霧が大きく割れた。
亡者と化したセイバーが獣のように跳躍し、足元の鉄板を踏み抜く勢いでマリアへ一直線に突っ込んでくる。
そこに躊躇も迷いもなく、ただ最短距離で敵を斬るという意思だけがあった。
振り下ろされた剣が霧を裂く。
ギィィンッ、と甲高い音が響いた。
だが、刃はマリアの身体へ届かなかった。
止めたのは、右手だった。
素手の指が剣身を掴んでいる。
金属と肉が擦れ合う嫌な音が鳴り、刃は完全には止まり切らず、掌へ僅かに食い込んだ。
皮膚が裂け、赤い血が滲む。
それでも、そこで止まった。
セイバーはさらに押し込もうとする。
腕が震え、鎧が軋む。
だが、マリアの足は半歩すら退かなかった。
「……ふむ」
漏れた声は妙に落ち着いていた。
攻撃を受けているというより、目の前の剣筋を観察しているような声音だった。
マリアは剣を掴んだまま、空いている左手をゆっくり持ち上げる。
開かれた掌へ、青白い光が集まり始めた。
ただの魔力光とは違う。
極地の夜空を思わせる冷たい輝きが薄い幕のように揺れ、霧の中へ淡く広がっていく。
極光。
周囲の空気まで微かに鳴った。
ランサーの目が僅かに細くなる。
「それは……」
彼にも分かるのだろう。
通常の魔術とは何かが違う。
もっと原始的で、もっと異質な何かだった。
マリアがその手を振り下ろそうとした瞬間、セイバーの脚が跳ねた。
鎧に覆われた膝が横から腹部へ叩き込まれる。
ドンッ、と重い衝撃が響いた。
マリアの身体が浮き、そのまま数メートル横へ弾き飛ばされる。
鉄板の上を滑り、霧を大きく巻き上げた。
一方のセイバーは、蹴りを放った直後にはすでに距離を取っていた。
危険を感じた瞬間に離脱する。
理性を失っていても、戦闘に染み付いた反射だけは残っているらしい。
マリアは少し遅れて身体を起こした。
掌へ集めていた極光は消えている。
代わりに、右手から血が流れていた。
剣を掴んだ掌には深い裂傷が走り、赤い筋が指先を伝って鉄板へ落ちる。
ぽたり、と。
マリアは自分の手を見つめた。
数秒ほど、何も言わない。
「……まだ赤色でしたか」
小さな呟きには、ごく僅かな驚きが混じっていた。
手を目の高さまで持ち上げる。
指先へ伝った血を見つめ、そのまま舌でゆっくり舐め取った。
鉄の味を確かめるように。
「……いやしかし」
舌先で味を転がすような仕草をしたあと、マリアは再び掌を開く。
裂けた肉。
刃が食い込んだ傷。
まだ僅かに血が滲んでいた。
それを他人の傷でも見るような顔で眺めていると、不意に傷口が動いた。
裂けていた肉が寄り合い、皮膚が音もなく閉じていく。
出血も止まる。
まるで時間を巻き戻したように、瞬きするほどの間に傷は完全に消えた。
何事もなかった掌が残る。
マリアは一度握ってから開き、機能に問題がないことを確かめると、楽しげに目を細めた。
「亡者になってなお、その剣筋ですか」
霧の向こうに立つ黒い騎士を見つめる。
「惜しいですねぇ。そんな有様になってしまって」
当然、返事はない。
セイバーに答えるための声など、もはや残っていなかった。
それでも剣先は微かに動き、足が再び前へ出る。
戦いを続ける意思だけは消えていない。
マリアはその動きを見て肩をすくめた。
「さて……不死者同士で殺し合うほど、無意味なこともありませんね」
次の瞬間、横から影が飛び込んだ。
ランサーだった。
低く沈み込んだ姿勢のまま一息で距離を詰め、長槍を真っ直ぐ突き出す。
ズァンッ、と鈍い破砕音。
穂先が鎧ごとセイバーの胴体を貫いた。
刃は背中まで突き抜け、そのまま地面へ叩き込まれる。
鉄板を貫き、さらに下のコンクリートへ深く食い込んだ。
セイバーの身体が地面へ縫い付けられる。
長い柄が低く震えた。
ランサーはそのまま槍を踏み込み、全体重を掛ける。
「捕まえた!」
短く吐き捨てた。
だが次の瞬間。
セイバーの身体が大きく跳ねた。
「……は?」
胸を槍に貫かれているにもかかわらず、強引に上体を起こそうとする。
鎧が軋み、槍がしなる。
地面へ突き立った剣を支点にして、無理やり身体を持ち上げようとしていた。
鎧の隙間から血が滲み出す。
それでも止まらない。
喉の奥から、声とも息ともつかない乾いた音が漏れる。
