。
槍兵の身体が一瞬だけ引かれた。
その隙を、セイバーは逃さない。
剣を一気に振り下ろす。
だが。
キン、と乾いた音が響いた。
槍の穂先が剣の腹を受けていた。
押し込まれた長柄が大きく撓み、弓のようにしなった次の瞬間、その反動を利用して剣を跳ね上げる。
火花が霧の中へ散った。
ほんの一瞬だけ、暗い空間に星が瞬いたように見えた。
誠は無意識に息を止めていた。
目の前でこれほど激しい戦闘が起きているのに、音だけが妙に遠く感じられる。
視界は確保できている。
それなのに距離感だけが曖昧だ。
この霧が、現実そのものの厚みを削っているようだった。
「……介入するべきかしら」
理央が絞り出すように呟いた。
指先は僅かに動いている。
いつでも魔術を起動できるよう準備しているのだろう。
それでも踏み込めない。
槍兵が何者なのか分からない。
そして何より、目の前のセイバーがどこまで“自分”を保っているのか、それすら判断できなかった。
マリアは戦闘そのものではなく、その周囲へ静かに目を巡らせている。
次の瞬間、セイバーが再び跳んだ
コンテナの角を蹴り、槍兵の真上へ回り込む。
高所から振り下ろされる剣が、重力ごと敵を断ち割る刃へ変わった。
だが槍兵は退かなかった。
長槍を真上へ突き出し、セイバーの落下地点へ穂先を置く。
迎撃。
胸甲へ槍が突き込まれる。
ガァンッ、と鎧が鳴った。
穂先は胸甲を貫き切れず、その表面を滑りながら激しい火花を散らす。
空中で身体を捻ったセイバーは、体勢が崩れたまま剣を横へ振るった。
狙いは槍兵の肩口。
しかし、それも受け止められる。
槍の柄と剣が噛み合い、互いの力が真正面からぶつかった。
金属が低く軋み、周囲の霧まで震える
その刹那、誠の視界へセイバーの顔が飛び込んだ。
黒く干からびた皮膚。
削げた頬。
開いた口から声は出ない。
代わりに漏れたのは、砂でも擦り合わせたような乾いた吐息だった。
その顔が僅かに歪む。
笑ったように見えた。
人間らしい笑みではない。
感情の形だけが肉体へ残され、中身だけが抜け落ちたような笑いだった。
「……っ」
誠の胃の奥が冷える。
槍兵が槍の石突きを地面へ打ち付けた。
衝撃でコンクリート片が跳ね、セイバーの身体が僅かに弾かれる。
その隙へ槍が突き込まれた。
狙いは喉元。
セイバーは剣で受け止める。
衝撃に耐え切れず、足元の薄い鉄板が裂けた。
その下には、黒い水のような影が覗いている。
剣と槍が何度も噛み合う。
どちらも退かない。
一歩も譲らないまま、火花と破壊の痕跡だけが増えていった
誠は奥歯を噛み締める。
助けるべきなのはセイバーだ。
理屈だけなら、それで終わる。
だが今、目の前で剣を振るっているのは、誠が知っているセイバーとはあまりにも違っていた。
理央のサーヴァントであるはずの騎士が、亡者のような顔で笑い、獣じみた動きで相手へ襲い掛かっている。
あれを本当に“味方”と呼んでいいのか。
「……黒野」
誠は声を落とした。
「今のセイバー、止められるのか」
理央はしばらく答えず、戦場を見つめたまま小さく首を振った。
「……いいえ。パスは繋がってる。でも、命令は効かないと思う」
「じゃあ、槍の方に味方するか?」
その問いへ、九郎が低い声を挟んだ。
「敵かどうかも分からぬ相手だぞ」
その通りだった。
霧の向こうで動き続ける槍兵の姿は、未だにはっきりとは見えない。
ただ少なくとも、周囲を無差別に破壊しているのはセイバーの方だった。
ひしゃげたコンテナ。
裂けた鉄板。
崩れた足場。
槍兵は攻撃を受け止めながら、被害を抑えるように動いているようにも見える。
その時、ドォン、と大きな音を立ててコンテナの一つが横倒しになった。
巨大な鉄板が地面を擦り、耳を刺すような音を残す。
その直後。
マリアの視線が、ふいに戦場から逸れた。
「おやおや、マスタァ」
軽く腕を押さえられ、誠もそちらを見る。
霧の揺れの向こう。
古びたドラム缶と木箱が積み上げられた資材置き場の隅に、人影があった。
女だった。
両膝を抱え込み、身体を丸めるようにして影の中へ縮こまっている。
声は上げていない。
だが肩は小刻みに震え続け、戦闘の衝撃が響くたびにびくりと跳ねていた。
「……一般人?」
誠の目が見開かれる。
理央も息を呑んだ。
こんな場所に普通の人間がいるとは思っていなかった。
だが、現実にいる。
そして今のまま戦闘が続けば、いずれ飛び散った鉄片や瓦礫があの場所まで届く。
