Fate/You Died.   作:助兵衛

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第65話 亡者の王

 霧が、割れた。

 

 獣の跳躍。

 

 ——ガンッ! 

 

 鉄板が踏み抜かれる。

 

 亡者のセイバーが一直線にマリアへ突っ込んだ。

 

 躊躇がない。

 

 狙いも、迷いもない。

 

 ただ、最短距離で斬る。

 

 剣が振り下ろされる。

 

 ——ギィィンッ! 

 

 だが、その刃は途中で止まった。

 

 止めたのは——手だった。

 

 マリアの右手。

 

 指が、剣の刃を掴んでいる。

 

 素手で。

 

 金属と肉が擦れる音が、嫌な形で響く。

 

 刃は完全には止まらない。

 

 押し込まれ、皮膚を裂き、血が滲む。

 

 それでも——止まった。

 

 セイバーの腕が、わずかに震える。

 

 押し込む。

 

 だが、動かない。

 

 マリアの足は、半歩も退かない。

 

「……ふむ」

 

 静かな声。

 

 まるで、観察しているみたいに。

 

 マリアは剣を掴んだまま、もう片方の手をゆっくり持ち上げた。

 

 掌が開く。

 

 そこへ——光が集まり始める。

 

 淡い。

 

 だが、ただの光ではない。

 

 冷たい。

 

 極地の夜空みたいな、青白い輝き。

 

 極光。

 

 霧の中で、薄いカーテンのように揺れる。

 

 空気が、微かに鳴る。

 

 ランサーの目が、わずかに細まった。

 

「それは……」

 

 魔術ではない。

 何か、もっと原始的で。

 

 もっと異質なもの。

 

 マリアが、手を振り下ろそうとした瞬間。

 

 ——ドンッ! 

 

 セイバーの脚が動いた。

 

 蹴り。

 

 鎧の膝が、真横からマリアの腹へ叩き込まれる。

 

 衝撃。

 

 空気が抜ける音。

 

 マリアの体が浮き、横へ弾き飛ばされた。

 

 鉄板の上を滑る。

 

 ——ガガッ。

 

 数メートル。

 

 霧が巻き上がる。

 

 セイバーはすでに距離を取っていた。

 

 獣の反射。

 

 危険を感じた瞬間、離れる。

 

 マリアが、ゆっくり起き上がる。

 

 極光は、もう消えていた。

 

 代わりに——血。

 

 右手。

 

 剣を掴んでいた掌から、赤い筋が流れている。

 

 ぽた。

 

 鉄板へ落ちる。

 

 マリアが、それを見た。

 

 数秒。

 

 沈黙。

 

「……おや、まだ赤色でしたか」

 

 小さく呟く。

 

 驚きの色が、ほんの少しだけ混じった声。

 

 マリアは手を持ち上げる。

 

 血が指先を伝う。

 

 それを——舐めた。

 

 ゆっくりと。

 

 舌で。

 

 鉄の味を確かめるように。

 

 目が、細くなる。

 

「……これはこれは」

 

 マリアは、舐め取った血を確かめるように舌先で転がした。

 

 ほんの一瞬。

 

 それから、ゆっくりと手のひらを開く。

 

 裂けた肉。

 

 刃が食い込んだ跡。

 

 まだ血が滲んでいる。

 

 マリアは、その傷をまるで他人事のように眺めた。

 

「……なるほど」

 

 感心したように、呟く。

 

 次の瞬間。

 

 傷口が、動いた。

 

 肉が寄る。

 

 裂けた皮膚が、音もなく閉じていく。

 

 血が、止まる。

 

 まるで時間を巻き戻すみたいに、傷は消えた。

 

 ほんの一瞬。

 

 瞬きするほどの間に。

 

 何もなかった手のひらが、そこに残る。

 

 マリアは指を軽く握って、開く。

 

 確かめるように。

 

 それから、くすりと笑った。

 

 霧の向こう。

 

 亡者の騎士。

 

 黒く干からびた顔。

 

 それでも剣は、微動だにせず構えられている。

 

 マリアは、楽しそうに目を細めた。

 

「亡者になってなお、その剣筋」

 