空洞へ風を通したような、不気味な音だった。
「冗談だろ」
ランサーが眉を寄せ、槍を踏む足へさらに力を込める
それでもセイバーは起き上がろうとした。
地面に縫い付けられたまま、身体だけを持ち上げようと暴れ続ける。
霧が震え、鎧が軋み、槍の柄が悲鳴を上げた。
ランサーも歯を食いしばる。
「悪魔だ化け物だと、そういう連中ならあらかた相手してきたが……こいつはピカイチだなっ!」
さらに体重を掛ける。
それでも止まらない。
その様子を、マリアはしばらく黙って眺めていた。
楽しんでいるわけでもなければ、困っているようにも見えない。
単純に、観察している。
やがて、ふいに理央へ顔を向けた。
「黒野理央」
突然名を呼ばれ、理央の肩が僅かに跳ねる。
「え?」
マリアは槍に縫い付けられたセイバーを指差した。
「あなたのサーヴァントでしょう」
あまりにも当然のことを言うような声だった。
「早く落ち着かせてください」
理央が目を見開く。
誠も思わず口を挟んだ。
「いや、そんな簡単に言うけど――」
その間にもセイバーは身体を持ち上げようとする。
槍が軋み、踏みつけているランサーの足さえ僅かに滑った。
「長くは持たねえぞ!」
ランサーの怒声が飛ぶ。
その一言が、理央へ決断を迫った。
理央は喉を鳴らし、自分の手の甲へ目を落とす。
残っているのは最後の一画。
令呪。
しばらく見つめたあと、深く息を吸った。
「……分かった」
次の瞬間には走り出していた。
「黒野!」
誠が叫ぶ。
だが理央は止まらない。
霧を裂き、散らばった鉄片を踏み越え、そのまま暴れ続けるセイバーの正面へ飛び込んだ。
ランサーが驚いて目を見開く。
「おい、危ね――」
理央は構わず、セイバーの目前へ手を突き出した。
手の甲に残る赤い令呪が、霧の中で淡く光る。
「――止まりなさい」
震えを押し殺した声だった。
セイバーの動きが、ほんの一瞬揺らぐ。
理央は退かなかった。
槍に貫かれ、亡者と化した騎士の顔を真正面から睨み返す。
「忘れたとは言わせない」
喉が震えている。
それでも言葉は途切れなかった。
「私が、あなたのマスターよ」
令呪をさらに突き出す。
「従いなさい」
まだ令呪そのものは使っていない。
ただ主として、契約者として正面から命じた。
しばらく、誰も動かなかった。
セイバーは槍に貫かれたまま、剣も鉄板へ突き立ったままだった。
理央の手の甲だけが淡い赤色に光っている。
やがて亡者の騎士が、ゆっくり顔を上げた。
黒く干からびた顔。
深く落ち窪んだ眼窩。
その奥にある目が、理央を見た。
数秒間、ただ見つめる。
獣じみた動きは止まっている。
だが、それが理解したためなのか、単純に状況を計算しているだけなのかは誰にも分からない。
喉の奥から、また乾いた音が漏れる。
セイバーの身体から不意に力が抜けた。
身体を起こそうとしていた腕が下がり、暴れていた脚も止まる。
鎧が低く鳴りながら、地面へ沈んだ。
槍はまだ胸を貫いている。
それでも、それ以上動こうとはしなかった。
誠が息を呑む。
「……止まった?」
理央も令呪を掲げたまま動かない。
それが主従の契約を思い出した結果なのか、令呪の存在に屈したのか、あるいは単に今は勝ち目がないと判断しただけなのかは分からない。
ただ、亡者の騎士が大人しくなったという事実だけがある。
数秒後、ランサーが長く息を吐いた。
「……はぁ。やっとかよ……」
槍を踏んでいた足を外す。
殺気はいくらか薄れたものの、槍を抜こうとはしなかった。
油断していないのだろう。
周囲へ目を走らせたランサーは、やがてコンテナの脇に転がっていたものを見つけた。
「お。ちょうどいいのがあるじゃねえか」
工場で使用していたらしい太い鋼鉄製のワイヤーだった。
ランサーはそれを引きずって戻ると、セイバーの隣へしゃがみ込んだ。
「悪いな、騎士様。さすがにこのままってわけにはいかねえ」
ワイヤーを腕へ巻き付け、続いて胴へ回す。
さらに槍まで巻き込み、何重にも締め上げていく。
金属同士がぎりぎりと擦れた。
セイバーは抵抗しない。
座り込んだまま、黒い顔で前だけを見ている。
最後にランサーはワイヤーの端を近くの鉄骨へ括り付け、強く固定した。
