目が覚めた時、誠が最初に認識したのは、背中に伝わる床の硬さだった。
薄い布を一枚敷いただけでは、備品倉庫の冷たく固い床の感触までは消えてくれない。身体のあちこちが軋み、肩や首にも鈍い痛みが残っている。
誠はすぐには目を開けず、そのまましばらく横になっていた。
瞼を閉じていても、扉一枚を隔てた向こうに避難所の気配があることは分かる。
毛布を引きずる音。遠くで誰かが咳き込む声。廊下を行き来する足音。
そして、完全には眠り切れない大勢の人間が発する、低く混ざり合った生活の気配。
どれも小さな音なのに、夜の静けさの中では妙にはっきり聞こえた。
やがて誠はゆっくりと目を開ける。
倉庫の中は完全な闇ではない。
扉の下にある僅かな隙間から廊下の明かりが差し込み、細い帯となって床を横切っている。
その僅かな光だけで、棚や空になった箱、壁際に積まれた細かな物の輪郭くらいは判別できた。
すぐ近くには、毛布に包まって眠る理央がいる。
壁に背を預け、膝を抱え込むような姿勢のまま眠っていた。
頬へ落ちた髪のせいか、普段より幾分幼く見える。
いつもなら感情を押し込めるようにきつく引き締められている顔も、今は少しだけ柔らかい。
それでも、疲労の色までは隠せていなかった。
最後の令呪を残したままセイバーと向き合い、言葉だけであの亡者じみた騎士を止め、さらにここまで歩いてきた。
ずっと張り詰めていた糸が切れたように、眠りへ落ちたのだろう。
誠は起こさないよう視線を逸らした。
反対側の隅には九郎がいた。
柱へ寄り掛かるように座り、着物の裾をきちんと整えたまま眠っている。
姿勢はそれほど崩れていない。
それでも、三人が横になれば身動きも取りづらいほど狭い倉庫では、小柄な九郎さえどこか縮こまって見えた。
寝息もほとんど聞こえない。
一瞬、本当に眠っているのか疑いたくなるほど静かだった。
誠はそこでようやく身体を起こした。
毛布が僅かに擦れる。
「……っ」
肩が痛く、首も重かった。
どれほど眠っていたのか分からない。ほんの数十分だったようにも思えるし、何時間も経っているようにも感じる。
時間の感覚そのものが、ここ数日の出来事で狂っているのかもしれない。
誠は何気なく倉庫の奥へ目を向けた。
棚の陰には、布を被せられた人一人分ほどの塊がある。
例の人形だった。
あまりにも精巧で、しかもマリアと瓜二つだったせいで、視界に入っているだけでも落ち着かなかった。
結局、三人とも何も言わないまま、もう一度布を掛け直したのだ。
見えなくなったからといって、存在そのものが消えたわけではない。
それでも、あの伏せた瞳と目が合うような錯覚に襲われなくなっただけ、幾分ましだった。
誠は浅く息を吐く。
マリアの姿はない。
省スペースのため、今は霊体化している。
この狭い倉庫の中へ実体のまま居座られても困るという事情もあったが、それ以上に、あの人形を見つけた直後では妙に顔を合わせづらかった。
おそらくマリアの側も同じだったのだろう。
そして、セイバーもいない。
つい数時間前まで、槍で地面へ縫い付けられてなお暴れ続けていた亡者じみた騎士が、今では理央の命令へ従い、大人しく霊体化して待機している。
令呪を使ったわけでもない。
ただ、理央が真正面から「従いなさい」と命じただけだった。
それ以降、急に糸が切れたように抵抗をやめている。
安心していいのか。
それとも、むしろ不気味に思うべきなのか。
誠にはまだ判断できなかった。
ただ少なくとも、この狭い倉庫の床へワイヤーでぐるぐる巻きにされた鎧姿の騎士が転がっていないだけでも助かる。
「……変な夜だな」
小さく漏れた独り言に、自分で今さら何を言っているのだと思った。
変どころの話ではない。
聖杯戦争へ巻き込まれた。
信頼していた先輩――藍沢紗月に殺された。
家は燃え、跡形もなくなった。
生まれ育った街は魑魅魍魎が蠢く異界のような場所へ変わり、友人からは人殺しと罵られた。
「……は」
口元から乾いた笑いが漏れる、自分でも驚くほど軽い音だった。
ここ数日の出来事のはずなのに、一つずつ並べてみると妙に現実味がない。
まるで出来の悪い作り話を他人から聞かされているようだった。
思い返せば返すほど、自分が立っている現実から少しずつ距離を置いていくような感覚さえある。
誠は小さく息を吐いた。
その直後だった。
胃の奥が、きり、と鋭く締め付けられた。
「……っ」
思わず腹を押さえる。