 少しだけ首を傾ける。

 

 観察者の顔。

 

「惜しいですねぇ、そんな有様になってしまって」

 

 セイバーは答えない。

 

 答える声など、もう残っていない。

 

 だが。

 

 剣が、わずかに動く。

 

 足が踏み込む。

 

 再び、距離を詰めようとしている。

 

 マリアはその動きを見て、軽く肩をすくめた。

 

「さて……不死者同士の殺し合いほど、無意味なものはありませんね」

 

 次の瞬間。

 

 横から、影が突っ込んでいた。

 

 ランサーだ。

 

 低く沈んだ姿勢のまま、一息で間合いを詰める。

 

 槍が、走る。

 

 迷いのない直線。

 

 ——ズァンッ! 

 

 穂先が、セイバーの胴を貫いた。

 

 鎧ごと。

 

 鉄が裂ける音が、湿った空気に響く。

 

 刃はそのまま背中を突き抜け、地面へ叩き込まれる。

 

 ——ガァン!! 

 

 鉄板を貫き、コンクリートに噛み込む。

 

 セイバーの身体が、そのまま地面へ縫い付けられた。

 

 槍の柄が、低く震える。

 

 ランサーはそのまま柄を踏み込み、体重を乗せた。

 

「捕まえた」

 

 短く、吐く。

 

 だが。

 

 次の瞬間。

 

 セイバーが動いた。

 

 ——ガンッ!! 

 

 身体が跳ねる。

 

 槍が胸を貫いているにも関わらず、強引に起き上がろうとする。

 

 鎧が軋む。

 

 鉄板が歪む。

 

 槍が、きしむ。

 

 それでも、止まらない。

 

 腕が振り上がる。

 

 剣が、地面に突き立つ。

 

 それを支点に、身体を引き剥がそうとする。

 

 ——ギィィ……! 

 

 槍の柄が軋む。

 

 血が、鎧の隙間から滲む。

 

 それでも。

 

 セイバーは、止まらない。

 

 喉の奥から、擦れた音が漏れる。

 

 声ではない。

 

 息でもない。

 

 ただ、空洞を擦るような音。

 

 ランサーの眉が寄る。

 

「……冗談だろ」

 

 槍を踏み込む足に、さらに力を込める。

 

 だが、亡者の騎士はまだ動く。

 

 槍を貫かれたまま。

 

 地面に縫われたまま。

 

 それでも身体を持ち上げようと暴れる。

 

 霧が震える。

 

 鎧が軋む。

 

 ランサーが歯を食いしばる。

 

「悪魔だバケモンだからあらかた相手してきたが、こいつはピカイチだなっ」

 

 槍の柄を踏みつける足に、さらに体重を乗せる。

 

 それでも、亡者の騎士は止まらない。

 

 マリアは、その様子をしばらく眺めていた。

 

 楽しそうでも、困っているわけでもない。

 

 ただ観察している目。

 

 そして、ふと振り向いた。

 

「黒野理央」

 

 唐突に呼ぶ。

 

 理央が、びくりと肩を震わせた。

 

「え」

 

 マリアは、セイバーを指で示す。

 

「あなたのサーヴァントでしょう」

 

 淡々とした声。

 

「早く落ち着かせてください」

 

 無茶振りだった。

 

 理央の目が見開かれる。

 

 誠が思わず声を漏らす。

 

「いや、そんな簡単に言うけど——」

 

 その間にも。

 

 セイバーが、また身体を持ち上げようとする。

 

 槍が軋む。

 

 ランサーの足が滑りそうになる。

 

「長くは持たねえぞ!」

 

 ランサーが怒鳴る。

 

 その声が、決断を叩きつけた。

 

 理央の喉が鳴る。

 

 手を見る。

 

 手の甲。

 

 そこに残る、最後の刻印。

 

 令呪。

 

 深く息を吸う。

 

「……分かった」

 

 小さく呟く。

 

 次の瞬間。

 

 理央は走っていた。

 

 霧を裂く。

 

 鉄片を踏み越える。

 

 誠が思わず叫ぶ。

 

「黒野!」

 