ガン、と金具が鳴る。
一歩離れて状態を確認する。
「……よし。まあ、気休め程度にはなるだろ」
肩を大きく回すと骨が鳴った。
ようやく槍から手を離す。
それでも一度だけセイバーへ視線を送り、動かないことを確かめてから誠たちへ向き直った。
「……さて」
マリア、誠、九郎、理央へ順番に目を向ける。
「助かった」
短いが、はっきりとした礼だった。
「正直、一人じゃ骨が折れてた。いや、骨どころか胴体ごと折られてたかもしれねえな」
冗談めかして笑う。
だが、視線だけはまだセイバーを警戒している。
そのまま理央へ向き直った。
「で、嬢ちゃん」
「……はい」
理央の肩が僅かに動く。
ランサーは親指で後ろのセイバーを指した。
「そいつ、あんたのサーヴァントなんだろ?」
理央は小さく頷く。
ランサーは困ったように笑った。
「だったら、手綱はちゃんと握っといてくれよな」
理央は視線を落とした。
「……ええ。ごめんなさい」
小さな声だった。
ランサーは短く鼻で息を吐く。
「まあ、事情がありそうだから深掘りはしねえよ。次から気を付けりゃいいだけだ」
槍の石突きを軽く地面へ打ち付けた。
その時、誠の背後で小さく布の擦れる音がして振り返る。
資材の影から、美桜が恐る恐る顔を覗かせていた。
まだ完全には身体を出さず、誠の背中へ半分隠れるようにして、霧の中の騎士たちを見ている。
視線はまずランサーへ、次に縛られたセイバーへ、そしてマリアへ移る。
人間ではあり得ない戦闘を目の当たりにした直後なのだから当然の反応だった。
美桜は誠の服を僅かに掴んだ。
「……灰原くん」
掠れるほど小さな声だった。
誠が顔を傾ける。
「……あの人たち、本当に……人間なの……?」
すぐには答えられなかった。
美桜の指先が袖を弱く掴んでいる。
背後では縛られたセイバーが鉄骨へもたれ、ランサーは槍を肩に担いで霧の奥を警戒している。
マリアは先ほどまで血を流していた手を見終えると、何事もなかったような顔で立っていた。
九郎も、美桜へ何を言えばいいのか分からない様子だった。
何から説明すればいい。
英霊。サーヴァント。聖杯戦争。異界と化した灰原。
説明しなければならない事はいくらでもある。
だが、どれも立ち話で説明できるような内容ではない。
「先生、その……」
誠は口を開いて、すぐに止まる。
何を言っても嘘のように聞こえる気がした。
「ちょっと、色々あって」
結局出てきたのは、あまりにも無難で説明にもならない言葉だった。
自分でも情けなくなる。
「色々って……」
美桜は不安げに誠を見上げる。
「灰原くん、さっきの……槍とか剣とか……あの人たちは何を――」
そこで言葉が途切れた。
美桜の焦点がふっと外れる。
「……先生?」
呼び掛けても返事がない。
呼吸が急に荒くなり、肩が上下する。
青ざめていた顔から、さらに血の気が引いていった。
誠はその変化に覚えがあった。
身体から力が抜けていく。
耳鳴りが始まり、意識が遠のいていく直前の独特な感覚。
サーヴァントが大量の魔力を消費した結果、マスター側の魔力もほとんど底をついているのだろう。
要するに、ガス欠だ。
かつて誠自身も経験した。
懐かしいなどと言えるような感覚ではない。
それでも一瞬だけ、自分も当時はこんな顔をしていたのかもしれないと思った。
「……先生、まずい」
そう口にした時には、もう美桜の膝が折れていた。
「きゃ――」
短い声とともに身体が前へ倒れる。
誠は慌てて腕を伸ばし、その身体を受け止めた。
力がまるで入っていない。
「赤城先生!」
理央もすぐに駆け寄る。
美桜の瞼は閉じかけていた。
呼吸はあるが、意識はほとんど途切れかけている。
九郎も脇へしゃがみ込み、顔色を確かめた。
「傷はないようだ」
「でも、このままここに寝かせておくわけにはいかないわね」
理央も周囲を警戒しながら答える。
誠は美桜を支えたまま、苦く息を吐いた。
どう説明するか悩んでいた矢先に、説明どころではなくなった。
だが、ある意味では助かったのかもしれない。
今の自分に、何もかも順序立てて説明できる気がしなかった。
誠は美桜の頭を打たないよう慎重に身体を抱え直し、それからランサーを見る。
「……なあ」