刺されるような痛みではない。
もっと鈍く、胃の内側をじわじわ掻き回されているような不快な痛みだった。
服の上から押さえ、少し揉んでみる。
たいして変わらない。
むしろ触れるたび、奥の方がじくじくと痛むような気さえした。
「……最悪だな」
ストレス性の胃痛というやつだろう。
こんな状況で胃だけ健康でいられる方がおかしい。
誠は壁へ背を預け、痛みが少し引くのを待ちながらゆっくり呼吸を整えた。
倉庫は相変わらず静かだった。
理央は眠ったまま。
奥の人形も、当然動くはずがない。
そして反対側には九郎が――。
「……寝れぬか」
突然声を掛けられ、誠は目を瞬かせた。
見ると、九郎がこちらを見ている。
暗がりの中でも、完全に目が覚めていることは分かった。
「……ああ」
誠は小さく答え、肩を竦める。
「そっちもだろ」
九郎は僅かに苦笑した。
「癖でな。深く眠れぬのだ」
声を潜める。
「人を、待っておるから」
そう言ってから、九郎は誠の顔を見て少しだけ眉を寄せた。
「……疲れが出ておるな」
責めるでも、事情を探るでもない。
ただ心配しているだけの声音だった。
誠は一瞬黙り、それから曖昧に肩を竦める。
「まあ……ちょっとな」
それ以上話す気にはなれず、視線を逸らした。
だが九郎は何も追及しなかった。
ただ、暗がりの中から静かに誠の様子を見ている。
誠がもう一度胃の辺りを押さえると、九郎の眉が僅かに寄った。
それから懐へ手を入れる。
布の擦れる小さな音がした。
「……?」
何をするのかと見ていると、九郎は掌ほどの小さな包みを取り出した。
和紙で包み、簡単な紐で結んである。
「それ、何だ?」
九郎は答えず、紐を解き紙を広げる。
中に入っていたのは、二つのおはぎだった。
少し形が崩れ、表面の餡も僅かに乾き始めている。
作りたてではないことは一目で分かった。
九郎はそのうち一つを摘み、何の気負いもなく誠へ差し出す。
「食うか」
誠はぽかんとした。
「……え?」
「甘いものは気を落ち着ける」
九郎は淡々と言う。
「それに、腹に何も入っておらぬ顔をしておる」
誠はおはぎを見た。
次に九郎を見る。
「……いつの間に持ってたんだよ」
「昨夜、幾らか材料を分けてもらったのだ」
九郎は残った一つを自分の手元へ置く。
「友人が好物なのでな。持っておけば土産になると思った。出来たてとはいかぬが」
誠はしばらく迷ったが、胃の奥にある妙な空虚さが最後には勝った。
手を伸ばし、受け取る。
少し硬くなっている。
餅米も時間が経って締まっていた。
それでも掌へ載せれば、思ったよりもしっかりとした重みがある。
「……ありがと」
小さく礼を言い、一口かじった。
餡の強すぎない甘さが口の中へ広がる。
小豆の味がきちんと残った、どこかほっとする甘さだった。
少し硬くなった餅米も、噛んでいるうちにゆっくりほどけていく。
「……」
何でもないただのおはぎだ。
作りたてでもなければ、特別な菓子でもない。
少し乾きかけた、ごく普通の甘い食べ物。
それなのに。
ぽたり、と。
誠の目から涙が落ちた。
「……っ」
自分でも驚いた。
慌てて袖で拭おうとする。
だが一度溢れ始めると、止まらなかった。
「……なんだよ」
掠れた声が漏れる。
「あー……くそ」
情けないと思う。
こんなことで泣くなんて。
けれど、どうしても止められない。
口の中に残る甘さが、妙に胸の奥まで染み込んでくる。
あまりにも普通だった。
そして、あまりにも懐かしかった。
ここ数日、自分の周囲にあったものとは正反対の味だった。
九郎は何も言わず、黙って誠を見ている。
やがて少しだけ身体を寄せた。
年齢だけなら、誠よりずっと下の少年のはずなのに、その動きには妙な落ち着きがあった。
「……よく耐えたな」
小さな手が誠の肩へ置かれる。
不思議と温かかった。
誠は俯いたまま、おはぎを手にしている。
「辛かったろう。大変であったな」
まるで大人が幼い子供を労うような声だった。
九郎は誠の頭へそっと手を伸ばし、軽く撫でた。
ゆっくりと、包み込むような優しい手つきだった。
誠はしばらく肩を震わせていた。
声を押し殺しているつもりでも、喉の奥から漏れる息までは隠せない。
九郎は何も言わない。
ただ隣に座り、誠の呼吸が落ち着くまで静かに頭を撫で続けた。
やがて誠は、袖で目元を乱暴に拭った。
「……悪い」
鼻をすすりながら苦笑する。
「情けねえとこ見せたな」