 止まらない。

 

 理央はそのまま、暴れるセイバーの正面へ飛び込んだ。

 

 ランサーが一瞬だけ目を見開く。

 

「おい、危ね——」

 

 理央は止まらない。

 

 セイバーの眼前まで走り込み、

 

 そのまま手を突き出した。

 

 手の甲。

 

 赤く光る刻印。

 

 残り、一画の令呪。

 

 それを、セイバーの目の前へ突きつける。

 

 霧の中で、赤い紋様が浮かび上がった。

 

 理央の声が、震えながらも響く。

 

「——止まりなさい」

 

 セイバーの動きが、一瞬だけ揺れる。

 

 理央は一歩も退かない。

 

 槍に縫い付けられた騎士の顔を、真正面から睨み返す。

 

「忘れたとは言わさない」

 

 喉が震える。

 

 それでも、言い切る。

 

「私が、あなたのマスターよ」

 

 令呪を、さらに突き出す。

 

 命令の象徴を、目の前に。

 

「従いなさい」

 

 令呪は、まだ使っていない。

 

 ただ、命じる。

 

 契約者として。

 

 主として。

 

 真正面から。

 

 しばらく、何も動かなかった。

 

 セイバーの身体は、槍に貫かれたまま。

 

 剣は鉄板に突き立ったまま。

 

 理央の手の甲に浮かぶ令呪が、淡く赤く光っている。

 

 亡者の騎士の顔が、ゆっくりと上がった。

 

 干からびた皮膚。

 

 黒い窪みの奥。

 

 そこにある目が——理央を見る。

 

 数秒。

 

 ただ見ていた。

 

 獣のような荒い動きは、止まっている。

 

 だが、それが「理解」なのか「計算」なのか、誰にも分からない。

 

 喉の奥から、またあの擦れた音が漏れる。

 

 ——……。

 

 そして。

 

 セイバーの身体から、力が抜けた。

 

 剣を支点に持ち上げようとしていた腕が、ゆっくり下がる。

 

 鎧が、低く鳴る。

 

 暴れていた足も止まり、鉄板の上で静かに沈んだ。

 

 槍は、まだ胸を貫いたまま。

 

 それでも、もう動こうとはしない。

 

 誠が息を呑む。

 

「……止まった?」

 

 理央も、まだ動かない。

 

 令呪を突き出したまま。

 

 セイバーを睨んでいる。

 

 それが、令呪の威圧に屈したのか。

 

 契約の繋がりを思い出したのか。

 

 それとも、単に勝ち目がないと判断したのか。

 

 誰にも分からない。

 

 ただ——。

 

 亡者の騎士は、大人しくなった。

 

 

 数秒後。

 

 ランサーが、長く息を吐いた。

 

「……はぁ」

 

 槍の柄を踏んでいた足を外す。

 

 まだ油断はしていない。

 

 だが、さっきまでの殺気は少しだけ抜けていた。

 

「やっとかよ……」

 

 槍は抜かない。

 

 代わりに、周囲を見回す。

 

 そして。

 

「お、ちょうどいいのがあるじゃねえか」

 

 ランサーがしゃがみ込んだ。

 

 コンテナの脇に転がっていた、太い鋼鉄のワイヤー。

 

 工場資材の残骸だ。

 

 それを拾い上げる。

 

 ガラガラと鉄の音が鳴る。

 

 ランサーはそれを引きずりながらセイバーの横へ戻ると、

 

「悪いな、騎士様」

 

 軽く肩をすくめた。

 

「さすがにこのままってわけにはいかねえ」

 

 ワイヤーをぐるりと回す。

 

 まず腕。

 

 次に胴。

 

 槍ごと巻き込む。

 

 ギリ、ギリと金属が擦れる音。

 

 何重にも。

 

 ぐるぐると。

 

 鎧ごと、完全に縛り上げる。

 

 セイバーは抵抗しない。

 

 ただ、座り込んだまま。

 

 黒い顔で前を見ている。

 

 最後にランサーがワイヤーを強く引き締め、

 

 近くの鉄骨へ括り付けた。

 

 ——ガン。

 

