ランサーは、美桜のぐったりした身体を一瞥すると、肩を竦めた。
「じゃ、行くか」
そう言って、ひょいと美桜を抱え上げる。
まるで荷物でも持つみたいな気安さだったが、手つき自体は乱暴ではない。
頭が揺れないよう、背と膝裏へ腕を差し入れている。
美桜は、うっすらと目を開けた。
だが、声を出す気力もないらしい。
槍を持つ騎士に抱えられているという異常だけは分かるのか、怯えたように肩を強張らせる。
「安心しな、マスター。食いやしねえよ」
軽口。
だが、美桜は安心するどころではない。
ただ、か細く息を呑むだけだった。
その横で、マリアは縛り上げられたセイバーの前へ立つ。
鋼鉄のワイヤーで何重にも巻かれた亡者の騎士。
胸を貫いた槍はすでに抜かれていたが、その穴からも血は大して流れず、ただ黒い鎧の隙間が沈んで見えるだけだ。
マリアは、しゃがみ込む。
「さて、あなたはこちらです」
そう言って、躊躇なく背を向けた。
まるで大きな荷物を担ぐみたいに、セイバーの腕を取り、自分の肩へ回す。
ぎしり、とワイヤーが鳴る。
誠は思わず眉を寄せた。
「……それ、背負えるのかよ」
「失礼ですねぇ」
マリアは振り返りもせず答える。
「これでも、か弱い淑女なのですが」
どこがだ、と言いかけて、誠はやめた。
実際、マリアはそのままセイバーを背負い上げてしまった。
鎧の重みも、ワイヤーの拘束もものともせず。
亡者の騎士の頭が、マリアの肩越しに垂れる。
干からびた顔。
黒い窪み。
だが、その目は閉じてはいない。
開いたまま、何かを見ている。
それでも——今のところは、大人しい。
暴れない。
足掻かない。
九郎が、霧の奥を見回す。
「急いだ方が良いな」
低い声。
「妙な霧だ、何か人ならざるものが潜んでおるような」
それに応じるように、遠くで何かが軋んだ。
工場のどこか。
鉄の骨が、重みに耐えるみたいな鈍い音。
誠は、頷いた。
「……行こう」
短く言う。
それ以上、ここにいたくなかった。
理央が頷き、九郎がその隣へ並ぶ。
ランサーは美桜を抱えたまま先頭に立った。
「勘の良い坊主だな。安心しな、学校まではそう遠くない。霧の中だと距離感は狂うが、道は分かる」
槍を片手に持ち替える。
もう片腕には、美桜。
それでも歩みに迷いはない。
マリアは最後尾へ回るかと思われたが、誠の横をすり抜けて、その少し前へ出た。
背にはセイバー。
その異様な取り合わせが、霧の中で妙にしっくり馴染んで見えた。
一行は、工業地帯を後にする。
霧は相変わらず濃い。
だが、来た時よりも少しだけ薄れているようにも見えた。
あるいは、目が慣れただけか。
足元のアスファルト。
湿った鉄の匂い。
遠くのクレーンの黒い影。
それらを掻き分けるように、進む。
やがて、霧の向こうに灯りが見え始めた。
ぼんやりとした橙色。
最初は遠い街灯のように見えたが、近づくにつれて数が増える。
点々と。
いくつも。
誠は目を細めた。
「……灯り?」
ランサーが頷く。
「ああ、もうすぐだ」
霧が、ゆっくりと薄れていく。
校門の影が浮かび上がった。
見慣れた鉄柵。
見慣れた門柱。
だが、そこに掛けられているのは、普段の静かな夜の空気ではない。
人の気配だった。
校門をくぐる。
その瞬間、空気が変わった。
「……うわ」
誠が思わず声を漏らす。
校庭いっぱいに、天幕が立っていた。
白い布のテント。
緑色の簡易天幕。
ブルーシートで組まれた即席の囲い。
まるで災害時の仮設キャンプみたいに、いくつも、いくつも並んでいる。
ランタンの灯りが揺れる。
焚き火の煙が細く立ち上る。
人の影が、あちこちで動いている。
避難所だった。
本当に。
ただし——普通の避難所ではない。
校庭の端。
制服姿の高校生が毛布にくるまっている。
その隣では、スーツ姿の男が段ボールを枕に眠っている。
子どもを抱いた母親。
膝を抱えて座る老人。
そこまでは、よくある光景だった。
だが、その間に。
奇妙なものが、混じっている。