九郎はゆっくり首を横に振った。
「情けなくなどない」
静かな声だった。
「人は傷付くものだ。折れぬ者などおらぬ」
誠は手の中に残ったおはぎをもう一口かじる。
甘さはまだ残っている。
不思議なことに、胃の痛みも先ほどより少しだけ引いていた。
「うむ、うむ。ひとつは取っておきたい。材料さえ残っていれば、またこさえてやろう」
九郎は残ったおはぎを大事そうに包み直した。
倉庫には再び静けさが戻る。
聞こえるのは理央の寝息と、扉の向こうから届く避難所の遠い物音だけだった。
誠はぼんやり天井を見上げる。
そのまましばらくして、先ほど九郎が口にした言葉が遅れて引っ掛かった。
深く眠れない。
人を待っているから。
「……なあ」
誠が声を掛ける。
九郎が僅かに顔を向けた。
「さっきさ。人を待ってるって言ってたよな」
九郎の表情がほんの少しだけ変わる。
「誰を待ってるんだ?」
だが九郎はすぐには答えず、ゆっくり瞳を伏せた。
薄暗い倉庫の中で、その横顔だけが静かに沈む。
やがて、小さく息を吐いた。
「……我が忍を」
「忍者?」
「ああ」
九郎は頷く。
その声は、どこか遠くを見ているようだった。
「我が忍を、待っておる」
誠は少し考える。
九郎の口ぶりからすると単なる家臣や部下という関係には思えない。
もっと近い。
もっと深い何かがある。
九郎は床へ視線を落としたまま続けた。
「私がおるならば……あやつも、おるはずだ」
その言葉には確信があった。
同時に、祈りのようでもあった。
誠は黙って横顔を見る。
暗がりの中で改めて見ると、やはり九郎は幼い。
年齢だけなら自分よりずっと下だろう。
それなのに、先ほど頭を撫でてくれた手も、今の声も、妙に大人びている。
誠は残ったおはぎを口へ放り込み、少し硬い餅米をゆっくり噛んだ。
「……忍、か」
その言葉を口にした瞬間、脳裏へ一人の男の姿が浮かんだ。
古びた忍び装束、影のような気配。
藍沢紗月のサーヴァント――アサシン。
無駄のない身のこなし。
音もなく現れ、その気配だけで周囲の空気を張り詰めさせる男。
あれほど“忍”という言葉が似合う存在もいない。
「……なあ、九郎」
九郎が静かにこちらを見る。
「それってさ……」
言いかけたところで、胸の奥に嫌な予感が生まれた。
もし九郎が探している忍が、藍沢紗月のサーヴァントであるアサシンだとしたら。
それはつまり――。
「……まさか、お前――」
コン、と。
倉庫の扉が軽く叩かれた。
誠の言葉が途中で止まる。
九郎の視線も瞬時に扉へ向いた。
理央はまだ眠っている。
先ほどまで穏やかだった倉庫の空気が、一瞬で張り詰めた。
扉の隙間から差し込む廊下の灯り。
その向こうに誰かが立っている。
もう一度。
コン、コン。
今度は先ほどよりもはっきりとしたノックだった。
誠も九郎も黙ったまま扉を見つめる。
次のノックを待っていると、代わりに低い声が届いた。
「……悪いな、起きてるか?」
どこか気まずそうな声だった。
誠は目を瞬かせる。
「……ランサーか」
九郎が小さく問い掛けた。
「おう」
扉の向こうから短い返事がある。
それから少しだけ遠慮した口調へ変わった。
「夜中に悪いな」
九郎が扉へ手を掛ける。
きぃ、と小さく軋みながら扉が開き、廊下の灯りが倉庫の中へ流れ込んだ。
そこに立っていたのはやはりランサーだった。
槍は背負っている。
腕を組み、普段より少しばつの悪そうな顔をしていた。
「……どうしたんだよ」
誠が眉を上げる。
ランサーは倉庫の中を一度見回した。
眠る理央、壁際にいる誠、扉の横の九郎。
そして、奥にある布を被せられた人形。
人形の辺りまで視線が移った時だけ僅かに眉が動いたが、何も聞かなかった。
代わりに軽く頭を下げる。
「夜中に訪ねる非礼は詫びる。……で、本題なんだが」
珍しく妙に丁寧な物言いだった。
「いいけど」
誠が答える。
「ちょっと事情があってな。この避難所、思ったより食い物の備蓄が少ねえ」
誠が瞬きをする。
九郎も黙って耳を傾けた。
「人が増え過ぎてんだ」
ランサーは廊下の方をちらりと振り返る。
「炊き出しはしてるが、このままだと明日か明後日には底が見える」
誠は自然と顔をしかめた。
校庭を埋め尽くしていたテント。
毛布へ包まっていた避難民。
確かに、人の数は多過ぎるほどだった。
「だから、食料の調達が必要になった」
ランサーはそこで一度言葉を切った。
廊下の向こうでは、まだ避難所の夜が続いている。