 金具が固定される音。

 

 ランサーは一歩下がる。

 

 縛り上げられた騎士を眺め、

 

「……よし」

 

 満足そうに頷いた。

 

「ま、気休め程度にはなるだろ」

 

 ランサーは、肩をぐるりと回した。

 

 骨が鳴る。

 

 戦闘の緊張が抜けたのか、ようやく槍から手を離す。

 

 それでも完全には気を抜かない。

 

 縛り上げたセイバーを一瞥し、まだ動かないのを確認してから、こちらへ向き直った。

 

「……さて」

 

 小さく息を吐く。

 

 それから、マリアを見る。

 

 続いて誠、九郎、そして理央へ。

 

 軽く顎を上げた。

 

「助かった」

 

 短い。

 

 だが、はっきりとした礼だった。

 

「正直、一人じゃ骨が折れてた」

 

 ランサーは苦笑する。

 

「いや、骨どころか胴体ごと折られてたかもしれねえな」

 

 冗談めいた口調。

 

 しかし視線は、まだ縛られたセイバーを警戒している。

 

 それから、理央へ向き直った。

 

 槍を肩に担ぎながら、少しだけ眉を寄せる。

 

「で」

 

 指で、後ろの騎士を示す。

 

「嬢ちゃん」

 

 理央の肩がぴくりと動く。

 

「……はい」

 

 ランサーは肩をすくめた。

 

「そいつ、あんたのサーヴァントなんだろ?」

 

 理央が、わずかに頷く。

 

 ランサーは、困ったように笑う。

 

「だったらよ」

 

 少しだけ声が低くなる。

 

「手綱はちゃんと握っててくれ」

 

 

 理央は、何も言わない。

 

 ただ、視線を落とす。

 

「ええ、ごめんなさい」

 

 小さな声。

 

 ランサーは鼻で短く息を吐いた。

 

「なんか事情がありそうだから深掘りはしねえけどよ」

 

 槍の石突きを軽く地面に打つ。

 

 

「次から気をつけりゃいいだけだ」

 

 その時だった。

 

 誠の背後で、布が擦れるような音がした。

 

 小さく。

 

 恐る恐る。

 

 誠が振り返る。

 

 資材の影。

 

 そこから、そっと顔が出ていた。

 

 赤城美桜だ。

 

 まだ完全には出てこない。

 

 誠の背に半分隠れるようにして、そろりと覗いている。

 

 怯えた目。

 

 霧の中の騎士達を、信じられないものを見るように見つめている。

 

 特に——ランサー。

 

 槍を持った鎧の男。

 

 次に、縛られたセイバー。

 

 そしてマリア。

 

 人間ではありえない戦いを、さっきまで目の当たりにしていた。

 

 美桜の手が、誠の服を少し掴む。

 

 声は、かすれるほど小さい。

 

「……黒野くん」

 

 誠が、わずかに顔を傾ける。

 

 美桜は、まだランサー達を見ている。

 

 怯えながら。

 

 理解が追いつかないまま。

 

「……あの人たち」

 

 喉が震える。

 

「本当に……人間なの……?」

 

 誠は、すぐには答えられなかった。

 

 美桜の指先が、制服の袖を弱く掴んでいる。

 

 その力は、本当に微かなものだった。

 

 助けを求めるというより、ただ、今にも崩れそうな身体が何かに縋っているだけの重さ。

 

 その背後では、縛られたセイバーが鉄骨にもたれたまま沈黙している。

 

 ランサーは槍を肩に担ぎ、霧の奥を警戒している。

 

 マリアは、血も傷もなかったような手を眺め終え、何事もなかったように立っている。

 

 九郎は、言葉を選びかねる顔で美桜を見ていた。

 

 誰から話すべきか。

 

 何から話すべきか。

 

 誠は、喉の奥で言葉を組み立てようとして——そのたびに崩れた。

 

 

 英霊。

 

 サーヴァント。

 

 聖杯戦争。

 

 異界と化した灰原。

 

 自分たちが巻き込まれたものの名前は、いくつもある。

 

 だが、そのどれも、学校の担任に立ったまま説明できるような種類の言葉ではない。

 