フードを深く被った、顔の見えない人物。
鎧のようなものを着た、どこの時代の人間か分からない男。
誠は、何も言えなかった。
ランサーが肩を竦める。
「言ったろ」
低い声。
「ここは、そういう場所だ」
理央も、黙って周囲を見ている。
表情は硬い。
だが、驚きよりも——覚悟に近いものが見える。
九郎は、逆に少しだけ肩の力を抜いた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「ここでは、私はありふれた存在のようだな」
マリアは、背中のセイバーを軽く揺らした。
鎧が、かすかに鳴る。
「ほら、あなたも静かにしていなさい」
囁く。
「せっかくの共同生活ですよ」
亡者の騎士は、答えない。
ただ、マリアの背に縛られたまま、沈黙している。
校庭の中央では、簡易机が並べられていた。
炊き出しだろう。
大きな鍋から湯気が上がっている。
その横で、毛布や水のボトルが配られていた。
体育館の扉も、校舎の入口も、開きっぱなしだ。
中にも人影がある。
どうやら、そこも仮の寝床として開放されているらしい。
そのまま歩きながら、校舎の方へ顎を向けた。
「先生はとりあえず中に寝かせる。医務室か、保健室か、空いてりゃいいが」
ランサーは、そのまま昇降口の方へ歩きながら肩越しに振り返った。
「お前らはどうする」
誠は一瞬考える。
このまま全員で動くのも手ではある。だが、今の避難所の様子を見る限り、人の数は相当だ。美桜を休ませる場所を探すだけでも時間がかかるだろう。
それに。
誠は、ランサーの腕の中でぐったりしている美桜を見た。
「……先生は頼む」
短く言う。
「こっちは寝られる場所を探す」
ランサーは、ふっと鼻で笑った。
「了解」
それからマリアを見る。
「そっちの荷物も連れてくぞ。校舎の中なら多少は目立たねえ」
マリアは軽く首を傾げた。
「構いませんよ」
背中のセイバーを少し揺する。
「あなたも、しばらく大人しくしていなさい」
亡者の騎士は答えない。
ただ、縛られたまま、静かにマリアの背に預けられている。
ランサーは美桜を抱え直し、槍を肩に掛ける。
「じゃあな。あとでどっかで合流しようぜ」
そう言って、校舎の中へ入っていった。
マリアもその後に続く。
背中に鎧の騎士を背負ったまま。
その異様な姿に、近くの避難民がぎょっとして視線を向ける。
だが、もうこの場所ではそれも長く続かない。
すぐに視線は逸らされ、また各々の生活へ戻っていく。
誠は、その背中を見送った。
そして、小さく息を吐く。
「……さて」
理央と九郎を見る。
「俺たちは寝床探しか」
理央は頷いた。
「ええ。さすがに一晩外はきついわ」
九郎も周囲を見回す。
「校舎の中か体育館だろうな」
三人は昇降口をくぐる。
中は、すでに仮設の生活空間になっていた。
廊下の壁際には毛布が敷かれ、段ボールや荷物が並んでいる。
教室の扉は開け放たれ、そこにも人がいる。
体育館の方からはざわめきが聞こえた。
ほとんど、埋まっていた。
廊下を進むたびに、視線を感じる。
避難民の目。
疲れきったもの。
警戒しているもの。
ただぼんやりと空を見ているもの。
誠は、何度か空いていそうな場所を覗いた。
だが、どこも同じだった。
毛布。
荷物。
人。
すでに居場所が決まっている。
「……満員だな」
誠が呟く。
理央も小さく息を吐いた。
「これは……難しいわね」
その時だった。
「おや」
しわがれた声。
三人が振り向く。
廊下の端。
毛布に腰掛けていた老人が、こちらを見ていた。
白髪。
痩せた身体。
だが目は、まだしっかりしている。
「寝る場所を探しとるのかい」
誠は少し頭を下げた。
「はい。空いてるところがあれば……」
老人は、顎に手を当てて考える。
「教室は全部埋まっとるな」
一拍。
「体育館も、もうぎゅうぎゅうじゃ」
それから、ゆっくりと指を伸ばした。
廊下の奥。
階段の横。
「あそこに備品倉庫がある」
三人の視線がそちらへ向く。