誰かが寝返りを打つ気配。遠くの咳払い。
一人分の足音が通り過ぎ、また静かになる。
「で、だ」
ランサーは腕を解き、壁際の誠を見る。
「この街じゃ、食い物を取りに行くだけでも危険が伴う」
誠は何も言わず続きを待った。
「異界になっちまった街を、普通の人間だけで歩かせるわけにはいかねえ。避難民の中にも多少は腕の立つ奴がいるが、それでも限度がある」
一拍置く。
「だから、戦力が要る」
その言い方で、誠にも何を求められているか分かった。
「なるほど。言いたいことは分かった」
「そういうことだ」
ランサーは隠そうともしない。
「サーヴァントを連れて動ける。それに、あんたの連れの嬢ちゃん――マリアとか言ったか。あれはかなりやれる」
少し言葉を選ぶような間がある。
「正直、あれ一人いるだけで生存率が違う。坊主とそのサーヴァント、それから俺とマスター。その四人で行こう」
誠は乾いた息を吐いた。
褒められているのか、面倒事を押し付けられているのか。
おそらく両方だった。
「学校側の戦力はどうする?」
九郎が静かに尋ねる。
「全部は動かせねえ」
ランサーは即答した。
「避難所にも最低限の戦力は残しておきたい。ここだって完全に安全ってわけじゃねえからな」
誠は眠っている理央へ視線を向けた。
毛布の中で小さく呼吸している。
セイバーも今は大人しいとはいえ、ほんの数時間前まであれだけ暴れていた。
理央をここから連れ出し、再び無理にセイバーまで動かすのは危険だろう。
ランサーも同じ判断らしかった。
「嬢ちゃんは残してくれ」
声を少し落とす。
「セイバーも学校へ置いておきたい。あの状態でも、いざって時の抑止力にはなる」
誠は壁へ背を預けたまま黙った。
胃の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。
眠気も抜け切っていない。
それでも、単純に断れば終わる話ではないことくらい分かる。
避難所の食料が尽きる。
困るのは校庭で毛布に包まっていた人々だ。
子供も老人もいた。
赤城美桜のように、何も分からないまま巻き込まれただけの一般人もいる。
誠は舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。
「……どこに取りに行く?」
「そんなに遠くない、市役所があるだろ」
「市役所に食料倉庫なんかあったか?」
「災害備蓄用があるらしい」
ランサーは顎で外を示す。
「避難所運営なんかに使う想定の備蓄がある。全部残ってるとは思わねえが、狙うならまずそこだ」
その時、理央が毛布の中で僅かに身じろぎした。
起きる様子はない。
ただ、深く眠り切っているわけでもないらしい。
誠はその姿を確認してから、九郎を見る。
「……悪い」
「気にするな」
九郎は静かに首を振った。
「理央殿は見ておく。ここも、倉庫もな」
それから少しだけ柔らかく笑う。
「気にせず行ってこい」
誠は曖昧に頷いた。
口の中には、まだ僅かにおはぎの甘さが残っている。
その甘さだけが、少しずつ現実へ引き戻してくれるようだった。
壁から背を離し、身体を起こす。
「……マリア」
小さく呼ぶ、返事はない。
代わりに倉庫の空気が僅かに揺れた。
布を被せられた人形とは別の場所から、ひやりとした気配が立ち上がる。
次の瞬間には、霊体化を解いたマリアが何事もなかったように立っていた。
「お呼びでしょうか」
いつもの声音だった。
誠は反射的に人形のことを思い出しかけ、意識的に頭から追い払う。
「食料調達だと」
マリアは一度瞬きをしたあと、ふっと目を細めた。
「まあ。夜の散歩にしては、少々物騒ですね」
ランサーが鼻で笑う。
「異界になった街を夜中にうろつく時点で、もう散歩じゃねえよ」
「違いありません」
マリアは肩を竦める。
誠も立ち上がった。
一瞬だけ足元がふらついたが、すぐに踏み止まる。
ランサーは扉の外へ半身を向けた。
「マスターには車を運転してもらう。車がありゃ運搬が楽だからな」
そこで口元を少し歪める。
「顔に似合わず、結構厳つい車に乗ってんだぜ」
誠は目を細めた。
「無理させるなよ」
「分かってる」
先ほどよりは真面目な声だった。
九郎が扉の横から静かに言う。
「気をつけよ」
誠は一度だけ深く息を吐いた。
「……行くか」
誰にともなく呟く。
ランサーが先に扉を開くと、廊下の灯りが再び倉庫の中へ差し込んだ。