誠は戦場と女を交互に見た。
「……黒野」
短く呼ぶ。
理央がすぐに振り向く。
誠は顎で女のいる方向を示した。
「先に、あっちだ」
理央は一瞬だけセイバーへ目を向けた。
迷いが揺れる。
だが、それも僅かな間だった。
「ええ。そうね」
すぐに頷く。
九郎も女の存在を確認すると、静かに言った。
「戦に巻き込まれた民を先に救う。よい判断だと思う」
マリアは何も言わなかった。
すでに戦闘の位置と女までの距離、飛び散る破片の軌道まで見ているように、忙しなく視線だけを動かしている。
「俺が行く」
誠はそう言うなり走り出した。
低く身体を落とし、コンテナや資材の陰を利用しながら距離を詰めていく。
背後では戦闘音が絶えず弾けていた。
振り返らない。
今は、女を助ける。
それだけに集中する。
やがて資材の山の陰まで近付くと、女が靴音へ反応して顔を上げた。
怯え切った目が誠を見る。
視線が合った。
その瞬間、誠の足が止まった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
向こうも同じように目を見開いている。
数秒間、二人とも言葉が出なかった。
やがて女の唇が震える。
「……は、灰原……くん?」
聞き覚えのある声だった。
学校の教室。
黒板。
出席簿を片手に名前を呼ぶ声。
その光景が、一瞬で脳裏へ蘇る。
「……赤城、先生?」
女――赤城美桜は、震えながら小さく頷いた。
髪は乱れ、上着には土埃が付着している。
それでも間違いない。
誠たちのクラス担任だった。
背後で再び金属が激しくぶつかった。
ギィン、と耳を刺す音が響く。
美桜の肩が大きく跳ねる。
「灰原くん……? どうして……」
誠にも聞きたいことは山ほどあった。
なぜ担任がこんな工業地帯にいるのか。
なぜこの霧の中にいるのか。
だが、今は後回しにするしかない。
「先生、立てますか?」
なるべく落ち着いた声を作る。
美桜は頷こうとしたものの、足に力が入らないらしい。
腰が抜けている。
そこへ理央と九郎も追いついてきた。
理央は美桜の顔を見て目を見開く。
「……先生?」
「知り合いか」
九郎が尋ねる。
「ああ。担任の先生だよ」
誠は答えながらしゃがみ込み、美桜へ手を差し出した。
「先生。掴まってください」
美桜は怯えたまま、恐る恐るその手へ指を伸ばす。
触れた瞬間、誠はその手が異様なほど冷たいことに気付いた。
血の気を失った人間の冷たさ。
手を握り、引き起こそうとした。
視線が、美桜の手の甲へ吸い寄せらる。
薄い皮膚の上。
汗と埃の間に、赤黒い紋様が浮かんでいる。
三画。
渦を巻くような刻印。
見間違えるはずがなかった。
「……令呪」
声が勝手に漏れる。
美桜がびくりと肩を震わせる。
「……こ、これ何?」
知らないふりではなかった。
本当に意味が分かっていない顔だった。
誠の喉が鳴る。
頭の中で、いくつもの情報が繋がる。
工業地帯を覆う霧。
槍を持った謎の戦士。
その戦士が、まるで何かを守るようにセイバーと戦っていたこと。
そして、この場所にいる赤城美桜。
一般人のはずの教師の手に刻まれた、三画の令呪。
答えは一つしか思い浮かばなかった。
赤城美桜は、マスターだ。
誠は息を潜め、戦場へ視線を向ける。
霧の向こうで槍と剣が再び噛み合っていた。
よく見れば、槍兵は確かにこちら側を庇うような位置取りを維持している。
守る対象がある者の戦い方。
ならば――。
ランサー。
そして、そのマスター。
まだ推測に過ぎない。
それでも状況は、ほとんどその答えを指し示していた。
理央も誠の視線を追い、美桜の手の甲を見て息を呑む。
その直後。
ギィン、と先ほどまでよりも低く重い金属音が響いた。
霧が一瞬沈み、周囲の空気の密度まで変わったように感じられる。
誠は反射的に顔を上げた。
亡者と化したセイバーが、また獣のように槍兵へ跳び掛かっている。
だが今度は、槍兵が初めて大きく距離を取った。
逃げたのではない。
戦闘そのものを一度断ち切るための後退だった。
槍が地面を薙ぐ。
砕けたコンクリート片が帯のように舞い上がり、霧の中へ白い壁を作った。
セイバーの突進が、ほんの一拍だけ鈍る。
それで十分だった。
槍兵の姿が霧の濃淡へ溶けた。
次の瞬間。
ドンッ、と重い着地音が誠たちの目の前へ落ちた。
鉄板が僅かに沈み、その振動が足元から膝へ伝わる。
霧の中から姿を現したのは、一人の騎士だった。
装備はセイバーと同じく西洋式のものだが、重厚な全身甲冑ではない。