「広くはないが、今は誰も使っとらん」
老人は、少し笑った。
「倉庫でよければ、空いておるよ」
誠は、その指の先を見た。
廊下の奥。
階段の横に、小さな扉がある。
普段なら気にも留めないような、目立たない場所だった。
「……ありがとうございます」
誠は軽く頭を下げる。
老人は手をひらひら振った。
「気にせんでいい。こういう時は、空いとる場所を使うのが一番じゃ」
理央も小さく会釈する。
「助かります」
三人は、言われた方へ歩き出した。
廊下を進む。
毛布にくるまった人々の間を縫うように。
小さな声。
かすかな寝息。
誰かの咳。
避難所の夜の音が、低く広がっている。
やがて、階段の横にある扉の前へ着いた。
備品倉庫。
古い金属のプレートが、ドアに取り付けられている。
誠は、ノブを回した。
鍵は掛かっていない。
きぃ、と軽く軋む音。
扉を開く。
「……」
中を覗き込む。
思ったより、小さい。
三畳ほどのスペースだろうか。
棚はある。
だが——。
ほとんど、空だった。
体育用のボールが入っていたらしいネット。
折り畳み椅子の残骸。
古いモップの柄。
それくらいしか残っていない。
棚の多くは空で、床もがらんとしている。
おそらく、毛布やマット、簡易ベッドなどは、すでに避難所のどこかで使われているのだろう。
理央が、中を見回す。
「……備品、ほとんど無いわね」
九郎が頷いた。
「持ち出されたのだろう」
誠は、少しだけ肩の力を抜いた。
「でも——」
床を見る。
「逆に、寝るスペースはあるな」
理央も頷く。
「ええ。誰もいないのはありがたいわ」
避難所の教室や廊下のように、人の視線が集まる場所ではない。
この状況では、それだけでも大きかった。
誠は中に入る。
靴底が、わずかに埃を踏む。
床は固いが、横になることはできそうだ。
「とりあえず、ここ使わせてもらうか」
理央が静かに頷いた。
「そうね。今は、贅沢言ってられないわ」
九郎が扉の外を一度だけ確認し、それから中に入る。
きぃ、と軽い音を立てて扉が閉まる。
外のざわめきが、少しだけ遠くなった。
倉庫の中は静かだった。
埃の匂い。
古い木材の匂い。
そして、わずかな冷気。
誠は壁際に腰を下ろしかけて——ふと足を止めた。
「……ん?」
倉庫の奥。
棚の影。
何かがある。
最初はただの荷物だと思った。
だが。
床の上に、布が掛けられている。
大きさは、人ひとり分ほど。
丸みのある形。
誠は眉をひそめた。
「黒野」
「なにかしら」
「奥、なんか……」
三人の視線が、そちらへ向く。
九郎が先に歩き出した。
静かな足取りで、倉庫の奥へ。
しゃがみ込み、布の端を指でつまむ。
「……何かを隠しているようだな」
理央が少し身を乗り出す。
「避難物資?」
「いや……」
九郎は布の感触を確かめる。
それから、ゆっくりと布を引いた。
ぱさり、と布が床へ落ちる。
その下にあったものを見て——
三人とも、一瞬言葉を失った。
「……人?」
誠が思わず呟く。
そこに座っていたのは——
人形だった。
椅子も何もない床の上に、静かに座り込んでいる。
瞳は伏せられている。
まるで眠っているみたいに。
長い白銀の髪。
白い肌。
赤いリボン。
黒いドレスと、刺繍の施されたマント。
帽子まで被っている。
服の皺。
髪の一本一本。
指先。
まるで本物の人間みたいだった。
誠は、ゆっくりと息を吐く。
「……すげえ」
思わず言葉が漏れる。
「これ、人形か?」
理央もしゃがみ込む。
恐る恐る顔を覗き込む。
「……精巧すぎる」
本当に、今にも目を開けそうだった。
肌の質感。
睫毛。
唇。
人形というより——眠っている人間に見える。
九郎も腕を組み、低く唸る。
「見事な造形だ」
その時だった。
理央の表情が、変わった。
眉が寄る。
目が見開く。
「……待って」
誠が顔を上げる。
「どうした」
理央は、人形の顔を見つめていた。
まるで、信じられないものを見るみたいに。
「これ……」
ゆっくりと、呟く。
「似てる」