「ん?」
「この辺で、少し休ませられる場所はないか?」
腕の中の美桜を示す。
「見ての通り、かなり参ってる。多分、あんたがさっき結構動いたせいだと思う」
責めるつもりはないが、ただ事実として伝えた。
ランサーも気を悪くした様子はなかった。
美桜の顔色を一目確認すると、小さく鼻で息を吐く。
「そりゃ悪かったな」
あっさり認めた。
槍を担ぎ直しながら、少し考える。
「休ませるなら、学校だな」
誠が眉を寄せる。
「学校?」
「ああ。マスターが勤めてた学校だ。つまり、あんたらの学校でもあるんだろ?」
ランサーは霧の向こうを顎で示した。
「この街じゃ今、あそこが臨時の避難所みてえなもんになってる」
理央が顔を上げる。
「……避難所か」
「そうだ。最初はただ人が集まっただけだったらしいが、今じゃ行き場のねえ連中がとりあえず流れ着く場所になってる」
そこまでは理解できる話だった。
だがランサーは少し苦い顔をする。
「もっとも、普通の避難民だけじゃ済んでねえけどな」
誠の目が細くなる。
「どういう意味だ?」
「灰原の市民はもちろんいる。家を失った奴、外を歩けなくなった奴、訳も分からんまま閉じ込められた奴。そこまでは普通だ」
一度言葉を切る。
「けど、妙な奴も混じってる。どこの時代から来たのか分からねえ格好の連中とか、明らかに人じゃねえのとか」
九郎が僅かに目を伏せた。
自分も、その“妙な奴”に分類される側だと理解したのだろう。
誠は低く息を吐く。
「……カオスだな」
「おいおい。混沌の権化が何言ってるんだか」
ランサーは苦笑する。
「まあ、近いもんだ。泣いてる奴も、怒鳴ってる奴も、黙ってる奴もいる。正気を保ててるのか怪しい連中も、ちらほらな」
その言葉に反応したのか、誠の腕の中で美桜の肩が僅かに震えた。
ランサーはそれを横目で見てから、少しだけ声を落とす。
「……この先生も、元々そこにいた」
「いた?」
「ああ。最初は大人しくしてたらしい」
本人から詳しく事情を聞いたわけではないのだろう。
ランサーは周囲の話をまとめるように続ける。
「けど、長くは持たなかったんだろうな。ただでさえ訳の分からねえ状況だ。しかも周りには怯え切った一般人と、説明のつかねえ連中が一緒くたに押し込まれてる」
槍の先を地面へ向ける。
「奇妙な気配の奴。人間じゃない何か。明らかに、この世の理から外れたもの」
マリアは何も言わなかった。
「……耐え切れなかったんだろ」
ランサーは淡々と締めた。
「学校の空気にやられて、抜け出したらしい」
誠は美桜の顔を見下ろした。
青ざめた頬。閉じた瞼。
先ほどまでの怯え方を思い返せば、その説明には妙な説得力があった。
美桜は元々、何が起きても平然としていられるような人ではない。
異形や異常に囲まれ、何一つ理解できないまま、そこが本当に安全なのかも分からない避難所へ押し込められた。
逃げ出したとしても不思議ではなかった。
理央が静かに尋ねる。
「つまり……先生をそこへ戻すの?」
ランサーは肩をすくめた。
「連れ戻す、って言い方になっちまうな」
気持ちのいい響きではない。
だが他に現実的な方法もない。
「仕方ねえだろ。外へ一人で放り出しとくよりは、人の目がある分まだマシだ。少なくとも寝床と壁はある」
誠は奥歯を噛んだ。
納得できているわけではない。
だが反論も難しかった。
霧に覆われた工業地帯で、意識を失いかけている教師を抱えたまま長居するわけにはいかない。
学校が完全な安全地帯でなかったとしても、少なくともここよりはいい。
「……分かった」
低く答える。
「とりあえず学校へ行こう」
理央も頷いた。
「先生を横にできる場所があるなら、それが先ね」
九郎も周囲へ目を配りながら口を開く。
「ならば、急いだ方がよい。この場所は長く留まるには不穏だ」
その言葉へ応じたかのように、後方で鋼鉄のワイヤーがぎちりと鳴った。
全員の視線が縛られたセイバーへ向く。
だが、亡者の騎士は鉄骨にもたれたまま沈黙していた。
ランサーはその様子を確かめてから槍を持ち直す。
「よし。じゃあ案内するぜ」
一度、眠りかけている美桜へ目を向ける。
それから、誠たちを見回した。
「ボスにも会わせたいしな」