「先生、その……」

 

 口を開く。

 

 止まる。

 

 何を言っても、嘘みたいになる気がした。

 

 嘘ではないのに。

 

「ちょっと、色々あって」

 

 出てきたのは、あまりにも薄い言葉だった。

 

 自分でも、情けなくなる。

 

 美桜は、誠の顔を見上げたまま、まだ震えている。

 

「色々って……」

 

 掠れた声。

 

「黒野くん、さっきの……あの、槍とか、剣とか……あの人たち、何を……」

 

 そこで、言葉が切れた。

 

 美桜の目が、ふっと泳ぐ。

 

 焦点が外れる。

 

 誠は、眉を寄せた。

 

「……先生?」

 

 返事がない。

 

 ただ、美桜の呼吸が少し荒くなる。

 

 肩が上下する。

 

 青ざめた顔が、さらに白くなる。

 

 誠は、その変化に見覚えがあった。

 

 血の気が引いていく感じ。

 

 耳鳴りが始まる前の、あの妙な空白。

 

 身体が自分のものじゃなくなるみたいな、急な脱力。

 

 英霊が、マスターから大量の魔力を吸い出し燃焼させた結果──要はガス欠だ。

 

 かつて、自分自身も味わった感覚。

 

 懐かしい、などという言葉を使うにはひどすぎる感覚。

 

 それでも、誠はほんの一瞬だけ、妙な既視感を覚えた。

 

 ああ、昔の自分も、こんな顔をしていたのかもしれない、と。

 

「……先生、まずい」

 

 言った時には、もう遅かった。

 

 美桜の膝が、折れる。

 

「きゃ——」

 

 短い声。

 

 身体が、前に倒れる。

 

 誠は慌てて腕を伸ばした。

 

 受け止める。

 

 軽い。

 

 力が、まるで入っていない。

 

「赤城先生!」

 

 理央が駆け寄る。

 

 美桜の瞼は閉じかけていた。

 

 息はある。

 

 だが、完全に意識が飛びかけている。

 

 九郎がすぐ脇にしゃがみ込み、美桜の顔色を窺った。

 

「傷はない」

 

「でも、このまま地面に座らせとくのはまずいわね」

 

 理央の声も低い。

 

 誠は美桜を支えたまま、苦く息を吐いた。

 

 説明に悩んでいた矢先に、説明どころではなくなった。

 

 だが、むしろ助かったのかもしれない。

 

 今この場で、全部を話せる気がしない。

 

 誠は、美桜のぐったりした身体を抱え直す。

 

 頭を打たないように、慎重に。

 

 それからランサーを見た。

 

「……なあ」

 

 ランサーが片眉を上げる。

 

「この辺で、少し休ませられる場所ないか?」

 

 視線で、美桜を示す。

 

「見ての通り、参ってる。あんたがさっき結構動いたせいだと思う」

 

 責める口調ではない。

 

 ただ、事実として言う。

 

 ランサーは、気まずそうでもなく、当然のように美桜を見た。

 

 そして、小さく鼻で息を吐く。

 

「そりゃ悪かったな」

 

 あっさり認める。

 

 ランサーは、美桜の顔色をひと目見てから、肩に担いだ槍の位置を少し直した。

 

「休ませるなら、学校だな」

 

 誠が眉を寄せる。

 

「学校?」

 

「ああ、マスターが勤めてた学校……あんたらの学校でもあるな、つまり」

 

 ランサーは、霧の向こうを顎で示す。

 

「この街じゃ、今やあそこが臨時の避難所みてえなもんになってる」

 

 一拍。

 

「最初は、ただ人が集まっただけだったらしいがな。今じゃ、行き場のねえ連中がとりあえず流れ着く場所だ」

 

 理央が、静かに顔を上げる。

 

「……避難所」

 

「そうだ」

 

 ランサーは、どこか乾いた調子で続けた。

 

「灰原の市民はもちろんいる。家を失ったのや、外を歩けなくなったのや、わけも分からんまま閉じ込められたのやら、まあ色々だ」

 

 そこまでは、まだ理解できる話だった。

 