「何が?」
理央は顔を上げた。
そして、はっきりと言う。
「マリアに」
沈黙。
誠の視線が、もう一度人形へ戻る。
白銀の髪。
白い顔。
整った目元。
静かな口元。
そして——
どこか冷たい、美しさ。
誠の背筋に、冷たいものが走った。
「……おい」
小さく呟く。
「ほんとだ」
九郎も、ゆっくりと目を細める。
「瓜二つ、だな」
倉庫の空気が、そこでぴたりと止まった。
三人とも、人形から目を離せない。
誠は、喉の奥がひどく乾くのを感じた。
似ている、ではない。
髪色も、輪郭も、睫毛の影も。
静かに伏せられた瞼の形まで——あまりにも、そのままだった。
「……なんなんだよ、これ」
掠れた声が、やけに小さく響く。
理央は答えない。
九郎も、ただ低く眉を寄せたまま、人形を見下ろしている。
その時だった。
きぃ、と。
背後で、扉がまた軋んだ。
三人が一斉に振り向く。
「おや」
聞き慣れた声。
噂をすれば影と言わんばかりに、マリアが倉庫の入り口に立っていた。
扉を半分だけ開け、こちらを覗き込んでいる。
「ちょうど良い倉庫を見つけましたね」
いつもの調子だった。
軽く首を傾げ、いつものようにどこか人を食った笑みを浮かべている。
どうやら美桜を寝かせる場所を見つけ、ひとまず離脱してきたらしい。
だが、次の瞬間。
マリアは、三人の様子に気づいた。
誰も返事をしない。
誰も動かない。
倉庫の奥を見たまま、固まっている。
マリアの笑みが、わずかに薄れる。
「……なんです?」
怪訝そうに眉をひそめる。
誠が、口を開きかける。
だが、言葉にならない。
「いや、その……」
理央も、説明を探すみたいに視線を泳がせた。
結局、誰も何も言えない。
マリアは小さく息を吐き、扉をもう少し開けた。
靴音が一つ。
二つ。
静かに中へ入り、三人の視線の先を追うように、倉庫の奥へ顔を向ける。
そして——
止まった。
空気が、また一段重くなる。
マリアの視線の先。
布を剥がれた人形。
床に静かに座り込み、瞳を伏せたままの、美しい顔。
白銀の髪。
黒い装い。
そして、マリア自身と瓜二つの貌。
マリアは、何も言わなかった。
言えなかった、の方が近い。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
表情が、完全に消えた。
いつもの余裕も、軽口も、薄い笑みも。
全部が、音もなく剥がれ落ちたみたいに。
「……あー」
沈黙。
誠は、その横顔を見てしまった。
驚愕。
というより、凍結に近い。
見てはいけないものを見た時の顔だった。
だが、次の瞬間。
マリアは、はっとしたように視線を逸らした。
あまりにも露骨に。
まるで、人形と目を合わせることそのものを避けるみたいに。
ほんのわずかに口元が引きつる。
気まずい。
そうとしか言いようのない空気が、倉庫いっぱいに広がった。
誠が、思わず言う。
「……お前」
マリアは、即座に遮った。
「知りませんよ」
早い。
早すぎる返答だった。
聞かれてもいないのに。
理央の眉がぴくりと動く。
「まだ何も言ってないけど」
「ええ、でしょうね」
マリアは壁の方を見たまま答える。
明らかに目を合わせない。
「ですが、今この場で飛んでくるであろう質問には、先に答えておこうかと」
声音は平坦だったが、微妙に硬い。
九郎が、腕を組んだまま低く問う。
「……本当に、知らぬのか」
マリアは、少しだけ間を置いた。
その間が、妙に長く感じられる。
「……さて」
いつもの台詞。
だが、今のそれは逃げにしか聞こえなかった。
誠は、人形を見る。
マリアを見る。
また、人形を見る。
似ているどころではない。
本人を写して作った、と言われた方がまだ納得できるほどだ。
理央が、静かに口を開いた。
「少なくとも、偶然で済ませられる顔じゃないわね」
マリアは答えない。
ただ、視線を外したまま、わずかに肩を竦めるだけだった。
その仕草さえ、どこかぎこちない。
誠は、倉庫の冷えた空気の中で、背筋を這うような違和感を覚えていた。