胸当て、肩、肘、膝といった要所だけを金属で覆い、可動域を最大限確保した軽装だった。
動くたび革と金具が擦れ、小さな音を立てる。
兜はない。
顔の半分は霧と影へ沈んでいたが、その目だけはこちらをはっきり捉えていた。
そして手には、長い槍がある。
その穂先は異様だった。
単純な葉形の刃ではなく、輪郭が波打つように刻まれている。
刺すだけの武器ではない。
肉を裂き、抉り、傷を広げることまで前提に作られた形。
槍兵は穂先を低く構えたまま、一度だけ美桜へ視線を落とし、すぐに誠たちへ戻した。
敵意は強くない。
だが警戒心は、刃物のように研ぎ澄まされていた。
「……おっと。いつの間にか大所帯になったもんだ」
皮肉というより、疲労を滲ませた声音だった。
槍の穂先はまだこちらへ向いている。
背中では、今もセイバーの動きを測っているらしい。
霧の奥で鉄が擦れ、近付いてくる気配がした。
槍兵は美桜へ顔を向ける。
「マスター」
短い呼び掛けだった。
その一語で、場の空気がさらに硬くなる。
「……この子達は知り合いかい?」
美桜は何度か瞬きをした。
口を開く。
だが、言葉が出ない。
その間にも遠くで、ガァンッ、と何かが潰れる音が響く。
肩を震わせた美桜は、ようやく聞き返した。
「ま、マスター……?」
自分が何を呼ばれているのか、本当に理解できていない。
「……え、なに……? 何のこと……?」
視線が誠、理央、九郎、マリアの順に泳ぎ、最後に自分の手の甲へ落ちた。
令呪。
見ても意味が分からない。
「わ、私、そんな……! 私、何が何だか……」
槍兵の眉が僅かに動いた。
苛立ちではない。
状況に対する諦めに近い、「やれやれ」とでも言いたげな反応だった。
槍を構えたまま、今度は誠を見る。
一瞬目が合う。
その視線だけで、誠が自分のマスターよりは事情を理解している側だと判断したらしい。
槍兵は小さく息を吐き、空いている手で軽く肩をすくめた。
言葉にしなくても分かる。
――説明はそっちに任せた。
その時、霧の奥が大きく揺れた。
亡者のセイバーが、こちらへ向けて跳ぶ気配が急速に近付いてくる。
槍兵はすぐに戦場へ意識を戻し、槍を構え直した。
「全く、どこの野良サーヴァントなんだかなあ。躾がなってねえ」
そして、誠へもう一度だけ目を向ける。
「助太刀を頼めるか?」
槍を握り直す。
「マスターがこんな有様じゃ、好きに戦えなくてな。とりあえず俺が突っ込むから――」
言葉の途中だった。
ギィィンッ、と剣が霧を引き裂く音が響く。
直後、鉄板を踏み砕くような着地音。
亡者のセイバーが、獣のようにこちらへ迫っていた。
槍兵が半歩前へ出る。
穂先が霧の中の薄い光を鈍く反射した。
同時に、美桜が誠の腕へ縋り付く。
「は、灰原くん……っ、何が……何が起きてるの……?」
誠はその手を振りほどけなかった。
説明しなければならない。
だが同時に、こちらへ迫るセイバーも止めなければならない。
迷っている時間はなかった。
「マリア! 応戦を!」
声を張る。
言い終えるより早く、背後で軽い足取りが鳴った。
まるで散歩でもするように、マリアがふらりと槍兵の隣へ並ぶ。
「ええ、もちろんです」
武器は持っていない。
剣もない。
槍もない。
銃すらない。
あるのは、自分の拳だけだった。
槍兵は横目でマリアを見た。
「……あんた、武器は?」
「んん。強いて言うなら、母性と愛嬌でしょうか」
マリアは肩をすくめる。
槍兵は何とも言えない顔で、その姿を上から下まで見た。
鎧すら着ていない。
それなのに、躊躇なく戦闘の最前線へ並んでいる。
「……あんたは何の英霊だい?」
マリアは迫り来るセイバーから目を逸らさないまま、小さく首を傾げる。
「さあ、何なんでしょうねぇ」
答えになっていない。
だが、ふざけているようにも聞こえなかった。
槍兵は短く鼻を鳴らす。
「……まあいい。戦えるなら文句はねえ」
その瞬間。
ギィィンッ、と剣が霧を裂いた。
亡者のセイバーが跳ぶ。
鎧を軋ませながら、一息で距離を潰してくる。
黒く枯れた顔には、あの歪な笑みが張り付いたままだった。
槍兵が迎撃のため、穂先を突き上げる。
だが、その一撃より先にマリアが一歩、前へ出た。
霧が足元から僅かに割れる。
拳をゆっくり握り込む。
「……さて」
静かな声だけが、激しい戦闘音の隙間へ落ちた。
マリアは落下してくる亡者を見上げ、楽しげに目を細める。
「野良犬に、躾を致しましょう」