 だが、ランサーはそこで少しだけ苦い顔をした。

 

「けど、そいつだけじゃ済まねえ」

 

 誠の腕の中で、美桜の身体が微かに揺れる。

 

 まだ意識は浅い。

 

 聞こえているのかも分からない。

 

 ランサーは、その様子を横目で確かめてから言った。

 

「奇妙な雰囲気の奴もいる。どこの時代から来たんだか分からねえ格好の連中もいる。明らかに人じゃねえのも、混じってる」

 

 九郎が、わずかに目を伏せた。

 

 自分も、その“混じってるもの”の側に分類されるのだと理解している顔だった。

 

 誠は、低く息を吐く。

 

「……カオスだな」

 

「おいおい、混沌の権化が何言ってるんだか」

 

 

 ランサーは、苦笑した。

 

「だが、まあ近いもんだ。泣いてるのも、怒鳴ってるのも、黙ってるのもいる。正気を保ててるのか怪しいのも、ちらほらな」

 

 その言葉で、誠の腕の中の美桜が、小さく肩を震わせた。

 

 ランサーは、その反応に気づいたのかどうか、少しだけ視線を落とす。

 

「……で」

 

 声が、少しだけやわらいだ。

 

「この先生は、そこにいた」

 

 誠の目が細くなる。

 

「いた?」

 

「ああ。最初は大人しくしてたらしい」

 

 らしい、というのは、美桜本人から聞いたわけではないのだろう。

 

 避難所の空気や、周囲の様子から察した話だ。

 

「けど、長くは持たなかったんだろうな」

 

 ランサーは、霧の奥ではなく、どこかもっと遠いものを見るような目をした。

 

「ただでさえ訳の分からねえ状況だ。そこへ来て、周りには怯え切った一般市民と、説明のつかねえ連中が一緒くたに押し込まれてる」

 

 一拍。

 

「奇妙な気配の奴。人間じゃない何か。明らかに、この世の理から外れたもの」

 

 マリアが、くすりとも笑わず、ただ黙って立っている。

 

 その沈黙が、むしろ肯定みたいだった。

 

「……耐え切れなかったんだろ」

 

 ランサーは、そう締めた。

 

「学校の空気にやられて、抜け出したらしい」

 

 誠は、美桜の顔を見た。

 

 青ざめた頬。

 

 閉じかけた目。

 

 さっきまでの怯え方を思い出せば、その説明は妙にしっくり来た。

 

 あの教師は、元から図太い方ではない。

 

 異形と異常に囲まれ、しかも説明もないまま安全地帯とも言い切れない場所に押し込められれば、逃げ出してしまっても不思議じゃない。

 

 理央が、静かに問う。

 

「つまり……私たちは先生をそこへ戻すの?」

 

 ランサーは肩をすくめた。

 

「連れ戻し、って言い方になるな」

 

 あまり気持ちのいい響きではない。

 

 だが、他に言いようもない。

 

「この際、仕方ねえだろ」

 

 淡々とした現実的な声音。

 

「外に一人で放り出しとくよりは、まだ人の目がある分マシだ。少なくとも寝床と壁はある」

 

 誠は、歯を噛んだ。

 

 納得しているわけではない。

 

 けれど反論も難しい。

 

 この霧の中、この工業地帯で、意識もまともじゃない教師を抱えて長居できるはずがない。

 

 学校が完全な安全地帯ではなくても、ここよりはましだ。

 

「……分かった」

 

 誠は、低く言った。

 

「とりあえず学校に行こう」

 

 理央も、小さく頷く。

 

「先生を寝かせられる場所があるなら、それが先ね」

 

 九郎が周囲を見回し、静かに口を開いた。

 

「ならば、急いだ方がよい。ここは、長く留まるには不穏だ」

 

 その言葉に応じるように、縛られたセイバーのワイヤーが、ぎちり、と小さく鳴った。

 

 一同の視線がそちらへ向く。

 

 だが、亡者の騎士は再び沈黙していた。

 

 ランサーは、その様子を確認してから槍を持ち直す。

 

「よし。じゃ、案内するぜ。ボスにも会わせたいしな」

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