避難所の片隅。
誰も使っていない備品倉庫。
その奥に、布を掛けられて隠されていた、マリアそっくりの人形。
偶然であるはずがない。
だが、マリアのこの反応もまた——何かを知っている者のものだった。
しかも、あまり触れられたくない類の何かを。
沈黙が、しばらく続いた。
誰も動かない。
誰も、次に何を言えばいいのか分からない。
倉庫の奥で、人形は瞳を伏せたまま座っている。
まるで最初からそこにいたみたいに。
まるで、ずっと待っていたみたいに。
マリアは、まだそちらを見ない。
壁の方へ視線を逃がしたまま、妙に綺麗な横顔だけをこちらへ見せている。
その気まずさが、あまりに露骨で。
逆に、何も知らないと言われても信じられない。
誠は、喉を鳴らした。
「……おい、マリア」
呼びかける。
マリアの肩が、ほんのわずかに揺れた。
それから、ようやく口を開く。
だが、こちらを見ないまま。
「……一つ、確認なのですが」
声音は平坦だった。
平坦にしようとして、少し失敗している声だった。
誠が眉をひそめる。
「何だよ」
マリアは、そこで一拍置いた。
言うべきか迷ったみたいに。
あるいは、言わない方が良かったかもしれない言葉を、結局押し出すみたいに。
「その人形は」
そこでようやく、ほんの少しだけ顎を動かす。
人形の方へではない。
誠の方へでもない。
中途半端な角度のまま。
「……何か、話しましたか?」
倉庫の空気が、また止まった。
誠は数秒、意味が分からなかった。
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出る。
理央も目を瞬かせる。
九郎だけが、静かに目を細めた。
誠は、人形を見る。
伏せた瞳。
閉じた唇。
精巧すぎる、ただの人形。
それからマリアを見る。
「いや」
当然のように答える。
「話すわけないだろ。人形だぞ」
理央もすぐに続けた。
「ええ。私たちが見た時から、ずっとそのままよ」
九郎も低く言う。
「少なくとも、自分は声など聞いておらぬ」
マリアは、そこで小さく瞬きをした。
何かを確認した顔。
あるいは、何かを確認できなかった顔。
それから、あまりにも意味深に、ぽつりと呟く。
「……あら」
一拍。
「まだでしたか」
誠の背筋に、冷たいものが走った。
「まだって、何がだよ」
すぐに問い返す。
だが、マリアは首を振った。
「さあ」
いつもの逃げ方。
だが、さっきまでよりも露骨だった。
「今は、深く気にしない方がよろしいかと」
「気にするだろ、普通!」
誠の声が少しだけ大きくなる。
倉庫の狭い壁に反響して、余計に神経を逆撫でする。
理央も、険しい目でマリアを見た。
「今の言い方で、何も無いと思えっていう方が無理よ」
マリアは、ようやく苦笑のようなものを浮かべた。
だが、その笑みもどこか引きつっている。
「でしょうね」
あっさり認める。
「ですが、説明を始めると長くなりますし、あまり……その……」
そこで珍しく、言葉を濁した。
倉庫の奥の人形へ、ちらりと視線が行きかける。
行きかけて、また逸れる。
「今は都合が……」
何が、とは言わない。
言わないままにすることで、余計に不穏になる。
九郎が、静かに問う。
「つまり、この人形には何かあるのだな」
マリアは答えない。
だが、沈黙そのものが答えみたいだった。
誠は、人形をもう一度見た。
伏せた瞳。
整いすぎた顔。
静かに膝を揃えた手。
今にも、唇だけがわずかに動いてもおかしくない気がしてくる。
そんな想像をした瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。
「……おい」
誠は低く言う。
「まさか、本当に動くとか言わないよな」
マリアは、その問いにも即答しなかった。
少しだけ考えて。
それから、視線を外したまま言う。
「それは、貴方達次第ですね」
また、その返事だ。
誠が額を押さえる。
「なんだそれ、最悪だ……」